スケベエな侵入者(短編28)
その日。
勤めを終えた私はいつもの駅で電車を降り、いつものように住まいのマンションに向かって、路上に残る蒸し熱い空気のなかを歩いた。
街路樹でセミの鳴き声がしている。
とにかく暑かった。
帰宅一番。
なにはさておきシャワーで汗を流そうと、私はすぐさま浴室へと向かった。そして服を脱ぎかけたときである。
不意に何かしらイヤな視線を感じた。
ここは女性専用のセキュリティ万全なマンション。まさかと思いながらも床から壁、続いて天井へと視線をゆっくりと這わせてゆく。
「キャアー」
私は悲鳴を上げて床に座り込んだ。
天井に黒い目がついていて、その目とまともに目が合ったのだ。
いや、私が目だと思ったのは人の目ほどの大きさの黒いゴキブリで、それはどこから侵入してきたのか浴室の天井に張りついていた。
天井から声がする。
「あー、見つかちゃったか。もうちょっとだったのになあ」
このゴキブリ。
私の裸を見ようとしていたのかも……。
私はしゃがみ込んだまま、脱ぎかけていた服をあわててもとに戻した。
「ほんと、もうちょっとだったのに」
ゴキブリはいかにも残念そうだ。
やっぱり私の裸を狙っていたのである。
何とも失礼なゴキブリだ。
私は立ち上がって浴室を飛び出すと、スケベエなゴキブリを退治せんと、殺虫剤を手にして戻った。それから天井のゴキブリに向けて、噴射の一撃を食らわせてやった。
ところがゴキブリはそれをなんなくかわすと、素早く天井から壁へと伝って走り下り、浴槽の排水口の中へと潜り込んだ。
何てバカなヤツ。
そんなところに逃げ込むなんて……。
私はシメシメと水道の蛇口を全開にひねり、ゴキブリが潜む排水口に水を流し込んでやった。
排水口がゴボゴボと音を立てる。
憎きゴキブリのヤツ、このまま下水管の中を流されて、やがて海まで行くことになるのだろう。
スケベエな邪魔者は消え去った。
これで思うがままにシャワーが浴びられる。
私が安心してすべてを脱ぎ、全裸となってシャワーを浴び始めようとしたときだった。
うん?
私は再びあのイヤラシイ視線を感じた。
そして天井を見上げると先ほどと同じ場所に、またもやあのゴキブリが張りついているではないか。おそらくあの水流にも根性で耐え、排水管にしっかりとしがみついていたのであろう。
「キャアー」
私は再び悲鳴をあげて浴室を飛び出すと、それからすぐにバスタオルで全身をおおった。
「見られて減るもんじゃなかろうに」
浴室からゴキブリの声が聞こえた。
何という憎まれ口。
何とも失礼なヤツ。
私は猛烈に腹が立ってきた。
こうなりゃ、女の恐いところを見せてやる。
私は猛ダッシュで居間へと走ると、今度は右手に丸めた雑誌をつかんで戻った。
「よくも見たわね」
私は思いきりジャンプして、怖れおののくゴキブリに向かって一撃を加えてやった。
が、残念。
不覚にも雑誌は天井まで届かず空を切った。そしてどこへ隠れたのか、ゴキブリのヤツは一瞬にして天井から姿を消していた。
かたや私はジャンプした拍子にバスタオルが宙を舞い、あられもない全裸をさらしていた。
「また見たもんね」
あのゴキブリの嬉しそうな声が聞こえる。
声のした浴槽の排水口を見るに、そこから顔をのぞかせたヤツの二本の触角が、クククと笑うように震えていた。
許せない。
絶体に許さない。
今度こそ息の根を止めてやる。
私は丸裸のまま洗面所へと移り、給水温度の制御スイッチを最大限にセットした。それから急いで浴室にとって返し、熱湯をこれでもかというほど排水口に流し込んでやった。
浴室に湯気がモウモウと立ち込める。
まるでサウナ状態だ。
「スケベエなゴキブリさーん。熱いでしょー。地獄まで流れていってねー」
私は汗だくになりながら雄たけびをあげ、素っ裸の姿で勝利のガッツポーズを決めた。
と、そのとき。
真っ白な湯気の中から声がする。
「はい、これ」
そこにはあのゴキブリがいて、私が宙に舞わせたバスタオルを差し出してくれていた。
ゴキブリのヤツ。地獄へ落ちるどころか、洗面所のどこかに隠れ潜んでいたのだろう。
私は負けた。
そして泣いた。
悔しくて泣いた。
乙女のようにワアーワアー声をあげて泣いた。
「ごめん」
ゴキブリがポツリと言う。
それから何を思ったか、ゴキブリは私の前から姿を消した。
秋風の吹く季節となった。
あれ以来。
私はゴキブリを見ていない。
ただあのスケベエなゴキブリのことだから、どこかしら見えない物陰から、そっと私の裸をのぞき見ているのかもしれない。
まあいいか。
見られて減るもんじゃないし……。