第7話:夜空を覆う赤
空を覆いつくさんとばかりに広がる男の赤いマントを見て、青葉は口をあんぐり開けたまま立ち尽くした。
一体どういう原理で、この薄っぺらい布切れが意思を持っているかのように宙を泳いでいるのか。
いくら思考をめぐらせても、青葉の頭にその答えが浮かぶことはなかった。
「今この俺に馬鹿と言ったな、あばずれめ!やっぱりお前も死んだほうがためになる人間だ!」
男の見開いた黒い目に、はっきりと、見て取れるほど濃い殺意の色が浮かび上がる。
本能的な危機感を察知した青葉が反射的に身を引くと、その直後男のマントがこよりのようによじれ、目にも止まらぬ速さで青葉が元いた所に突き刺さった。
マント破壊力たるや凄まじく、突き刺さった衝撃で地面から土と小石が飛び、野球ボールほどのクレータが着地点に出来上がる。
もし後ろに下がっていなかったらと考えると、青葉の体からぞっと血の気が引いて行った。
「やるじゃないかクソガキ。こないだの奴らは一撃だったぞ」
男の口調に嗜虐的な色彩が帯び、彼の意思に呼応するように赤いマントが青葉に向かって鎌首をもたげた。
――やられる!――
直感的な青葉はとっさに男から背を向け、もう一度公園の出口を目指して走り出した。
逃げる青葉を、血の色をしたマントは容赦なく追いかける。
右後ろから風を切る音を聞いて、青葉が反対方向へ身を翻すと、数センチ横をよじれたマントが地面めがけて突っ込んで行った。
青葉は心臓が止まりそうだったが、止まったら最後だと自らに言い聞かせ、走るスピードは落とさなかった。
巨大な槍と化したマントが、今度は左側から青葉を狙う。
間一髪の所で避けたがその拍子にバランスを崩し、青葉はうつぶせの形で地面に叩きつけられた。
膝と手のひらをしたたかに打ち付けて出血したが、痛みより恐怖心が先に立った。
マントは鋭利な先端を青葉に向け、どこを串刺しにしようか狙いを定めている。
青葉は起き上がって逃げようとしたが、それよりも早くマントは青葉を仕留めようと弾丸のように動いた。
次の瞬間、青葉の胸は赤いマントによって貫かれるはずだったが、暗い林の中から先に錘が着いた銀色の鎖が飛び出し、マントの動きを止めるように幾重にも絡み付いた。
青葉は何が起きたのか理解できなかったが、その隙に体勢を立て直してようやく立ちあがった。
「なんだ!なんなんだこのうっとうしい鎖は!邪魔をするなあぁ!」
男が狂ったように喚いた途端、彼の頭上にあった街灯が突然破裂した。
男と青葉が呆然としていると、鎖の続いている林の中から、黒い杖を持った少年が歩み出てきた。
彼の持っている杖の先端からは、今もマントを縛り付けている銀色の鎖が伸びている。
青葉は少年の顔を見たが、彼は歯医者がつけているような巨大なマスクと顔の半分が隠れてしまいそうなサングラスを装備していたため、どんな表情をしているのかすら窺い知れなかった。
頭にはこの暑いというのに黒いニット帽さえかぶっており、唯一分かる少年の特徴は、すらりとしていて背が高いことぐらいしかない。
あまりに怪しい少年の出立ちに、コイツも敵なんじゃないかと青葉は思った。
「貴様ぁ、なぜ邪魔をする!お前も串刺しか、それともぐしゃぐしゃに潰してやろうか!」
男は少年に向かって憎しみのこもった大声を張り上げたが、彼はまったく意に介していないようであった。
「あーあ、せっかく神代家の能力がこの目で見られると思ったのに。とんだ期待はずれだよ」
青葉は少年が発した「神代家」という単語に反応した。
「神代」とは、婿養子に入った鉄和の旧姓であり、青葉はこの少年が自分の血筋と何か関係があるのかと思った。
「あんた、あたしの親戚を知ってるの?」
「よーく知ってるよ。だからわざわざ様子を見に来たけど、君全然しょぼいじゃん。本当に力が使えるようになったの?せっかく仕事帰りに来てやったのにさ」
青葉は少年が何を言いたいのかよく分からなかったが、馬鹿にされていることだけは充分伝わってきた。
助けてもらったのは有難いがなんで馬鹿にされなきゃならないんだと、マスク越しのもごもごした声に少々イラつく。
「あんた一体何しに来たの?あたしを助けに?敵?それとも味方?」
「本当は単なる見物のつもりだったけど、君がヘボいせいで、助ける羽目になっちゃった。あと残念ながら味方なんだ」
味方ならなぜそこに「残念ながら」をつけるのか。
青葉はこの短時間で彼に嫌われるようなことをした覚えはなかった。
青葉が少年と話している一方、無視された男は火のついたように赤い顔をして、唇を小刻みに痙攣させていた。
子供のように地団太を踏み、今にも癇癪を起こして泣き出しそうなそぶりでぶつぶつと独り言を垂れている。
彼の我慢もついに限界に達したらしく、二人に向かって唾を飛ばしながらかみついて来た。
「おいてめえら、何ごちゃごちゃ話してやがる。そこのお前、俺の正義を邪魔するんじゃない!」
「正義?ぺちゃパイの女の子を嬲り殺すのが正義?あははー、笑っちゃうねぇ」
少年はちらりと青葉の胸元に視線をやった。
「だいたいお前、突然出てきてなんで俺の邪魔をするんだ。変な小道具使いやがって、一体何者だ!」
「君が背負っている『生命布』の持ち主ってとこかな。それ、もともと僕たちの物なんだ。早く返してくれない?これ以上その布で人殺しされちゃ、気分悪いからさ」
「この赤マントがお前のものだと?笑わせるな。これは偉大なる賢者から選ばれたこの俺が、世の蛆虫を抹殺するための大事なアイテムなんだ。お前なんかに渡せるものか!」
少年が頭の横を指でくるくる回すジェスチャーをすると、男は豚の金切り声のような音を出した。
男の強烈な感情に反応したのか、赤いマントは身をよじるようにして大きくうねり、鎖の支配から逃れようとする。
マントが何度ものたくっているうちに鎖は軋んだ音をたて始め、とうとう破裂するように四方へ砕け散った。
「へぇ、『自在杖』をぶっ壊すなんて、『生命布』もなかなかやるなあ」
「ちょっと!ボーっとしてないで、早く逃げないと!」
動き出した生命布を突っ立って眺めている少年に向かって青葉は怒鳴ったが、彼はどこまでも余裕だった。
「こんな布きれに怯えるなんて。僕は君みたいなヘボ能力者とは違うんだよ」
腕を組んだまま一向に逃げない少年へ、生命布は再びよじれて鋭い先端を作り、その細い体を貫こうと猛スピードで直進した。
しかし先端は少年の鼻先まで来ると、まるで見えない壁に阻まれたかのように、ぴたりと動きを止めた。
「見てなよ、大森青葉。これが本当の超常能力だ」
少年が一呼吸置くとそばにあった小石が舞い上がり、彼の衣服が風もないのに揺らいだ。
青葉が体中に目に見えない圧力のようなものを感じた次の瞬間、赤いマントとその先にあった男の体が、後ろの林まで吹き飛ばされた。
青葉は何が起こったのかまるで分からず、驚きとおののきが入り混じった目で少年を眺めたが、それは仰向けにひっくり返った男も同じだった。
少年はゆっくり二三歩進み出ると、――目も口もサングラスで分からないが――にやりと笑ったように青葉には見えた。
「さあ、そろそろ終わりにしようか。赤マントさん」
淡々とした少年の台詞に、男の目が恐怖に見開かれた。
男はふらふらとしながらもすばやく立ち上がると、震える手で地面に横たわったマントをかき集める。
土と小石だらけになったマントを男は赤子を抱くように広いあげ、何を思ったかマントを自分の体中に巻きつけ始めた。
すると男の体がふわりと宙に浮き上がり、あっけに取られている青葉たちをよそに男ははるか上空へと舞い上がった。
「ちくしょう!『生命布』には飛行能力もあったのか!そんなこと二人とも言ってなかったのに」
少年が悔しがっている間にも男はするすると空を滑り、暗闇にまぎれて完全に視界から消え去った。
少年は怒り狂いながら見えなくなった男に向かって延々と罵声を浴びせかけると、足元にあった小石を力いっぱい蹴飛ばした。
青葉は今彼に話しかけていいものかどうか迷ったが、それでも何も聞かずにはいられなかった。
「今の一体なんだったの?」
「知らないよ。だって誠治もつくねもきんじぃもなにも言ってくれなかったもん。逃がしたのは僕のせいじゃない!」
「そうじゃなくて、あの野郎が使ってた布とか、あんたのこと」
「そっち?知ってるけど今は話す気になれない。どうせ君とはすぐに会うだろうし。あーあ、お目当ての君はとんだヘボだし、発明兵器は回収できなかったし。今日はなんてついてないんだ!」
青葉は「すぐに会うってどういうこと?」と尋ねたが、ぶつぶつ文句を言いながらふて腐れている少年の耳にはまったく届いていなかった。
「ほんと嫌んなった。暑いし疲れたし……。僕もう帰る!」
「ちょっと待ってよ!」
慌てて青葉は引きとめたが、少年はそれを振り払うと、わがままが通らなかった子供のようにブリブリ怒りながら公園を出て行った。
青葉は呆然としながらしばらくその場に立ち尽くすと、ふきにアイスを頼まれていたことを思い出し、コンビニ寄ってから家に帰った。
もちろんそんなことをしている場合ではないと分かっていたが、あまりに色々なことがありすぎて、とにかくアイスを買わなければいけないことだけが青葉の頭を支配していたのである。
熱い風呂に入り布団にもぐりこんでも、青葉は酷い混乱状態に陥っていた。
あり得ない事故に会い、あり得ない能力に目覚め、あり得ない道具を使う男に襲われ、あり得ない力を持つ少年に救われた。
たった3日で青葉の周りには一億分の一でもあり得ないことが、嫌と言うほど起こっている。
特に今日は信じられないことがいっぺんに起こったせいで、青葉は恐怖も驚きも全て麻痺していた。
普通ならとても眠りにつけない状況だったが、昨日一睡もしていない青葉はすぐに眠りに落ちた。
青葉は意識のなくなる直前、少年に「助けてくれてありがとう」と言うのを忘れていたと思った。