第28話:可能性
いくら説得しても怒鳴り散らしても、青葉がそこから離れようとしないので、リオンは狭い暗闇の中で途方にくれた。
このままでは自分も巻き添えになって死ぬと分かっているはずなのに、頑なに動こうとしないなんて、何が彼女をそうさせているのだろうか。
「青葉が自己犠牲的過ぎる」という誠治の心配を鼻で笑ったことがあるリオンだったが、今になって彼の言っていたことが本当だったのだと実感した。
リオンがいくら叫んだ所で、もはや青葉の耳には届いていない。
正直リオンには初恋の相手と一緒に死ぬのも悪くないかという気持ちもあったが、それよりも彼女に生き残って欲しいという思いが勝った。
まだ十六歳かそこらの青葉には無限の可能性――それこそ人気アイドルや、大富豪、政治家になるような――可能性がある。
もちろん有名になんてならなくたって、家族や仕事に、たくさん幸せになれる可能性がある。
青葉にはとにかく生きて、そしていろんなことを経験してもらいたかった。
リオンは恐怖と緊張からくる声の震えをを何とか押さえ込み、足の痛みをこらえながらもう一度叫んだ。
「青葉、もういいから逃げよう。君は充分頑張ったよ」
「いやだ!いやだいやだいやだあぁ!!」
青葉の悲痛な叫び声に反応したのか、リオンの頭が何かに貫かれたように鋭く痛んだ。
目の前が一瞬真っ赤に染まる。
遠くで聞こえる蝉の声。
力なく投げ出された誰かの腕。
白昼夢のような幻覚を見たリオンは咄嗟に目を瞑り、痛みの余韻が残る自分の頭を両手で覆う。
死が間近に迫っているという極限の緊張状態が作り出した幻かと思ったが、それにしては鮮明で、まるで自分が直接体験したかのような臨場感を伴っていた。
壁の向こうからは青葉の泣き叫ぶ声が途切れることなく続き、彼女が酷いパニック状態に陥っていることは見なくても分かる。
リオンは右足の鈍痛をこらえながら、なんとか青葉を正気に戻そうと拳で壁を叩きつけ、大声で呼びかけた。
「青葉。青葉。お願い逃げて!」
「チョコ!チョコ!」
先ほどから彼女が叫んでいるのは犬の名前だろうか。
完全に取り乱している。
普段の冷静さを失った青葉の悲痛な叫びは大きくなるばかりで留まる所を知らず、リオンは彼女を説得できない自分の無力さに歯軋りした。
青葉の体からは考えられないような凄まじい絶叫が、リオンの周りに残された暗い空間に響き渡る。
「あああああああああ!!」
青葉が声を上げた瞬間、リオンは体中に圧力のようなものを感じ、ついにそのときが来たかと拳を握り締めた。
頭部に何か当たったのか、激しい痛みがリオンを支配する。
視界が再び真っ赤になった。
夕暮れの川原に吹く涼しい風に運ばれて、弱々しいヒグラシの声がかすかに耳に届いたが、それもすぐに野次馬の騒ぎによってかき消された。
道の中央に出来上がった人だかりをかきわけて前に進むと、青いビニールシートが見えてくる。
そのシートからはみ出たように覗いているのは、無数の穴だらけになった細い腕。
この腕の持ち主は――。
気がついたリオンが目蓋を開けると、目の前に青葉の顔があった。
青葉はいきなりリオンの腕を掴んだかと思うと、少女らしからぬ強い力で強引に立ち上がらせる。
「痛い!」
「早く逃げないと」
青葉は顔をこちらに向けてはいたが、その目はどこか虚ろで、ただ疲れきっているようにも、リオンごしに別の誰かを見ているようにもみえた。
青葉はリオンの腕を自分の肩に回すと、華奢な体で精一杯リオンの体重を支えながら、出口に向かって歩み出す。
リオンは彼女の行動からまだ第二の爆発が起こっていないのだと悟ったが、自分がどうやってコンクリートの牢獄から脱出したのかは見当もつかなかった。
それに体中に感じた強い圧迫感と、妙にリアリティのある幻覚はなんだったのだろうか。
「僕、どうやってあそこから抜け出したの?」
「……。」
リオンは質問してから、青葉の白い額に無数の脂汗が滲んでいることに気付いた。
疑問に答えられる余裕などあるはずがない。
「青葉。ゴメ――」
言いかけたリオンの言葉は、途中で大気を振るわせるような轟音にかき消された。
「青葉!!」
リオンはとっさに青葉をかばって彼女の上に覆いかぶさったが、全身を引きちぎるかのような爆風は二人の体に容赦なく叩き付けられる。
思った通り、間に合わなかったらしい。
リオンはせめて青葉だけは助かるようにと神に祈りながら、徐々に意識を失った。
――――――――――
薄暗い闇の中で、幾重にも絡まった蝉の声と、木の葉がざわめきあう音が聞こえる。
きっと外は眩しい光で溢れかえり、濃い青色に染まった空には出鱈目なくらいに高く育った入道雲がたくさん並んでいるのだろう。
しばらくボーっとしている間に夏休みはいつの間にか後半に突入してしまった。
机の上にあるゴミ山に放っておいた宿題をそろそろ片付けないと、八月三十一日に地獄のような思いをすることになってしまう。
あんな目に遭うのは、小三のときと小五のときと小六のときと中一のときだけで充分だ。
いい加減起きなければなるまいと青葉が目を開けると、どアップになったふきの顔が鼻先ギリギリまでに迫っていた。
「ぐわぁ!」と声を上げて逃げようとする青葉を、ふきは体当たりでもするかのように目いっぱい抱き締める。
「お母さん落ち着いて!お母さん落ち着いて!あたしリオン君じゃないよ!!」
「落ち着くのはアンタじゃないのよ。バカ!!」
「だ、だって……!」
意識がはっきりしてきた青葉は、自分がいる場所が自宅ではないことに気が付き、慌ててベットから飛び起きた。
「お母さん、ここどこ!?」
「ここは病院!ここで三日も眠ってたくせに分かんないの?」
「病院?寝てた?」
頭上を疑問符だらけにする青葉をよそに、ふきはハンカチで目元を押さえながらうずくまると、ごうごうと泣き出してしまった。
「まったく、この子は親の気も知らないで。私がどんだけ心配したか分かってるの?もう、ほんとに、二度と、目が覚めないんじゃないかと……。」
ふきは青葉の枕元に顔をうずめて嗚咽している。
普段無神経で、リオン以外のことでは滅多に騒がない彼女が大泣きするというのだから、余程のことが起こったのだろう。
改めて意識すると体のあちらこちらが鈍く痛むし、右頬には医療用テープで特大のガーゼが貼り付けてある。
青葉は必死に記憶の糸を辿ったが、まだ頭がぼんやりとしていて上手く物が考えられなかった。
「ねえ、あたしに何かあったの?」
「何かあったのじゃないよ!まったく!!アンタはリオン君のコンサートで爆破テロに巻き込まれたんでしょうが!!」
ふきの「リオン」「コンサート」「爆破」という言葉が青葉の頭の中で化学反応を起こし、曖昧だった意識に強い閃光が瞬いた。
なぜ忘れていたのか不思議になるくらい鮮やかに、自分の身に降りかかった出来事が次々と思い出される。
ふきと一緒にリオンのコンサートを見に行ったこと。
コンサートの最中に抽選に選ばれ、突然ステージの上に引っ張り出されたこと。
ステージの上でいきなり爆発が起こったこと。
そして――。
「お母さん!リオンは?リオンはどうなったの!?」
青葉は考えるより先に、口が勝手に動いた。
尋ねている間にも、青葉は彼がどうなったのか懸命に思い起こそうとしたが、記憶は瓦礫の前で右往左往していたところでとぎれており、肝心なことは何一つ浮かんでこない。
「お母さんリオンは?リオンは?」
青葉がふきの丸い両肩を掴んで激しく前後に揺さぶると、彼女は物も言わず、ただ滝のような涙を流し始めた。
嗚咽をこらえているらしく、ふきの唇が小刻みに震えているのが分かる。
「そんな――」
青葉は視界が急に暗くなり、世界が自分を残して遠ざかっていくような感覚に襲われた。
結局、青葉はリオンを逃がすことができず、彼はコンクリートの牢獄の中で爆発に巻き込まれたのだ。
とてつもなく綺麗で、とてつもなくひねくれていた彼は、あの薄暗くて冷たい場所で大勢の人間と共に息絶えた。
あの整った顔立ちが小学生並みの悪口を並べてくることも、テレビの中で天使のように微笑むことも二度とない。
「嫌だ。いやだ。いやだ」
青葉は同じ言葉を呪文のように繰り返しながら両手で顔を覆い、脳が彼の死を受け入れることを頑なに拒んだ。
また生き残ってしまったという事実が満身創痍の細い体に容赦なく伸し掛かかり、青葉の肺と心臓をぺしゃんこになるまで押しつぶす。
大事な親友に置いていかれ、共に戦った仲間に置いていかれ、青葉は自分がまだ生きていることを激しく呪った。
二度もみじめ死に損なってしまったのは、神さまに手ひどく嫌われているからなのだろうか。
青葉はベージュ色の毛布を頭の先まで引き上げると、体を胎児のように丸くしてきつく目を閉じた。
外の世界を閉ざすことで少しは痛みが和らぐかと思ったが、暗くなった視界と反比例するように罪悪感と喪失感はよりはっきりと形を増すばかりである。
ふきが何事かと毛布をめくろうとしてきたが、青葉はしっかりと毛布を掴んでそれを拒み、声を極力殺してむせび泣いた。
そうすることがリオンに対してできるせめてもの償いのような気がして、青葉は外から鈴虫の声が聞こえてくるころまで涙を流し続けた。