第40話:群れの中の羊
次回でやっと最終回です。
挨拶には早いかもしれませんが、読者の皆様ここまで読んでくださって本当にありがとうございました。
今日はまるで夏の始まりのような空だった。どこまでも高くつみ上がった入道雲に、目が痛くなるほど青い空。気温はもちろんうだるほど暑い。
青葉は窓から入ってくる午後の日差しを避けながら、居間のテレビの前に陣取っていた。つけているのはいつもなら見飽きたワイドショーだが、今日ばかりは食い入るようにそれを見る。
数日前謎の殺人事件が起こった高校の敷地で、今度は若いフリーライターが殺された。ワイドショーは番組の始めからその事件について特集を組んで扱っている。
殺された被害者の名前は新白崇。有名私立大学を卒業後大手新聞社に入社し、数年前に個人的な理由で退社、現在はフリーライターとして活躍していた。数は少ないながらも評価の高い記事をいくつも書き、将来が期待されていた若者。
マスコミは悲劇的な死に方をした新白崇が、いかに素晴らしくて将来性のある若者だったのか盛んに報道していた。事件を深追いしたために犯人に殺害されたのではないかという推測の元になされるその報道は、彼をまるで英雄のように扱っている。
だが彼らは新白崇が大勢の人間を殺めた犯人だということを知らない。彼は歪んだ自尊心と自分より優れた人間への腐った嫉妬心からたくさんの命を奪ったのだ。
その動機の根底にあるのは、自分が平凡であることへの自覚。そして平凡へのさげすみと嫌悪。
なぜあの時新白崇が自ら命を絶ったのか、今なら青葉にも分かる。
彼は自らの命を引き換えにして、最後の最後に「平凡」から抜け出したのだ。その証拠にマスコミは彼の死を大々的に報じ、日本中の誰もが若く勇敢なフリーライターの死を悼んでいる。数日前に不可解な殺人があった場所と同じ所で、同じ死に方をしている人間がいたらどんなに騒がれるか、彼は全て計算して死んだのだ。
あっけない、実に馬鹿げた死に方だと青葉は思う。彼にとって平凡な人生とは命と引き換えにしてでも捨て去るべき下らないものだったのだろうか。
誰にも取り立てられず目立つこともなく、群れの中で生きる羊のようなささやかな人生。
もし生きていれば千代子も藤野も、そして新白崇もそんな人生を送ったのだろう。もちろん青葉もこれからそんな人生を送る人間の一人だ。
一般大衆としてひとくくりにされてしまう、周りの人間ととほとんど変わらないありふれた一生。しかしだからといって、平凡な人生は取るに足らない些細なものなのだろうか。きっと新白崇にとってはそうだったのだろう。だから千代子や藤野を殺しても何とも思わず、自分の命さえも簡単に捨ててしまえた。
青葉たち凡人と比べて、テレビの中で活躍するアイドルや国を動かす政治家、大富豪の人生はひどく眩しい。新白崇――大賢者が彼らに憧れ自分の人生をつまらないと感じた気持ちは、青葉も悔しいがよく分かる。青葉だってリオンたちと自分を比べて負い目を感じ、自分の進路などどうでも良いくだらないものに思っていたのだ。
だが今は彼らと比べて自分の将来を卑下しようとは思わない。自分より優秀で目立つ人間がいるからといって、自分の人生を軽んじている人間はきっと幸せにも特別にもなれないだろう。青葉は大賢者の最期を見てそう思った。
青葉はあと二日で十六になる。少しづつ将来の道を定め、これからの世界を歩いていく年齢だ。将来の可能性は無限にある。
しかしたとえ待っている未来が地味で他と変わり栄えしないものであっても、青葉はかまわなかった。リオンたちのように目立たなくても有名でなくてもいい。平凡な人生で良かった。
青葉の母のふきはいわゆる平凡な主婦だが、家族に囲まれ、リオン君を生きがいにしながら暮らしている。幸平の祖母は女手一つで子供二人を育て上げた。三件となりの床屋のオヤジは脳卒中で左足が麻痺してもリハビリを乗り越えて未だに現役である。
彼らは皆名もなき一般市民だ。だがとても幸せそうだ。
夕日商店街の他の皆もそうだった。日々をささやかに、それでいて幸せに暮らしている。青葉もそれで良かった。
もう千代子と藤野を殺した大賢者はいない。全ては大賢者の死を持って幕を閉じた。だから青葉はこれから進まなければならない。死んでしまった千代子も藤野も大賢者もそこで止まったままだが、生きている青葉は前に行かなければならないのだ。
青葉は静かにテレビを消すと、席を立って二階の自分の部屋に向かった。部屋のふすまを開けると、約一ヶ月間放置されて要も不要もごった混ぜになった物たちが青葉を出迎えてくれる。
「うわっ……。汚なっ」
いくら乱雑した状態の部屋に慣れている青葉もさすがにうめき声をあげた。生来の放置癖に加え今年の夏休みは色々あったとはいえ、いくらなんでもこれは酷すぎる。生ゴミがないから匂いがないのが救いだが、それを除けばそこらへんのゴミ屋敷と大差ない。
「片付けないとなぁ」
思わずそう呟いたものの、青葉には片付けるより先にやらなければいけないことがあった。しばらくガラクタの山を見つめた後、意を決して作業に取り掛かる。
折り目のついた教科書。皺だらけの洋服。トラップのように突き出ている文房具類。
それらをかき分けてかき分けて、青葉は目的のブツを一心不乱に探した。掴んだ物はとりあえずそこらへんに放り投げるため、青葉の後ろにはまた新たな山ができる。
あまりに部屋が汚いため、陽がくれてきた頃になってやっと目的のブツ――進路選択用紙は見つかった。奇跡的なことに、ガラクタ山の最下層近くで発見されたにもかかわらず、用紙の皺はほとんどなかった。もしかしたらちょうど良く他のガラクタ共が「アイロン」してくれたのかもしれない。
青葉はこの間放り投げたときとは違う、真剣な気持ちで進路選択用紙に向きあった。しかし『私は文系・理系に希望します』という欄になかなか丸を付けられない。急に考えても、将来のビジョンなどすぐ浮かんでくるはずがなかった。
青葉はまだ高校一年生だから、これが最後の選択ではない。むしろこれが自分の将来について考えるきっかけになるくらいである。焦る必要はないだろう。じっくり自分がどんな風になりたいか考えて行けばいい。
「得意なのは文系かなぁ」
青葉はとりあえず文系に丸をつけると、なぜかベットの上にあった学生鞄の中にその紙をしまった。制服は押入れの前にかけてあるし、ローファーはちゃんと下駄箱にあるから、新学期までに片付けられなくてもとりあえず学校には行ける状態である。
長かった夏休みもようやく終わり、明々後日からはいよいよ二学期だ。だがその前に最後のイベントである夏祭りが明日に控えている。
去年の夏祭りも一昨年の夏祭りも、千代子の影がちらついて青葉は窓からその様子を伺うこともできなかったが、今年はリオンとの約束がある。千代子とおそろいで着るはずだった浴衣も、先ほどの探し物の最中に偶然でてきた。確か押入れの一番奥にしまっていたはずだが、人の記憶はあてにならない。
青葉は袋に入ったままの浴衣を夕日にかざして見た。オレンジ色の西日が浴衣の紺に染み込んでいく。この浴衣を買ったのは中二の時だから、デザインも少し子供臭いし、サイズも合わないかも知れない。だが青葉はどうしてもこの浴衣を着て夏祭りに行きたかった。
この水玉模様の浴衣を着て隣にリオンがいれば、きっとあの場所に行ける。青葉はそんな気がしてならなかった。