【書籍化&コミカライズ】聖剣令嬢の華麗なる推し活~愛する騎士は私が全力で守ります~
乙女にとって『推し』とは、最も尊い憧れの存在。推しのことは何でも知っていたいし、誰よりもそばで応援したいと願うのが常。せっせと推しにまつわる物を集め、崇めるのが真のファンというものだ。
光を集めた様な眩い金色の髪、澄み渡る空のような青い瞳、日焼けを知らない白百合のような肌、そして中の上くらいの容姿――モルガー公爵家の末娘アリスは、ふたつ年上の騎士候補生を眺めて静かに呟いた。
「クライヴ様は、今日もなんて素敵なのかしら」
クライヴとは、公爵家の隣りの敷地に屋敷を構えるレイラン子爵家の次男だ。年はアリスのふたつ年上の十九歳。
艶がある黒色の髪に、甘みのある杏色の瞳、人懐っこい温和な容姿に、スラリと伸びた長身。恵まれた体躯から繰り出される剣技は舞のように美しく、洗練されている。彼は現在、二十歳になったら受けられる近衛騎士の試験合格を目指して自主練中の騎士候補生だ。
アリスは幼馴染の特権を使い、レイラン子爵家に頻繁に出入りしていた。右手には使い込まれたパレット、左には高級な筆、正面にキャンバスを配置した彼女の目的はクライヴの姿を記録することだった。
七歳から描き続けて早十年。クライヴを描かせて右に出るものはもういない。欲しい推しの関連品が売っていなければ、自分で作り出せば良いという自給自足の精神だ。
(クライヴ様の額から滴る汗が眩しいですわ。ダイヤモンド以上の輝きではなくって? 汗を拭くタオルに……いいえ、いっそ汗になりたい!)
雫ひとつ見逃すまいと集中力を高め、キャンバスに絵の具を乗せていく。
もう訓練中に見つめられることに慣れたクライヴは、粛々と剣を振っていた。そしてひと段落すると、彼はアリスにつま先を向けた。
「アリス、できた絵って今回も例のサロンでお披露目するんですか?」
描きかけの絵を覗いてクライヴが尋ねた。
例のサロンとは『クライヴ様ファンクラブ』の集まりを指す。令嬢たちは好みの新人騎士を決めると、仲間同士で情報を共有し合い、全員で応援するという風習があるのだ。
クライヴは容姿端麗な上に優秀な近衛候補とあって、若手のファンクラブの中でも三本の指に入るほど絶大な人気を誇っている。
今彼が使っている刺繍入りタオルも、ファンクラブからの差し入れのひとつだ。
「えぇ! クライヴ様の素晴らしさを共有しないといけませんから」
クライヴのファンクラブを立ち上げた責任者であり、幼馴染という特権を使って他の令嬢より彼のそばにいることを許してもらっている立場として、彼の肖像画をお披露目するのはアリスの義務だ。
「やっぱり……何年経っても恥ずかしさに慣れないですね。しかも売るんですよね?」
「お忙しく、なかなか社交界に顔を見せないクライヴ様に会いたくて仕方のない令嬢は多いんですのよ。これでも皆様は絵だけで我慢しているのです。それとも以前のように追っかけられたいですか?」
「いや……知らない令嬢に後をつけられるのはもう懲り懲りです。絵くらい我慢しましょう……と言っても、アリスが僕の絵を描くこと自体は嬉しいんですよ?」
「ふふ、嬉しいですわ」
お披露目後の肖像画は、ファンクラブのオークションで売却される。本物と見紛うほどの質の高いアリスの絵は、毎回高値で取引されていた。
そこで得られた資金は次の画材の材料や、サロンの開催費用にあてられるのだ。残った資金は、クライヴが近衛騎士に合格したときに贈ろうと思っている装飾剣の購入費用として貯金している。
「稽古も終わったようなので、今日は失礼いたしますわ」
「もう? 今から休憩するから、一緒にお茶でもどうかと思ったんですが」
「実はまだ、例の課題が残っておりますの」
「……そう、ですか」
残念そうに微笑む彼の表情に、アリスの胸も痛んだ。
本当のところ、課題は全て終わらせている。
けれどもこれ以上長く彼と一緒にいる訳にはいかないのだ。彼女は申し訳なさそうに微笑んで、レイラン子爵家の屋敷をあとにした。
アリスはモルガー家の屋敷に帰るなり、個人のアトリエに入った。壁には隙間を埋め尽くすほどのクライヴの肖像画が飾られていた。その中でも一番お気に入りの絵の前に立った。
四年前、騎士の幹部候補生になった記念として描いた、少しあどけなさが残る制服の彼の姿。
「なかなか気持ちを切り替えるということは難しいですわね」
四大公爵家の末娘として、アリスはなに不自由なく暮らしていた。
彼女が裕福に過ごせているのは歴代のモルガー家の人間が国の発展に貢献し、領民たちが真面目に働き納税しているからだ。その恩恵を受けていると理解していたアリスは、親が決めた相手に嫁ぐ覚悟でいる。
その嫁ぎ先の最有力は王太子だ。
現在アリスは王太子妃候補四人のうちのひとりとして、妃教育を受けている。そんな令嬢が、子爵家の次男に本気で恋しているなど、公になってはいけない。妃候補から外れたとしても、アリスとクライヴの身分には差がありすぎた。父親である公爵が彼を選ぶことはない。
これは絶対に叶わない恋。
やんちゃな兄ふたりにイタズラされ、泣いているときに助けてくれた小さな自分だけの王子様。優しく、笑顔が素敵で、成長した彼に剣を持たせれば誰よりも逞しい。
ファンクラブの風習を隠れ蓑に、アリスは恋心を募らせていた。
でも片思いももう十年。そろそろ気持ちに区切りをつけようと妃候補に名が挙がったのをきっかけに、去年までは一緒にしていたお茶を断るようにし、純粋なファンクラブ活動の範囲で留まるよう努力していた。
「クライヴ様はどんな方と恋に落ちるのかしら」
想像しただけで涙が出てきそうだ。それでも受け入れられるようにならなければいけない。アリスはグッと拳を握り、侍女に指示を出した。
「飾られている絵を全て壁から外して、箱に入れてちょうだい。ファンクラブの皆様にプレゼントするわ」
「アリスお嬢様……かしこまりました。今描かれている絵はいかがなさるおつもりで?」
「そうね……最後の一枚はクライヴ様に渡そうかしら」
絵と共に恋心を手放せれば良いと祈って、アリスは天井を見つめた。
◇
「魔王の泉の発現に伴って生まれた魔獣討伐のため、現地に赴くことになりました」
恋心を諦めようとした日から数日後、突然クライヴが先触れもなしにアリスを訪ね、告げたのは残酷な宣告だった。
この世界には魔獣が存在した。悪魔のイタズラで、地上に厄災を呼ぶ魔王の卵が地上に落とされることがある。
その落下の衝撃で地面が凹み、近くの川の水や雨水が溜まると泉ができる。そして魔王の卵によって水は穢され、魔獣が生まれるのだ。
魔王の孵化が近くなるほど穢れは濃くなり、魔獣も増える。
たいていは世界各国にいる教会の星読みたちが卵が落ちる夜の空を見張り、星が流れた場所を調べては、泉が穢れる前に魔王の卵を処理してきた。
こうして前回の厄災から二百年以上の平和を守ってきたが、今回は見逃してしまったらしい。
「でも、どうしてクライヴ様が……」
魔王誕生を阻止するためには、穢れた水を浄化すべく泉に聖なる水晶を放り込まなければならない。
しかし魔獣が生まれてしまっては星読みたちだけで泉に近づくことができなくなるため、魔獣を倒すために騎士団が派遣されるのは当然。
しかしクライヴは近衛の騎士候補生であるものの、まだ正式に任命を受けた国の騎士ではない。
「アカデミーの成績を参考に、剣の腕が立ち、尚かつ爵位継承者から外れる者も招集対象となったようです。僕だけではなく、同級生も数名呼ばれたようです。その中には商家に就職していた平民もいました」
「そんな……」
既存の騎士団だけでは足りないくらい、戦力が必要とされるのだ。
魔獣との戦い方は、戦争とほぼ変わらない。遠くから大砲や弓などの飛び道具で蹴散らし、その砲撃を抜けた魔獣は剣で倒すのだ。
問題なのは、魔獣が人間よりもはるかに強いということ。それらと接近して戦う騎士が、一番身を危険に晒すことになる。
二百年前の聖戦では、前線の騎士の半数が天に召された。今は当時にはなかった大砲もあるし、技術も向上しているが危険なのは変わらない。
行かないで――と引き留めたいけれど、それが無意味な言葉だということをアリスは分かっていた。
すでにクライヴは騎士団の制服に身を包み、エントランスの外には軍馬が待機していた。もうこのまま前線に出発するのだ。
「アリス、お願いがあります」
「はい、なんでも仰ってください!」
「どうか、あなたの加護を僕に与えてください」
騎士に加護を与えるのは主か家族、または伴侶の役目。クライヴにとって、それだけアリスが近い存在だと言ってきたのだ。断ることなど、できるはずがない。
アリスは腹に力を入れ、女神のような穏やかな微笑みを浮かべてみせた。
「あなた様にご武運を」
彼女はクライヴの正面に立ち、胸元にある騎士団を示すメダルに口付けをした。
どうか怪我をしませんように、無事に帰ってきますように、まだこれから先もあなたとの縁が続きますようにと、ありったけの願いを込めて。
アリスがそっとメダルから唇を離すと、クライヴはすぐに踵を翻した。
「――ありがとうございます。行ってきます」
背中を向けながら言われた出立の言葉に、アリスは嗚咽を漏らすことしかできなかった。
だが、このまま静かに待っていられないのが彼女だ。クライヴの姿が見えなくなったと同時に、父親である公爵の執務室に突撃した。
「お父様、魔王の泉の件はご存知ですね? 後方支援として、騎士団の医療班への加入を希望したいのですが!」
アリスは医者である次男の影響で、医療についても学んでいた。医者ほどの知識はなくても、看護できるくらいの技量と経験があった。
それに国の一大事に貢献するということであれば、国からの許しも出るはずだと踏んでいた。
しかし、父親は渋面で首を横に振った。
「今回の聖戦は騎士も後方支援の人間も全て男で構成されている。女であるアリスの希望は通らない」
「なぜ殿方のみなのですか!?」
「性別が違う人間がいると、寝床や水浴び、厠など多くの点で互いに配慮が必要になる。その配慮ができないほど厳しい状況だということだ。アリス……戦地に行きたい理由に察しはつくが、お前は祈ることしかできない」
「――っ!」
アリスは拳をグッと強く握り、執務室から飛び出した。
それから彼女は屋敷の離れにある礼拝堂に籠るようになった。簡素で純白のワンピースに身を包み、冷たい床に両膝をつき、朝から晩まで神に祈りを捧げた。食べ物も戦地と同じような質素なものへと変え、気持ちだけでも寄り添いたいと思った。
聖戦に向かったのはクライヴだけではない。あのあと医者である二番目の兄も、慈善活動で知り合った神官の友人も後方支援をするべく戦地へと行ってしまった。
「アリス嬢」
「……」
「アリス嬢!」
「――っ、申し訳ございません! フィリップ殿下」
アリスは慌てて立ち上がり、頭を垂れた。
ここは礼拝堂ではなく、王宮の応接間だ。妃候補の一環として王太子のフィリップとお茶をしている最中に、あろうことか彼を無視して思いにふけってしまっていた。
「体調が悪いのではないな?」
「はい」
「なら、座ってくれ。考え事か?」
「……聖戦のことが気がかりで、皆様の苦労はいかほどかと考えてしまっておりました。大変失礼いたしました」
「なるほどな」
もう一度深々と腰を折ってから、フィリップに促されるまま着席した。
「やはりアリス嬢は他の候補者とは違うな」
「違うと言いますと?」
「他の令嬢は自分が王太子妃になることに注力していて、聖戦のことは気にしているがポーズだけだ。茶会で集中力を欠いてしまっても、私としては他人にきちんと心痛められるアリス嬢の姿の方が好ましい。本当……皆が必死になっているときに、のんびりお茶なんて飲んでられるか」
「妃を目指す令嬢の前で仰る言葉ではございませんよ」
「アリス嬢の前でしかこんなことは言わん」
フィリップは無作法に紅茶をあおるように飲み干し、カチャンと音を立ててティーカップを置いた。
「やはり妃にはアリス嬢を選びたい」
「……もう決めてよろしいのですか? 本命のあの方を諦めるのですか?」
フィリップには秘密の恋人がいる。
だが相手は男爵家の娘。とても優秀で、男女問わず社交界でも評判の令嬢だけれど、その身分差から王太子妃候補に名乗り出ることすらできない。
アリスは数か月に逢引きの現場を目撃してしまったから知っているが、社交界でフィリップと男爵令嬢の関係を知る者はおらず、側近だけが知るトップシークレット。
フィリップも、きちんと細心の注意を払って密会していた。悪いのは、クライヴが参加していた近衛試験を影から見守るために、密偵のように建物の三階の外壁に張り付いていたアリスだ。
フィリップや男爵令嬢と目があったときの気まずさは今も忘れない。
「私も彼女も、元より終わりを覚悟していた恋だ。本命を諦めるのはあなたも同じだろう? 私はどの令嬢にも愛を持てそうにないからな、それなら最大の共感者のほうが良いと思うんだが」
フィリップもまたアリスの本心を見抜いていた。分かっていてアリスを指名するあたり、腹の黒さが分かるというものだ。
だからこそ好感を持てるし、他の傲慢な男に嫁ぐよりはマシと思った。
「傷の舐め合いでもするおつもりで? 好きでもない相手と閨をともにできますか?」
「どうにかするしかないだろう。この身分で生まれた人間の宿命だ……耐えてくれ」
彼は申し訳なさそうにため息をついた。腹黒いが彼は一途な王子で、紳士的だと分かる。なら、こんな我儘も許してくれそうだ。
「私が王太子妃になったあかつきには、殿下の恋人を私の筆頭侍女として迎えさせてください。そして彼女との関係を続けてくださいませ」
「あなたと結婚しておいて、そんな不義理なことできるか! 彼女にも家門の都合がある。単なる問題の先延ばしにしかならない」
「三年だけ我慢すれば良いのです。私たちは仲睦まじい夫婦を演じ、白い結婚を完全に隠し通すのです」
「周りを騙すと?」
アリスは力強くうなずいた。
「婚姻して三年経っても子が成せないとなれば、王太子は第二妃を迎えなければなりません。三年の間で令嬢には私に尽くしてもらい、その忠誠を評価しモルガー家の養女として迎え入れます。そうして殿下は、令嬢を次の妃に指名すれば良いのです。モルガー家と王家の繋がりはそのまま継続され、フィリップ殿下は愛する人と堂々と結婚できるかと」
「陛下さえ説得できれば問題は解決というのか。王家にとって損はなく、公爵家はしっかり王家に恩を売れるし、私は宝を手に入れられる。魅力的な提案だが……あなたの名誉には大きな傷がつく。それも厭わないほどの特別な望みでもあるのか?」
フィリップが警戒した視線をアリスに向けた。
「この作戦を遂行するためには、私の想い人が生きて帰ってくることが条件です。そして生還した彼を王太子妃の近衛として指名してくださいませ。彼の実力は殿下もご存知かと」
結ばれなくても良い。ただクライヴの姿を近くで見られれば、それだけで幸せなのだ。
「なるほどな。つまり聖戦に行っている例の騎士が死ねば、私の願いは消え失せると脅しているのか」
「脅しだなんて酷いですわ。取引と言ってくださいませ」
「彼を戦線から下げるか? いや……下げられるような騎士は問題ありとみなされ、そのあと近衛に採用できない。やはり戦力の増強が一番か」
「その通りですわ」
ふたりは顔を合わせ、互いに笑みを浮かべた。
交渉成立だ。
王家の働きで隣国への応援要請を行い、戦力が増強できれば騎士たちの生存率は上がる。聖戦全体にとっても良い結果に繋がるはずだ。
「協力国には礼金の支払いが必要になる。王太子妃の予算が減っても良いか?」
「もちろんです。結婚式も含めてドレスの類は全てお下がりで結構。己の利よりも国の安全を優先する倹約王子妃として、国民の支持率もあがることでしょう」
「素晴らしいな。私も妃と足並みを揃えよう。アリス嬢とは良いパートナーになれそうだ」
「ありがとうございます。近衛任命の件、くれぐれもお願いいたしますね」
クライヴが生きて帰ってくれば、この片思いをまだ続けられる。叶わない苦しいものだけれど、諦める方が難しいと知ってしまった。彼がアリスに向ける気持ちが今は妹のようなものだとしても、『愛』ということは変わらない。
アリスがテーブルの下で「よしっ」と拳を作ろうとしたとき、慌てた様子の近衛が茶会の場に飛び込んできた。
「フィリップ殿下、こちらを至急ご確認くださいませ」
そうして一枚のカードに目を通したフィリップは、ぐっと眉間に皺を寄せ、カードを睨みつけた。
「アリス嬢……落ち着いて聞くんだ。魔獣の氾濫により、聖戦の第一防衛線が崩れた」
「――え?」
第一防衛線はクライヴの配属先だ。
「後方支援も駐在している第二防衛線が持ちこたえ、幸いにも死者は出ていないが、重傷者が多数出ているらしい。チッ、すぐに関係国に救援を決断させるために出国しなければ。おい、早馬を用意しておけ!」
「は! ただちに!」
王太子であるフィリップが各国へ直接出向き、救援を要請する意味は重い。魔王の卵が孵化すれば他国にも危険が及ぶため、断る国はまずいないだろう。
力のある殿下が羨ましい――何もできない自分の無力さに、改めて打ちのめされそうになる。
「殿下、私にできることはありませんか? 女でも聖戦にいけるようにできないのですか!? 例外を作れないのですか!?」
完全なる八つ当たりだ。
フィリップはこれから出国して重要な交渉をしなければならないのに、自分の未熟さのせいで足止めしてしまっている。申し訳ないと思いつつ、訴えられずにはいられなかった。
しかし彼は「私情を挟むな」と怒ることなく、真剣な表情でアリスを見据えた。
「神殿には神子という存在がいる。知っているな?」
「神に愛された神官ですね」
神子とは――神に認められ、天使の加護を得た人間。その多くが怪我を治す奇跡の力を授かるという。神子はこの国でも数えるほどしか存在せず、守るために居場所は秘匿されている。
神子はなりたくてなれるものではない。厳しい聖地巡礼の旅を経て、崇高な信仰心と加護を受け止められる強健な肉体だと神に認められた、ごくわずかな神官が至れる地位。その発言力と影響力は、王家に並ぶ。
「今回の聖戦は女人禁制だが、女性だと知られないよう男装する条件のもと、本人の強い希望で神子である女性がひとり参加している。神より得た癒しの力は、絶大だからな」
「例外があることを、私に教えてもよろしいので?」
「あなたを妃にすると決めたからな。重要な話をしても良いと判断した。神子の力は偉大だ。あなたの祈りは、神によって神子へと引き継がれるだろう」
王家の方針を覆し、例外が作れるのは実力のある神子だけ。
頭ごなしに否定しないフィリップの言葉は、聖戦参加を諦めさせるための優しさだとアリスは悟った。
「分かりました。私は引き続き、礼拝堂で祈りを捧げましょう」
「そうしてくれ。では失礼する」
「はい。どうかお気をつけて」
優雅に腰を折ってフィリップを見送り、アリスは次の行動を起こした。
「良いですか神様! クライヴ様は人類に必要不可欠な宝でございます! ついでに兄様も意地悪で性格はサイコパスですが、腕は確かな優秀な医者です!」
一度は箱に封印したクライヴの肖像画を礼拝堂に持ち込み、祈りを捧げていた。
肖像画だけではない。クライヴ人形に、クライヴの似顔絵刺しゅう入りハンカチ、クライヴの名前入りフラッグ、クライヴのシルエット入りマグカップ等、クライヴ関連のグッズをかき集めていた。
もやは祈りというよりは、悪質な押し売りだ。
二番目の兄は逃げ足が速く簡単に死ななそうなので、おまけ程度に付け加えておく。
そう、アリスは諦めの悪い令嬢なのだ。
「彼らの損失は国の……いえ、世界の損失です! あの剣技を見たことはございますか? それもう美しく、強く、でも繊細で惚れ惚れするような騎士なのです! 私は完全に惚れてますけどね! 彼がいなくなったらどれだけの人が悲しむか、お分かりになりますか!?」
もちろん神からの反応はない。だが熱弁は止まらない。
「あぁ、もう綺麗ごとはお終い。愛しているのです! たまらなく彼を好きで好きで仕方ないのです。もちろん他の騎士の方も兄様も心配です。誰も死んでほしくありません。でも心からそう思えるのは大切な方が戦地に行ってしまったから。もしクライヴ様が参戦していなかったら、私は聖戦を心配しつつも、非情にも他人事のように思っていたでしょう」
なんて博愛とは程遠い自己中心的な令嬢かと、アリスは苦笑した。所詮は、フィリップが蔑んだ他の令嬢と同じなのだ。
「それくらい私の世界はクライヴ様で占められていたのです。そんな彼を助けたいのです。その心は偽りのない真実でございます。そう願う人は私だけではありません。皆、それぞれ自分の大切な人が生きて欲しいと願っております。神は愛と平和を与えんとする存在だと学びました。愛と平和を掲げるのであれば、愛に全てをかけようとする我ら人類に力を貸してください! 魔獣に打ち勝つ加護を、できるだけ多くの民にお与えください!」
礼拝堂の中では、アリスの声が響くだけ。
「それとも神は悪魔に負けることをお望みですか? 人から祈りをもらうだけもらって何もしないのですか!? なにか出し惜しみでもなさっているのですか!? 神というのは良い御身分ですね!」
もはや喧嘩を売っている。もう一週間も祈っているのに戦況の改善が見受けられない。焦りだけが募っていく。
祈ることで恩恵が受けられると信じているから、人は神を信仰するのだ。聖戦前から毎日神に祈り、アリスは敬虔な信徒のひとりだった。
しかし神のお陰で叶った願いは記憶にない。
「お願いです……大切な人を失いたくないのです。多くの人に加護を与えるのが難しいのなら、ひとりでも、ふたりだけでも良いんです。ちなみに私では駄目ですか? 毎日祈ってますし、とてつもなく健康体です。加護を与えるには及びませんか? 多くの民に加護を与えられない事情があっても私に加護をくだされば、他の人の分まで働き、神の奴隷にだってなる覚悟はあるのです……でもこのまま神が何も与えず、もしクライヴ様やお兄様に何かあったときは神よ、私はあなた様を激しく憎むでしょう。孵った魔王に魂を売り渡し、糧となり、高みの見物をしている空から引きずり落としてみせますわ――きゃ!?」
恨み節を叫んだ瞬間、礼拝堂は闇に包まれた。
光が燦々と差し込んでいたステンドグラスも、立派な庭園が眺められる窓も、祭壇に灯していた蝋燭の火も何もかも見えない。黒い箱に閉じ込められたような世界だ。
神の怒りに触れたのか――そう臆しそうになるが、これはアリスの声が神に届いた証拠でもある。今がチャンスとばかりに、彼女は一歩も引くことなく畳みかける。
「神よ! 聞えているのなら、私に加護をお与えてくださいませ! 今ならまだ私の魂は悪魔ではなく神のものですわ!」
『威勢の良い娘よ、その言葉に偽りはないか』
清澄な声が頭の中に響いた。アリスの血が興奮で沸き立つ。
「はい。力を与えてくださるのなら、私の魂は神に捧げましょう!」
力強く答えると、暗闇の空間に一本の光の柱が現れた。
『汝、愛するものを救いたくば、欲しい力を思い描き、その光を掴み――願え!』
アリスは躊躇することなく光に両手を伸ばした。触れた瞬間に稲妻が走ったように全身が痺れ、光はぐんぐんと彼女の体に吸い込まれていく。
そして体に入りきらなかった光の柱は細く形を変え、そのままアリスの手の中で剣となった。
『癒やす力より、戦う力を選んだのか』
目の前に天使が現れた。淡い金色の長髪、空のような青い瞳、背には純白の翼を携えた美麗な男だ。
「はい。癒してしまったら愛する人は再び立ち上がり、傷つきに向かってしまいますから。そんなの嫌です。なら私が全てを薙ぎ払いたいのです」
『ではそなたに聖剣を与えよう。我はそなたの専属天使である。そなたの命ある限り、我が加護を与えん』
「ありがとうございます! では早速聖戦の現場に――」
『待て待て! まだ聖域を展開したままだから、外には出られない』
美しい顔に苦々しい表情を浮かべ、天使はため息をついた。
「どうやったら聖域から出られるのですか?」
『我は俗世の存在ではないため、聖域の外では形を保てぬ。依り代が必要で、本来なら後日改めて我の望むものを用意してもらうのだが……今は緊急事態。これで我慢しよう』
天使が手にしたのは、可愛くデフォルメした三頭身のクライヴ人形だった。サイズは子猫ほどの大きさだ。天使がそっとクライヴ人形の額に口付けをすると、彼の姿は消え、暗闇だった世界が晴れた。
ハッとしたアリスが周囲を見渡せば、元居た礼拝堂の中だった。
「うむ。手足は短いが、悪くない」
そうして目の前ではクライヴ人形が立ち上がり、喋っていた。
大好きな人を模した人形。成就できない恋愛だったため、本人の代わりに人形に愛を語った。時には妄想お部屋デートの相手をさせた大切な人形だ。それが動いている。人形のため表情に変化はないが、それがまた良い。
「なんたる奇跡!」
「そうだろう。天使である我を崇めよ」
「ありがとうございます! 一生大切にします!」
「うむ、そうするが良い!」
「ということで、早速出発の準備をいたします」
アリスは父親のいる執務室へと走った。
「お父様、先程私は神子になったので、天使様をお供に、男装して聖戦に参加することにしました!」
「……医者を呼ぶか?」
長い髪を振り乱し、腕の中に剣とクライヴ人形を抱きかかえた娘が執務室に乱入してきたのだ。これでも彼女は先日王子妃の内定をもらった国一の令嬢。父親は本気で心配していた。
「医者は必要ありません。私は本気なのです!」
こうしてアリスは礼拝堂で起きたことを説明し、天使を紹介した。神子であれば、条件付きで聖戦に参加できる実例があることも。
クライヴ人形が言葉を話したことと、聖剣がアリス以外の人には触れることができない特別なものだということから、父親は信じる他なかった。
だが、アリスの聖戦行きを簡単に認めることはできなかった。
「加護をもらい、聖剣を得たところでお前に剣術など……」
「任せてください!」
アリスは窓を開けて、二階から庭へと飛び降りた。
「アリス!?」
父親は肝を冷やすが、彼女は難なく着地し剣を振ってみせた。
太刀筋は流れるように美しく、身のこなしは舞っているように無駄がなかった。
「お前に剣術を習わせた覚えはないぞ!?」
「えぇ、習ったことはございません。これはクライヴ様の動きを再現しただけですから」
目を瞑っても鮮明に思い出せるほど、クライヴの剣技を記憶に焼き付けてきた。加護を与えられたことでイメージと体の動きが完全に一致するようになり、アリスでもベテランの動きができたのだ。
「しかし、その細腕で魔物が切れるのか?」
「お任せください」
アリスが庭に植えられている木に向かって一振りしたところ、太い幹は一刀両断され倒れてしまった。続くように倒れた木に対して聖剣を振ると、数秒後には綺麗な角材ができあがっていた。
不思議と聖剣の重さはほとんど感じられず、木を切るときもバターよりも柔らかく感じた。体も、見た目から想像できないほどの腕力と脚力を得たことを実感している。
「どうでしょうか、お父様」
完璧な騎士が目の前にいた。まさにアリスはこの国最強だと断言できる力を有していた。それでも父親はまだ抵抗する。
「ぐぬぬ……しかし、男装する服がないぞ! 息子たちの服ではサイズが大きいし、騎士に紛れ込もうとしたら制服をオーダーしなければならん! 出来上がりまで、しばらく待ちなさい」
「それについては問題ございません!」
アリスは私室へひとっ走りして、戻ってきた。彼女はジャストフィットした騎士の制服を着ていた。
「どうしてそんなものを持っている!?」
「クライヴ様のコスプレをするためですわ。ひとりで夜な夜な楽しんでいたのですが、表舞台で着るときがくるなんて」
桃色に染まった頬に両手をあて、アリスはもじもじと恥じらうように体をくねらせた。
「でも単独で聖戦に行ったとして、男装し身分を偽っているお前を受け入れてもらえるかどうか……!」
「それは我に任せよ。すでに仲間の天使と交信し、他の神子を通して神殿からの協力者を手配してある。あと数刻で迎えにくるだろう」
「――っ」
父親は脱力し、その場で両膝をついた。完敗だった。そのあと母親と長男も駆け付け説得を試みようとしたが、惨敗だった。
「皆様ごめんなさい。でも私は、この危機からクライ……人類を助けると神と約束したのです。それを反故にするわけには参りません」
「いや、分かっていたんだ。神子の最終的な意思を止めることは、国王陛下でもできぬこと……もう誰もアリスを止められないのは理解していたんだが、息子だけでなく愛する娘まで危険に晒されるというのは、やはり家族として辛いんだ。それだけは覚えておきなさい」
父親が目に涙を浮かべる姿を初めて見た。
アリスは奥歯を噛みしめ、聖剣を握り、その場で長く伸ばしていた髪を根元から切り落とした。すでに胸にはさらしが巻かれ、化粧も落としてある。その姿は中性的な少年にしか見えない。
「ふむ、様になっているではないか。そろそろ出よう。迎えがきたぞ」
天使はそう言って、アリスの腰につけられたポシェットの中に入り込んだ。
外を見ると教会に所属する聖騎士の集団が門の前で待機していた。
「いってこい……アリスは自慢の娘だ!」
「はい、行ってまいります」
アリスは家族と数秒の抱擁を交わし、聖騎士と共に戦場へと出立した。
◇
天使の加護のお陰で身体能力が向上したアリスはひとりで騎乗し、聖騎士と変わらぬ速さで馬を走らせていた。彼女の肩からは、教会関係者を示すショートマントが靡いていた。
アリスのために派遣された聖騎士は十名。彼らは神殿に所属する神子の専属護衛を務めている精鋭中の精鋭。信頼度も抜群。神殿の神子たちは自分の安全よりも、戦地に向かうアリスのために聖騎士を派遣してくれたのだ。
馬を走らせ数日後、アリスたちは第二防衛線に到着した。顔を合わせたことのある現場指揮者の軍師にも挨拶をしたが、彼はアリスだと気付かなかった。
「私の男装完璧だわ」
そう思ったのは半刻だけで、次に挨拶にいった後方支援の医療責任者に抜擢されたモルガー家の次男ジルには簡単に看破された。
「お前、男装してまで聖戦にくるなんて、ついに頭でも沸いたか? 今から診察してやる」
「ジル兄様、私は正気です。ほら、天使様もいらしてよ」
「我がお前の妹に加護を与えている天使だ。崇めよ」
そうしてポシェットの中から出されたのはクライヴ人形。ジルの顔はますます歪んだ。
「腹話術が上手くなったな。しかし愚妹だとは思っていたが、天才医師の俺でも手の施しようがないほど末期になっているとは……長く屋敷を空けすぎたか? おのれクライヴめ」
いつも偉そうな二番目の兄の、こんな苦悶の表情を見るのはアリスも初めてだった。彼女が神子になった原因は確かにクライヴの影響なので、誤魔化すように聖剣を見せたり、聖騎士も巻き込んで事実の説明をしたりと尽力した。
「確かに神子になったらしいな。しかし、こんな阿呆が神子になれるとは……何かの間違いじゃないか?」
「間違いでもなんでも、神子になれたのですから喜んでください。これから私が前線に行って皆様をお救いし、ジル兄様の負担も軽くしてみせますわ」
「箱入り令嬢が、第一防衛線に行くだと? 加護をもらって最強になったか知らんが、現実を見ても同じことが言えるのか?」
ジルに案内されたのは重傷者専用のテントだった。手足を失っている者も多く、換気していても血生臭さが残っていた。むごい現場に、アリスはゴクリと唾を飲んだ。
「死者が出てないとは言っても、この状況だ。癒しの神子様の力があっても追いつかない。魔獣は強く、殺せば血を浴びるし、少しのミスでここに寝ている奴らのように一生寝たきりだ。それでも行くのか?」
「……はい。それが神との約束ですから」
「チッ」
恐怖心が生まれないよう、精神的操作を天使の加護から得ていることは黙っておいた。
するとジルがアリスの肩に手を乗せた。
「良いかアリス……危なきゃ逃げろ」
「ジル兄様のように?」
「うるせぇ。とりあえず、他の奴らにバレたくなきゃこれでもつけてろ」
ジルは色付きのゴーグルをアリスに押し付けた。粉塵の中でも視界を確保するための特殊なゴーグルだ。バンドのお陰で戦闘中にズレてしまう心配もない。
そしてジルは、用は済んだとばかりに怪我人の治療をするべく別のテントへと行ってしまった。
「心配してくれてありがとう、ジル兄様」
彼女はそっと呟き、第一防衛線と向かった。もちろんそこには愛しのクライヴの姿が。遠目で確認した範囲だが、少しやつれているものの目立った怪我は見当たらない。
(あぁぁぁぁクライヴ様! ご無事で何よりです! これからは私が守ってあげますね!)
愛する人を目にした彼女は、内包している祝福の力が漲ってきたのを感じた。今なら何でもできる気がしている。恋と愛の力は偉大だ。
アリスは聖剣の神子アースと名乗り、教会から派遣された聖騎士としてすぐに現場に加わることとなった。先陣で来ていた聖騎士団と持ち場を交代する。
そのとき友人の神官とすれ違ったが、ゴーグルのお陰でアリスだと気付かれなかった。彼女はそのことにホッとした。
「神子アース様、現状を報告いたします」
先行していた聖騎士団のリーダーがアリスの前に立った。
一度崩壊した第一防衛線は立て直されたが、後退したことで泉との距離ができてしまった。水晶を泉に投じる見通しがつかず難航しているらしい。まずは戦線を進めなければならなかった。
「天使様、私はどうすれば良いでしょうか」
「所詮は知能のない魔獣。我が聖剣に神気を纏わせる。本能のままに、ひたすら切れ」
「分かりました――では、参りましょう」
馬に乗ったアリスは聖剣を抜き、大砲の横に立って片手をあげた。そして砲撃が停まった瞬間、単騎で大地を駆けた。
視界に入るだけで魔獣は約二十頭。全て黒いインクで染めた猪のような造形をしている。ロバほどの大きさで、スピードも速い。この魔獣を安全に倒すためには一頭当たり、最低でも騎士が十名必要とされている。到底ひとりでは無理な数だが、アリスは構わず突っ込み、聖剣を横に振った。
ポトリと椿の花が落ちるがごとく、魔獣の頭が地に転がった。そして間髪入れず、次の魔獣の首も落としていく。
アリスはある程度奥へと進むと馬の背から飛び降り、馬を逃がして聖剣を構え直した。魔獣は一番近くにいる人間に向かって走ってくる習性がある。魔獣から突っ込んでくるのを待ち、その度に彼女は屠っていった。
神気を纏った聖剣の切れ味は、屋敷の庭で木を切ったときとは比にならないほど抜群。一太刀で魔獣は絶命していく。最初に見えていた魔獣は、あっという間に全滅した。
しかし、魔獣はまだ湧いてくる。アリスはその場に留まり、ひたすら切って、切って、切り続けた。
百頭ほど倒し終わった頃、アリスの頭上を越えて砲撃が再開され、彼女のもとにたどり着ける魔物が途絶えた。
彼女がひとりで魔物の進行を食い止めている間に、他の騎士たちは大砲を移動させ、第一防衛線を前進させることに成功したのだった。
圧倒的な強さを目にした騎士たちは、アリスを畏怖の目で見ていた。もっと彼らを驚かせたのが、一度休憩のために集団に戻ってきた彼女が息切れひとつしていなかったことだ。返り血を浴びることなく、足取りも軽やか。
誰もがアリスを救世主だと認め、彼女についていくと誓った。
「クライヴ様が私に熱い視線を送ってくれたわ♡」
特設テントで休憩をとっていたアリスは、クライヴ人形に頬擦りしながら数分前のことを思い出していた。
クライヴから向けられた先ほどの熱い視線は『恋情』ではなく『尊敬』の類だと知っていても、見つめられると恥ずかしくて嬉しくなってしまうのが乙女の心理。
「アリス、我は苦しい」
「申し訳ございません! 本人に抱き付くわけにはいかなかったもので」
いつもの習慣で、気持ちを人形にぶつけてしまった。
「でも凄いですわね。勇者のごとく最強になった気分ですわ」
「間違いなく、アリスはこの世で最強であろうな。前回の魔王誕生から二百年……平和な時代が長かったせいで、ほとんどの神子は癒しの力を求め、お前のように戦う力を選ぶきっかけがなかった」
「今から私のように聖剣を手にする神子は生まれないのでしょうか」
「力は手に入れても、アリスほど急に強くはなれん。お前は運よく、最高の剣士の記憶を鮮明に持っていたから可能なのだ。そこら辺のにわか剣士の記憶なら、こう上手くはいかぬ」
それを聞いて、改めてクライヴの剣技の素晴らしさを噛みしめる。
「さて、そろそろ出番だ」
「はい、天使様!」
こうしてアリスは前線に繰り出しては魔獣を単独で倒し、防衛線が前進しては休憩のために集団に戻り、クライヴを遠目で眺めては癒され、また前線へと突き進んだ。その間にフィリップの救援要請を受けて急行した他国の騎士も増え、防衛線は確固たるものになっていった。
これを繰り返し五日間、ついに魔王の卵がある泉を射程圏内に収めた。
「浄化作戦を決行する」
軍師がテーブルの上に石を並べ説明をしていく。
現在、第一防衛線の大砲は森の境界まで前進できた。
しかし森を伐採する余裕がなく、これ以上進むことはできない。残りは人間の足で森に踏み込んで、泉を目指す必要があった。
泉の浄化には聖なる水晶を放り込まなければならないのだが、水晶の力を解放するためには神官が必要不可欠。神官を守りながら魔物と対峙しなければならないのが常識で、軍師は聖騎士を中心とした特攻隊の編成を告げようとしたが――
「私が単独で泉に向かいます。神子ですし、天使様もお側にいるので水晶の力の解放が可能ですからお任せください」
アリスの立候補に、軍師の作戦は一瞬で意味を失った。
「……た、確かにそれが一番犠牲の少ない作戦になるでしょうな。さすが神子様、自ら危険な役目をおひとりで引き受けてくださるとは……っ」
感激する軍師には申し訳ないが、アリスの私情によるところが大きい。天使の事前情報によると、その特攻隊には一般騎士も数名含まれており、クライヴの名もあがっていたのだ。彼を危険な目に遭わせたくなかっただけ。
そしてその日の夕方、浄化作戦が開始となった。
アリスは他の騎士たちに見送られ、馬を走らせた。今日は馬から降りず、すれ違いざまに魔獣を切りながら泉を目指す。切り逃した魔獣は半分が彼女を追い、残りは防衛線へと向かっていった。
現在の防衛線の守備力は高いので、引き返すことはしない。後ろに向かって剣は振りにくいため、むしろ防衛線へと向かってくれた方が助かる。
「お馬さん、頑張って! 魔獣に食べられたくなかったら、走りなさい!」
ここで馬に死なれても面倒だ。先へ進むべく馬に檄を入れる。
「ようやく終わるわ」
聖剣を振り回しながら、噛みしめるようにアリスは呟いた。
彼女が屋敷から出発して約一週間しか経ってないが、魔獣が発生してから一か月以上が経っている。クライヴの身を心配した時間としては、とても長く感じた日々だった。
「アリス、森が開けるぞ。泉だ!」
天使がポシェットから顔を出して叫んだとき、インクだまりのような真っ黒な泉を視界にとらえた。ゴボリと音を立て、粘性のある水から魔物が這い上がっていた。
「我が祈りを唱えたら、水晶を投げ入れよ!」
「はい!」
「水晶に眠りし神聖なる力よ。我の声に応え目覚め、闇を滅せよ!」
アリスは林檎サイズの聖なる水晶を手にし、馬を走らせたまま泉に向かって放り投げた。
水晶が泉へと落ちた瞬間、水が神々しく輝き、光を浴びた魔獣は霧と化し風に乗って消えていく。そうして黒かった泉は、あっという間に透明なただの水へと戻っていった。
浄化は成功したのだ。
「やったわ!」
「……」
アリスは喜びのまま両手をあげたが、天使からの反応がない。
「天使様、どうかなさいましたか?」
「おのれ、手遅れだったか!」
天使が空に向かって、忌々しく言葉を吐いた。
その視線の先を追ったアリスは、空に浮かぶ存在を捉えこう呼んだ。
「魔王……」
成人男性のような体つきの魔王は頭から足先まで黒く、目だけが赤く光っている。頭には螺旋を描く二つの角、指には鋭い爪、背には皮膜のある黒い翼がついていた。こちらを見て、ニタァと開いた口には黒光りしている太い牙が生えていた。
「一足先に生まれ、あえて我らを待っていたようだ」
「そんな」
「厄介な――来るぞ!」
天使が叫ぶや否や、空にいたはずの魔王はアリスの目の前にいた。咄嗟に聖剣を振り、魔獣と同じく切ろうと試みるが――
「くっ!」
爪で受け止められてしまう。聖剣でも切れない固さに、アリスの手はびりびりと痺れた。馬に乗っていては遅れをとると判断した彼女は飛び降り、再び魔王に剣を振る。
しかし、またもや難なく受け止められてしまう。何度か試みるが、攻撃が全く通じない。
たった数回、剣を振っただけで分かってしまった。
魔王は神子のアリスより強いと。
加護によって恐怖心を抑え込んでいるのにもかかわらず、呼吸の間隔が短くなっていく。魔王の笑みが深まったのを見て、反射的に大きく距離を取った。
「て、天使様……どうすれば」
「加護の出力をあげる! 耐えろアリス!」
クライヴ人形から光の粒子が溢れ出し、アリスを包み込んだ。跳ね上がるように心臓の鼓動が激しくなり、熱くなった血液が全身を駆け巡り、胸が息苦しい。代わりに脳が冴え始め、五感が研ぎ澄まされていく。
アリスは大地を蹴った。
今度は魔王が爪で受け止めるより速く、聖剣が相手の腕に届いた。
「ギギー!」
真っ黒な魔王の手は、叩かれた木炭のように表面が割れ、剥がれ落ちた。手を休めることなく剣を振り、魔王の表層を削っていく。
「効いているぞ! 手を緩めるな!」
「はい!」
「長時間加護を与えたら、肉体が耐えきれず壊れる。短時間で落とせ! 魔王の殻を全て剥がし、顕になった闇の心臓を聖剣で刺すのだ!」
「――は、いっ!」
まだ加護をレベルアップして数分も経っていないというのに、体が悲鳴をあげている。いくら息を吸っても空気が足りず、手足は燃えるように熱く、頭の中は凍えるように寒い。
天使の言うとおり、早く片をつけなければ、魔王にやられるより先に加護が原因で死んでしまいそうだ。
「切る、切る、切る、切るっ」
アリスの口からは、意識していることがそのまま言葉に出てくる。
魔王の表皮は少しずつ削れているが、今一歩力が足りない。肝心の、心臓がある胴体に聖剣が届かないのだ。
「ギヒヒヒヒ」
「アリス、下がれ!」
「――っ!?」
天使に言われるままに、アリスは後ろへと跳躍した。そして先程までいた場所を見て、彼女は息を呑んだ。
教会から支給されたマントが、細切りになってハラリと地に落ちるところだった。遅れて肩に痛みを感じた。
「ギシャア」
「まだ加護が足りないというのか!?」
いつも余裕のある口ぶりの天使から、焦りを感じた。
この瞬間から攻守が逆転した。
魔王がアリスを切り裂こうと腕を振り回し、彼女は必死に聖剣でいなしていく。相手は人間と同じく二本の腕がある。しっかり受け止めていては、もう片方の爪の餌食だ。
お返しとばかりに、次はアリスの騎士服が少しずつ刻まれていく。皮膚までは傷つかないよう、わざとらしく、少しずつ。
「あ――あっ、くっ」
彼女には圧倒的に実践を見る機会が足りなかった。クライヴの綺麗な剣技を見ていたが、あくまで理想とする攻撃の型のみ。
戦いというのは、守備も重要になる。相手の動きに合わせてどのように自分を守れば良いのか、アリスの記憶にはなかった。実践を見たことはもちろんあるが、優秀なクライヴはいつも攻め手側だった。
勝てないと分かった瞬間、体を包み込んでいた光が消えた。諦めの気持ちが、加護を手放してしまったのだ。魔王の爪をいなしきれず、アリスの手から聖剣が抜け飛んだ。
聖剣を追おうと手をのばすが、彼女の体は魔王に押し倒され、馬乗りにされてしまった。
加護の反動で、指一本動かせない。
「ギヒャヒャヒャ」
「貴様にアリスの魂は渡さぬ!」
ポシェットからクライヴ人形が飛び出し、小さな拳を魔王の顔に当てた。光が弾け、魔王は動きを止めた。
「何を……」
「天使パンチ簡易版だ。神気で目を回しているだけで、何のダメージも与えられぬ。今のうちに助けてやるからな!」
天使は小さな人形の体を使って、アリスの肩を掴む魔王の指を引き剥がそうと動く。人形の手の布が破れ、中の綿を出しながらも天使は魔王の手をアリスから離すことに成功し、彼女の襟首を掴んで離れようと引きずり始めた。
「我は崇高な天使だというのに! くそっ、下界ではこの程度の悪魔も倒せぬとはっ! やはり依り代は吟味すべきだった」
依り代の器によって、天使の強さが変わるらしい。選ぶ時間も与えず慌てさせたのも、きちんとした依り代を用意しなかったのも、アリスのせい。
しかし天使は彼女を責めることなく守ろうとしてくれている。
「ギ、ギ」
「時間切れか。アリス、そなたとの一週間は有意義であった」
「天使様……」
「逃げよ――天使シールド!」
再び動き出した魔王が跳躍し、迫ってきた。
天使は結界を展開し、魔王と激突する。結界にはすぐに亀裂が入り、長く持ちそうもない。
「うっ」
退こうとしても、アリスは体を起こすこともできずにいた。
万事休す。
天使様、申し訳ございません――と彼女は瞼を閉じた。
「アリス!」
「え?」
名を呼ぶ聞き慣れた声に、彼女はハッと目を開けた。
アリスの目には、愛しい人――クライヴの背中が見えていた。後ろ姿でも見間違うはずがない。しかも彼は聖剣を手にし、魔王に切りかかっていたのだ。
「クライヴ殿、魔王を押し返せ! 神子様を保護せよ!」
遅れて聖騎士のリーダーの声が聞こえてくる。
その指示に応えるように、クライヴは聖剣を振る速度をあげて魔王を押し返した。「神の代理人である我らに任せよ!」と引き継ぐように聖騎士数人が割り込み、体勢を崩した魔王への攻撃を再開させた。
クライヴはアリスに駆け寄り、顔を覗き込んだ。ゴーグルを外し、目が合うと安堵のため息を漏らす。
「アリス、生きてる……」
「クライヴ様、どうして、ここに」
「それはこっちが言いたいくらいだ。僕たちは森の外で浄化の光を確認したあと、その上空に黒い存在を確認したんです。魔王が生まれたと気づいた聖騎士の指示で、特攻隊に所属予定だった騎士でここに」
「まぁ」
「まぁ、ではありません! まさか本当にアリスがいるとは誰が想像していたでしょうか」
クライヴは顔を歪めた。
「よく私だと気付きましたわね」
「神子様を見たとき、アリスに背格好が似ているとは思っていたのです。でも、まだ知らなくて……だけどここに来るとき、言葉では形容できない繋がりを胸の奥から感じ、さらに泉の方角から飛ばされてきた聖剣を持ったとき、ここにアリスがいると本能で悟ったのです」
「繋がり?」
「それはクライヴがアリスの眷属だからだ」
クタクタになったクライヴ人形が、アリスの腹の上に乗っかり告げた。
「眷属!?」
「神子と眷属候補が互いに心から繋がりを求め、接吻しながら神子が加護を分け与えればできることだ。そう簡単には結べぬ契約である」
「接吻だなんて! 確かに加護は与えましたが、私はメダルにキスをちょっとしただけですわ」
「それだ! おそらくアリスがキスしたあと、クライヴが同じところにキスしたんだろ」
「つ、つまり」
「間接キスだな!」
かろうじて動く首を動かしクライヴを見れば、彼の顔は真っ赤だった。
そんな接吻で良いのかとか、神子になる前だったとか、どうしてクライヴがそんなことを――と問い詰めたかったが、戦況がそれを許さない。
聖騎士のひとりが、魔王によって地に倒れた。味方の人数は増えたが、戦力が足りないようだ。
「とにかく、これは朗報! 眷属は主である神子の聖剣を扱えるし、アリスほどでなくとも我も加護を与えられる。しかも今回の眷属は本物の剣の手練ときた。クライヴよ、分かっておるな?」
「御意」
クライヴの顔つきが、一瞬で変わる。見たこともないほど目つきは鋭くなり、いつもの優しい雰囲気が鳴りを潜めた。天使の光が、彼を包み込んだ。
「行きなさい」
「はっ!」
「聖騎士たちよ、どけ!」
彼が魔王に向かって駆ける。聖騎士は天使の言葉のままに道を空けた。
そこから戦況はひっくり返った。
「ビギャァァア」
聖剣に指を切り飛ばされ、魔王が叫ぶ。
クライヴの剣は、いつも見ていた華麗なものとはかけ離れていた。銀色の残像を描きながら振られる剣は一振りが荒々しく、重く、切るというよりは叩くような型。
魔王は躱しきれず、殻がどんどん割られていく。
「すごいですわ……」
「うむ。想像以上だ。才能はもちろんだが、やはり普段から鍛えられている肉体は良いな」
アリスを守るように囲んでいる聖騎士たちも、期待に満ちた眼差しで戦況を見守っている。
魔王が反撃しようと手を伸ばせば聖剣によって叩き折られ、空に逃げようとしても羽根を傷付けられ叶わない。
勇者――と聖騎士が呟いた。まさに伝説の人物のような強さだ。
「クライヴ様……さすが私の推し……あっ!」
アリスが熱烈な視線を向けていると、クライヴの鼻から血が飛んだ。彼の肉体を以ても加護には長時間耐えられないようだ。
「クライヴ、主を守りたければ押し切るのだ!」
天使の叫びに、クライヴの気迫が一気に増した。
彼は魔王の腕を肩から切り落とすと、守りがなくなった胸部を集中的に狙い始めた。固い殻が砕け、質量を減らしていく。そしてついに生々しく鼓動する闇の心臓が露わになった。
「突き刺せ!」
「はぁぁぁあ!」
聖剣が一直線に心臓に突き刺さる。
「ギシャァァァァァァアアアッ」
耳につくような断末魔が大気を震わし、叫びきった魔王は胸を貫かれたまま脱力した。
加護が消え、反動を受けたクライヴは聖剣を手放し両膝をついた。怒涛の戦闘が幕を引き、わずかな静寂が訪れる。
魔王討伐――その場にいた全員が確信しようとしたとき、天使だけは異変に気が付いた。
「なぜ、魔王の体が消えぬ……」
そう天使が呟いたと同時に、魔王が顔を上げ、ニタァと笑った。
「騙された、こやつ最上級悪魔だ! 眷属の振るう聖剣の神気では浄化作用が足りぬ!」
「ギヒヒ♡」
魔王は立ち上がると体を元に戻していき、自ら聖剣を胸から引き抜くとクライヴの正面の大地に突き刺した。
もう一度遊ぼうよ――と誘うかのように。
だがクライヴは力を振り絞り聖剣の柄を握るものの、立つことも、剣を持ち上げることもできなかった。それに痺れを切らした魔王は、彼を殴り飛ばした。
「がはっ」
「クライヴ様ぁぁぁあ!」
ボールのように浮いたクライヴの体は、聖剣と共に泉へと沈む。
「お前は眷属殿を引き上げよ。残りの騎士は私に続け! 命を賭けよ!」
リーダーを筆頭に、すぐさま聖騎士たちは魔王へと立ち向かった。
「う……ひぐ……っ」
アリスは横たわりながら、涙を流した。
クライヴを助けるために祈りを捧げ神子になり、周囲の心配を無視して最前線までやってきたというのに、結局は自分の不甲斐なさで彼を傷つけることになってしまった。
神子である自分が魔王を倒せていればと、もっと自分が強ければ良かったのにと悔しくてならない。泉に沈む彼を助けることもできない自分が情けない。
戦いを引き継いだ聖騎士たちも奮闘しているが、魔王はすでにつまらなそうに剣を躱している。この場にいるすべての命は魔王の気分次第。
魔王が遊びをやめれば聖騎士も、アリスも、愛しい人も皆死ぬ。
私は何のために神に祈ったのか――彼女の闘心に再び火がついた。
「天使様……どうやったら魔王を倒せますか? 二百年前、どのように倒したのですか?」
以前読んだ歴史書には、神子である救世主が魔王を光の器に封印したとしか記されていなかった。他の文献にもそれ以上の情報は書かれていなかったが、確かに騎士の半分を死に至らしめた凶悪な魔王は倒されたのだ。
天使は数秒沈黙したのち、重々しくアリスに問いかけた。
「……我の依り代になる覚悟はあるか?」
その問いが、全ての答えだった。
アリスはゆっくり一呼吸おいてから、しっかりとした口調で返した。
「はい。私は神に魂を捧げると約束しましたから」
「そう簡単に言ってくれるな。感情のない人形と違い、ほんの少しでも迷いがあればアリスの体を依り代にはできぬ」
「迷いはありません。だって依り代になってもかまわないほど、私はクライヴ様を愛しているのですから」
アリスはニッと笑みを作って、天使に向けた。愛している人のためなら、どんな決断もできるのだ。
「魂は神に、体は天使様のものになるのです。せめて、気持ちだけは彼のために使いたいのです」
「お前は良い女で、最高の神子だ。褒美として依り代として使い終わったら、体だけはクライヴの手に渡るようにしよう」
「――受け取ってくれるでしょうか」
「勝手にお前の眷属になる男だ。心配はいらぬ……アリス、良いな?」
「はい、お願いします」
クライヴ人形がアリスの額の上に立ち、彼女の顔を見下ろした。
「汝、我の目を見て誓え。我の全てを受け入れる覚悟はあるか?」
「はい、あります」
「汝、我に全てを委ねる覚悟はあるか?」
「はい、あります」
「汝、結末の覚悟はあるか?」
「――はい、あります!」
「これより神子の最終奥義、神降ろしを行う! 聖域展開!」
視界が闇に覆われ、目の前に麗しい長髪の男の姿をした天使が現れる。初めて見たときの気高そうな雰囲気とは違い、慈しむような穏やかな微笑みを浮かべている。
アリスは自然と彼に手を伸ばした。そして天使も彼女に手を伸ばし、重なり合ったとき――カチリという音が頭の中で鳴った。
「神気同期率上昇、適合条件クリア、神降ろし開始!」
彼女の意志とは別に、口が言葉を発する。つま先から頭へと光が走ると同時に、着ていた騎士服は純白へと染め上げられる。短く切っていた髪は腰まで伸び、背には翼が生えた。
重たかった体は軽くなり、痛みや苦しみからも解放される。その体は自分のようで自分でない感覚に支配され、天使と共同体になったのだと分かった。
「神降ろし完了。これより対・上級悪魔シークエンスを実行する」
包み込んでいた闇が晴れる。アリスの体は知らぬ間に、上空へと舞っていた。下を見下ろすと、泉から引き上げられたクライヴが咳き込んでいるところだった。命に別状はないらしい。
「良かった……」
そう安堵した瞬間、脳内に「悪魔に集中せよ」と忠告が響き、視線が勝手にずれた。
「ギヒャヒャヒャヒャ!」
魔王はこちらを見上げ、玩具を見つけたとばかりに歓喜の雄叫びをあげていた。生まれたばかりの子どもそのもの。
意識のシンクロが更に深まり、泉に沈んでいた聖剣が引き寄せられたように手元に戻る。
「目標の悪魔を確認。神気上昇、聖剣強化、加護制限解除……魔王よ、地上に落ちたことを後悔すると良いわ」
そうアリスが言ったと同時に、魔王の片腕が飛ぶ。
「ギヒャ?」
目に見えぬ速さで地上に降り立ったアリスが、着地と同時に腕を切り落としたのだ。魔王が状況を飲み込めず呆けている間に、残りの腕も切り落とす。そして右足、左足と細く断ち切りやすい場所に聖剣を振り下ろした。
まるで初めから知っていたかのように、天使の知識がそのままアリスの剣として伝わっていく。
「ギャ!」
「逃がさないわよ」
そうして首も切り落とす。
ようやく危機に気付いた魔王は胴体になってでも逃げだそうと羽根を広げ空へと行くが、同じく翼を得た彼女に容易に追いつかれ、容赦なく羽根ごと外側から削られていく。
あれほどまで強者だったはずの魔王が手足もだせない。
まさに無双。
じゃがいものごとく外側を剥かれ、ただの黒く丸い塊になり、落下するよりも早く心臓が露わになった。
アリスは聖剣を両手で構え、告げた。
「最終シークエンス・天使の審判を受けなさい」
聖剣で闇の心臓を貫き、神気を流し込む。光の爆発と共に心臓が消え飛び、飴玉程度の大きさの黒い塊だけが残った。上級悪魔を倒すには、この塊を浄化しなければいけないのだ。これは聖剣が放つ神気でも浄化できない。
だからアリスはそれを掴むと口に運び、飲み込んだ。
「――っ」
体の中で神気と、闇の力がぶつかり合う。しかし次第に闇の力は弱まり、消えていった。
「私たちの勝ちね……彼を傷つけた罪は重いのよ」
アリスは笑みを浮かべ、両手を空へと向けた。神降ろしの限界時間まであと少しの猶予があった。
「天使の恵みを、勇敢な戦士へと捧げましょう。聖なる祝福の雨よ、大地に降り注がん」
太陽が沈み、群青色だった空が白く染まる。雲が消え、天から流星群のように光の雨が降り注いだ。
「痛みが……消えた」
深手を負っていた聖騎士が、傷があった場所を見てさらに驚愕した。ひとりだけではない。戦場にいる怪我を負った騎士全員に同じ奇跡が起きていた。
「さすが天使様」とアリスが呟くと、脳内で「当然だ」と返ってくる。そして同時に「限界時間に到達。神降ろしを終了する」と響き、天使の意識が遠ざかった。体から力が抜けていく。
「クライヴ……様……」
戻るのなら愛しい人のところへ――彼女は彼の胸に飛び込む様に、ゆっくりと落ちた。
「アリス!」
祝福で回復したクライヴは、脱力したアリスをしっかりと受け止め、胸の中へと抱き寄せる。
けれどもアリスにはもう抱きしめ返す力は残っていなかった。
「クライヴ様がご無事で何よりですわ」
「アリスは、大丈夫なんですね?」
その問いに、アリスは返事ができなかった。強力な加護をもらうだけで弱い人間の器は壊れてしまう。その力の塊を受け入れた器が迎える未来は決まっていた。
彼女の無言で、彼は悟ってしまった。
「そんな……なんで……なんでアリスが! あ……あぁぁ……っ」
クライヴの口からは絶望の声が漏れ、瞳からは大粒の涙が溢れ出す。現実が受け止めきれず、失うことを恐れ、力いっぱいに何度もアリスの体を抱きしめ直してその手で存在を確認する。
「僕が……僕が弱かったから! あのとき倒せていれば……僕が! 僕が――」
彼が辛ければ、彼女も辛い。「お願い、自分を責めないで」と、願うように声だけは気丈に聞こえるよう律した。
「クライヴ様、魔王は元から聖剣では倒せない相手だったのですわ。むしろ、あなたが駆けつけていなかったら、私はもっと早くに終わりを迎えていましたわ」
「でもアリスが犠牲になったのは変わらない……」
「私が望んだ結果です。それよりも、私はクライヴ様が勝手に眷属になった経緯を知りたいんですけれど?」
「は?」
クライヴはアリスから体を離し、顔を見合わせた。彼の顔には「こんなときに?」と書かれているが、こんなときだからこそ彼女は確認しておきたかった。
「私、メダルに口付けを重ねた理由に、期待しても宜しいのですか?」
「それは……」
ハラハラと涙をこぼしたまま彼は言葉を詰まらせた。
アリスは何度も彼に涙を見せてきたが、彼の涙を見るのは生まれて初めてだった。その稀有さから、雫ひと粒がダイヤよりも貴重に感じられ、悲痛な表情なのに美しく見えた。
数秒の沈黙ののち、重々しく口が開かれた。
「愛していたからです」
カッと胸の奥が熱くなった。
「ずっと幼いころからアリスを慕っていました。覚えていますか? 僕が隣の屋敷に越してきた日のことを。あなたは兄上たちにイタズラされ、公爵邸の隅に逃げ、塀の下で泣いていましたよね」
「えぇ、クライヴ様は木登りをしていたところでしたわね」
泣いているアリスを見つけたクライヴは、木の枝を伝って公爵邸に侵入し、彼女を慰めた。今でもあのトキメキを覚えている。
「僕から見たあのときのアリスは、天使が迷い込んで来たのかと勘違いしたほど可愛くて、泣いているあなたを守ってあげたいと心を掴まれ、頼られる度に嬉しさは増していき、アリスの無邪気さに魅了され、それからずっとずっとあなたを想っておりました」
一度溢れ出したクライヴの告白は止まらない。
「でも大きくなるにつれて、あなたとは結ばれない立場だと知り、何度も諦めようとしました。口調も他人行儀に変えて、顔を合わせないように全寮制のアカデミーに入学してみたり……でも諦めきれなくて……諦めるどころか、ファンだと公言し妹のように懐いてくれるアリスに僕は夢中になるばかりで、向けられる視線に喜びを感じて平静を保つのがどれだけ大変だったか……」
「ごめんなさい」
「本当ですよ……だから僕は近衛を目指したのです。フィリップ殿下がアリスを選んだとしても、ずっと側にいられるようにと。選ばれなくても、近衛騎士という経歴を使ってあなたの嫁ぎ先の護衛騎士として就職できるように……他の誰かのものになったとしても、アリスと離れることが想像できないんです。だから一生、この気持ちを内に秘めて勝手についていこうと決めて僕は……はは、重いですよね?」
最後にクライヴは自嘲してみせたが、アリスの胸の奥は歓喜の感情で溢れていた。
十分だった。命を捧げたことに後悔はないと、確信した。
「嬉しい」
「アリス?」
「クライヴ様に愛された人生とは、なんて素敵な一生だったのでしょうか」
アリスは至福の笑みを浮かべていた。
「私もクライヴ様を愛しておりました。同じように、幼いころからずっと」
「……本当、ですか?」
「えぇ、隠れ蓑にするためにファンクラブを創設し、次期国王であるフィリップ殿下や神を脅すくらいには」
「は……はは、アリスも大概ですね」
「私たちお似合いだと思いませんか?」
「はい。誰にも負けない自信があります」
ようやくクライヴの顔に笑みが浮かんだ。アリスが一番好きな彼の表情。死してもなお、誰にも奪われたくない、愛しい彼の表情だ。だからアリスは祝福と呪いを同時に彼に与えることにした。
「私の体は神気に満たされ、人の理から外れた存在になっております。この先約五十年、朽ちることなく存在し、ときが来れば光となって天に還ります。そしてこの体に触れることができる人間は、眷属であるあなただけ。光になるまで、クライヴ様が私を守ってください」
「あなたは生きて」というアリスの願いに、彼の喉がヒュッとなった。
どこまでも追おうとした彼のことだ、死後の世界までアリスに付いて行こうとしたに違いない。しかし、救おうとした命を投げ出されてしまっては困る。
それに彼が自ら命を絶ってしまえば、彼女の体はひとり寂しく眠るだけ。彼にそんな見捨てるような選択ができないのを理解して、願いを託した。
あとを追えない絶望と、自分だけがアリスに触れることができる喜びに、クライヴは子どものように縋った。
「アリス……アリス……」
「今日は見たことのないクライヴ様の一面をいくつも見られて、本当に幸せですわ」
「置いて行かないで、アリス……」
「ふふふ、きちんと私の頼みごとを叶えてくださったら、天に来たときに素敵なご褒美をあげますわ」
「本当、ですか? なら、頑張るしかないじゃないですか。期待しても良いですか?」
「もちろんですわ」
ということで、お願いしますね――と空を見上げれば、天使が「仕方ないな」と肩をすくめていた。聖域を展開しなくても天使が見える。いよいよ時間がないらしい。
跪き、ふたりを見守る聖騎士たちに視線を移す。
「聖騎士様……私の家族にごめんねと伝えてください。そして愛していたと。特に同じ戦場にいたジル兄様は責任を感じてしまうでしょうから……よく伝えてください」
「承知いたしました。神子様はご立派だったと、加えておきます!」
「……クライヴ様が出入りできる、私の体を安置する場所も用意してくださると助かります」
「教会が全面的に支援いたします」
「あとはフィリップ殿下に、約束を守れなくてごめんなさいと」
「全てお任せください」
あとは何か託さなければならないことはなかったかと考えるが、もう意識を保つのも限界だ。
(駄目……涙よ出ないで)
もっと長く愛しい人の姿を瞳におさめていたいというのに、視界がぼやけてくる。もっと、もっと彼の存在をそばで感じていたい。少しでも強く、できる限り強く彼の愛を感じていたい。
「そうだったわ、クライヴ様……最後のお願いです」
「――っ、はい。何でしょうか?」
「私、メダルに嫉妬したままでは、天で穏やかに過ごせません」
ちょっとだけ口を尖らせて、拗ねてみせた。
「はは……そうですね。それは悪いことをしました」
クライヴは片腕でアリスを支え、もう片方の手で彼女の頬を撫でた。
「アリス、今も、これからもあなただけを愛しています」
「私も、クライヴ様だけです」
アリスが瞼を閉じると、口付けが落とされた。唇を重ねるだけの不器用で一途な口付け。
心苦しい片思いの期間も長かったけれど、あの時間がこの一瞬のためにあった試練だったというのなら、片思いの苦しみも悪くなかったと思える。
実際には互いに目を逸らしていただけで、両想いの時間でもあって。これ以上ない素晴らしいときを過ごしたのだと分かる。
彼の腕の中は温かく、触れている唇は熱い。
クライヴ様、愛しています――と、人生で一番幸せな時間に浸りながら、彼女は息を引き取った。
アリス・モルガーは歴史上で最高の神子と称えられた。神に愛され過ぎたために、神子になって日も浅いうちに魂を天に連れていかれてしまったとされている。
一方で彼女の専属天使の救済により彼女の体は守られ、家族と恋人の元に残された。五十年朽ちることがなかったアリスの体の傍らには、彼女が最も愛した恋人であり眷属の騎士が、生涯をかけて守護していたと歴史書には記されている。
神子と眷属の純愛は教会および民の心に響き、愛と平和の象徴としてふたりをモデルにした石像が本神殿の大広間に飾られた。
その石像がある広場を見渡せる神殿の通路で、ひとりの女性の神官――アリスが首を傾けた。
「あれ?」
突然頭の中に浮かんできたのは、歴史書に書かれている以上の鮮明な記憶。
公爵家の末娘として生を受け、最後は愛する人の腕の中で死んだという過去の記憶が、今日から本神殿に配属された男性神官と顔を合わせた瞬間に蘇ってきたのだ。
「アリ……ス?」
前世の愛しい人と瓜二つの顔を持つ男性神官は、アリスを見て突然涙を溢し始めた。
「クライヴ様、なの?」
「はい。前世も今世も名はクライヴです」
「――っ!」
この巡りあわせは神、あるいは天使が与えてくれた奇跡なのだと瞬時に理解した。
運命の再会にふたりは手を伸ばし抱きしめあおうとしたが、互いに手を止めた。
「お待ちになって……私たち今世でも結ばれない運命ではありませんこと?」
「アリスもお気づきになりましたか? 僕たちふたりとも上級神官ですよね?」
アリスとクライヴが再び出会えるよう運命を操作するために、神の影響を一番与えやすい職種に転生させる必要があったのだろう。しかし上級神官は身も心も神のものとして、恋愛が禁止されている身分。
これはあんまりだ。
では、上級神官を辞職すれば良いという問題でもない。
この教会は衣食住の水準が高く、労働時間も厳守のかなりクリーンでホワイトな職場。辞職するということは欲に溺れた異教徒とみなされ、理由が恋愛となれば「神がいるのに浮気をした」と後ろ指を指され、今後この世界で非常に生きづらくなるのだ。
例外として、恋愛が許されるのは神子、あるいは眷属になった場合のみ。前世のアリスとクライヴのような悲恋が起きないよう、数十年前に教典が一部改修されたのだ。
もちろん今世のアリスも変わらず行動派。有難いことに、上級神官になれば礼拝専用の個室が与えられるため、自由なスタイルで祈ることができる。
「クライヴ様、ちょっと天にひとこと申し上げたいことがあるので、礼拝にお付き合いくださる?」
彼女はニッコリと笑みを浮かべて、クライヴを誘った。
こうして一か月後、二度目の神子になったアリスは即刻クライヴを眷属にして、教会に結婚を申し出た。もちろん今世の守護天使も、前世と同じ彼だ。
「天使様、私……幸せです」
結婚式の日、挙式の前にアリスは個室にある祭壇の前で呟いた。
応えるようにクライヴ人形・改を依り代にしている天使が大きく頷いた。
「アリスよ、お前の本当の幸せはこれからだ。なぁ、クライヴよ!」
「えぇ、もちろんです」
後ろを振り返ると、クライヴが迎えに来ていた。騎士服を模した婚姻用の衣装がよく似合い、胸の高まりが止まらない。
「クライヴ様、素敵ですわ!」
「アリスも、その法衣風ドレスがよく似合っています。とても……綺麗です」
珍しくクライヴが頬を染めて言うものだから、心臓の鼓動の速度はますますあがっていく。彼以上に顔を赤く染めたアリスの頬に、手が滑らされる。
ふたりは見つめ合い、互いに熱い視線を重ねた。
「もうひとりで何十年も過ごすのはごめんです。今世こそ長く、共にいさせてください」
「はい。この顔が皺だらけになっても愛してくださいませ」
「えぇ、僕の愛は全てあなただけに――」
これから訪れる一時の静寂を前に、天使はそっとふたりに背を向けた。
Fin.
お読みくださりありがとうございます!
応援のお陰で書籍化&コミカライズ決定!
約7万文字の大加筆!ノベル版はツギクルブックス様より発売しました!ありがとうございます!!
発売を記念しまして、聖剣令嬢の外伝『幼馴染令嬢の一途な敬愛』の方に番外編SSを投稿しました!クライヴ視点です。そちらもお楽しみいただけると幸いです。
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