第二の人生の始まり、シラサギ、介護保険証、ジャカランダ、セルフネグレクト
■第二の人生の始まり
和夫は今月末日が定年で4日前が最終勤務日、退職日までの平日は有給休暇の消化となる。先月分の給料を今月末に、今月分の給料と月割分の賞与を来月末に、そして再来月末に退職金の支給を受ければ会社との縁も綺麗さっぱり切れる。
今月だけでは残りの有給休暇は取得できなかったため、先月はスペインとポルトガルに2週間ほど旅行へ出かけていて、初旬はゴールデンウィークだったので2か月近くほぼ働くことなく退職することになる。妻からは「退職して働かないなら退屈で呆けてしまうわよ。」と言われるが「俺にはやりたい事がいくつもあるから。退職しても暇を持て余すこともないし楽しい生活が待っている。」と答えている。
最終勤務日の翌日は朝早く起きた。頑張って起きた訳ではなく毎日朝早くに目が覚めて、その後いくら頑張っても寝られない体に何年も前からなっている。一人でトーストにチーズと野菜ジュースの簡単な朝食を済ませ、新聞に軽く目を通して7時半からBS放送で朝ドラを見てからジョギングへ出掛けた。
ジョギングはかなり前から続けている。地域の少年サッカーチームで審判をするようになってからで20年くらい経つ。以前は毎日走っていたこともあったが、仕事が忙しくなり今は週に1、2回というところだ。走ることが楽しいとは思わないが走り終わって汗づくになって散歩しながら帰宅する時の爽快さは何物にも代えがたい。
引地川沿いに北上し親水公園の南端から北端まで走り、橋を渡って公園の対岸の道を南下してサッカーグラウンドの入口に面した通りを西側に曲がった。そのまま直進した先に大庭城址公園がある。東入口の階段から小高い階段を登った。
登り終えたところは樹木が生い茂り日陰であるが、その先には園路とそれに沿ってたつ木で区切れたいくつかの広場の芝が陽の光を受けて青々と輝いている。桜の時期には花見客がそれなりにいるが、桜の季節が疾うの昔に終わった平日の朝とあって人影もまばらだ。ちょっと得した気分になる。だから、園内では走らない。辺りを眺めながら歩くのである。
緑の葉を蓄えた樹木の間に広がる空が青い。いつ見ても飽きない。同じ場所から見ても日によって何かが違うような気がする。空に向かって高く真っすぐに伸びるメタセコイヤには夢を感じ、木陰が広がる楠の前のベンチに座っていると太い幹から目や口が現れて話しかけられるように感じ、歩いているとリスが目の前に現れて両手で木の実を抱えて齧っている姿に出会えた。いつもと一緒ではあるが、この日も新鮮なのであった。
帰宅すると家には誰もいなかった。妻も長女も仕事に出かけている。在宅勤務時代から日中一人でいるのは変わらない。
コロナが日本でも広まり始めて在宅勤務が始まり基本的に出社はできなくなった。2020年の3月の後半だった気がする。その後出社規制が緩和されたがオフィス縮小も進められ全社員が同時に出社することはできなくなった。
まあ、在宅勤務に慣れてしまうと自宅から歩いて会社まで通える人でもないと毎日出社は結構抵抗があるだろう。朝早く起きなくても始業時間に間に合うし、オフィスカジュアルの会社でも寝間着やジャージで出社するわけにはいかないが、それも気にする必要はない。髭を剃らなくても、葉も磨かなくてもセーフ。カメラオンのビデオ会議でも上はスーツ姿、下は短パンでも誰も気づかない。
在宅勤務になって会議が増えた。アウトルックの予定表に定例会議と称するものが毎日いくつも設定され、それ以外にも飛び入りの会議が入ってくる。コロナ前はこんなに会議はなかったのに。在宅勤務で通勤と帰宅に要する時間が削減されたが、それを凌駕する会議時間が追加された。
人は顔を合わせて仕事をしないと相手を信じられないものなのだろうか。会議しなくても自分が確認したいことをメールで聞けば十分ではないのか。多くの人間から同意を得ないと決定ができないことでも簡潔に要領よくメールを書けば会議はいらないのではないのか。それでも決定できないことだけ会議にかければ時間の無駄は無くなる。
参加者の多い会議は特に効率が悪い。会議だけが仕事ではなく他にも処理しないといけないことが山ほどあるので、いつ自分の出番が回ってくるのか分からない会議、出番が回ってこない可能性が高い会議は、内職と称する別の作業をながら仕事で行う輩が出てくる。当然、話を聞いてない、聞くのが疎かになる。そんな時にその輩に意見や回答を求められるとどうなるか。
「ネット回線の調子が悪くてよく聞こえませんでした。」「電話が入っていたので。。。」「別件で席を外していました。」と、 大概は話を振られてしばし間が空いてからの返答で虚を衝かれたのがありあり。結局は再度質問がされ、酷い場合には質問の経緯を最初から聞かされることになる。 それでも他の参加者から文句が出ないのは同じ穴の貉が多いからなのであろう。和夫も自分が同類であったことは勿論分っている。
そんなことを思いながら近くのスーパーで買ってきた弁当で昼食を済ませた。午後は在宅勤務で使っていた机廻りの整理と不要品の処分、夜は少し読書をして和夫の第二の人生の初日が終わった。
■シラサギ
6月×日。和夫が職を失ってから1週間が過ぎた。3日ほどジョギングを続けたが毎日続けるモチベーションがどうも弱い。その日の気分でサイクリングも屋外活動のオプションに加えることにした。
その日も日差しの強い日だった。2年ほど前に走ったことのある境川サイクリングロードで大和まで往復することにした。引地川沿いで見られるサギの数が最近少なく境川沿いに居場所を変えたのではと思っていた。以前にサイクリングロード途中の今田ポケットパークで何種類かの水鳥混じって数羽のシラサギを見たことがあり少し期待感があった。
昨年の10月ごろに引地川西岸のとある2,3本の木にレジ袋のような物がいくつも付いていて、よく見るとシラサギが止まっているであった。夕方になると1羽、2羽と帰ってきて暗くなった頃には40羽近くが宿っていた。
アメリカの人種差別・虐待を告発したストレンジフルーツ(奇妙な果実)という歌がある。その忌むべき過去と近年起きたブラックライブズマターの運動では差別と虐待は未だ根深いことに寂しさと虚しさを感じたものだが、それとは全く関係なく、多くの白い鳥が木に宿るのを見てストレンジフルーツだと思ったものだ。日が落ちると
今日は何羽いるのだろう、と毎日のように数えに行った。
鳥の数は日によって多少の変化はあったが35羽前後だった。いつの頃からか帰って来るサギが減り始め、それもいつであったか覚えていないが結局いなくなってしまった。昼間も川のあちこちでサギを見かけることが多かったが、最近ではジョギングの際に見かけるのは多くても3羽で気になっていた。
紫陽花の花が彼方此方で咲いていて緑の葉にブルー、紫、黄色、白といった色が引き立っていた。川はいくつもの森や丘に囲まれたところを流れ、川と丘陵地の間には多少窮屈ながら田園風景が広がり田圃には整然と稲の苗が植えられている。梅雨入りが遅れているからなのかこの6月を熱く感じているが、日差しの暑さはあるものの風を感じることもできる。ジョギングほど汗まみれにならない。腿と脹脛の筋肉を絶えず使っているせいか肺にも負荷がかかり有酸素運動をしている感覚がある。健康診断で指摘されている内臓脂肪も少しは減らせるのではないだろうか。
程なくして今田ポケットパークに着いた。川岸は以前に来た時とは異なり草が伸びていて上から見ることができる水面は狭かった。水鳥も見当たらず少々当てが外れた感じであった。他の地域へ渡ったのだろうか。
予定通り大和で折り返して家に戻るとシラサギについて調べてみた。よく考えるとシラサギについてあまりにも知識がない。シラサギはコサギ、チュウサギ、ダイサギの3種類があるのは知っていた。コサギは明らかに小型であること、足が黄色い特徴があるので見分けはできるが、チュウサギとダイサギの違いは何なのか。チュウサギとダイサギを比べて大きいほうがダイサギということかも知れないが、成鳥になる前の段階で体長の大小を比較しても区別はできない。
ネットで検索すると記事によって内容に微妙な違いがあり、時期による体の一部分の色の変化についての記載が全ての個体にあてはまるわけでもないようだ。見分方を表に整理してみたがコサギは大きさと足指の色で容易にできるだろう。チュウサギとダイサギは全長や嘴の長さがポイントであるが、1羽だけで比較対象がない場合には和夫のように経験の少ない人間に判断できない。だが、口角の位置が目の真下か目よりも後ろになるのか、つまり口の裂け具合が深いのがダイサギということであれば判断できそうだ。
ところで、表には記載しなかったがダイサギには二つの亜種があって一つがオオダイサギともう一つがチュウダイサギとのこと。名前の通りオオダイサギの方が大きく全長98cm以上、チュウダイサギは94cmまでというところか。そして、オオダイサギは冬鳥で冬に日本へ渡ってくるがチュウダイサギは夏鳥で冬は南方に渡る。ということは夏から冬にかけてと冬から夏にかけての合間はオオダイサギとチュウダイサギが同時期に同じ場所で生息しているのか、夏になっても渡らない冬鳥や冬になっても渡らない夏鳥はいるのだろうか。コサギとチュウサギは夏鳥で冬には南方へ渡るのだが、一部は渡らず越冬するものをいるとのこと。湘南あたりでは一年中同じ地域にいるものも結構いるのではないのか。
また、サギは多種と混合した集団営巣地を作るという。昨年10月頃に見たサギの実る木にはコサギやチュウサギ、ダイサギが混ざっていたのであろうか。夜で分からなかったが白色でないゴイサギやアオサギも一緒にいたのであろうか。新たな興味が湧いたのであった。
■介護保険証
6月×日。和夫は今日も朝から家で一人。在職時にも在宅勤務で家に一人の日が多かったが、会議がありその日の業務時間配分は何となく決まり、計画書、報告書、資料の作成や更新といったものは他部署のスケジュールや要望に依存しているものが多く、自部署の方針や人的資源の状況に応じて調整をすることもあるが、毎日、白いキャンバスに何を描きいつまでに完成させるかということを決めるような仕事ではなかった。結果、時間を効率的に消化し成果を着実に上げることができていたと思う。
今は何が違うのか。自分のやりたい事があり大雑把な方向性があっても複数の事案の優先度も納期も不明確であるため、毎日の進捗が適正であるかどうかが判断できない。これは心許ない限りであり自分の存在価値を疑いたくなることもある。
ジョギングやサイクリングで体を動かし汗を流すのは気持ちいいし、一日の重要なアクセントである。以前に1年半続けたラジオのドイツ語の初級講座は冠詞や形容詞の格変化や助動詞の人称変化、分離動詞の使い方などマスターできていなかったのでテキストの復讐を日課にしており、これも成果は別としてプチ達成感があって満足している。でも何か満たされないのであった。
話は変わって、5月に介護保険険証が届いた。和夫の高校の同級生も言っていたが少しショックだった。もう介護を意識しないといけない年代なのか。
7年前に母親が亡くなり父親の一人暮らしが始まった。父親は一人で大丈夫と言っていたが家事は母親任せの人だったので和夫は心配だった。月に1,2回様子を見に行くようになった。食事は自分で作っているようであるが、いつ炊いたのかわからないような飯と燻製の鶏ハムやサバやイワシの缶詰、野菜は冷凍野菜を入れた味噌汁風のものを毎日食べているようだった。和夫も食べてみたことはあったがお世辞にもうまいとは言えず、実家に行った時には魚や肉を焼いたり、芋やカボチャを煮たり菜っ葉類をゆでたり、白菜やキュウリや株などで浅漬けしたりと2日ほど食べられるおかずを作り置きしたりしたものだった。父親は洗濯機の使い方が分からないと言って洗濯はしない。トイレも部屋の掃除もしない、ゴミも出さないといった有様で、和夫には実家で落ち着いて座っている時間はなかった。
父親は一人暮らしが始まって3か月後に入院した。息苦しい、頭がふらふらということで診てもらうと肺に水がかなり溜まっており入院となった。もともと心臓に不具合があったが機能が更に低下しているらしい。左心室の収縮力が弱く血液を全身に十分に送れていなかった。2週間の協力利尿薬の投与で肺の水はかなり改善され退院することになったが、医師から塩分と水分の摂取制限がでた。
食事も真面に作れないのだから一人では無理な話だったが、施設に入るのも和夫の家に世話になるのも嫌だと言う。和夫としても父親を引き取るのは嬉しくはないが、実家のある静岡への往復がさらに増えれば、それほど遠方ではないとは言え自分の生活を維持できなくなる。そこで和夫は介護ヘルパーに何日か家に来てもらって、買物や食事を作ってもらうことを父親に提案した。合わせて掃除や洗濯をしてもらえれば和夫にとっても都合がよい。
だが、父親はヘルパー不要の一点張りである。赤の他人がやってきて要領も分からないのに家の中のものを触られるのが気に入らないようだ。こうなると簡単に首を縦に振るような人間ではない。その場はいったん引き下がることにした。
そして、帰省するたびに、和夫は今の頻度で帰省して面倒を見ることはできないこと、今でも歩行やベッドや椅子からの立ち上がりに難渋しているのだから、介護ヘルパーなしでの一人暮らしは無理になってくると説得して、今後ヘルパーをお願いする準備ということで介護認定を申請することを同意させたのだった。
だが、介護認定申請後の調査員による聞き取りでは関節の稼働範囲、寝返り、起き上がり、立位保持、座位保持、歩行、食事摂取、排尿、排便、排尿、着替え、入浴といった行為が支障なくできるかという質問全てに良好、問題なしと答えた。それも就職面接か学校の面接試験であるかのようにはきはきと明瞭に。
何を考えているのだろうか。実際にはあちこち掴まりながら、やっとのことで立ち上がったり起き上がったり歩いたりしていて、入浴などは問題ないというよりほとんどしていないではないか。調査員には帰り際に本人に妙なプライドがあるのか、実態とは異なる回答だと伝えたが、結局、和夫が期待した介護度での認定はされなかった。
その後、父親の一人暮らしと和夫の帰省は続いたが、1年3か月後の翌年秋に2度目の入院となった。病院へは定期的に検査と薬の処方で通っていたが再び肺の水の量が増えたため、毎日の体の状況を確認しながら投与する薬やその量をコントロールするために入院が必要とのことだった。
3週間ほどで退院して、その後の通院検査は続いたが病状は落ち着いたように思われた。1年が過ぎ、2年目も過ぎようとしていた10月に同じ病状になった。薬で水分のコントロールはしてきたが心臓自体は良くなるわけではなく、歳を重ねれば能力は低下していくのであろう。2週間後に退院したが、その後の通院検査で11月初めから再入院となった。11月下旬に退院することになったが、これ以上の独居生活は無理と医師から言い渡された。父親は和夫から介護施設入所か藤沢で同居の二択を迫られ、渋々、和夫宅に移ったのであった。
父親が同居するにあたり、和夫は介護用ベッドとトイレ用と玄関用の2つの手すりをレンタルした。後に排尿困難でカテーテルを挿入するようになってからは歩行器も追加した。すべて介護保険を利用してのレンタルである。
父親は同居してちょうど11か月で亡くなった。排尿困難が進んだ頃から認知症も急速に進んだ。俺は静岡の人間だから静岡に帰ると言うようになった。体が良くなった
ら帰ろうといって宥めても怒り出す。玄関のドアを開けて外に行こうとする。昼間、2階で働いている和夫は父親から大きな声で呼ばれて1階へ降りると訳が分からないことを言う。1日に何回も呼ぶのである。夜も排尿すると言ってトイレへ行こうとする。カテーテルを入れているから行く必要はないのに。
病院へは多い時には4つの診療科へ通っている時もあり、検査をして診察を受けるのだが待ち時間が長く相当の時間を費やした。家で入浴させるのも大変な作業だったし、排泄の方も粗相をすることが増えてきて、その始末は本当に苦痛だったが本人は悪いとも思わない。和夫も妻も連日連夜の父親の対応で肉体的にも精神的にも追い込まれていた。ケアマネに要介護度の見直し進めてもらった。介護施設を利用して家族が一息つける時間を取り戻したかった。
要介護度が上がると介護施設のデイサービスや宿泊サービスを週に何日か利用するようになった。施設の車が来て父親を送り出すと自由を得たような気がしたが、夕方や翌日に父親が家に戻る時間が近づいてくると暗い気持ちに戻った。そんな自分が情けなくもあった。
介護保険証を見ると当時の嫌な思い出が蘇ってくる。その介護保険証が自分宛てに届いたのだった。今度はお前の番だと言わんばかりに。
■ジャカランダ
6月×日。先日、最後の給与と賞与が口座に振り込まれた。6月ももうすぐ終わるということはサラリーマン生活も正式に終わるということである。仕事からは3週間も遠ざかっていて何の変化もないが、和夫にとっては一つの節目ではある。
10対0で負けている野球の試合、9回裏2死ランナー無し、代打で和夫がバッターボックスに立っている。夏の高校野球であれば3年生は高校最後の大会。2年生、3年生も先輩たちと一緒にプレーできるのはこれが最後。勝敗は決していると分かっていても、スタンドの学友や選手の保護者たちは最後の最後まであきらめない姿を見たいと必死の応援を繰り広げるであろう。
和夫の場合は回を追うごとに点差は広がり観客もまばらになり、早く試合が終わらないかと皆が思っているように思える打席であった。考えてみれば5月に勤務したのは4日間、6月も最終出社日ということで3日の日に出社しただけで、出番があるかどうか分からない中、その1打席のために魂込めて準備してきたというような状況ではない。仕方がないのである。
5月に行った海外旅行が随分前のことのように思えた。帰国後は、毎日走ったり、自転車に乗ったり、ドイツ語をちょっと復讐したり、読書をしたりした。整頓されていない家の荷物の整理や手入れがができていなかった窓の桟の掃除や網戸の張替等もした。それなりに毎日忙しい。だが、充実感のあった日々とは言い難い。
ジャカランダ。シダのような葉を持つ木に紫の花が葡萄の実なるかのように房を作り咲く。和夫は5月の旅行でこの花を初めて見たように思う。妻は日本にもあるし花屋で苗木を売っていると言う。言われて近所のショッピングモールで見ると確かに売っていた。ただ、スペインやポルトガルで見た街路樹とは大きさのせいもあるのかもしれないが全く印象が違う。
ジャカランダは南米原産の常緑性の高木。ホウオウボク、カエンボクと並んで世界三大花木に数えられる。国によっては紫の桜と呼ばれるところもあるらしい。
5月の旅行ではバルセロナ、グラナダ、コルドバ、リスボン、ポルトへ行った。ジャカランダはコルドバとリスボンで見た。他の町でも見たのかもしれないが印象に残っているのはコルドバとリスボンだけである。
コルドバへはグラナダから列車で行った。グラナダ駅へはグラナダ旧市街のホテルから徒歩で行った。近くではないが遠いと言うほどの距離でもなかった。
ヨーロッパの駅はロンドンからオックスフォードやバース、ルイスといった駅やミュンヘンからザルツブルクへ列車で行った経験から、グラナダ駅にも歴史の温もりと哀愁を感じさせるものを期待していたが、高速鉄道駅で昔からの駅ではないようで待合室的に使われる軽食や飲料を提供するコーナーがあるだけで当て外れの感があった。アルハンブラ宮殿の町の駅というには物足りない。
コルドバ中央駅はグラナダ駅より大きな駅でいろいろなショップも備わっていた。駅を出ると新たに開発された地区のように思えた。道路は広いが車の往来は左程ない。新しい大き目のビルもいくつか建てられているが人通りはほとんどない。
コルドバは内陸部の都市であるがグアダルキビル川の畔にあり、その川は大きな船が海から遡上することができ、その地は豊富な穀物や鉱物資源の産地であったため交易の要衝として栄えたということだから、川の近くが町の中心地であり川から少し離れた駅のあたりは賑わいがないのであろう。
ジャガランダは駅前の通りを横断して辺りを眺めると次の交差点のあたりにあった。街路樹として植えられていたが、ジャガランダの並木道という感じではない。所々に植えられていた。緑の葉がまばらな木のやや上の方に花もまばらに咲いている。花の色は薄く優しい紫で落ち着いた感じであり寂しげな通りに馴染んでいた。
ホテルに荷物を預けて川の近くの歴史地区へ行った時もジャガランダの花が咲いていた。寂しげな感じが家並みと溶け合うようで異国にいることとも相まって哀愁を感じることができた。
リスボンはマドリッドの次に行った町である。ちょうどサン・イシドロ祭の最中だったからか、伝統衣装を着て赤いカーネーションを頭や胸に赤いカーネーションで飾った人が多く、賑やかで明るい街の印象であった。学校へ通う子供たちも伝統衣装を着ることが許されているのか、そんな子供たちを何人も目にした。
校外学習なのか学校に体育の授業場所がないのか、レフィーロ公園脇の小さなサッカーコートとバスケットコートへ10人ほどの子供たちを先生が引率しているところに出くわした。子供たちの中で一番幼く見えた女の子が薄いピンクのロングドレスに白いショールを纏いプラチナブロンドの長い髪に白いスカーフを巻いていた。そして髪の毛には赤いカーネーションの花。その子が和夫とすれ違いざまに笑顔で手を振ってくれた。和夫も思わず微笑んで手を振った。青い空に白い雲が浮かび爽やかに感じた。
リスボンに到着した日は曇りだった。メインストリートのアウグスタ通りは人通りも多く賑やかであったが、通りを下ったコメルシオ広場から眺める川とは思えない広いテージョ川も川に架かる「4月25日」という名の吊り橋も寂しげな姿に映っていた。
路面電車で街から少し離れたアジュダ宮殿へ行ったときに近くの通りを散策した。通りはテージョ川に向かって下り坂になっていて人通りはほとんどない。立ち並ぶ家々は庶民の家が多いか質素でドアや窓が傷んだ家もあった。ポルトガルは西欧では貧しい国というイメージと重なるものを覚えた。
プラゼレスという大きな墓地へも行った。一つ一つの墓が小さな部屋になっていて故人の思い出の品であろうものが飾られている。その部屋で祈りを捧げるのだという。いろいろな風習があるものだ。
プラゼレスの帰りにエストレーラ大聖堂へ立ち寄った。祝福のセレモニーの最中だった。建物の中、大聖堂の入口には物乞いの女性が座り混んでいた。空腹で苦しんでいると訴えている。神や聖堂内のカトリック教徒たちは彼女に祝福を贈らないのだろうかと思った。
そんなリスボンの町で目にしたジャカランダの紫の花は寂しさを感じさせた。枝が見えないほど花が咲いている木もあったが、多くはいくつもの細い枝が張り出した先に申し訳程度に花がついているのであった。
ジャカランダは桜の散り際に似たような花だと和夫は感じている。コルドバやリスボンで見たジャガランダは忘れられない花となっていた。
■セルフネグレクト
7月×日。ここのところ和夫は憂鬱である。生活していて充実感を感じられない。五月病の一種なのだろうかとも思う。
新聞の1面に「若者孤独死」の文字が見える。平成30年から令和2年の3年間に東京23区で742人の若者が孤独死しているという記事である。
孤独死というと3人家族の和夫ではあるが、朝に妻と娘が仕事に出掛けてしまうと夕方まで一人家で過ごしている日が多く、自分が死んで何日も経ってから発見されるということはないにしても、孤独死もありえるのである。
3面に関連の記事があり、高齢者も含めての孤独死の実態について触れている。社会との接点や関係を断って生きていく能力や意欲を失って、部屋に引きこもり洗濯は勿論のこと、掃除や片付けもせずに部屋はゴミ屋敷と化し、認知症となり判断や意志決定ができなくなり、ゴキブリやネズミと同居し、排泄物が放置された部屋で無気力に過ごしているセルフネグレクトの人が増えているというのである。明確に自殺という行為をする者もあるだろうし、消極的な生活を続けた結果として亡くなっていく人もいるのであろう。
元女子教員がセルフネグレクトになった体験談も書かれていた。人一倍責任感の強かった彼女は初任者研修で受けた内容を完璧にこなそうとしたらしい。世の中、一人の力で完璧にできる限度は決まっているのであるから思った通りにいかないことは多い。だが、彼女はできないことで自分を責め、朝から晩まで休みの日まで仕事のことを考えることになり適応障害になった。全てのことに無気力になり誰とも接触することがなくなったという。和夫にはこの女性と似ている部分があるのだ。
介護保険証が5月に届いて第2号被保険者から第1号被保険者に変更になった。1号だの2号だのの意味もこれまで関心がなく知らなかったのだが、40歳から64歳までが第2号被保険者で65歳が第1号であるらしい。1号は介護や支援が必要な状況であれば給付金を受け取ることができるが、2号が給付を受けるためには原因が老化を起因とする疾病でなければいけないらしい。具体的に16の疾病が対象となっていることも知った。
1号被保険者であるということは医師の診断書もなしで老人であることが証明されている立場なのだ。和夫は自分が老人であることを意識させられている。定年とはそういうことなのかと思った。
若者孤独死の記事でちょっと気になることがあった。若者を定義している年代が10代から30代となっているのである。30歳は成人してから10年も経った人間である。最近は成人年齢が18歳に引き下げられているではないか。
30歳は分別もさらに成熟させるべき年齢だと和夫は考える。39歳ともなれば良い意味で、おっさんであるべきで、経験を重ねて分別にさらに磨きがかるべき歳なのである。いい年の人間を若者などと甘やかした定義をするから余計世の中おかしくなるのだ。この記事は「10代、20代の若者と30代のおっさんの孤独死の増加」にすべきなのだ。
介護保険の話に戻るが、保険料が結構高いのである。退職して年金生活になるというのに生活に厳しい金額である。健康保険の問題もある。
会社の健康保険が6月末で切れて健保資格喪失証明書が健保から届いたので、1週間前に和夫は国民健康保険へ加入するために役所へ手続きに行ったのだが、国民健康保険に入ると保険料が高いので会社の健康保険を継続した方が安いのではないかと言われた。昨年度は給料が多かったので、今年は先月で退職して収入が半分に減るのにそういう事になるらしい。
国保の保険料がいくらか聞いたら信じられないくらい高い。これから年金生活者になる人間が払っていけるような金額ではなく、そもそもこれまで医者にかかることもあまりなかったので、「10割負担でもこの保険料払うより安いと思うので、今年は国保に入らないで来年からでもいいですか?」と聞いてみると、「国民皆保険ということになっているので、健康保険に入らない訳にはいきません。」とのこと。
和夫は家に戻って会社の健保組合へ電話で確認すると、「任意継続の手続きをすれば最長2年まで延長できるので、任意継続して来年3月ごろに国保の保険料がいくらになるのか確認するのがよいだろう。」と回答。今年度の収入が下がるから来年度の保険料は下がるだろうということである。
その日のうちに健保組合へ申請書を作成してメールで送付し、7月分の保険料も振込んだ。そして、今日新しい保険証が届いた。国保に加入するより2万円ほど安くなったがなお随分高い金額である。
住民税額の通知があった。住民税は今まで給与天引きされていて金額を意識していなかったが、給与明細を見ると結構な金額が引かれている。そして、通知があった今年の住民税はさらに高い金額だ。
国民年金と厚生年金の年金額の通知もあったので計算してみると、年金から健康保険料、介護保険料、住民税を支払うと5万円余りしか残らないのである。細々と暮らせば年金だけでやっていけるのかと思っていたが、これでは大赤字である。来年は年金だけの収入になるから再来年は税金や保険料は下がるのかもしれないが、それまでは妻のパート代が我が家を支えることになるのだろう。
無気力にならないために、定年後の生活は頑張らないでおこうと和夫は思うのであった。