隠れ里は楽し
ここは隠れ里。
誰も知らない、知られちゃいけない。
生きてちゃいけないけど、こっそり生きてる人達の里。三途の川の途中みたいなとこかもしれない、自給自足だけど、なんとなくまったりやっていける里。こっそり過ぎて、まったり過ぎて、時空もこっそりまったり歪んでたり、進んだり、進まなかったり。
「信康殿、今日は何か釣れましたか?」
「これは、母上。ご機嫌麗しく、祝着至極でございます。」挨拶しながら釣り針を上げ苦笑いして見せる。「夕餉の肴になりそうなものは、なかなか釣れませんが…」それから目線を自らの横に移す。
偉そうに踏ん反る中年が一人。着物を脱ぎ、ふんどし一丁であぐらをかいている。
里には、川がひとつあって、時々浮世から何やら流れてくる。ゴミだったり、情報だったり、これから里の仲間になる人だったり。
「この方は?」
目のやり場に困った風に小袖をちらちらさせる風を演じながら、しっかりどこやら品定めしている母を、信康は生暖かい目を向けた。
「我が舅様でございます。」
「舅様?」母は一瞬意味を解せないようだったが、近くに干してあった上等な夜着と、実休光忠を見て、ボケた頭がクリアになったようだ。「信長…さま」
明らかに最後の「さま」は、当の信長に睨まれ、慌てて取って付けたようだった。
浮世に居れば、ここで恨み辛みの人情沙汰になろうかと言うとこかもしれないが、ここは浮世から離れた隠れ里。母はおもむろに扇子を取り出し、口元を隠し、微笑んだ。
「では、流石の信長様も、浮世からご退場になられたと言うこと。」
「瀬名殿、今、ざまあと言われましたかな?」
「私が?信長様に?まさか。」
言葉とはうらはらに、口角が上がるのを抑えられないようだ。無理もない。信康、瀬名、母子は、この信康の因縁で浮世から強制退去させられ、この隠れ里の住人となった経緯がある。
「して、信長様は、何故この里に?」好き放題威張り散らかしてたから、こいつ締めたい奴多過ぎて、見当つかん。夫だった家康は、へたれだから存外として、信玄様は川渡りきって行っちゃったの見たし、松永久秀様や顕如様は先に住人だし。
「光秀っぽい。本能寺で夜襲かけられた。」
瀬名は息子信康に頭の悪そうな眼差しで、助けを求めた。
「舅様の家臣でございます。」
「ほう。流石に我が嫡男。隠れ里にあっても浮世情勢に詳しいのぉ。」
「松永様から話を伺ったとき、母上も同席されておりました。」
瀬名は少しふくれっ面をしたあと、思い直したように扇子で手を叩いた。
「家臣に裏切られたと言うことか。うける。」
信長は鼻を鳴らした。「光秀っぽい言うただけで、光秀って決まった訳ではない。見てないし。」
「負け惜しみ言ってるし。」ゲラゲラ瀬名は笑い出す。
「しかし、明智様にそれ程大胆な行動が取れましょうか?」
「そこよ。光秀は根暗故に、思慮深い。決して浅はかな男ではない。裏で誰か…」
「えー、家康とか?」
「ないな。」男二人が同時に発する。
「家康は、へたれだ。奴は長生きして、時が来るのを待つタイプだ。一か八かにかける男ではない。」
瀬名はプイッと、横を向いた。
確かにその通りだ。そのへたれっぷりで戦いもせず、あっさり、その妻とその嫡男を見殺しにした男だ。だが、自分が夫をへたれと言うのは良くても、誰かに言われるのは腹が立つ。
「では、どなたが舅様を?」
「待ちきれず、策を練る奴…」
信長は腕組みをして、ニヤリと笑った。
「まあ、どうでも良い。今更。流石にこの格好では、いささか寒いような気がしてきたのぉ。暖めてくれんか、婿殿。」
「なりませぬ〜。」瀬名の悲鳴にも似た声が響く。「我子にそちらの趣味はございませぬ〜。」
「では、瀬名殿でも良いぞ。」
瀬名の頬がかあっと朱に染まる。「お、お戯れを…」
時空がまったりしたり、歪んでたりしているだけあり、瀬名の見た目は三十路そこそこの、絶妙な色香を放っている。
信長はかかかと笑う。
「なかなか可愛いところもあるババアになったの、瀬名殿。この里は良いところじゃ。」
「ば、ババア…」
口をわなわなさせる瀬名を横目に、信長は立ち上がる。
「戯れじゃ。とりあえず、宴じゃろ。新しい仲間の歓迎会じゃろ。のお、婿殿。」
信康も立ち上がり、微笑。
「ご案内致します。舅様。」