第29話:お粥は梅干で
青葉は昨日目覚めた時から食事も水もとらず、ろくに他人と会話もしないまま、ずっとベットの上に横たわっていた。
意識がない時は栄養補給を点滴で保っていたらしく、さすがに飢えも渇きも限界に達していたが、それでも何か口にする気にはなれない。
青葉は情けない死に損いが生にしがみつこうとする見苦しい有様を、他人に見せたくなかった。
いや、自分が生きようともがく所を青葉自身が見たくなかった。
青葉はふきが持っていたおとといの朝刊で、爆弾事件のおおまかな全体像を知った。
おとといの時点で犠牲者の数は観客、スタッフ両方で五十三人。
怪我人は逃げる際の事故も含めて千二百人にも上り、そのうち二十名は重態だった。
新聞の一面には空から写されたコンサート会場の写真が掲載されていたが、思わず目を覆いたくなるほどの惨状で、堅牢な会場の屋根は見事に半分崩れ落ちていた。
よく犠牲者の数がこれだけで済んだなと思ったが、これは一昨日のものだから、現時点ではもっと死傷者の数は増えているかもしれない。
青葉はこんな状況でも生き残ってしまった自分が情けなくも不思議であった。
最初の爆発で意識を失う直前、コンクリートがこちらに向かって倒れてきたが、起きてみたら何ともなかったし、二度目の爆発の直撃を受けたはずの体はかすり傷程度しかない。
トラックに撥ねられた時と同様に、普段は体の奥深くに眠っている強い念動力が無意識のうちに発動したのだろうか。
だが爆発による瓦礫の雨と爆風を完全に防げる力があるというのなら、なぜリオンを守ることができなかったのだろう。
いくら人のために命を投げ打とうと覚悟していたって、所詮は自分の身が可愛いということなのか。
青葉がうつぶせになって枕に顔を押し付けていると、香ばしい食事の匂いと共にふきが病室にやってきた。
おそらく梅干粥と思われるその匂いに腹の虫が激しく鳴き声をあげたが、青葉は端からその訴えを聞くつもりはない。
「青葉!いい加減何か口に入れなさいよ!飢え死にするわよ!!」
「いらない!!」
このまま飢え死にしてしまっても、別に構わなかった。
だが丸四日食事をとっていない青葉の訴えをふきが聞くはずもなく、彼女は無理やり毛布を引き剥がすと、粥の乗ったスプーンをぐいと青葉に押し付けた。
「いらないって言ってるじゃん!!」
「どうしちゃったのよアンタ!!せっかく助かったっていうのに。この親不孝者!!」
「親不孝者」という単語に青葉の胸がかすかに痛んだが、それよりもリオンを失った喪失感と生き残った罪悪感の方が断然強く、青葉は頑として食事を受け付けなかった。
このまま食事をとらなければ点滴を施されるだろうが、その時は注射針を引き抜いてやればいい。
仲間を見捨てて生き残った人間は、ミイラのようにやせ細って死ぬのがお似合いだ。
青葉はすぐ傍で聞こえるふきの涙声が聞こえないよう耳を閉じ、さらに強く顔を枕に押し付ける。
ふきは長い間青葉の説得を試みていたが、誰かが尋ねて来たらしくベットの傍を離れた。
面会謝絶になっているこの部屋に見舞いに来れるのは身内ぐらいなものなので、気になった青葉が体を半分起こして入り口を眺めると、黒い喪服に身を包んだ男性が花束を持って立っていた。
なぜかふきが半分喜んだ声で青葉に来客を告げる。
「青葉。この方、リオン君のマネージャーの田所さんだって!」
彼がなぜ喪服に身を包んでいるのか分かった。
彼の担当するアイドル――そうリオンの――葬儀があったからだろう。
白髪の混じった頭髪を几帳面に固め、やせ細った体をさらに細く見せる黒を身に纏った彼からは、悲壮感とくたびれた感じがじんわりと滲み出ている。
青葉は毛布を握り締めた自分の手のひらを眺めながら、押し殺した声でマネージャーの男性に聞いた。
「お葬式の、帰りなんですか?」
「あ、はい。立場的に私が出るのが一番なんで」
彼は自分が担当していた人間が死んだ割にはどことなく軽い調子で、青葉は余りいい気分がぜず、顔をそらすように窓の外へ目をやった。
「今日は、どうしてあたしのところへ?」
「もちろん、謝罪とお礼に決まってますよ」
「お礼?」
リオン側に落ち度がないとはいえ、コンサート中に起きた事件だから謝罪に来るのは分かる。
しかしお礼を言われるようなことをした覚えはどこにもないし、それどころか青葉はリオンを助けられなかった上に自分だけ生き残ったのだ。
「あたし、お礼を言われるようなことなんかしてません!あたしがちゃんと助けられなかったせいでリオンは――」
「いやあ、謙虚な娘さんだなあ。これもお母さんの教育の賜物ですかねぇ」
「はあ?」
「ほんと感謝してもしきれませんよ。大森青葉さん。あなたがいなかったら、うちのリオンは今頃死んでました」
マネージャーの言葉の意味がしばらく理解できず、青葉は満面の笑みを浮かべている彼の顔を凝視した。
「今頃死んでた」という言葉は、「今頃死んでただろう」という仮定が前提だから、「死んでた」ことが仮定になるということは結局、「今死んでない」という事実が既にあることになるのか。
つまり先ほどの言葉の裏には「うちのリオンは今生きている」という意味が含まれており、「うちのリオンは今生きている」ということは「リオンは爆発で死ななかった」ということになるのか。
つまり、結局の所、リオンは生きているのか。
「……。リオンは、死んだんじゃ、なかったの?」
「なに言ってんですか。ぴんぴんしてますよ。足は吊ってるけども」
「でも、その喪服は?」
「ああ、これは爆発で亡くなられた方の葬儀の帰りでして」
「えっ……。だって……。お母さん泣いてたじゃん。」
青葉が油のきれかけたロボットのようにぎこちない動作でふきの方に首を回すと、彼女は何のことかと言わんばかりにきょとんとしていた。
「アタシリオン君が死んだなんて、ひっと言も言ってないわよ」
「でもあんなに泣いてたじゃん!」
「ああ。あれはリオン君が大怪我をしたのを思い出したから泣いたのよ。だって足の骨ポッキリ行っちゃったんだもの。可哀想じゃない!」
青葉はあまりに間抜け過ぎる自分の勘違いに、泣くことも笑い飛ばすことも出来なかった。
冷静に考えれば、自分の命よりもリオン君だと公言するふきが彼が死んだというのに平然としているはずがない。
いくら意識が戻ったばかりで朦朧としていたとはいえ、もう少し落ち着いてものを考えることはできなかったのかと今更ながら悔やまれる。
「なんだ、無事だったんだ」
馬鹿みたいだが、とにかくリオンは助かったのだ。
これでまた、あのへそ曲がりの少年と思う存分に口げんかすることができる。
急に安心したせいか、今までこらえていた空腹と喉の渇きが津波のように押し寄せてきた。
「お母さん。お粥とお水ちょうだい」
「あら!?どうしたの急に?」
「おなか空いたの。ご飯食べる」
ふきがい驚きながらも、うれしそうに食事の支度をし始めたのを見て、青葉は自分がいかに彼女を心配させていたのか実感した。
家業があるというのに付きっきりで病室にいてくれるところからも、ふきの娘に対する思いが伺い知れる。
ふきはどんぶりにたんまりと粥を盛り付けながら、唖然としている田所に向かって頭を下げた。
「すみません。この子ったら、四日間何も食べていなくて」
「え!?四日も断食ですか?」
「そうなんですよ。急にどうしちゃったのかしら」
「そういうことなら、どんどん召し上がっちゃってください」
田所の言葉に甘えて、青葉はさじを止める間もなく梅干粥をかきこんだ。
四日ぶりの食事が、すっかり空っぽになった五臓六腑にしんしんと染み渡っていくのがよく分かる。
野良犬のように食事にかぶりつく青葉を見ながら、ふきがふと思いついたように言った。
「もしかしてアンタがご飯食べなかった理由は、リオン君が死んだと思ってたから?」
「ふぇ!?」
「なーんだ、そういうことだったの!青葉がそんなにリオン君のこと想ってたとは、お母さん知らなかったわ」
「お母さんちっ、ちが……。」
青葉は口いっぱいに粥を頬張っていたため反論することもままならず、手足をばたつかせてそれを否定しようとしたが、鈍感なふきは全く気が付かなかった。
「本当にウチは親子揃ってリオン君のファンなんですよ」
「そうですかそうですか。そう言っていただけると嬉しいですねぇ」
「ところで、娘に会いに来たのは何かお詫びとお礼とかで――」
ふきに言われて本来の目的を思い出したのか、田所は急に青葉に向かって花束を差し出すと、深々と頭を下げて言った。
「大森青葉さん。うちのリオンを助けて下さり、本当にありがとうごさいました!!」
いきなりのことに、青葉とふきは田所を見つめたまま硬直してしまった。
「青葉、アンタ何かしでかしたの?」
「いや、別に何も……。」
「何をおっしゃっているんですか!ちゃんと聞いてますよ。あなたが瓦礫の中に閉じ込められたリオンを命がけで救い出してくれたって」
「アンタそんなことを!?」
「あ、や、それは……。」
大の大人二人に詰め寄られ、青葉はすっかり困ってしまった。
答えようにも、記憶にあるのは第二の爆発が迫り、リオンが閉じ込められたコンクリートの山の前で泣き叫んでいるところしかない。
「爆発のせいで、あたし、何も覚えてなくて」
「そうだったんですか」
田所は青葉が肝心の記憶を失っていることを知ると、リオンから聞いたというその時の状況を事細かに教えてくれた。
彼の話によれば、青葉は記憶が途切れた後、リオンを閉じ込めていたコンクリートを無事自力でどかすことができたらしい。
そして足を怪我した彼の手を引いて逃げる途中、第二の爆発が起きたと。
「爆発に二度も巻き込まれたのにほぼ無傷だとは、全く幸運としか言いようがない」と田所は締めくくったが、青葉はそれに曖昧な笑顔で答える。
あの後数百キロはあったコンクリートを自力で動かせたとは到底思えないし、単なる幸運で二度も爆風から逃れられるはずがない。
そこにはなんらかの超常能力が働いたと考えるのが自然だった。
リオンもきっとそう考えているに違いないが、何も知らないマネージャーには単に青葉が助けてくれたと言うほかなかったのだろう。
半ば興奮気味で青葉の武勇伝を語った田所を、ふきは信じられないものを見る目つきで眺めると、それから青葉の肩を二三度景気良く叩いた。
「凄いじゃないの青葉!!なんで話してくれなかったのよ?」
「だって覚えてなかったし」
「でもあのリオン君の命の恩人になったわけでしょ?恩人よ恩人」
「そんな大袈裟な」
「もしかして青葉の名前も覚えてくれたかもよ?キャーッ、信じられなーい!」
青葉は申し訳ない目線を田所に送ったが、彼はもっともだという風に頷いて言った。
「ほんとに青葉さんはリオンの命の恩人ですよ。彼もぜひ会いたいと言ってます」
「え、マジで?」
「マジですよ。大マジ。本当はこちらからお伺いするべきなんですが、リオンは今ベットから動けない状態でして。もしよろしければ、退院する日にでも顔を見せてやってくれませんかね?」
リオンの怪我の具合が気になっていたのもあり、青葉はすぐ了解の返事をしようとしたが、それよりも早くふきが「はい」と答える。
「もちろんお伺いさせていただきます!」
「おかーさん、アタシの希望は?」
「あの、保護者である私も同行して構わないですよね」
「もちろん!お母様もどうぞ」
青葉の意思を全くないがしろにして、リオンの見舞いに行くことが決定された。
用件を終えて病室を出ていくマネージャーの田所を見送った後、ふきはまるでこの世の極楽にいるかのような調子でふわふわと浮き足立っていた。
鼻歌を歌いながら林檎の皮を剥き、満面の笑顔で青葉に「ウサギさん」の形に切った林檎を差し出す。
地面に足がちゃんとついているのか確認したくなるような状態だ。
「ちょっと、いくら何でも浮かれすぎだよ」
「しょうがないじゃない!リオン君に会えるのよ?リオン君に!しかも目の前で!」
「お見舞いに行くんだからね。握手会に行くんじゃないんだよ?」
「あー、楽しみ。ラララー。うふふ」
ふきはすっかり有頂天である。
彼女が見舞いの席で何かやらかすのではないかと、青葉はリオンに会いに行くのが堪らなく不安になってしまった。