第11話:偶像とコンプレックス
青葉は予定の時刻を大幅に回ってから、金治の家へ着いた。
今日は朝からふきと鉄和が旅行に出かけているので、青葉は家事を全部こなさなければならず、思ったより遅くなってしまったのだ。
八百屋という家業を営みながら毎日家事もこなしているふきには頭が下がる思いである。
今日のオカルト局メンバーは金治と青葉しかおらず、屋敷の中は水を打ったように静かだった。
月音はバレエ、誠治はゼミの集まりがあり、リオンは言わずと知れたアイドル業である。
昨日は忙しいのに皆来てくれたんだと、青葉は月音と誠治には勿論、リオンにも一応感謝の気持ちを抱いた。
本当は金治の家に三日続けて行くのも気が引けたのだが、コップの訓練が成功したことに金治が驚嘆し、ぜひ明日も来てくれと誘われたのである。
青葉が居間にいた金治に今日は何をすれば良いのか聞くと、彼はメモの切れ端を手渡した。
乱暴にちぎり取られたそれには「超常能力で目玉焼きを作れ」と、酷い殴り書きで記してある。
メモを見た青葉は、思わず口をへの字に曲げて首をかしげた。
「なにこれ」
「ううむ。昨日リオンが明日の課題だと置いて行ったものでな」
「え、これアイツが書いたの」
青葉は昨日のリオンの取り乱しぶりを思い出した。
仲直りは元々仲が悪いから無理だろうが、それでも少しは関係を修復したい。
しかし向こうは仕事が忙しいから会う機会さえ当分なさそうだと、青葉はため息の出る思いだった。
「あーあ。アイツ何とかならないかな」
「リオンか。あの坊主は癖のある奴だからな。一筋縄ではいかないだろう」
「友達になろうとは言わないから、せめて敵意を持たないで欲しいんだけどな」
青葉は改めて小汚いメモを眺めた。
「で、あたしは何をすればいいんだろう」
「昔私が教えたとおりならば、超常能力で生卵を割れという意味だろうな」
「げげげ、手で割るのも上手くできないのに」
「これはかなり難しい特訓だぞ。リオンの奴め。昨日のコップと言い、物事には段階というものがあるだろうに」
金治の話から察するに、リオンは青葉をくじけさせるため、わざと難しい課題を出していたらしい。
青葉は呆れを通り越して、情けなささえ覚えた。
金治がもっと優しい課題に変えようかと尋ねてきたが、青葉はすぐに断った。
リオンが半年かかって成功したコップの課題を一日でクリアできたのだから、目玉焼きの課題だってできないはずが無い。
むしろどんどん難しい課題をクリアしてアイツの鼻を明かしてやろうと、青葉は決意した。
金治から大量の生卵と、フライパンを受け取り、青葉は訓練室で缶詰になった。
要はフライパンの上に卵を開ければ良いのだろうと、早速試してみる。
青葉はコップの課題と同じ要領で卵を空中に持ち上げたが、そこからどうしたら良いのかと、はたと悩んだ。
とりあえず「割れろ」と力を込めるイメージを頭の中に描いてみたが、卵は潰れただけで、黄身も白身も判別できない状態になってしまう。
どうしたらきれいに真っ二つになるものだろうかと、青葉は新しい卵を手に取って穴が開くほど眺めた。
コップと同じように何度も割ってコツを掴んでも良かったが、今回は食べ物なので、できるだけ無駄にはしたくない。
青葉は卵を見ていたせいか空腹を覚え、とりあえず部屋から出て目玉焼きを作ることにした。
そういえば昨日も訓練中におなかが空いたなと、青葉は自分の食い意地に少々恥ずかしくなった。
青葉は金治に許可を取り、広くて清潔なキッチンでフライパンを火にかける。
卵は珍しくきれいに割れた。
特訓でもこうなれば良いのにと、割れた殻の縁を見つめてみる。
手で卵を割る時は、真ん中に力をかけ、それから左右に引く。
これを超常能力でやってみようと、青葉は目玉焼きを平らげながら思った。
青葉は訓練室に戻ると、早速思い付きを実践してみた。
卵は割れたには割れたが、真っ二つとはとても言えず、砕けた殻が潰れた黄身と白身の中に混在していた。
殻を除けば食べられるかなと、青葉はフライパンの中を覗きこむ。
八百屋に生まれた人間だけあって、食べ物は粗末にしないという精神が根付いているのだ。
失敗した卵の中身を借りたタッパーの中に移し、再び特訓を開始する。
結果は、先程と同じだった。
「お手本があればなあ」
青葉は簡易な木製の椅子に腰掛けて、うんと伸びをした。
コップの特訓だって、リオンのお手本があって始めて成功したのだ。
だが今日リオンはいないし、しばらく会えそうもない。
とはいえ特訓をしないわけにもいかず、青葉は腕を組んだまま思い悩んだ。
リオンだったら、どうやって卵を割るか。
彼のことを考えるのは良い気分でなかったが、見本にすべき人物は他にいなかった。
リオンならば簡単に卵を持ち上げて、殻をきれいに半分にしてしまうだろう。
リオンが嫌味な笑顔を浮かべながら卵を割るシーンを、青葉はまざまざと目の前に思い浮かべる。
「よし!」
青葉は頭の中でシュミレートしたとおりに、卵を空中に浮かべ、割った。
つるんという擬音が実際に聞こえてきそうなほど、黄身と白身は見事にフライパンの中へ滑り込んだ。
殻は計ったかのように半分に割れ、フライパンの上空に停止したままである。
「やった!やった!」
青葉はフライパンを持ち、金治に見せようと階段を登った。
地下から出ると、日は既に傾き、屋敷を茜色に染めていた。
一体何時間部屋に閉じこもっていたのだろう。
地下にいたからという一言では済ませられないくらい時間が進んでいたことに、青葉は驚きを隠せなかった。
時が経つのを忘れるほど訓練に集中していたのだろうかと思うと、どっと疲労感を覚えた。
青葉は卵とフライパンを持ったままぼんやりと夕焼けを見つめていたが、こうしてはいられないと慌てて帰り支度を始めた。
暗くなれば、いつ赤マントが襲ってくるとも限らない。
油断したと舌打ちをしながら青葉が玄関に行くと、高そうな若い男向けの鞄が置いてあった。
金治の屋敷に来る若い男と言えば、リオンしかいない。
「あれー、もう帰っちゃうんだ」
背後からの声に振り返ると、案の定リオンがいた。
「あんたなんでいるの?もしかして仕事無いの?」
「今日は朝の六時から仕事だったの。それで仕事場から直接ここに来たワケ。十時間労働してるよ」
「せっかくの仕事終わりに、なんでまたオカ局へ」
「オカ局に来たんじゃなくて、野菜の収穫に来たんだ。あんま置いとくとカラスとかに取られちゃうから。それより、今日の特訓はどうだったの?」
リオンの目の奥が陰険そうに光った。
「おかげさまで、上手くいったよ」
「嘘だね」
「ホントだって。なんならやってみせるけど」
青葉の挑発に、リオンは力無く首を横に振って見せた。
青葉は肩透かしを食らった気分だった。
「てっきり“じゃあ見せてごらんよ”って言うと思ったのに」
「信じるよ。どうせ僕なんか君には到底及ばないんだ」
昨日までとは打って変わった卑屈な態度に、青葉は戸惑うしかなかった。
上手くいったのはリオンのお陰なんだと言いかけたが、今日までのことがあって、中々口には出せなかった。
「分かってたんだ。神代家には敵うはずがないって。血筋が違うもん。最初から勝負は決まってたんだ」
「そんな勝負って。あたしはアンタのお手本があったから、出来たようなもんだし」
「僕だって、きんじぃの手本があったんだよ。だけどコップの修行に半年かかった。卵は二年」
「二年!?」
「驚かないでよ。余計惨めになる。見た物を真似すればできる。それだって立派な才能だよ。僕は真似たって上手くできなかったんだ」
リオンは自分をあざ笑うかのように短く息を吐いた。
「馬鹿にするならすればいいじゃん。ほら、笑えば?」
「何言ってんの?アンタ充分凄いじゃん。赤マントやっつけたしさ」
「ああ、あの取り逃がした奴ね。励ましてくれてありがと。嘘でも嬉しいよ」
「そんなことないって。空飛んだら誰だって捕まえられないよ」
「無理しなくていいんだよ。それとも嫌味で言ってるの?」
リオンは青葉を睨み付けると、いきなり大声を張り上げた。
「分かってるんだよ、こっちには。お前だって僕のこと愚図だって思ってんだろ!?」
青葉が驚いて肩を振るわせると、声を聞きつけた金治が飛んできた。
「リオン、いい加減にしないか」
リオンとは対象的に、金治の言葉は静かだった。
リオンは無言のまま壁にもたれかかると、うつむいて額の辺りに手をあてる。
「青葉、すまなかったな」
青葉は気にしていないと笑顔を見せた。
リオンはまるで悔やむように両手で顔を覆い、下を向いたままである。
青葉は彼が自分を嫌ってくるの理由を女嫌いゆえかと思っていたが、どうも違うようだと気付いた。
――コンプレックス――
直感的にその単語が閃いた。
リオンがこちらに嫌悪感を示すのは、劣等感のせいではないか。
トップアイドルが平凡な女子高生にコンプレックスを抱くなんて、自意識過剰ではないかと青葉は考えたが、自分の直感を否定する気にはなれなかった。
リオンはまだ身じろぎ一つせずその場に硬直していた。
青葉は床に置いてあったリオンの鞄を取ると、彼のすぐ前に立って言った。
「特訓してたら遅くなちゃって。赤マント怖いし、悪いけど今日も送ってくれない?」
リオンは顔を上げてしばらくぼうっとしていたが、「いいよ」と小さく答えた。
帰りの電車の中、二人は昨日と同じく一言も話さないままだった。
青葉は何か言わなければならないと、必死脳みそを回転させて言葉を探していた。
「ごめん」
やっと出た一言がそれだった。
「なんで君が謝るの?」
「だって、怒らせちゃったみたいだし」
「アオバカは悪くないじゃん。僕がいけないんだ」
リオンはいかついサングラスをしたまま、車窓に映った自分の姿を見つめた。
「僕、一体何やってるんだろ。バッカみたい」
青葉は何も言わなかった。
「アオバカ」
「何?」
「ごめんね」
まさか彼が謝るとは思っていなかったので、青葉は少しうろたえた。
目を白黒させている青葉が余程面白かったのか、リオンはマスクの下でくつくつ笑っていた。
青葉は彼が素直に笑っている所を始めて見た気がした。
自宅の最寄駅で電車を降りると、リオンは買い物があると着いてきた。
昨日食材を買い損ねてしまったため、冷蔵庫には賞味期限切れのメカブ納豆と、マーガリンしかないらしい。
青葉の家と似たり寄ったりである。
青葉が自分も今日は両親がいなくて自炊だから買い物があると言うと、リオンは怪訝な顔をした。
「君の家って八百屋さんじゃないの?お店は」
「今日から三日間夏休みなんだ。両親は旅行行ってる」
「なんだよ。アオバカの家で野菜買おうと思ってたのに」
青葉は二人が旅行に出かけていて良かったとため息を吐いた。
リオンがいくら顔を隠しているといっても、熱心なファンであるふきが気付かない保証は無い。
ふきがリオンに気が付くだけならまだしも、知り合いだとばれたらどうなることか。
青葉は考えるのも恐ろしかった。
「とんかつに添えるキャベツが無い」と文句を言うリオンを、青葉は近くのスーパーに案内してやった。
このスーパーは商店街に押され活気が無く、照明も暗い。
とはいえ一応夕日商店街のライバルであり、青葉は極力利用しないようにしていたが、今日ばかりは仕方なかった。
真夏にニット帽、マスクにサングラスといった格好のリオンと買い物カゴを持って並んでいると、青葉は変な気分になった。
常識外れなことばかりあったせいで、感覚が麻痺していたが、横にいるのは天下のアイドルリオン様である。
本来なら近くで見ることも適わない存在と夕飯の買い物とは、起抜けに見る奇妙な夢のようであった。
リオンは慣れているのか買い物が上手く、青葉もほとんど同じ物を買った。
スーパーを出ると外はとっぷり日が暮れており、鈴虫が鳴き始めていた。
「送ってくよ」
「平気平気。歩いて五分もないし」
「赤マント怖くないの?」
不安がないと言えば嘘になったが、襲われた恐怖感は大分薄らいでいた。
襲撃にあってから三日も経つしもう奴は諦めたのではないかと、青葉は少し思っていた。
「アイツ臆病そうだったし、もう来ないんじゃない?」
「臆病だから、襲って来るんだよ。アオバカが生きてるのが怖くてさ。今も狙ってるかもね」
リオンに脅かされ、結局青葉は家まで送ってもらった。
別れ際リオンが「泊まってあげてもいいよ」と言ったが、生ぬるい笑顔で流しておいた。
青葉はちょうど放送していた心霊番組とホラー映画をたっぷり味わってから、布団に入った。
目を瞑ると映画に出てきた血まみれの女が、目蓋の奥に浮かんでくる。
青葉は芋虫のようにうずくまりながら後悔した。
見るなら心霊番組だけにしておけば良かった。
頑張って目を閉じたが、寝入りそうになると怖いシーンのダイジェストが夢になって襲いかかってくる。
それを何度か繰り返すうちに、時刻は二時を過ぎてしまった。
草木も眠る丑三つ時である。
青葉は今度こそ眠ろうと堅く目蓋を閉じた。
しばらくうつ伏せになっていると、家の壁の当たりがみしりと軋んだ。
古い木造建築だから、それぐらいのことはよくある。
うとうととし始めた頃、また家がみしりと鳴った。
青葉がうるさいなと半分夢の中で思っていると、みしりみしりぎしりと続けて音が響いた。
目を開けてもそれは止むことなく、それどころか段々酷くなってくる。
仕舞いには何かにひびが入る音まで聞こえてきた。
青葉は起き上がり、部屋中を見渡した。
きしきしという音はもはやそこらじゅうから耳に伝わってくる。
部屋の中に、不審な点は何も見当たらない。
ならば外かと青葉はカーテンを思い切り開ける。
窓の外は真っ赤であった。
一瞬火事かと思った。
だがよく見ると窓が何かで覆われているのだと分かった。
青葉は慌てて階段を降り玄関の扉を開けようとしたが、扉そのものがたわんでおり、なかなか開かなかった。
それでも何とかこじ開けると、血のように赤い布が目の前を覆い尽くすかのように広がっていた。
青葉はその禍々しい赤に見覚えがあった。
「生命布?」
玄関をふさぐようにしてある布は、間違いなく男が持っていた生命布であった。
青葉は今自分に何が起こっているのか分からず、しばらくうろたえていた。
ぎしりとまた家が鳴った。
玄関の横にある明り取りの窓が砕ける。
青葉はやっと気が付いた。
自分が、いや自分がいる家そのものが、生命布にすっぽり覆い尽くされているのだと。
生命布は家ごと青葉を押しつぶそうとしているに間違いなかった。
――どうしよう――
青葉は言葉をなくし、その場に座りこんだ。
このままでは家と一緒に木っ端微塵である。
――逃げなくちゃ――
青葉は生命布に向かって渾身の体当たりをしたが、布の弾力によって跳ね返されただけだった。
正面突破はできそうにない。
ならば他に手は無いかと青葉が周りをみると、電話機が目に入った。
110番を押してみるが電話線が切れてしまっているらしく、何の反応も無い。
そういえばケータイがあったと青葉は再び自室へ駆け戻った。
ベットの脇に転がっていたそれを手に取り、ボタンを押そうとする。
青葉はいきなりの事態に頭が混乱し、どこにかければ良いのか分からなくなった。
ケータイを見つめている間にも、家はどんどん押しつぶされて行く。
青葉は何かあった時のためにオカルト局のメンバーと番号を交換したことを思い出した。
急いで電話帳を開き、メンバーの名前を探す。
最初にあったのは、リオンの番号だった。
選んでいる余裕があるはずもなく、青葉はリオンに電話をかけた。
プツプツと発信音がし、それからトゥルトゥルと音が変わる。
「早く早く」
リオンはなかなか出なかった。
仕事で疲れて寝こけているのだろうか。
「もしもし」
「リオン助けて!赤マントが――」
電話が突然切れた。
液晶画面がなぜか圏外になっている。
青葉の部屋は外に面しているため、電波の通りは良いはずだった。
考えられる原因は、一つしかない。
「生命布って、電波遮断するの?」
青葉は全身から力が抜けて行くのを感じた。
アイドル(idol)という単語は元々ラテン語でイドラ(idola)、偶像という意味らしいです。