押されて咲く —私と君の文化祭—
私は高倉琴音。高校2年生の普通の女子。といっても、「普通」という言葉すら私には過分で、正確には「存在感のない」女子だ。
クラスの中で私は透明人間のような存在。誰もが私のことを覚えていないわけではないけれど、積極的に覚えようとする人もいない。そんな私を表すのにぴったりな言葉があるとすれば、「空気」かもしれない。
小学生の頃から目立たないことが得意だった。国語の授業で音読を頼まれても、声が小さすぎて先生に「もう一度、大きな声で」と言われるのが日常茶飯事。体育の授業では常に最後尾。図工の時間も、誰にも見せることなく自分だけの作品を作っていた。
そんな私の唯一の趣味は押し花作り。祖母が教えてくれたその繊細な作業は、私の心を落ち着かせてくれる。色鮮やかな花々を一枚一枚丁寧に押し、それを台紙に配置する時間は、私にとって何物にも代えがたい至福のひととき。
「高倉さんって、押し花とか好きそう」とクラスメイトに言われたことがある。本人は褒めているつもりだったのかもしれないけれど、私にはそれが「地味でおばあちゃんくさい」という意味に聞こえた。傷ついたふりをしなかったけれど、心の中では小さく泣いていた。
雨の日の窓際、滴る雫を見つめながら時間が過ぎていく。教室の隅で本を読む私を誰も邪魔しない。それが私の居場所だった。
そんな世界が一変したのは、篠原陸斗という存在に気づいた日から。
陸斗は学校中の女子の憧れの的。運動神経抜群で、勉強もそこそこできる。何より、あの笑顔。太陽のように輝いて、周りの人を温かく包み込む。
最初は単なる憧れだった。手が届かない星を眺めるような、そんな感情。でも、日に日に私の中の「陸斗センサー」は敏感になっていった。彼がどこにいるか、誰と話しているか、どんな表情をしているか…。
友達にも言えないこの感情は、私の中でだけ膨らんでいく。押し花のノートの隅に、「し・の・は・ら」とだけ書いて、すぐに消しゴムで消す。そんな幼稚な行為すら、心臓をバクバクさせるには十分だった。
「今日も陸斗くんは素敵だった」なんて日記を書く私は、まるで小学生みたいに思える。でも、この想いは私の心を暖かく染めていく。
窓から見える月明かりの下、私は祖母から譲り受けた古い押し花の本を開く。色あせた花々は、時間を超えて美しさを保っている。「いつか私の想いも、こんな風に形になるのかな」そんなことを考えながら、今日も眠りにつく。
明日も教室の隅で、誰にも気づかれないように陸斗くんを見つめるんだろう。でも、こんな日常がいつまでも続くとは思えない。何かが変わる予感。それは押し花を作る時の、あの独特の緊張感に似ていた。
文化祭の打ち合わせに遅刻しそうになった朝。廊下を小走りに進むと、突然角から現れた人影と激突した。
「ごめん、大丈夫?」
その声が、篠原陸斗のものだと気づいた瞬間、私の世界は静止した。頭ではなく心臓で「陸斗くん」と叫んでいた。
「あ、あの…大丈夫です」と答えるのが精一杯。視線は床に釘付け。
彼が拾ってくれた私のノートから、一枚の押し花のしおりがひらりと落ちた。秋に摘んだ小さなヤマブキソウ。
「これ、すごくキレイだね。自分で作ったの?」
陸斗くんが私の押し花に興味を持ってくれるなんて。まるで夢の中のような出来事に、言葉が詰まった。
教室に着くと、担任の佐藤先生が文化祭の班分けを発表していた。「装飾チーム、高倉さん、篠原くん、中島さん、山田くん」
その瞬間、教室の空気が凍りついたように感じた。人気者の陸斗くんと私が同じチーム?誰もが驚いた表情を隠せない。
「先生、私、違うチームに変えてもらえませんか」思わず口に出してしまった。自分でも驚くほど大きな声だった。
クラスメイトの視線が突き刺さる。しかし、その中に陸斗くんの困惑した表情を見て、すぐに後悔した。
「ごめんなさい、そんなつもりじゃ…」言い訳も途中で途切れる。
放課後、誰もいなくなった教室で一人、押し花の下絵を描いていた私に、思いがけない人が声をかけてきた。
「高倉さん、まだ残ってたんだ」陸斗くんだった。「朝のこと、気にしてるの?」
そっと差し出された彼の手には、朝落としたヤマブキソウのしおりがあった。「これ、すごく繊細で美しいと思った。もっと見せてくれない?」
初めて真正面から見た彼の瞳は、想像以上に澄んでいて、嘘がなかった。
「実は…文化祭の装飾、押し花を使ったアイデアがあるんです」
「それ、絶対見たい!」彼の笑顔は、まるで太陽のように私の心を照らした。
その日の夜、久しぶりに日記を開いた私は、ペンを握る手が少し震えていることに気づいた。今日から、何かが変わり始める。
装飾チームでの活動が始まって一週間。予想外だったのは、陸斗くんが私の押し花アイデアに本気で興味を持ってくれたことだった。
「こうやって花びらの向きを揃えると、光の当たり方が変わるんだ」と説明する私の話を、彼は真剣な眼差しで聞いてくれる。
「琴音さんって、すごいね」
初めて名前で呼ばれた瞬間、心臓が飛び跳ねた。自分の名前がこんなに美しく響くなんて。
放課後の教室は二人だけの特別な空間に変わっていく。窓から差し込む夕日に照らされた押し花の影が、私たちの間に小さな虹を作る。
「実は俺、人前に出るの苦手なんだ」ある日、彼が思いがけない告白をした。「みんな『陸斗ならできる』って期待してくるから、断れなくて」
学校の人気者が抱える意外な悩み。それを私に打ち明けてくれたことが嬉しくて、少し勇気が湧いてきた。
「私も…人と話すのが怖いんです。でも、押し花を通して何かを伝えられたら、と思って」
陸斗くんは静かに頷いた。「言葉じゃなくても、伝わることってあるよね」
その日は激しい夕立に見舞われた。帰り道、一本の傘を共有することになった私たち。近すぎて足がもつれそうになる。
「あのさ、明日の昼休み、屋上に来てくれない?見せたいものがあるんだ」
それは彼からの初めての誘い。その夜、私は興奮して眠れなかった。
翌日の屋上。陸斗くんは小さな鉢植えを差し出した。「これ、俺が育ててるヤマブキソウ。琴音さんのしおりを見て、育て方調べたんだ」
「私のために…?」信じられない気持ちで、小さな黄色い花を見つめる。
「実は陸斗くんも植物が好きだったなんて」思わず笑みがこぼれる。
「みんなに言えなくて。『男子なのに花なんて』って言われそうで」彼の表情に翳りが見えた。
「大丈夫、私が守る秘密にするから」思わず言った言葉に、自分でも驚いた。いつもの臆病な私じゃない。
文化祭の装飾は順調に進み、私たちのコーナーは「押し花の森」と名付けられた。陸斗くんのアイデアと私の技術が融合した空間は、徐々に形になっていく。
毎日少しずつ変わっていく私。鏡の前で笑顔の練習をする自分がいた。明日は文化祭。私たちの秘密の作品がついに公開される日。
文化祭当日、朝から学校は異様な熱気に包まれていた。「押し花の森」は開場と同時に人だかりができるほどの人気を集めていた。
天井から吊るした押し花のモビールが風に揺れ、床に投影された光と影のパターンが幻想的な空間を作り出す。壁一面に広がる押し花のグラデーションは、私と陸斗くんが毎日放課後残って完成させた渾身の作品だった。
「これ、高倉さんが作ったの?」「すごい繊細!」「どうやって作るの?」と次々と質問が飛んでくる。
最初は戸惑ったけれど、押し花について話すうち、自然と言葉が出てくるようになった。陸斗くんが遠くから見守ってくれているのを感じて、不思議と勇気が湧いてくる。
「みんな、この装飾を考えたのは高倉琴音さんなんだ!」突然、陸斗くんが人ごみの中から声を上げた。「彼女の才能のおかげで、このすごい空間ができたんだ」
頬が熱くなる。こんな風に誰かに認められるのは、生まれて初めての感覚だった。
一瞬だけ陸斗くんと目が合った。彼の表情に「やったね」という言葉が見えた気がした。言葉以上に伝わるものがある—その意味を初めて実感した瞬間。
昼休み、少しの間展示から離れることにした私は、ふと屋上に足を運んだ。そこで見つけたのは、陸斗くんが育てていたヤマブキソウの鉢植え。昨日までなかった小さな札が添えられていた。
「勇気を持って自分の世界を見せてくれてありがとう。—りくと」
目に涙が浮かぶ。雨の日の窓辺で一人本を読んでいた日々が、まるで遠い過去のように感じられた。
文化祭の帰り道、陸斗くんが私の横に並んで歩いてきた。「みんな本当に琴音さんの作品に感動してたよ」
「私も…信じられない気持ち。でも、陸斗くんがいなかったら、きっと最後まで誰にも見せられなかった」
陸斗くんは少し照れたように髪をかき上げた。「俺も琴音さんから勇気をもらったんだ。植物好きなことを隠さなくていいって思えた」
夕暮れの街を歩きながら、私は思い出していた。祖母が押し花を教えてくれた時の言葉を。「花は押されることで形を変え、永遠の美しさを手に入れる。人間も同じよ、琴音。時に押しつぶされそうな経験が、あなたを美しく強くするの」
陸斗くんは立ち止まり、ポケットから一枚の紙を取り出した。それは私が最初に落としたヤマブキソウのしおり。「これ、大切にしてたんだ」
「実はね、このしおり、私の初めての作品なんです。小学生の時に祖母と作ったもの」私は正直に告白した。
「だからこそ特別なんだ」陸斗くんの手が、そっと私の手に触れた。「琴音さんの原点みたいな」
私たちの間に流れる空気が変わった。もう、遠くの星を見上げるような憧れではない。お互いを認め合う、対等な感情が生まれていた。
家に帰った私は、久しぶりに日記を開いた。「今日、私は変わった。透明人間じゃなくなった。私は高倉琴音。押し花が好きで、少しずつだけど、自分の言葉で話せるようになった私」
窓の外に広がる夜空を見上げると、明日も晴れになりそうだった。明日からの私は、もう少し前を向いて歩いていける。陸斗くんと一緒に。
<終わり>
あとがき 『押されて咲く —私と君の文化祭—』
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みなさん、「押されて咲く」を読んでいただき、ありがとうございます。この物語を通じて、少しでも皆さんの心に寄り添えたなら嬉しいです。
琴音という主人公を生み出したとき、実は私自身の高校時代の姿が重なっていました。目立たない存在で、好きな人には声すら掛けられない…そんな私のような人が世の中にはたくさんいるのではないかと思ったんです。
「押し花」というモチーフを選んだのには理由があります。花は生きているときも美しいですが、押し花になることで別の形の美しさを獲得する。これって私たち人間も同じだなと思ったんです。苦しい経験や辛い思い出も、時間をかけて「押されて」いくうちに、人生を彩る大切な一部になる。
実は琴音のキャラクターを作るとき、最初は「もっと積極的な子にしよう」と考えていたんです。でも書き進めるうちに「そうじゃない、彼女は静かに強い子なんだ」と感じるようになりました。キャラクターが勝手に動き出すって、本当にあるんですね。
陸斗くんのキャラクターも、ただのイケメン人気者ではなく、彼なりの悩みや弱さを持つ人間として描きたかった。誰しも内側には人には見せない部分があるものです。外見や第一印象だけで人を判断しない大切さも伝えたかったんです。
執筆中に最も苦労したのは、二人の心の距離が縮まっていく過程を自然に描くことでした。一気に親密になるのではなく、小さな偶然の積み重ねで少しずつ変化していく…そんな現実的な恋の形を表現したくて、何度も書き直しました。
文化祭という舞台を選んだのは、私自身の高校時代の思い出の中で最も輝いていた瞬間だったから。普段の学校生活とは違う特別な空間だからこそ、人は変われるんですよね。
押し花の作り方を調べるため、実際に自分でも挑戦してみました!最初は失敗続きで、花がカビてしまったり、色が抜けすぎたり…。でも、その経験があったからこそ、琴音の細やかな技術描写にリアリティが出せたと思います。
この物語を読んでくださったあなたへ。もし今、誰かを遠くから見つめているなら、その気持ちを大切にしてください。でも同時に、自分自身の魅力や才能も見つめてほしい。あなたの中にある「押し花」のような繊細な美しさは、きっと誰かの心を動かすはずです。
次回作も、心の機微を丁寧に描いた物語をお届けできたらと思います。これからも応援よろしくお願いします!