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裏切りの蜜蜂

裏切りの蜜蜂

作者: トビタ

「我らにとって、裏切りは極上の花だ」

 師は手を花のように広げ、彼の黒い指がろうそくの火に照らされて怪しく光った。



 傭兵上がりの金髪の男が大きな槌で石壁を壊していく。自らの力でその場で岩から作り上げた石の槌を、その場で増強した隆々の筋肉で壁に打ち付けている。

 ルアラを含めた他の仲間は彼から少し距離をとってその様子を黙って見ていた。道中の雑談で聞いた、彼は師からその力を受け継ぎ、紆余曲折を経て自らの手で師を殺めたという話が、ルアラの印象に強く残っていた。

 槌の最後の一撃がひびの入った石壁を完全に砕き、大きな音を立てて崩れ落ちた。砂埃がぶわりと舞い上がり、ルアラたちを完全に包み込んだ。

 土煙で視界が覆われ、げほげほという咳がそこかしこで聞こえる中、誰かが何かを叫んだ。空気が緩やかに動き始め、やがて強い風となり、土煙を連れて傍を勢いよく通り抜けていった。言葉で色々なものに影響を与える力の使い手もいたから、恐らく彼が風を呼んだのだろう。

 視界が明瞭になり、石壁の奥にあるものが露わになった。

 石壁の奥は広い部屋が広がっていた。中央に台座があり、それ以外は何もない部屋だった。天井に大きな亀裂が入っており、そこから外の光が漏れ入って、台座とその上の大きな緑色の透明な玉を照らしていた。

「任務完了だな」

 金髪が「やっと終わった」とでも言いたげに伸びをしながら言った。

「持ち帰るまでが仕事だぞ」

 栗色の髪を一つに束ねた、リーダーを任せられている女が金髪をたしなめながら、仲間の一人に目を向けた。

 リーダーに目で促された赤毛の女は、部屋の前に立つと両手の指を黒く硬化させて床に突き刺した。少しして指を抜いて硬化を解くと、リーダーを振り返って黙って首を横に振った。少なくとも彼女は罠を感知しなかったようだ。

 リーダーは石をとって部屋の中に投げ入れた。石は音を立てて石畳の上をはねて転がるのみで、罠らしきものが作動する様子はない。赤毛が感知しなかった罠の存在に警戒しつつ、リーダーは部屋に足を踏み入れた。

 リーダーの合図で全員が中に入ると、リーダーとルアラの目が合った。玉を触っても大丈夫かどうか調べてほしいのだとルアラはすぐにわかった。

 深い紫色のローブをゆらりと揺らし、ルアラは玉に近づいた。台座に彫り込まれた模様をぐるりと見て回り、褐色の指でそのうちの一部に触れた。触ることで呪いなどが降りかかる類の罠はなさそうだ。

 道中には罠がたくさん張られていたが、肝心の宝物と宝物を収める部屋は無防備らしい。道中の罠で確実に侵入者を殲滅できると信じていたのか、何らかの理由で宝物とその部屋をわかりにくい場所に隠すことしかできなかったのか、今となっては誰にもわからない。この遺跡の作り手はすでに土の下だ。

 ルアラが手のひら大の緑色の玉を左手でつかみあげると、リーダーが安堵のため息を吐いた。その場に張られていた緊張の糸が緩むのを誰もが感じ、その場に座り込んだり大きな伸びをする者がちらほら居た。

「よし、帰ろう。それを私に渡してくれ」

 振り返ったルアラにリーダーは手のひらを広げて見せた。

 ルアラは少しの間その手を見つめると、口を開いた。

「帰れませんよ」

 ルアラの言葉が理解できなかったらしく、一呼吸の間の後、リーダーは困惑した様子で言った。

「お前は何を言ってるんだ」

「皆さんはここでおねんねするんです」

 目深に被ったフードの奥で、ルアラは薄く笑みが浮かぶ生理現象を抑えられなかった。

「おい」

 不穏な空気を感じ取ったリーダーが険しい顔で腰に下げた剣の柄に手を伸ばした。リーダーの右手の指が柄に触れる前に、突如床を割って伸びてきたこげ茶色の蔦が彼女の右腕をとらえた。

 咄嗟に動いたリーダーの左腕も、別の蔦に捕らえられ、次々現れた蔦によって体は拘束された。

 異変を察知した他の仲間たちも、動く前に床を割って伸びてきた蔦に巻かれ身動きを封じられた。言葉に力を持つ仲間は口をふさぎ、筋肉増強の力を持つ金髪には力の流れを断つなどの小細工にも、ルアラは事欠かなかった。

「どういうことだ、説明しろ!」

 リーダーが叫んだ。

「他にもこれを欲しがっている人がいたということですよ」

 フードの奥の闇が深く濃くなり、見えていた口元や首が闇に包まれた。褐色の腕も指先まで服の奥から霧のように現れた黒い闇によって光を全て吸い込んでしまうような暗い黒に変わった。

「何者だ」

 闇に覆われ暗い人へと姿を変えたルアラを見て、金髪が低く険しい声で言った。

 ルアラは少しずつ息を吐き出し、ぶるりと震えた。ルアラのような存在にとって、存在を支える糧としている、人間にとっての食糧のようなものが闇を通して体に染み入っているのがよくわかった。その感覚は心地よくルアラの頭を刺激した。

 震えながら大きく息を吐きだし、吸い込むと、ルアラは発声した。

「今あなた方が感じている情感を蜜としておいしいおいしいしている蜂です」

 光にあてられて影が広がるように、深紫のローブの裾が黒く放射状に広がっていった。床の上で広がった扇形の影が、風を受けた帆のようにむくりと盛り上がり、墨の海から引き上げられるようにいくつもの何かが姿を現した。様々な武器を携え静かに佇むその黒い存在たちは、拘束されたリーダーたちの目に命を奪う悪魔として映った。

 何人かの目に恐怖が宿るのがありありとわかった。ルアラは熱っぽさと哀れみの入り混じった目でその様子を見ていた。

「死にたくない?」

 首を傾げながらルアラが言った。金髪が舌打ちをした。何人かが拘束を解こうともがいている。「一部の罠の予防に」と事前に全員に渡してあった札に、各人に最適な拘束ができるように時間をかけて罠を仕込んでおいたのだ。そう簡単に解けるものではない。

「待て。その玉が目的なら私たちを殺す必要はないだろう」

 拘束を解こうと一通りもがいたリーダーが、冷や汗を浮かべながらルアラに訴えかけた。

「お前がそれを持ち去っても私たちは何も邪魔しない。依頼主には失敗したと伝える。どうだ、この拘束を解いてくれないか」

 焦りの色を浮かべるリーダーの顔をルアラは黙って見つめた。

「あなたが蜂さんだとして」

 ルアラはすっと右手を前に出すと、花のように指を広げた。

「目の前にお花があったらどうしますか」

「蜂じゃないんだからわかるわけない」

 赤毛がつっけんどんに言葉を投げ返した。リーダーが「機嫌を損ねるような余計なことをするな」とでも言いたげに「おい」と青ざめた顔ですごんだ。ルアラはその様子を見てくつくつと小さく肩を揺らし笑った。

「あなた方の死の間際、蜂である私は素晴らしい蜜をさらに吸うことができるのです」

 ルアラが右手を上げると、後ろに控える悪魔たちが音を立ててそれぞれの武器を構えた。

「やめろ、やめてくれ」

 誰かが震えた声で言った。先ほどから体に心地よく染み入ってくる蜜がより甘く多く体に流れ込んでくるのがわかった。仲間が裏切ったことへのショック、混乱、悲しみ、拘束されこれから殺されることへの絶望感、恐怖、焦燥、そういった暗い感情が蜂の糧である蜜として体に流れ込んでくる。

「裏切りは極上の花」

 師がよく口にする言葉をルアラは呟いた。その言葉を合図に、黒い悪魔たちが目の前の獲物を食らうためにゆらりと一歩近づいた。金髪や赤毛を含めた何人かが拘束を解くためにより激しくもがいた。何人かはもうどうしようもないと悟ったのか、呆然とした表情で悪魔を見つめている。焦りの色を濃くしたリーダーは叫んだ。

「待つんだ! お前が蜜を吸う蜂だと言うのなら、私たちを雇え! これまでの道中で私たちの力を見ていただろう。お前が蜜を得るための力になれるはずだ! だから」

 必死になったリーダーの言葉は、急にリーダーとの間合いを詰めた一体の黒く大きな体格の悪魔を視界に捉えると途切れた。ルアラは期待と哀れみの混じった目で見ていた。

 悪魔が手に持った巨大な鉈を無造作に振るった。

 迫る刃を見てリーダーや仲間たちが絶望を深めるのを、ルアラは身をもって感じた。

 岩を砕く轟音とともに、リーダーに迫った悪魔がすんでのところで刃を翻し大きく飛びずさった。天井が崩れたらしく、天井の破片が硬い音を立てて床に降り注ぎ、砂埃を舞い上がらせた。

 何が天井を壊して降りてきたのか、ルアラにはすぐにわかった。悪魔の一体に指示を出すと、悪魔は背負っていた人間大の笛を吹いた。笛が重低音とともに巻き起こした風が砂埃を消し飛ばし、乱入者の姿をあらわにした。

 悪魔が立っていた場所には一本の片刃の剣が突き立っていた。それを乱入者は岩と鋼が擦れ合う歪な音をさせながら引き抜いた。

「久しいな」

 乱入者が大きく剣を一振りしながら、ルアラに声をかけた。

 崩れた天井の破片からリーダーや仲間たちを守ったのだろう、白いローブを着た中性的な面持ちの似た姿の人が何人か、乱入者の周りで、リーダーたちを取り囲むように立っていた。そのどこか美しい姿はリーダーたちの目に自分たちの命を救う天使として映った。

 彼らの中心にいる乱入者その人は、白いローブの人々と打って変わって筋骨隆々とした偉丈夫だった。長い黒髪を一つに束ね、無精ひげを生やし、彼の一族の衣装であるスリットの入った短いスカートから盛り上がった足の筋肉があらわになっていた。

「アカリノフミ」

 長い間自分の師と自分と対立している宿敵と呼べるような存在である、彼の独特な名前をルアラは呟いた。

「お前の師匠は一緒じゃないのか」

 アカリノフミはルアラの暗いフードの中を見つめながら言った。

「見ての通りです」

「そうか。ならまだ楽だと思いたいな」

 もう一度剣を振るうと、重たい音を立てながら左足で強く目の前の地面を踏み鳴らし、アカリノフミは顔の傍で剣を構えた。

「灯りに溶ける覚悟はできているか?」

 刃が火に包まれ音を立てて燃え上がり、覇気を放つ鋭く黒い眼光を赤く照らした。

「ぽかぽかの灯りを冷え冷えの闇に溶かす決意なら、とうの昔にできています」

 ルアラは手に持っていた玉を傍の悪魔の一体に渡すと、アカリノフミを迎え撃つために、左手のひらにずぶりと指を差しこみ、短槍を引きずり出した。



 ルアラが部屋に入って扉を閉めると、「ご苦労」という声がかかった。

 師が椅子に座り、テーブルの上に立つ数本のろうそくの火に、被っている紺色のローブのフードを照らされていた。周りの闇に溶けてしまいそうな黒い指を火の前で組み、フードの中に広がる闇に青白く浮かぶ十字の紋章が、ルアラを見ると暖かく燃えるように光った。

「先方は喜んでいただろう?」

「ええ、それはもう、きらきらと」

「そうだろう。一滴の蜜にもならないつまらん感情だがな」

 師は残念そうに首を振った。

「負の感情を美味しくいただく存在である我々にとってはそうでしょうが、私にとってはそういった感情のきらきらを眺めるのもわくわくするんです」

 ルアラは言いながら黒い指で師の対面の椅子を引き、座った。ルアラのフードの奥の闇を、ろうそくの光は散らすことができない。

 十字の紋章を浮かべた闇と、底なしの闇の対話は続いた。

「傷は癒えたか?」

「痛いのはだいぶ飛んでいきました」

 アカリノフミとの戦いの末、誰一人として殺すことはできなかったが、ルアラはどうにか玉をもってその場を抜け出し帰ることができた。そして先ほど、リーダーたちの依頼主とは別の依頼者に玉を届けてきたのだ。

「フミのやつに変わりは?」

 旧友の様子を尋ねるような調子で師が言った。

「おぐしがさらに伸びていましたね。お肉がごつごつしてて、剣をぎゅんぎゅん振り回して元気でした」

 ルアラも親しい知己の様子を話すように答えた。

「そうか。やつはいつまでも元気だな」

 師は組んでいた指をほどき、右手の指を花のように広げた。

「そのうち、枯死させるがな。蜜を割れた蜂蜜瓶のように垂れ流しながら」

 旧友へ贈るプレゼントは決めているのだとでも話すような調子で、師は呟いた。

「とろとろで美味しい蜜だといいですね」

「どんなやつでも蜜は美味い。やつの蜜ももちろん美味いだろうとも」

 師が腕を組んで大きく頷いた。

「そういうお前こそ、今回の蜜はどうだったのだ?」

「死に際の蜜はアカリノフミにだめってされましたが、それでも良いものがどくどく採れました」

「そうだろう、そうだろう。教えただろう、裏切りは極上の花だ」

 師は再び何度も頷くと、椅子が床をひっかく音を立てながら立ち上がった。

「信頼していた仲間の裏切りは様々な感情を掻き立てる」

 身振り手振りを加えながら、テーブルの周りを一周するように師は歩き出した。

「衝撃、怒り、悲しみ、苦しみ、困惑、戸惑い、ためらい、葛藤、恐怖、心配、不信、焦燥、殺意、怨恨、失望、憎悪」

 最後の言葉を言う頃にはルアラの後ろを通って元の師の席にたどり着き、ルアラに対して横向きに師は立ち止まった。

「そう、その全てが、我らの身体を潤す蜜だ」

 ゆっくりと味わうように師は言葉を口にした。

「裏切りは、多くの蜜をこぼす極上の花だ」

 師がルアラを振り返った。ろうそくから遠のいたことで、師のフードの奥の暗闇と紋章の光がさらに濃くなった。

「これが、我々が仕事を引き受けながら裏切りを働く意義だったな」

「ええ、存知ています」

 ルアラは頷いた。何度も説明されてはその度に嫌がることなく話を聞き、快く返事をしていた。

「何度も話しているのは私自身、理解しているが、何度も話したくなるのだ。許せ」

 興奮がひと段落したらしく、師は椅子に座りなおしながらぼやいた。

「許します」

「けっこう。では報告を兼ねた雑談はこれくらいにして、師弟らしく術の話に移ろうではないか」

 術の話の途中でも、また興奮して立ち上がってうろうろ歩くのだろうなと思いながら、ルアラは「お願いします」と礼をした。

 礼をしたルアラを見て師は一つ頷いた。

「ああ、そうそう」

 思い出したように師が言った。

「次の仕事だが、私とお前が共同でやることになるようだ」

 ルアラが師を見ると、師は闇に仄暗く浮かぶ紋章の奥で少し笑った気がした。

「私は楽しみだぞ、弟子よ」



「ジール、これは何?」

 石造りの遺跡の中はひんやりとしていて埃っぽい。使われなくなって久しい巨大な工場のようで、薄汚れて黒くなり植物に巻かれ覆われる内部の様を、高い天井の傍に並ぶガラスの割れた小窓から降り注ぐ光が露わにしている。植物に好き勝手されるがままになりながら沈黙し射し込む光に照らされた、もう動くことはないだろう機械群の有様は、哀愁を感じさせると同時に、天に守られながら穏やかに眠っているようにも見えた。

 こめかみから腰元まで生えている桃色の布地の平たい紐をひらひらと宙に泳がせている、人間でいうところの六歳くらいの大きさの桃色の目の少女が、茶髪をふわりと揺らしながら師に言った。少女が指で指しているのは、遺跡の中央にあるひと際大きい機械だった。

「これはな、制御装置だ。この機械が他の機械に指令を送る役目を負うことで、効率的にここを運営することができるのだ」

 白いひげをたくわえ白髪の老人の姿をとった師は胸を張って答えた。

「ふーん、ミルミルのお茶はいれられるの?」

「無理だ」

 師の言葉をあまり理解していないなと褐色の肌に暗い青色の髪の碧眼の青年の姿をとったルアラは二人の後ろで会話を聞きながら思った。

「動かせるの?」

「私にとっては手下に精霊を瓶に詰めさせて曲芸をさせるくらい簡単だがお前には到底無理だ」

 少女がはじけるようにからからと笑った。

「それ自分でやってないじゃん」

「もちろん手下がいなくてもできるぞ!」

 食いつくように師が言った。自分よりはるか年下の少女に、師がむきになっている。ルアラは面白いものを見る目で二人を見ていた。

「じゃあ動かしてよ。動いてるところみたい」

「今はだめだ」

 師が腕を組んで首を左右に振った。

「えー、やってよー」

 少女の桃色の紐がねだるようにゆらゆらと動いた。

「だめだ」

「やってよ」

「だめだ」

 がんとして首を横に振る師を見て、少女は膨れた。

「ジークなんてミルミルのお茶がいっぱい入った鍋で煮られちゃえばいいんだ」

「やれるものならやってみよ」

 挑発するように片方の眉を上げて少女を見下ろす師を見て、見かねたルアラが口を開いた。

「師よ、大人げないです」

「そうだそうだ!」

「お前は黙っておれ」

 師は少女に言い、師と少女はにらみ合った。

「それから師よ、お時間です」

 ルアラは二人のやりとりをもうしばらく見ていたい気分だったが、帰る時間になっていた。小窓から射し込む光は橙色を帯びていた。

「そうか、なら帰らねばな」

 師がにらむのをやめ、ルアラの顔を見ながら言った。

「お家に帰っておまんまを美味しい美味しいしましょう。機械にバイバイしてください、イリス」

 ルアラが少女に言うと、少女はぱっと笑顔になった。

「うん、バイバイする。帰ったら一緒に食べようね、レイリ!」

 イリスがルアラの偽名を口にしながら言った。


 ルアラと師がイリスの世話役としてイリスの元にやってきてから三年が経過していた。三年は人間にとっては長くても、ルアラたちにとっては短い。

「イリスはおねんねしましたか」

 イリスの部屋から疲れたような表情で出てきた師は、やれやれといった様子で頷いた。イリスに一緒に寝てほしいとごねられて師はしばらく添い寝をしていたが、ようやくイリスが寝て解放されたらしい。

「本を読み聞かせろだ、ミルミルの茶の逸話を話せだ、あれは何だ、これは何だ、ひげを引っ張らせろだ、自分の乗り物になれだ、知能ある生き物のガキはどうしてこうも面倒なのだ。ぐちゃぐちゃにかた結びされた数本の糸を手で丁寧にほどくかのように面倒ではないか」

 ルアラの前を歩き出した師がぼやいた。だが言葉に反して声音は苛立たし気な色を帯びておらず、むしろ自分よりも弱いものを見守るような穏やかな印象を、師の背を見ながら歩くルアラは受けた。

「いつものことですね」

「そうだ。いつものことだ。だからいつものように私は愚痴を言うぞ」

 それは本心からの愚痴ではないだろうとルアラは思ったが、特に指摘しなかった。自分の師がどういう人かわかっていたルアラは、いつもの愚痴を聞いていつものように快く黙っていた。

 ルアラと師に割り当てられた隣りあわせになっている部屋の前に着くと、師がルアラを振り返った。

「今日は私の部屋に寄っていけ。イリスが私に買わせたミルミルの茶が残っているからな。飲んでいってくれ」

 師の目が用事はそれ以外にあることをルアラに伝えていた。

「わかりました。美味しくごくごくします」

 ルアラは頷いて師の後に続いて師の部屋に入った。

 扉を閉めると、異質な空気が部屋の中央で吐き出されて瞬く間に室内に充満するように、師の力が部屋に満ちるのを肌に感じた。

「三年経っても監視はついたままというわけだ」

 ルアラに椅子に座るよう促すと、師は腰ほどの高さの棚に置かれた茶器を手に取った。

「そのせいで内密の話はこうして監視の目をごまかす小細工が必要なわけだが、先方がとるべき姿勢としては、まぁ、正解だな」

 棚に指で紋章を描くと、指でなぞった部分が青く燃えるように光り始めた。その上に茶器を置くと、水差しで水を注ぎ入れた。

「珍しいものを家に置いておくのなら、万が一のときのためのそれ相応の予防が必要だ。だが我々にとって少し心配なことは、蜜への影響」

 傍に置いてある丸い陶器の蓋をとると、中のミルミルの実をすりつぶした粉をさらさらと茶器に流し入れた。

「警戒されていると、裏切りによって花がこぼす蜜は少なく薄くなる」

 師は残念そうにため息を吐いた。まもなく、茶器の中の水が沸騰した音を立て始めた。

「警戒が解かれるまで、頭お花畑のお友達としてるんるんするのではないのですか」

「その予定だったが、残念ながらもう時間があまりないらしい」

 師が茶器の上で指をくるくると動かして、中身をかき混ぜながら言った。

「もうすぐ、ここは他勢力に襲撃される」

 二つの陶器の湯飲みに茶器の茶を注ぎ、師は椅子に座ったルアラの前に片方を置いた。自身もルアラの対面の席につくと、茶を少し口にしてテーブルの上に置いた。

「ここのミルミルの茶は美味いな。いい甘さだ」

 ルアラも両手で湯飲みを持って茶を口にした。

「うまうまです」

 ルアラは師の言葉に頷くと、ずずずと小さく音を立てながら茶をちびちびすすり始めた。

「明日から準備を始める。やってもらいたいことは」

 師がとんとテーブルを指で叩いた。師が指をどけると叩いた場所に黒いしみができ、それはとぐろを巻いていた蛇がとぐろをほどき獲物に向かって這っていくようにぬるりとテーブルの上を泳ぎ始めた。ルアラの傍まで来ると、ルアラは指をテーブルの上に置き、しみが指を這いあがって消えていくのを見ていた。

「わかったな?」

「はい」

 しみはしっかりと師が伝えたかった情報をルアラに伝えていた。

「よそ様の殴り込みについては、この家の主人に伝えないのですか」

「下手に我々への警戒を強められても困るし、教える義理もないから教えんよ」

 師は湯飲みの縁を片手で持つとぐびりと茶を飲んだ。師の飲み方を見てルアラは酒を飲んでいるような飲み方だと思った。

「そうおっしゃると思いました」

 静かに言いながらずびずびと茶をすすっているルアラを師は見つめた。師はこれから裏切る相手を憐れむ気持ちがルアラの中で湧き上がっていることに気づいていた。それはルアラや師という存在にとってない方が良い感情だったが、師は黙っていた。

「恨むなら、自らの運命を恨め」

 ルアラはぴたりと茶をすするのをやめ、顔をあげた。師と目が合った。師は鋭い目をしていた。しかし決して恐ろしい眼差しではなかった。

 ルアラはふっと笑みを浮かべた。

「私はこういう存在であることを恨めしく思ったことはありません。裏切りも、蜜をうまうまするためならちゃんとやります。それはあなたが一番良く知ってるかと思います、師よ」

「そうか」

 師の目が和らいだ。

「そうだな」

 師は立ち上がると、茶器を手に取った。

「もう一杯飲むか?」

 言われて初めて、ルアラは自分の湯飲みの中の茶がもうほとんどないことに気づいた。

「ください」

 白いミルミルの茶がルアラの湯飲みの暗い底に滝のようにまっすぐ落ちていった。



 枯れ葉が床に落ちてかさりと音を立て、イリスは目を覚ました。こめかみから伸びた桃色の紐がぶるぶると震えた。どうやらうつ伏せに寝かされているようだった。

 ぼんやりとした思考が徐々にはっきりとし始め、ここに寝かされるまでの記憶が一気に蘇えると、眠気は吹き飛んだ。体を動かすと、縄で胴体と両手両足を縛られていてあまり身動きがとれないことに気づき、頭が真っ白になった。

「父様」

 とっさに信頼している父を呼んだ。恐怖が静かに背筋を這いあがり、白紙の脳内を色付け始めた。不安で息が上がる。走り出したい気持ちは縄が縛り付けて叶わない。

 不意にイリスは世話役のジールの言葉を思い出した。

「ひじょうじはとりあえず深呼吸して落ち着く」

 呟くと、イリスは思い切り息を吸った。埃も吸ってしまいむせ返った。

「周りをよく見てじょうきょうかくにん」

 仰向けになって思い切り頭を振ると、地面に勢いよく頭をぶつけ「いったぁ」と声を上げた。

 しかしこの場所に見覚えがあることにイリスは気づいた。ジールとレイリとともに遊びに来た遺跡の一室だった。この部屋にも入った記憶がある。

 遺跡に遊びに来た日から数日後の夜、イリスが寝ようとしていたところで、屋敷に突然知らない男たちが押し入り、イリスはその男たちに捕まったのだが、どうやら彼らはイリスを連れて遺跡に逃げ込んだらしい。

 イリスは男たちの襲撃に応戦していたジールとレイリの姿を思い浮かべた。二人は無事だろうか。屋敷の者たちは無事だろうか。父は無事だろうか。漠然とした不安感がイリスの心を包んだ。

「イリス」

 聞き覚えのある声が響き、イリスは身をよじって部屋の入口に目を向けた。

「レイリ!」

 褐色の肌に碧眼の世話役が立っていた。彼のいつもの何を考えているかわからない顔に、心なしか安堵の色がにじんでいる。イリスも温かい安心感が湧き上がって不安を打ち消していくとともに、体の力が抜けていくのを感じた。

「レイリ……怖いよ……怖い……」

 レイリがイリスの傍に駆け寄った。

「大丈夫です。私が来たので。今縄をじょきじょきしますね」

 人差し指と中指を揃えてぴんと伸ばすと、イリスを縛る縄をナイフで切るように縦に動かした。縄はレイリの指の動きに合わせて切り落とされた。

 すべての縄を切り終わると、レイリはイリスに手を差し出した。

「立てますか」

 イリスはこくりと頷き、レイリの手を取って立ち上がった。

「行きましょう」

 レイリに手を引かれてイリスは部屋を出た。

「ねぇ、ジークは? 父様は?」

 薄汚れそこかしこに植物が顔を出している遺跡内を、レイリと手をつないで歩きながら、イリスはレイリの顔を覗き込んで言った。

「師については心配いりません。私の師ですから。お父上については、すみませんが無傷かどうかはわかりません」

 レイリはイリスの目を見ることなく答えた。

 イリスはうつむいて「そっか」とつぶやいた。桃色の紐が不安げにぷるぷると震えた。

 入り組んだ遺跡内をレイリは迷うことなくずんずんと進んでいった。ところどころ、ほとんど何も見えないような暗い場所があっても、まるで見えているかのように困ることなく進んでいる。

 ある角を曲がったとき、イリスは「あ」と声を漏らした。人が倒れていた。通路の脇に男がうつ伏せになって倒れている。

「人が」

「気にしないで」

 立ち止まろうとしたイリスを引きずるように、レイリはそばを通り過ぎた。

「でも」

「あれはあなたを連れ去って痛い痛いしたやつらの一人です」

「そうだとしたら、なおさら縄で縛っておいたりした方が」

「あれはおねんねしています。もう二度と起きることはありません」

 レイリは前を向いたまま淡々と答えた。イリスは背筋にひやりとするものを感じた。いつもの、今はミルミルの茶を切らしているから今日は飲めないと伝えてくるときと全く同じ調子で話すレイリが、少し不気味に見えた。

 手を引かれて歩きながらイリスは黙った。

 それから同じように倒れている人を見かけても、イリスは何も言わなかった。レイリも目を向けることなくただ黙って通り過ぎていた。ときどき、イリスはレイリに目をつむって歩かされた。そのときだけ、強い血の臭いが鼻をついたため、どんな光景が広がっていたのか容易に想像がついた。

「ねぇ、レイリ」

 右に曲がる廊下の突き当たりが見えたところで、沈黙をイリスが破った。

「あの人たちは、誰が寝かせたの?」

 不意にレイリが立ち止まり、「イリス」と声をかけながらイリスの手を引いて自分の背後に隠そうとした。「え」と声を漏らしながらイリスはレイリに従ったが、少し遅かった。

 卵を壁に投げつけて割るような音とともに、右に続く廊下から人が飛んできてイリスたちの目の前で左の壁に叩きつけられた。

赤い血が壁を染め、胸に突き立った人間大ほどの大きさの黒い槍が人を壁に縫い付けた。人は重力に負けてだらりと腕と頭を垂らした。槍に支えられ、体どころか足が地面につくことはない。

 一連の出来事を目撃したイリスは息をのんで固まった。急いでレイリはイリスの前に立って視線を遮ると、心配そうにイリスの顔を覗き込んだ。イリスは震えながらレイリの目を見た。震える唇を開いた。

「今、の」

 続きを言わさずにレイリはイリスを包み込むように抱きしめた。イリスは再び息をのんだ。

「忘れてください。嫌なの嫌なの飛んでけー」

 レイリの精一杯の気遣いを身に受けて、イリスはレイリの服をぎゅっと握りしめ顔をレイリに押し付けた。

 レイリの背後で、壁に縫い付けられた人がだらりと垂らし、痙攣してぴくぴくと震える腕と頭を血が伝い、床に落ちた。湧き水があふれるように、とめどなく流れ落ちる赤い水は、獲物の様子を確認しに来た槍を放った人物によって踏みつけられた。

「イリスは無事か」

「はい、師よ」

 レイリは振り返らずに答えた。ジールが無造作に片手で槍を抜くと、すぐに槍は黒い靄となって消え、犠牲者は床に崩れ落ちた。

「これでおそらく最後だ」

 レイリは黙ってイリスを抱きしめ続けた。

「行くぞ」

 イリスを抱き上げて犠牲者が見えないよう胸にイリスの頭を押し付けながら、レイリはジールを振り返った。

「ジール?」

 イリスはレイリの腕の中で、声を震わせながら呼んだ。

「何だ、イリス」

 ジールはレイリとともに歩き出しながら答えた。

「大丈夫なの?」

「私のことなら露ほども心配する必要はないぞ」

「さっきの人は」

「やつには花を持たせ闇のかいなと食事をさせた」

「どういうこと」

「殺したということだ」

 ジールは淡々と返答した。イリスは黙った。自分の知らないジールの姿を見ている気がした。イリスは震えながらレイリの服をぎゅっと掴んだ。こめかみの紐がすがるようにレイリの腕に巻き付いた。

 出入口がある機械の少ない大きなホールに出ると、ジールは立ち止まってふうと息を吐いた。

「さて、帰るぞ、ルアラ」

「はい」

 イリスにはルアラという名前に聞き覚えがなかったが、レイリが返事をした。ジールとイリスを抱えたレイリは、出入口に向かって歩き出した。

「ジール」

「何だ」

「ルアラじゃなくてレイリじゃないの」

 イリスは前を歩くジールの背中を見ながら言った。

「いや、ルアラであっている」 

 ジールはイリスを肩越しに振り返った。

「レイリは仮の名だ」

 ジールは微笑を浮かべて言った。

「え」

 いくつもの直線が彫り込まれた入口のアーチをくぐって三人は外に出た。広がる闇夜に月が青白い光を注ぎ、遺跡の周りに広がる森に冷たい静けさが横たわっていた。

 困惑したイリスは一瞬、追及しないべきか迷ったが口を開いた。

「どういうこと」

「お前を欲しがっているやつは他にもいるということだ」

 ジールは立ち止まるとイリスの顔を覗き込んだ。ジールはイリスが今まで見たことのない顔をしていた。これからする悪いことに対するイリスの反応が楽しみでしょうがないとでも言いたげな、どこか背筋が冷たくなるようないたずらっぽさのある微笑を浮かべていた。

「ジー……ル」

 声が震えた。イリスは初めてジールに恐怖した。自分を抱きかかえるレイリを見上げると、レイリは無表情でジールを見ていた。イリスの視線に気づくとイリスを見下ろした。その目はいつもの優しいレイリの目だった。イリスは混乱した。この二人が何者なのかわからなくなってしまった。

 困惑した表情でレイリとジールの顔を交互に見ていると、不意にジールが険しい顔をして背後を振り返った。

「彼女を放せ」

 木々が光りを受けて落とす影から、男の声が響いた。

「そうすれば、今回は溶かすのをやめてやろう」

 ジールが「はっ」と短く笑った。

「ここから立ち去れ」

 男が影から足を出してジールたちと地面を照らす月光を踏みしめた。

「そうすれば、闇のかいなに引き渡すのを先送りにしてやろう」

 男が月光の下に現れた。

「アカリノフミ」

 ジールは男をそう呼んだ。

「シテュエリ」

 月光の下に現れた、独特の服装をした筋骨隆々の偉丈夫はジールをそう呼んだ。

 アカリノフミの言葉を合図に、白いローブを着た人々が次々と木陰から姿を現した。彼らは全員瓜二つの顔をしており、その同じような綺麗な顔立ちがずらりと並ぶさまは、イリスの目に無機質な機械群として映った。


「もしや、我々への監視が外れなかったのはお前のせいか」

 シテュエリが眼光鋭くアカリノフミに言った。

「そうだな。ずいぶん前にお前たちがそこで勤めているのに気づいて、屋敷の主に解雇するよう勧めていたが、その子の父親がとった選択は俺を安全弁として傍に置いておくことだった」

 アカリノフミはやれやれとでも言いたげに両腕を左右に広げた。

「偽名を使っていても、お前たちが誠実に屋敷で働いていれば、何もせずに放っておくつもりだったんだがな。残念だ」

「おや、誘拐されたイリスをこうして助け出したじゃないか」

「助け出して逆にお前たちが連れ去ろうとしたんだろう。ごまかすな」

 言いながら、アカリノフミは剣を抜いた。

「まぁ、お前を仕留める機会を得られたのだ。ごまかす必要もないな」

 シテュエリが勢いよく右腕を横に伸ばすと、黒い靄とともに先ほど人の胸を貫いた黒い長槍が、シテュエリの手の中に現れた。

「突っ切るぞ、ルアラ」

「はい」

 シテュエリの紺色のローブの裾が黒く放射状に地面に広がり始め、シテュエリとルアラの影をすっぽり飲み込み地面に巨大な黒い円を作った。円に沸騰したお湯のように小さな隆起がたくさん起こり、できた丘を突き破るようにいくつもの黒い何かが姿を現した。その容姿は白いローブの人々と違い千差万別だったが、共通しているのは各々が何かしらの武器を持っていることだった。恐ろしくもそれぞれの個性を感じるその暴力的な集団は、イリスの目には怪物と亡霊の百鬼夜行として映った。

 ルアラの腕の中でイリスは困惑して、ルアラとシテュエリとアカリノフミを交互に見ていた。ルアラとシテュエリを信じたい気持ちも残っていたし、面識のないアカリノフミが自分を助けに来たということに実感がわかず、どう行動したら良いのかわからなかった。

「イリス」

 ルアラが小声で言った。イリスはすぐにルアラの顔を見上げた。

「我々は、あなたが怖い怖いしたり不安になるとどうしても身体が喜んでしまう存在です」

 ルアラはイリスの目をまっすぐ見て言った。

「師はあなたの絶望や恐怖をあんな風に煽っていましたが、あなたが攫われたときに、自分の正体がばれる恐れをかなぐり捨ててまで敵を蹴散らしてここにぴょんと飛んで来ました。あれはあなたを横取りされることを怖い怖いしたのではないです。あなたが心配だったんです」

 イリスは目を丸くした。ルアラの目と言葉には、イリスが初めて見る力強さが宿っていた。

 シテュエリがフードを被った。ルアラもそれに倣った。フードの奥の闇が深く濃くなり、顔と首が包まれた。服の下から湧き出るように深い闇が顔をを出し、腕や足の肌と肉と骨と取って代わった。それに加えて、シテュエリのフードの奥からぼんやりとした青白い十字の紋章が浮かび上がった。

「れ、レイリ?」

 突然真っ暗になってしまったルアラを見て、イリスは驚いて泣きそうになりながら声を上げた。自分を抱える闇の腕は、自分がよく知るルアラの熱を失っていた。

 ルアラがぎゅっとイリスを抱きしめ、イリスはルアラの胸に顔を押し付けられた。ぎこちなくイリスを抱きしめる仕草は、イリスのよく知るルアラのそれだった。温かい安心感がイリスの心に顔を出した。こめかみの桃色の紐がぴたりとルアラにくっついた。

「ルアラ」

 シテュエリが長槍の石突を地面に打ち付けながら叫んだ。

 ルアラと百鬼夜行が一斉に地を蹴った。駆ける百鬼夜行の轟きが地を揺らし、ほどなくして各々の得物が白いローブの人々の得物と火花を散らした。一部の怪物たちの得物の攻撃は、白いローブの人々が避けたために宙を切り、地を揺らしながら地面に敷かれた石をえぐった。

 ルアラは森に飛び込んだ。目を光らせた白いローブの二人が木々を縫うようにルアラに迫った。無表情のまま目を見開き、手がすっぽりと包まれて見えないほどの長い袖の先に光る銀色のナイフを無造作に振るった。

 左から来た白ローブはルアラの頭部、右から来た白ローブはルアラの足を狙っていることが、ルアラは一目でわかった。腕の中のイリスに配慮しているのだろう。ルアラは右腕でイリスを抱えると、左手のひらから短槍の矛先を出した。跳んで右の白ローブの攻撃を避けると、迫りくる左の白ローブの刃を腕ごと切り落とした。血は出ず、機械のような中身をさらしながら腕は地面に落ちた。

 切り落とした腕が地面に落ちるのと同時にルアラは着地し、間髪入れずに走り出した。

「どこに行くつもりだ」

 目の前の木陰から、アカリノフミが剣から火を噴かせながら、ルアラの歩みを遮るように足を踏み出した。

 背後から二人の白ローブが迫っているのがわかった。だが構うことなく左手のひらから出した矛先をアカリノフミに振るった。アカリノフミは剣でルアラの切っ先を受け止めた。炎に包まれた刃と短槍の矛先が激突し、一層激しく燃え上がった炎が矛先を包み込んだ。

 つば競り合いに移行することはなかった。乾いた音をさせてルアラの短槍の矛先が根元から真っ二つに折れた。力を込めて短槍の矛先を受け止めていたアカリノフミは、目を見開いて体勢を崩した。

 それとほぼ同時に、後ろに迫る二人の白ローブの胴をまっすぐ飛んできた黒い長槍が射貫き、二人を串刺しにして木片を散らしながら傍の木に縫い付けた。

 短槍の矛先が宙を舞い、後ろを振り返ることなくルアラはその下を駆け抜けた。横を通り抜けられたアカリノフミは、体勢を崩した状態から体をひねり、先を行くルアラに剣を投げた。しかし剣はルアラに届かなかった。短槍の矛先が芯から闇がにじみ出るように闇に包まれると、爆弾のように中から弾けていくつもの黒い針金となってアカリノフミと剣に降り注ぎ、剣を叩き落しアカリノフミの四肢を貫いて動きを止めた。


 ルアラを止めようと飛び出してきた白ローブを追ってきた怪物が殴り飛ばしているのを見ながら、アカリノフミは「ふん」と息を吐いて体に力を込めた。四肢を貫いた黒い針金が傷口から漏れ出した白い光に呑まれ、蛇に飲み込まれる獲物ように瞬く間に消えていった。

 剣を拾ったアカリノフミはルアラを追って走り出した。

「こら、動くんじゃない」

 上から跳んできたシテュエリが長槍をアカリノフミの上に振り下ろし、アカリノフミはそれを刃で受け止めて立ち止まった。衝撃で火花が散り、剣が纏う炎はゆらりと揺れた。

「あの子とお前の弟子を行かせるわけにはいかないのでな」

「それならなおさら動くんじゃない」

 つば競り合いに持ち込みながら、シテュエリは気心知れた友人に駄々をこねるように言った。

「動くのは、私の闇に溶けそうになって苦しむときだけにしろ」

「そうか。悪いがそんな日は来そうにないな」

 アカリノフミの腕の筋肉が盛り上がり、シテュエリの槍を弾き返した。よろめくシテュエリの隙をついてアカリノフミは地に剣を突き刺した。土をまき散らしながら地中から金属の巨大な手が三本姿を現し、重なり合うようにシテュエリを地面に押しつぶした。

 シテュエリが金属の巨大な手の下敷きになって見えなくなったのを横目で確認し、アカリノフミは剣を抜くとルアラを追って駆け出した。

「どこに行くつもりだ」

 アカリノフミの目の前の地面に落ちていた木々の影の闇が濃くなり、墨の中から黒い四角い箱を引っ張りだすように闇から木々ほどの高さがある大きな黒い壁が現れた。アカリノフミがその場に立ち止まり振り返ると、金属の手の下から黒い蒸気が噴き出し、金属の手の上でそれが集まって人の形を作った。蒸気が霧散して中からシテュエリが現れた。いつの間にか、三本の金属の手は黒い針金で地面に縫い付けられていた。

「フミの遊び相手は私だぞ」

 ルアラに追いつけないことを悟ってアカリノフミはため息を吐いた。

「私に邪魔されて今どんな気分だ? 悔しいか? もっと悔しがれ。蜜を流せ。お前から得る蜜は実に気分がいいからな」

「残念だがお前にくれてやる蜜は一滴たりともない」

 アカリノフミは剣を大きく振った。

「これからお前は俺の前に跪くことになる」

「ずいぶんとまあ屈辱的な話だな。私はそんなことしないからな」

「膝をつかざるを得ないのさ」

 その言葉の直後、地面に光が走った。地面に光り輝く文字が次々と浮かび上がり、シテュエリの背後から光の波となって押し寄せてきた。シテュエリとアカリノフミの下を通り抜けると、森全体に広がるように木々の下を駆け抜けていった。

 シテュエリは地面に光る文字を一目見て、アカリノフミが何をしようとしているのか理解した。

「フミ、お前」

 白ローブと交戦していた怪物が次々と動きを止めた。何が起きているのかわかっているのか、同じように動きを止めて怪物を見つめる白ローブの前で、百鬼夜行は足元の影が這い上がるように足から黒く染まり闇に包まれ、黒い霧が風に吹かれて晴れるように消えていった。

 シテュエリは膝からその場に崩れ落ちた。身体の力が抜け、地面に刻まれた光る文字に押し付けられているような圧迫感が、シテュエリに膝をつかせた。森に広がった光る文字は、シテュエリとルアラの力を奪い拘束するための大掛かりな呪文だった。ここまでの大規模な呪文を罠のように設置して起動させるには、人手や時間が大量に必要で、即席の呪文ではないことはシテュエリの目には明らかだった。

「いつから」

 地面に四つん這いになりながらも、うつ伏せにはなるまいと抵抗して身体を支える腕が震えた。黒い腕を構成する闇が、風に吹かれたろうそくの火のようにざわざわと揺らめきうごめいた。

「言っただろう、ずいぶん前から気づいていたと。対策一つせずにただお前が動き出すのを待っていたとでも思っていたか、裏切りの親蜜蜂よ」

「……屋敷の術師か」

 アカリノフミはひれ伏すシテュエリに向かって歩きだした。

「ああ、彼らに協力してもらってこの術を起動させている。お前も知っての通り、あそこにはそれなりの数がいるからな。お前らがあの子を助けるために屋敷からいなくなったのを確認してから、万が一のために集まってもらっていた」

 シテュエリの前で立ち止まると、しゃがんで地から目を離せないでいるシテュエリの頭を見下ろした。

「それが功を奏したというわけだ」

 シテュエリの脳裏にルアラの姿がよぎった。

「お前の弟子はどうもこの術の効果範囲から抜けちまったらしい」

 アカリノフミの言葉にシテュエリは胸をなでおろしたが、アカリノフミは「安心するのはまだ早いぞ」と釘を刺した。

「奴はお前を助けに戻ってくるだろう。つまり今日がお前の命日であり、お前たち一門の最後の日だ」

 ミルミルの茶の安売りは今日までだとでも言うような口調で、淡々とアカリノフミは告げた。

 シテュエリは少しの間黙っていたが、やがてふんと鼻を鳴らした。

「まず、お前は私を容易く消せる水泡のような存在だとでも思っているようだが、事実は否だ。灯りに溶かせるものなら溶かしてみろ。私の闇は金剛のように頑としていて簡単な光では払えないぞ。それからもう一つ」

 アカリノフミの顔をにらみつけるつもりで、目の前の地面に刻まれた光る文字を穴が開くほど見つめた。

「お前は我が弟子を何だと思っている。貴様が裏切りの親蜜蜂と呼ぶこの私の弟子だぞ。裏切りは極上の花と教えた私の弟子だ。奴は私を裏切る。ここには戻ってこない。残念だったなぁ、フミよ!」

 誇らしげに力強くシテュエリは叫んだ。アカリノフミは鼻で笑うと、立ち上がり剣をフード越しにシテュエリのうなじに当てた。剣が一層激しく燃え上がり、紺色のフードを焦がした。

「一つ、延々と存在し続けるお前たちを灯りに溶かすのが容易でないことくらいは、俺もわかっている。だがそんなお前たちという存在を終わらせるのが俺の役目だということは、お前もよく知っているだろう、シテュエリよ。二つ、お前の弟子が助けに来なかったとしても、それはそれでまた探しに行けばいいだけの話だ」

 アカリノフミが剣を振り上げた。月と地面の文字が発する光に負けず劣らず、アカリノフミの剣は灯台の光のような強い光を放つ炎を燃え上がらせた。

「とはいえ、お前の弟子は戻ってくるぞ。俺はお前たち師弟の関係をよく知っている」

 シテュエリに反論させる前に、アカリノフミは剣を振り下ろした。炎をまとった刃がシテュエリのローブを引き裂き首の闇を両断した。


 ルアラは森の中で異変に気付いて立ち止まった。

「レイリ?」

 ルアラの腕の中でイリスが不安げにルアラを見上げた。

 ルアラはしばらく黙ってイリスの顔を見ていたが、ローブの裾から放射状に闇を広げると、四足歩行の小さな怪物をいくつか呼び出した。呼び出された怪物たちはそれまでルアラが来た道を引き返して走りだし、木々の間に消えていった。

「今のは?」

「偵察です」

 近くの倒木の上にイリスを座らせると、ルアラはしゃがんでイリスに目線を合わせた。木が倒れたために枝葉の影がここにはなく、月光がより強く二人の上に注いでいた。眩い月光はルアラのフードの奥の暗闇を照らさなかった。

「イリス、私が怖いですか」

 イリスは首を横に振った。

「あなたのお父さんは好きですか」

 イリスは頷いた。

「我々はこれからあなたを、あなたがこれっぽっちも知らない人に引き渡してバイバイするつもりです」

 イリスの顔が凍りつき、さぁっと血の気が引いた。

「イリス、私が怖いですか」

 イリスは黙ってうつむいた。しばらくそうしていた。ルアラはイリスの感情の動きを探りながら黙って返答を待った。

 やがて肩を震わせながら、イリスは顔を上げて、今にも泣き出しそうな表情でルアラの暗いフードの奥を見た。

「もう、父様に会えない?」

「恐らく会えないでしょう」

 イリスがぼろぼろと涙をこぼし始めた。

「やだ。そんなのやだよ、レイリ」

 悲しみ、苦しみ、絶望、失望、恐怖、そういったイリスの感情がルアラの身体を潤していった。いつまでも浸っていたくなるような、甘美な蜜が身体の隅から隅まで流れた。とろけるように甘く美味い。頭が心地よくじんじんと痺れる。その一方で、胸の奥がぎゅうと縛り付けられるような苦しさを感じた。

「私が怖いですか」

 嗚咽を漏らしながら、イリスは小さくうなずいた。それを見たルアラがイリスに手を伸ばし、イリスはびくりと震えた。

「いいこいいこ」

 わしわしとイリスの頭を撫でるルアラは、いつもの優しいルアラだった。イリスは困惑して涙を流し嗚咽を漏らしながらルアラの腕を見つめた。

「どんなにいいこなイリスであっても、私はあなたを知らない人に売買しちゃいます」

 イリスの顔がこわばった。

「でも、そうですね」

 ルアラはイリスの頭を撫でるのをやめて立ち上がり、放った偵察が消えた木々の方を振り返った。

「イリスにチャンスはどうぞできそうです」


 アカリノフミはシテュエリを捕らえてから、しばらくルアラが戻ってくることを期待して光の文字の術を維持していたが、やがて解除した。シテュエリを動けなくできるほど強力な術だが、行使している屋敷の術師たちへの負担も大きく、長時間続けられるものではなかった。ルアラは光の文字の術なしで捕らえなければならない。とはいえ、ルアラはシテュエリの弟子だけあり圧倒的に力量の点で劣る。

 遺跡の中央にあるかつて制御装置だった機械の前で、シテュエリは両腕を横に広げさせられた状態で吊るされていた。シテュエリをがんじがらめに縛っているのは淡く黄色く光る鎖であり、これがシテュエリの身体の闇を削っていた。シテュエリの身体は頭部だけが切断されてなくなっており、首の断面から見える闇がぞわぞわとうごめいていた。頭部を包んでいたローブのフードがシテュエリの前に打ち捨てられ、天井近くに並ぶ小窓から射し込む月の光がフードを寂しげに照らしていた。

 アカリノフミはシテュエリの前で腕を組み仁王立ちしてその様子を見ていた。宿敵を捕まえられたことへの感慨などは湧かなかった。何か勝利の感情が掻き立てられるとしたら、それはシテュエリを完全に葬ったときだと理解していた。シテュエリを追い詰めたことは何度かあったが、そのたびに逃げられていた。油断はできない。

 何よりも、ルアラの動向が気がかりだった。シテュエリ自身は否定していたが、アカリノフミはルアラがシテュエリを助けに戻ってくることを確信していた。ルアラはシテュエリよりは弱いがその分小賢しく立ち回り、また決して容易くあしらえる存在ではない。イリスについては、シテュエリとともに連れ帰るまで特に危害などは加えず、どこかに隠しておくだろうとアカリノフミは予想して、白ローブに探させていた。

 白ローブがアカリノフミとシテュエリのいる部屋に入ってくる気配を感じ、アカリノフミは肩越しに振り返った。白ローブの一体が小走りに近づいてきていた。

 彼らの言葉で情報を耳打ちされたアカリノフミは驚愕して目を見開いた。

「ここは頼む」

 情報を伝えに来た白ローブにその場を任せ、アカリノフミは走り出した。

 遺跡を飛び出し、遺跡を出た先で待っていた白ローブに案内されて、森の中を駆けた。枝葉が月光を遮って落とされたまだら模様の影の中を進み、木々の間を縫うように進んだ先に、彼女が倒れていた。

「助けて」

 イリスだった。イリスは泣きながら、助けを求めるようにアカリノフミにうなじから伸びた桃色の紐を伸ばした。イリスの両手両足は黒い紐で縛られており、胴体には黒く四角い箱が取り付けられていた。箱からはいくつもの紫色の細い管が伸びてイリスの身体に巻き付いていた。黒い箱には淡く白い光で数字が浮かび上がっており、それは刻一刻と変化していた。

 アカリノフミは一目で箱は時限爆弾であり、爆弾を解除しない限り箱は取り外せないことに気づいた。

 時間が来たら本気でイリスを殺すつもりだったことがうかがえる箱の作りにアカリノフミは舌打ちをした。白ローブにルアラへの警戒を強化するよう告げ、爆弾を解除するために箱をつかんだ。


 シテュエリの監視を任された白ローブは瞬き一つせずにじっと吊るされたシテュエリを見つめていた。表情には出さなかったが、なんとなく発見されたイリスのことが気にかかっていた。アカリノフミが向かったからには何とかなるだろうという確信はあった。しかし守るよう依頼された幼い命が危機に瀕しているとなれば、どうしても気になってしまった。幼い存在と一緒に遊んだことがあったが、幼い存在というのは不思議な存在で、接していて興味深かった。イリスとも遊んでみたいとこの白ローブは思っていた。

 もちろん、襲撃に備えて周囲を警戒していた。しかし気づけなかった。

 背後から飛んできた黒い短槍が白ローブの胸をまっすぐ貫いた。白ローブの内部の機構を構成する金属の部品が飛び散り、床に乾いた音を立てて落ちた。

 ぐらりとよろめきつつもどうにか両足で踏ん張り、ローブの袖からナイフを出しながら、ぎこちない動作で白ローブは背後を振り返ったが、ルアラはもうすぐそこにいた。

 ルアラは白ローブの背中に回した左手で短槍を引き抜きながら、右手に持った黒い大ぶりなナイフで白ローブの首を一閃した。

 金属の部品を飛び散らせながら、白ローブの頭が重い音を立てて傍に転がっていき、身体はガラクタの人形のように崩れ落ちた。

「後でアカリノフミに痛いの痛いの飛んでけしてくっつけてもらってください」

 聞いていないであろう白ローブに呟くと、ルアラは制御装置の方に近づき、落ちていたシテュエリのフードを拾った。

 ナイフを左手のひらにしまい、フードを持ちながら短槍を両手で持った。三度深呼吸をし、短槍に意識を集中させた。ぶつぶつと力を持った文句を唱えながら短槍を握りしめていると、短槍の闇が濃くなり、水面に藻屑が浮かび上がるように文字が槍の表面に浮かび上がってきた。その状態で短槍を構え、慎重にシテュエリをつなぐ鎖の一本に狙いを定めると、放った。

 槍は吸い込まれるように鎖に突き刺さった。槍が鎖に接触した瞬間、鎖は槍を拒むように眩い光を放ち、槍もまたそれに負けまいとして槍の表面に浮かぶ文字がより濃くなった。槍を弾こうとする鎖と鎖を断とうとする槍の力は拮抗し、火花を散らしながら槍は滞空した。ルアラは文句を唱えながら槍に力を集中させ続けた。

 少しの間の力の拮抗の末に、鎖が断たれた。役目を終えた短槍は音を立てて床に落ち、鎖もまた光を失い硬い音を立てて床に落ちた。

 ルアラは一つ息を吐き、短槍を拾うとまた同じことをシテュエリをつなぐ別の鎖に行った。かなりの労力を必要とする作業のため、鎖を切っている間にアカリノフミや他の白ローブが戻ってくればなすすべがないが、自分を守る怪物を呼び出すほどの力の余裕もなかった。それほど力を消耗する地道な作業だった。シテュエリであればより華麗に簡単に手早く鎖を切ることができたかもしれないが、未熟なルアラにはこれが精一杯だった。

 幸いにも、全ての鎖を切り落とすまでの間、誰かが見に来ることはなかった。

 全ての鎖が切られて支えを失った師の身体を、ルアラは駆け寄って受け止めた。鎖に身体の闇を削られて、シテュエリの身体は一回り小さくなっていた。

 シテュエリの身体をその場に寝かせると、切り裂かれたローブのフードを元の場所に置き、ローブの布とフードの布の間をルアラの黒い指でなぞった。ローブとフードは自らにぴったり合うパズルのピースを見つけたかのように吸いつき、切り落とされていたのが嘘のように布と布がくっついて元通りになった。

 フードが元に戻ると、新たな遊び場を見つけて駆け込む子どもの集団のように首の断面でうごめいていた闇がフードの中に流れ込んだ。

 ルアラは短槍を拾って左手のひらにしまうと、一回り小さくなってもまだ自分より身体の大きいシテュエリを背負った。部屋を出るために歩き出しながら、身体が小さくなったせいでローブの袖から半分隠れているシテュエリの手を見て、ルアラは「ちっちゃくなりましたね、師よ」とつぶやいた。

 ルアラの言葉に反応するように、シテュエリがぴくりと動いた。フードの奥の暗闇から、シテュエリの十字の紋章が白く浮かび上がった。

「……ルアラ」

「起きましたか、師よ」

 シテュエリはまだ意識がぼんやりとしているらしく、少しの間黙った。ルアラは部屋の外の様子をうかがいながら足を踏み出した。

「ルアラ、何故戻ってきた」

 ルアラは白ローブやアカリノフミを警戒しながらそろそろと遺跡の通路を進んだ。

「お前らしくないぞ。裏切りは極上の花だとよく理解している私の弟子だろう。私を裏切って見せなさい」

 覇気のない声音でシテュエリは言った。

 ルアラは疲労でふらふらとよろめきながら少しの間歩いていたが、やがて走り出した。シテュエリの元に来るときに壊した白ローブの身体の横をいくつも走り抜けながら、ルアラが助けに来たことに気づいたアカリノフミが増援を寄こさないことを祈っていた。

「ルアラ」

「イリスがアカリノフミを引き付けてくれています。早くここから出ましょう」

「ルアラ、一人で逃げなさい」

 シテュエリの声は静かだった。怒気をはらんでいる様子もなかった。諭そうとしているような口調だった。

「それはしません、師よ」

 ルアラは走りながら答えた。

「忘れたか。裏切りは極上の花だ。何故私を裏切ってみせない」

 ルアラが黙っていると、シテュエリはルアラの背中の上でもぞもぞと抵抗を始めた。

「ルアラ」

 抵抗するシテュエリを無理やり背負い続けながらルアラは遺跡の通路を駆け抜けた。

「降ろせルアラ。ルアラ!」

「あなたは私に裏切れと言うが、そう言うあなたこそ私を裏切ったことは一度もない」

 シテュエリはぴたりと動きを止めた。

「我々は蜜を得るために裏切りを働きます。逆に言えば、蜜が得られない裏切りにはお茶にも食べ物にもならないミルミルの実のように価値がない」

 シテュエリは黙って聞いていた。

「あなたは気づいていたんでしょう、私を裏切ったとしても美味しい美味しい蜜は得られないことを。私はあなたに裏切られたところで悲しくも悔しくも辛くも憎くもない。むしろ私を裏切ることであなたに良いことがあるなら、裏切られても構わない」

 身じろぎ一つしないシテュエリの身体の闇を背中で感じながら、ルアラは「同じことです」と続けた。

「あなたを裏切ったところで一滴も蜜は得られない。私が助けに来たのに一人で行けなんて言っているのが良い証拠です」

 ルアラはふうとため息を吐いた。

「とはいえ、あなたが蜜を流すか流さないか以前に、あなたが困っていれば私は手を出します。穴に落ちれば引き上げます。吊るされていれば下ろします。あなたは蜜を流す花どころか、私にとってはつぼみですらないんです。わかりましたか、師よ」

 シテュエリは黙っていた。抵抗する気力はすっかり失われていた。やがてシテュエリもため息を吐いた。

「困った弟子だ」

「もっと困ってくだされば蜜がちょろちょろ出るかもしれません」

「殴るぞ」

 シテュエリを背負ったルアラは出口を目指して遺跡を進んでいった。


 遺跡の出入口のある大きなホールに飛び込んで、ルアラは初めて立ち止まった。出入口にずらりと多数の白ローブが並んでいた。全く同じ体格、顔つきの鉄面皮の彼らの中で、唯一険しい顔をして真ん中に立っていたのが、彼の一族の衣装であるスリットの入った独特の短いスカートを穿いた筋骨隆々の偉丈夫だった。

「待っていてくれたんですか」

「そうだ、外道」

 アカリノフミはルアラをにらみつけた。

「もう少し道徳心のあるやつだと思っていたんだがな」

「イリスのことなら、あなたの力を信頼していたからああいうことができたんです。ちゃんと解いてあげたんでしょう」

「当たり前だ」

 吐き捨てるアカリノフミの顔を見ながら、ルアラは少し困った。これだけの数の白ローブに加えてアカリノフミという壁を正面から突破するのは難しい。

「我が弟子に何か文句があるのなら私に言え、フミよ。私の弟子だぞ」

 シテュエリがルアラの背中から顔を出して不満げに言った。

「その弟子に赤子のようにおぶられているのは誰だ」

「その赤子にみすみす逃げられたのは誰だ」

「遺跡から出していないのだから逃がしたとは言えない」

「認識の相違だな、鎖が外れた時点で逃がしたと言える」

 アカリノフミとシテュエリは口を閉じて見つめ合った。少しの間、沈黙がその場に流れた。

「どちらにしろ、お前を鎖に繋ぎなおせば良いだけの話だ」

 アカリノフミが沈黙を破りながら剣を抜いた。

「弟子も一緒にな」

「そう簡単にいくと思うなよ、フミ」

 シテュエリは鼻で笑いながら言ったが、ルアラには強がっているようにしか聞こえなかった。

「ルアラ、私が繋がれていた部屋に戻れ」

 シテュエリがルアラに小声で言った。シテュエリにはこの状況を打破するための策があることを悟り、ルアラは迷わずシテュエリを信じて頷いた。

 アカリノフミが剣を振るった。刀身が火に包まれ、赤々と燃え上がった。さっきよりも疲労が少しとれたルアラも残っていた力を振り絞り、ローブの裾から扇型の影を広げ、二体の怪物を呼び出した。

「灯りに溶ける覚悟はできているか?」

 アカリノフミが剣を顔の横で構えながら言った。

「灯りを闇のあぎとで噛み砕き飲み込む覚悟ならできているぞ、フミよ」

 シテュエリの言葉を聞いたアカリノフミは一瞬微笑を浮かべて消し、地を蹴った。それと同時に二体の怪物のうち一体を連れてルアラも走り出した。アカリノフミの動きを合図に白ローブたちも一斉に動き出した。あるものは大きく跳躍し、あるものはアカリノフミとともに地を駆けた。

 シテュエリを背負ったルアラが元来た通路に飛び込み、それを追うアカリノフミと白ローブたちの前に一体の怪物が立ちはだかった。人間大の大きさの笛を持った怪物だった。

 アカリノフミたちがたどり着く前に、怪物は勢いよく笛を吹き鳴らした。ホールを揺らす大音量の重低音が響き渡った。ぱらぱらと石の欠片が天井から落ち、機械がぎしぎしと悲鳴を上げた。アカリノフミやほとんどの白ローブは立ち止まった。何体かの白ローブはそのままルアラたちを追って通路へと走り抜けた。

 怪物の放つ音の波にもまれて、何体かの白ローブが内部の部品に異常をきたして変な動きをしたり崩れ落ちたりしているのに気づき、アカリノフミは舌打ちをした。剣を覆う火の先が広がるようにして光の薄い膜を作り、自分を覆って音の波から防護すると、アカリノフミは地を蹴って怪物に剣を振り下ろした。

 怪物は笛を吹くのをやめ、笛でアカリノフミの剣を受け止めた。硬い音が響き、剣が燃え上がった。音の波がやんだ。

 アカリノフミが防護に使っていた光の薄い膜を解きながら後ろに飛び退くと、入れ替わりに白ローブたちが怪物に躍りかかった。

 巨大な笛を振り回して白ローブたちに応戦する怪物を横目に、アカリノフミは通路に飛び込んだ。


 笛の怪物が抑えきれなかった白ローブがルアラたちの背後に迫っていた。一緒に走る、黒い大きな体格の巨大な鉈を持った人型の怪物が、背後の白ローブたちをちらちらと見て気にしていたが、ルアラはまだだと怪物が迎え撃つのをとどめていた。とにかくこの最後の護衛とともに元居た部屋にまっすぐ戻りたいと考えていた。

 しかしルアラには疲れが来ていた。シテュエリを背負っているのもあり、少しずつ走る速さが落ちて白ローブとの距離が縮まっていた。

 追いながら、白ローブがナイフを放った。怪物が巨大な鉈でそれを払い落とすのを聞きながら、どうにか足が部屋までもつことを願った。ルアラの様子に気づいている怪物が白ローブのナイフを払い落としながら、ちらりと何か言いたげにルアラを見た。

「ルアラ」

 背中の上のシテュエリが不意に口を開いた。

「私の身体に残っている蜜と闇を使え」

 それで足を増強しろということらしい。だが、シテュエリはただでさえアカリノフミの鎖に多くの身体の闇を奪われたばかりだ。

「師よ、ですが」

「私の身体を心配しているようだが、ここまで奪われればあとはお前に多少やったところで大して変わりはない。それに今のお前は私の足だ。足が歩きにくそうにしていたら上半身が養分をやるに決まっているだろう」

 シテュエリは有無を言わさずに黒い指をルアラのフードの奥に突っ込んだ。ルアラは突然の指の侵入にびくりと身体を震わせた。

「ほら食え、弟子よ」

 ルアラは諦めてシテュエリの指から闇と蜜を受け取った。闇と蜜は身体に流れ込み、足の先まで染みわたった。

「ありがとうございます」

「まだ食ってろ」

「しかし」

「できるだけ力をつけておけ」

 しばらくシテュエリは指を引っ込めなかった。体力が少しずつ戻ってくるのを感じながら、ルアラは少しずつ走る速度を上げていった。


 白ローブに追われながらも、目的の部屋のすぐそばまで何とかたどり着き、ルアラは少し安堵した。部屋に飛び込もうと速度を上げたとき、頭上を何かが勢いよく通り抜けた。

 それは火をまとった剣だった。剣は部屋の前に突き立つと、火の風呂敷を広げるように部屋の入口とルアラたちの目の前の通路を炎上させた。

 天井に届くほど大きく燃え盛り壁を作る炎を前に、ルアラは立ち止まらざるを得なかった。振り返ると、白ローブたちの奥から見知った偉丈夫が駆けてくるのが目に入った。

「あの筋肉火達磨め」

 シテュエリがぼそりと呟いた。怪物はすでに白ローブたちを迎え撃つために鉈を構えていた。

「ルアラ、私は部屋の中に入る必要がある。どうにかねじ込んでくれ」

 ルアラは頷きつつもどうすればいいか迷った。

 怪物の鉈と一体目の白ローブのナイフが激突した。右手で巨大な鉈を器用に扱って白ローブのナイフをあしらいながら、その横を通り抜けようとした二体目の白ローブを蹴り飛ばした。二体目にぶつかりそうになった三体目は飛んで躱し、怪物に飛びかかったが殴り飛ばされた。

 アカリノフミはどんどん迫ってくる。シテュエリは黙って背中に収まっている。ルアラは残りの力で何ができるか考えた。シテュエリにいくらか蜜と闇をもらったおかげで、刃を交えることはできそうだったが、炎の壁を打ち破ることはできそうになかった。しかしシテュエリを必ず中に送り届けなければならない。

 怪物が一体目の白ローブの左腕を切り落としたが、白ローブは右腕で怪物の首を狙った。避けようと身体をひねったが、浅い切り傷が怪物の首にできた。傍を通り抜けようとした四体目を蹴り上げたが防がれて遠くまで飛ばすことはできず、飛びかかってきた五体目を殴りつけたもののこちらも遠くまで飛ばすことはできなかった。

 白ローブたちは怪物を抑えてアカリノフミを通すことに目的を変えたらしく、五体全員で怪物に飛びかかった。怪物は見た目に反して素早く立ち回り、白ローブの攻撃を避けながら器用に鉈を振り回して一体目の首を切り落としたが、身体に傷は増えていった。

 アカリノフミがこちらに近づいていた。

 ルアラは渾身の力を込めて右手のひらから絞り出すように冷たい頭ほどある黒い玉を抜き出した。

「ぽかぽかの灯りを冷え冷えの闇で溶かします」

 ルアラが玉を部屋の入口へまっすぐ投げた。火が抵抗するように激しく燃え上がった。ルアラは息を吐き、シテュエリの鎖を砕いたときのように力を込めた。抵抗する火を押さえつけるように黒い玉がまっすぐ部屋の入口までゴムのように伸び、炎の壁を貫通した。

 アカリノフミはすぐそこまで来ていた。

「師よ、熱い熱いします。ご覚悟ください」

 炎の壁を完全に打ち破ることはできそうになかったが、穴を開けるくらいはできそうだった。炎の壁を貫通した黒い棒の中身が縁に寄って内部に空洞ができ、部屋へと続く大きな一本の筒が完成してすぐに、ルアラはシテュエリをそこに投げ入れた。

 うめき声を上げながらシテュエリが部屋の中に転がり込んだのを確認しつつ、アカリノフミが振るった拳を紙一重でルアラは躱した。しかし続けて飛んできた蹴りによってルアラは床に叩きつけられた。

 炎の壁の中から剣を抜き、シテュエリを追って部屋に入ろうとするアカリノフミに、よろめきながら立ち上がったルアラは、時間を稼がなければならないという一心で左手のひらから抜き出した短槍を投げつけた。それを剣で弾いたアカリノフミの隙を突いて、ルアラは左手のひらからナイフの刃先を出して飛びかかった。

 首を狙って振り下ろした左手は難なく掴まれ、間髪入れずに腹部を炎をまとったアカリノフミの剣が刺し貫いた。

 ルアラは頭の中が真っ白になった。火の灯りがルアラの身体の闇を侵食し、燃やした。フードの奥から闇が血のように外に漏れた。

 アカリノフミが剣を抜いてルアラの身体を床に打ち捨てた。火が傷口で燃え続けていた。ルアラはフードの奥から闇を吐きながら痙攣のように身体を震わし、傷口を右手で抑えた。全身の闇が火の侵入を拒むようにざわざわとうごめいた。身体の闇を溶かし続ける火は、内臓を焼き焦がしてかき混ぜるような激痛をルアラにもたらし、ルアラは声が出なかった。

「灯りに溶ける覚悟でもしていろ」

 倒れ伏すルアラにそう言い置くと、アカリノフミは火の壁を通り抜け急いでシテュエリを追って部屋に入った。

 シテュエリは部屋の真ん中にあるひと際大きい機械に寄りかかるようにして座っていた。

「遅かったな、フミよ」

 アカリノフミはすぐに異変に気付き走り出したが遅かった。

 シテュエリが寄りかかっている機械全体に黒い文字が水面に顔を出す黒い生物のように浮かび上がり、弾かれたように死んでいた古い機械は動き出した。蒸気を噴き出し、深く速く呼吸するように膨張と収縮を機械が繰り返し始めると、周囲の眠っていた機械群にも次々と灯りが灯った。突然覚醒した機械たちはさび付いた内部の機構を強引に動かすように硬い音を立て始め、やがて地響きとともに自らを強引に地面から引きはがして立ち上がった。

 次々と立ち上がったこの部屋に並んでいた機械たちは、頭部だけを地表に出した機械人形たちだった。わらわらと部屋の中に溢れかえる天井にまで頭をつきそうな巨大な機械人形を前に、アカリノフミは目を丸くして思わず足を止めた。

「どういうことだ」

 この遺跡はただの工場だったはずだ。

「知っているだろう、ずいぶん前から我々はここに居ると。対策一つせずにただお世話役ごっこをしていたとでも思っていたか、暁の灯台守よ」

 何体もの機械人形がアカリノフミに腕を振り下ろし、アカリノフミは飛び退いてそれを避けた。他の何体かは通路に続く部屋の壁と、外に続く壁を壊していた。

 アカリノフミはすぐにシテュエリが逃げようとしていることに気づいたが、機械人形は口からいくつものナイフを持った黒い人形を吐き出しながら腕をアカリノフミに向かって振り下ろしており、機械人形と黒い人形に行く手を阻まれていた。

 まもなくシテュエリが寄りかかっている機械の隣の壁とともに、通路に続く壁が壊され、月光が部屋の中を明るく照らし出した。

 壁が壊されて空いた通路に続く穴から、ルアラを小脇に抱えた鉈を持った怪物が部屋に飛び込んできた。

 アカリノフミは怪物がシテュエリを反対の脇に抱え、壊された壁から外に飛び出していくのを見て、ため息とともにまとった火を燃え上がらせた剣を黒い人形の頭に叩きつけた。



 ルアラが目を覚ますと、地平線から顔を出して空を白ませ世界に光を注ぎ始めた太陽が目に入った。ぼんやりとそれを見つめながら、素直に美しいと思った。闇で形作られた身体であっても、美しい光は美しかった。

「おはよう、ルアラ」

 ルアラは草地に横向きに寝かされており、シテュエリの声はルアラの頭の上から聞こえた。シテュエリは隣で足を草地に投げ出して座り、同じように闇を払い始めた太陽を眺めていた。

 どうやらここは崖の上にある、木々が周りを取り囲む草地の広場らしい。目の前の崖の下には森が広がり、その先の地平線から太陽が顔を出している。左右と背後には鬱蒼とした木々が広がっている。

「傷は痛むか」

 身じろぎすると、焼けるような痛みが腹部に走った。

「はい」

「そうか。帰ってゆっくり治せ」

「師よ、アカリノフミは」

 ルアラは弱々しい声で尋ねた。

「遺跡の制御装置を動かして足止めしている間に、後ろにいる子にお前ともども担がれて逃げだしてきた」

 ルアラが首をひねって後ろを見ると、ルアラが呼び出した鉈を持った怪物が静かに佇んでいた。

「……ちっちゃくなりましたね、師よ」

 顔を上げてシテュエリの姿を見たルアラは思わずつぶやいた。シテュエリはルアラの身長の半分ほどの大きさになり、大人物の服を着せられた幼児のように服がぶかぶかになっていた。

「制御装置を動かしたのと、お前の傷の治療のせいだ」

 シテュエリは穏やかに言った。

「ありがとうございます、師よ」

「ああ。後ろの子はお前の残った力でここにかろうじてとどまっているからな。お前にはある程度元気でいてもらえないと困る」

 怪物たちは呼び出したルアラやシテュエリの力によってこの場にとどめられている。呼び出したルアラやシテュエリに彼らをとどめておく力がなくなれば、怪物たちはこの場から消え去り、元居た場所に帰ってしまう。遺跡の通路でシテュエリから蜜と闇を補給していなければ、鉈を持った怪物をここまでとどめておくことはできなかっただろう。

「イリスが傍に居たら、制御装置が動く様子を見せてやれたんだがなぁ」

 シテュエリが残念そうに呟いた。

「イリス、取り返せませんでしたね」

「ああ、仕事は失敗だ」

「依頼人の蜜を美味しい美味しいできそうですね」

「そうだな。楽しみにしていよう」

 それから少しの間、沈黙が場を包んだ。風が草木を揺らしながら通り抜け、朝を告げる鳥の声が小気味良く響いた。

「イリスを依頼人に売る必要がなくなって安心しているか」

 少しの間の後、ルアラは答えた。

「はい、ほっとしています」

「そうか」

 シテュエリは特に叱らなかった。

「人を誘拐して誰かに引き渡すという仕事は、苦しむ者が多いから多くの蜜が手に入る。慣れておいた方がいい。とはいえ、お前のような者には精神衛生上良くないかもしれないな」

「いえ、私もまた裏切りの蜜蜂です。蜜のためならやりましょう」

 ルアラは静かに当然のように答えた。

「そうか」

 ルアラの返事を噛みしめるようにシテュエリは呟いた。

「さて、帰るか」

 シテュエリはぶかぶかの袖をだらりと垂らし、袖の中で手を動かして手招きし鉈を持った怪物を呼んだ。

「お前も私もしばらく休息が必要だ。しばらくは簡単な仕事で蜜を集めるとしよう」

 怪物がシテュエリを抱き上げ、続けてルアラを抱き上げた。

 森の木々の中に足を踏み入れるまでの間、ルアラは美しい太陽を目に焼き付けていた。イリスにこの美しい太陽を見せてあげたかった。

 ルアラは自分の手を広げて太陽に掲げた。彼の黒い指が太陽の光に照らされて暖かく色づいた。




そのうち、後日談か続編を書きたいと思います。

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