つゆいり
六月の初め、もうすぐ梅雨入りを迎える頃。
テレビや新聞では連日、梅雨入りは今日か明日かと騒ぎ立てていた。
遅く起きた朝。その男子学生は、横断歩道の信号に足止めされ、
どこからか聞こえてくるテレビの声に毒づいていた。
「梅雨入りの話ばかりで、これじゃまるで、
梅雨入りを待ち望んでるみたいじゃないか。
まったく、梅雨入りの何がそんなに楽しいんだか。
毎日こんな馬鹿騒ぎをするくらいなら、いっそ今すぐ梅雨入りして欲しいよ。」
学校を遅刻しそうなのは自分のせいなのに、
その男子学生が八つ当たり気味にそんなことを口にしていると、
それをたしなめる声が聞こえてきた。
「これ、お若いの。
むやみにそんなことを口にするものじゃないよ。
あの寺の者に聞きつけられたら、あんたがつゆいりさせられるぞ。」
その男子学生が声が聞こえる方に振り向くと、
そこには寂れた古いタバコ屋があって、
小さな窓口から老婆が顔を覗かせていた。
その男子学生は、口を尖らせてその老婆に応えた。
「だって、どこもかしこも梅雨入りの話ばかりで。
だったらいっそ、もう梅雨入りしてしまいたいと思って。」
「そうじゃない。あんたが言っているのは梅雨入りだろう?
わたしが言っているのは、つゆいりのことだ。」
「つゆいり?それは天気のことじゃないんですか?」
「そう。天気の話じゃない、つゆいりだ。
この地方には、古くからつゆいりという儀式をする風習がある。
梅雨の時期に災害が起こらないように、生贄をつゆいりさせるんだ。
生贄には、最初につゆいりを志願した者が選ばれる。
あんたみたいな若い人が選ばれるべきじゃない。
わかったら、滅多なことは口にせんことだ・・・。」
「つゆいりって何をするんですか?」
その男子学生が尋ねるが、しかしその老婆は居眠りしてしまったようで、
もう何の反応も示さなかった。
老婆の口から聞かされた、つゆいりという言葉。
それは何のことを意味しているのか。
わからないことには興味を引かれるのが学生の性。
その男子学生は俄然、興味をそそられた。
「あのお婆さんが言うつゆいりって、何のことなんだろうな。」
すると、そんな男子学生の肩を後ろから掴む手が。
振り返ると、そこには、虚無僧のような格好の人物が立っていた。
頭に被った深編笠の向こうから声が聞こえる。
「お主、先程、つゆいりを願ったか?」
聞こえる声色から、虚無僧の中身は老爺のようだった。
虚無僧の異様さよりも、その男子学生には今はつゆいりのことが気になった。
「お坊さん、つゆいりを知ってるんですか?」
「ああ、知っているとも。
今も今年のつゆいりの志願者を探していたところだ。
お主、今年のつゆいりに志願してくれるか?」
その男子学生は思案する。
腕時計を見ると、時間はもう学校の授業には遅刻する時間。
本来ならば、こんなところで立ち話をしている場合ではない。
しかしそれであればいっそ、学校の授業を休んでしまうのもいいかもしれない。
学校の授業は休んで、つゆいりのことについて調べたい。
むしろそうしたい。
もしかしたら、学校に提出するレポートの役に立つかもしれない。
その男子学生の思考は傾いていった。虚無僧に返事をする。
「はい、つゆいりに志願します。」
「そうか!では、拙僧の後に付いてきてくれ。」
そうしてその男子学生は、つゆいりのことを調べるべく、
虚無僧の後に付いて行った。
その後ろ姿を、タバコ屋の老婆は黙って見つめていた。
そうしてその男子学生は虚無僧の後に続いた。
町を通り抜け、森へ入り、道無き道を進んでいく。
その虚無僧は、聞こえてくる声の歳の割には健脚で、
男子学生の方が後に付いて行くのが大変なくらいだった。
いつの間にか辺りは霧に包まれ、森は梅雨入りしてしまったかのよう。
その男子学生にはもうここがどこなのかもわからなかった。
するとやがて、霧の中に、大きな寺が姿を現した。
大きな山門が口を開けて待ち構えている。
「さあ、着いたぞ。一緒に中へ入ろう。」
「あの、僕はどうすれば?」
「一緒に来ればわかる。」
虚無僧は言葉少なく前に進んでいく。
その男子学生は虚無僧に続いて、大きな山門を潜って寺の境内に入っていった。
その男子学生は虚無僧に従い寺の境内に入った。
寺の境内は狭く、すぐ目の前に本堂らしき建物が建っていた。
無言で本堂に上がっていく虚無僧に、その男子学生も続く。
その寺の本堂には、仏像らしきものは祀られていなかった。
代わりのつもりなのか、大きなお椀のような物が置かれ、
中にたっぷりの水が湛えられていた。
「さあ、これに着替えて、この中に浸かってくれ。」
本堂の中で待ち構えていた虚無僧たちが、坊主が着る白い白衣を手渡してきた。
事情もわからず、その男子学生は目を白黒させた。
「あの、僕はどうすればいいんですか?」
「言われたとおりにすればいい。
その白衣に着替えて、この水の中に浸かってくれ。」
仕方なくその男子学生は言われるがまま白衣に着替えた。
大きなお椀の中の水に足先から漬ける。
水は思ったよりも冷たく、身が引き締まるような思いだった。
「では、つゆいりを始めるぞ。」
虚無僧のそんな言葉で、つゆいりが始まったようだった。
本堂には更に虚無僧たちが何人も現れて、お椀の周囲を取り囲んだ。
大きな笊を手に、ザーっと何かをお椀の中に注いだ。
途端に、その男子学生の体を鋭い痛みが襲った。
無数の針だった。
「痛い!痛い!何をするんですか!」
「これもつゆいりに必要なことだ。」
その男子学生が慌ててお椀の水から上がろうとするも、
周囲を虚無僧たちが取り囲んでそれを阻止する。
水の中に注がれた針が白衣の中に入り、肌に突き刺さる。
流れる血に水が赤く染まっていった。
すると今度は、赤く染まる水がゴボゴボと沸き立ち始めた。
「あち、あちち!僕を殺す気ですか!?」
「これが痛湯入りだ。
お主は今年の痛湯入りに志願したのであろう?
であれば、お務めを果たせ。」
そうしてその男子学生は思い出した。
あのタバコ屋の老婆は言っていたではないか。
つゆいりとは、生贄を捧げる儀式だと。
つまりこのままでは自分は殺される。
でもどうすれば?
すると何事が起こったのか、虚無僧たちがざわつき始めた。
坊主が言うつゆいりとは、痛湯入りのことだった。
このままではその男子学生は、煮えたぎる針の湯で殺されてしまう。
しかし周囲を虚無僧たちに取り囲まれて逃げ場はない。絶体絶命。
するとその時、周囲が煙のようなもので満たされ始めた。
寺によくある線香とも違う、喉に染みるような煙だった。
どこからか聞いたことがある声が聞こえてくる。
「今のうちだよ!さっさと逃げな!」
これは誰の声だっただろう。
しかし今のその男子学生には、それを考える余裕は無い。
慌てる虚無僧たちの制止を振り切ってお椀から外へ出る。
濡れて重い白衣を引きずるようにして、走って本堂の外へ。
捕まえようと手を伸ばす虚無僧たちを突き飛ばして逃げた。
「おのれ、罰当たり者め。痛湯入りは必ず果たすぞ!」
後ろからはそんな虚無僧の恨めしそうな声が聞こえていた。
その男子学生は白衣のまま、寺の境内を走り山門から外へ出た。
霧に包まれた森を無我夢中で走り続けた。
どちらへ行けばいいのかはわからない。
ただあの煙の香りから逃げるように走り続けた。
するとやがて、霧は晴れ、森に獣道が現れ、町が見えてきた。
その男子学生は森を抜け、どうにか町に戻ってくることができた。
その足で交番に駆け込む。
「助けてください!殺される!」
交番にいた警官に事情を話す。
すると警官は、座っていた椅子から立ち上がろうともせず、迷惑そうに言った。
「この辺りにはそんな寺は無い。あなたの気の所為でしょう。」
何度も説明したが無駄だった。
警官はその男子学生の言うことに耳を貸そうとはしなかった。
失意に俯きながら交番を出る。
警察はあてにはならない。ではどうすれば?
その男子学生は濡れた白衣姿のまま。
冷静になってみると、周囲の人々からの奇異の眼差しが痛い。
そうしてその男子学生が思いついたのは、あのタバコ屋の老婆のことだった。
「そうだ、あのお婆さんなら何か知ってるかも。」
その男子学生はタバコ屋へ向かい走っていった。
その男子学生がタバコ屋の場所へたどり着くと、
そこにはもうあのタバコ屋は無かった。
「そんな・・・、どうしてだ?」
今朝、確かに老婆と話をしたはずなのに、
そこにはタバコ屋どころか何の建物すらなく、
こじんまりとした空き地が広がっているだけだった。
まるでタバコ屋など最初から存在しなかったかのように。
手がかりがなくなって、その男子学生は、家に帰るしかなかった。
それからその男子学生は、もう一度あの寺に行ってみようともした。
だがどうしても、森の中に寺を見つけることはできなかった。
誰に事情を話しても、寺の手がかりを得ることはできなかった。
あの日の出来事は本当に気の所為だったのかもしれない。
いつの間にか消えてしまった針の傷に、その男子学生はそう思い始めていた。
痛湯入りは必ず成し遂げる。
あの虚無僧たちは、確かにそう言っていた。
あのタバコ屋が消えてしまったのは、その結果なのではないかと思う。
もしそうであれば、今年の痛湯入りはもう終わったのだろう。
今年の痛湯入りの生贄はもう選ばれたということのはずだ。
もしそうだとして、では来年は?
梅雨は今年以降もやってくる。
次の痛湯入りの生贄には、誰が選ばれるのだろう。
あるいはそれはもう既に決まっているのではないか?
その男子学生は、どこからか常に視線を感じながら、そう思うのだった。
終わり。
もうすぐやってくる梅雨の話を書きました。
天気予報で梅雨入りはまだかまだかと連日聞いていて、
それならいっそもう梅雨入りなんて気にしなければいいのに、
と思って、この話を書きました。
お読み頂きありがとうございました。