第4話:目覚めよ 青葉!
まったくの健康体という医者のお墨付きをもらい、翌朝青葉はめでたく退院した。
病院の自動ドアを出た途端むっと来る暑さに、青葉は「タクシーで帰ろう」と提案したが、倹約家のふきによって瞬時に却下された。
病院は斜面の急な小高い丘の上にあったため、青葉は炎天下の中ふきと一緒に長い階段を降りるはめになった。
もちろん別にちゃんとした道があるのだが、こちらのほうが駅にずっと近いとふきが押し通したのである。
真夏の日差しをもろに浴びながら歩くのは、若くて丈夫な青葉でもかなりしんどかった。
直射日光が全身を貫くように降り注ぐが、身を隠す日陰はどこにもなく、太陽と真っ向勝負するほかない。
日差しに目がくらんだのか、青葉は突然頭に殴られたような痛みを感じた。
思わず足が滑って階段を踏み外し、バランスを取る暇もなく体が後ろへ大きくのけぞる。
――落ちる!
青葉は覚悟した。
だがバランスを崩した体は、空中に浮かんだ状態で数秒間停止し、青葉はその場で尻餅をついた。
「い、今のいったいなに?」
何が起きたのか理解できず、咄嗟にあたりを見回してみる。
分かったのは、この長い階段を転がり落ちずに済んだということだけであった。
「この馬鹿!また病院に逆戻りする気?」
続けて来たふきが青葉を怒鳴る。
「お母さん、今あたしが転ぶとこ見てた?」
「暑くていちいち見てらんないわよ。そんなもん」
青葉はなんで見ていてくれないんだとふきを逆恨みしたが、魔法使いでもないのに体が浮くわけがないとすぐに思い治した。
きっと暑さと事故のショックのせいで、脳みそが少々混乱しているに違いない。
考えてみればいくら無傷だったとはいえ、ダンプカーが鼻先寸前まで迫ってきたのだ。
普通ならトラウマになってしまうような目にあったのだから、平気にしているほうがむしろ変なんだと青葉は自分に言い聞かせた。
階段を下り体中汗まみれになったまま、青葉とふきは商店街にある家まで帰った。
いつもと変わらぬ「大森青果店」という古びた看板と色あせたポスターが、奇跡の生還を果した青葉を出迎えてくれる。
店先には季節物を中心に大量の野菜とフルーツが並べられており、その中で青葉の父鉄和がだみ声で客をさばいていた。
鉄和の胡麻塩頭に鉢巻状の手ぬぐいという格好が、いかにも八百屋の親父らしい。
「おおお!青葉!退院できたのか」
青葉に気付いた鉄和が、色黒で渋い顔に似合わず感嘆の声を上げた。
「生きててホント良かったなあ。よーし今夜は一級品のメロン食わしてやる!」
「ちょっとアンタ!商売もんに手ぇつけないでよ!」
「うっせえなぁ。それにもう冷蔵庫入れちまったよ。ケチケチすんじゃねぇ」
鉄和は顔こそ頑固親父だが青葉にとことん甘く、ふきとはそのことでよく喧嘩になっていた。
おそらく今日も、このメロンのことで喧嘩が始まるだろう。
そう思った途端に言い争いが始まったので、青葉はそそくさと裏にある玄関に回った。
青葉はすぐにシャワーを浴びて汗を流すと、部屋に戻ってベットの上で大の字になり、昨日のことをぼんやり思い返した。
追いかけた彼女の驚いた顔と、目の前に迫ったダンプカーが、同時に頭の中で蘇る。
ダンプカーの前に飛び出して、良く無事だったものだと、今更ながらに青葉は思った。
ぶつかる直前でダンプが横転したとふきは言っていたが、飛び出した道路は直線だったため、何が原因でそうなったのか見当もつかなかった。
「ほとんど奇跡じゃん」
自分でも知らず知らずのうちに、青葉は呟いていた。
横になったせいか、病院でたっぷり眠ったにも関わらず、だんだん眠気が襲ってくる。
蒸し暑く淀んだ空気の中で、青葉はつい眠りに落ちてしまった。
「青葉、お昼にするわよ」
一階にある居間の方から、ふきの声が聞こえた。
ウトウトと眠っている間に、いつの間にか正午を過ぎてしまったらしい。
青葉は飛び起きてベットから降りようとしたが、部屋の様子がいつもと違うことに気が付いた。
眠い目をこすりながら辺りを確認してみると、青葉とベット以外の物――部屋にある箪笥も机も何もかも――がすべて床から30センチほど浮き上がっていた。
――そんな馬鹿な――
青葉はもう一回目を瞑り、周りをぐるりと見渡したが、箪笥と机、その他色々は音もなく浮遊したままである。
一瞬“間”があった後、青葉は素っ頓狂な声で叫んだ。
それと同時に浮いていたもの全部が、ドスンと床へ落下する。
「どうしたの!?」
叫び声を聞きつけ、ふきがふすまを開けて飛び込んできた。
青葉はどう答えようか判断に迷った。
「ご、ご、ご、ゴキブリがいたの」
青葉は咄嗟に嘘をついた。
部屋の物が浮いていました、なんて言ったら、今度は違う種類の病院に入院することになってしまう。
ふきは幸いにも騙されたらしく、呆れた顔をすると、すぐ下へ降りて行った。
青葉は再びベットの上に横たわると頭を抱えてうつ伏せになり、今起こった出来事を冷静に分析しようと試みた。
寝呆けて見た幻覚にしてはリアルすぎたし、かといって本当に家具類が空を飛んでいたとは思えない。
もしかして事故のせいで頭がおかしくなってしまったんだろうかと青葉に不安がよぎった。
考えてみれば、せんべいだって飛んでたし、体は浮いたし、関係あるかどうか分からないが、テレビが突然爆発したりした。
事故にあってからおかしなことばかりが続いている。
頭がおかしくなったせいで起こりもしていないことが、現実のように見えるのか。
――それとも。
昨日のオカルト番組が、青葉の脳裏によぎった。
「ちょう、のう、りょく?」
オカルト関係にまるで興味のなかった青葉は、超能力というとスプーン曲げしか思い浮かばなかった。
青葉は下に降りて昼食に出されたオムライスを平らげると、半分馬鹿らしいと思いながら、使用済みのスプーンを持って二階に上がった。
誰にも見られないようにふすまを閉めてつっかえ棒をした後、スプーンを握り、目をかたく閉じる。
「曲がれ、曲がれ、曲がれ〜」
青葉はスプーン曲げのやり方などまったく知らなかったが、昨日見たチャーミアン沙希子を真似て、とりあえず念を送ってみた。
「曲がれ〜、曲がれ〜」
正座をし、スプーンを握り締めた格好で、青葉は30分ほど念を送り続けた。
しかしスプーンは微動だにせず、柄の部分が汗まみれになっただけであった。
「何やってんだろ。馬鹿みたい」
青葉は急に冷静になって、スプーンを床に放り投げた。
転がったそれを空しい気持ちで眺めていると、チリンと音を立て、スプーンが独りでに一回転した。
慌てて青葉はスプーンを拾い上げる。
見るとその首の部分が一回転し、らせん状にねじれていた。
しばらくの間、青葉は呆然としていた。
興奮と戸惑いが、体の内側を猛スピードで駆け回っている。
青葉はもう一度ねじれたスプーンの尻尾を指先でつまんだ。
「曲がれ?」
スプーンはそれに従うかのようにして、くの字型に折れ曲がった。
ちなみにメロンは食べる20分前に冷やしたほうが美味しいらしいです。