大好きなパパは刀です
私はパパが大好きだ。
だから寝る時だって一緒なのだ。
今日の読書を終えた私は、とっても大きなあくびをする。ポワポワと宙に浮かぶような気持ちのいい眠気が、私の胸に広がっていく。
ベッドの傍らに置いてあったデスクライトのスイッチを切ると、私はそっと、だけど力いっぱいギュッとパパのことを抱きしめた。
だけどパパは、どれだけ幸せな気持ちで抱きしめたところで、決して抱きしめ返したりはしない。いつだって、どんな時だって、私が抱きしめるのであって、つまり、私の髪を、ほっぺたを、胸を、お腹を、腕を、脚を、絡めるのであって、決してその逆ではないのだ。
パパは、ちょっと頼りなさそうなくらいに細くて、だけどどんなことがあっても揺るがなそうなくらいに硬くて、たくましくて、ひんやりという感触を覚えるくらいには冷たくて、だけどだからこそ私の中の火照った部分を全部受けとめてくれるような実感があって、そんな身体を抱きしめることは、私にとって、とっても、とっても、幸せなことなのだ。
どんな時も、私の側にいてくれる。
今、ここに生きている、私の全てを見守っていてくれる。
それが、パパだった。
大好きな、パパだった
私はパパに、お休み前のキスをする。
芳しい皮の匂いが微かに鼻孔をくすぐって心地がいい。
パパは、何から何まで完璧なのだ。
「お休み、パパ」
また明日。
心の中で唱えたつぶやきが、パパのたくましい身体に溶け込んだのを確かに感じた。
暗闇に慣れた眼で見るパパの姿。
細くて逞しい身体にかぶさる、光沢のある黒い革の鞘。
松の木の趣向を凝らした滑らかな鉛色の鍔。
ひし形模様が並んでいる柄。
それが、パパ――私だけが、見えて、手に取れて、感じられる、刀だった。
※
「行ってきまーす!」
「ああ、行ってらっしゃい」
リビングでのんびりしているお父さんの声を背中に家を出た私は、制服のポケットから読みさしの本を取り出して開く。
左肩にかけた学生カバンと、右肩から背負ったパパの重みをズッシリと感じる。
こんな時、もう少しくらい軽くなってくれないものかとごねたい気分になることがある。なにしろ、カバンだけじゃなくて、パパ(刀)を背負って歩いているのだ。特に運動部に入っているわけでもない私にとっては結構堪える重さだ。
そんなパパにへそを曲げてみることもあるけれども、パパはいつだって私の思いを受け止め、私の背中でカタカタと澄ました音を立て続けるだけなのだ。そして、だからこそのパパで、それが素敵だし、かっこいいのだ。
だから私はパパと一緒に、とてもいい気分で歩く。
九月の下旬、季節の変わり目だと言うのに、見上げる空には雲一つなくて、朝日はピカッと気持よく光っている。普通に歩いているだけでちょっと汗ばむくらいだ。
「高くて青くてとてもいい天気だね、パパ!」
石窯の奥から取り出した焼きたてのパンを差し出すような気分で、私はパパに言った。
ゴミ出しに出ていた近所のおばさんが私に挨拶をしてきて(私はそれに元気よく応えた)、私とは違う高校に通う女の子が自転車を走らせて(挨拶は交わすけど最近それ以外で言葉を交わす機会がない)、黄色い帽子とランドセルの小学生たちが登校班で仲良さそうに歩いて行く(班長の男の子が礼儀正しく「おはようございます」と頭を下げて挨拶をしてくる。それに対しておはようと返すと、いつも顔を赤くするので可愛い)。
いつもの朝だ。
気持ちのいい空だ。
大好きなパパだ。
これ以上は何もいらない。
これ以上つけたすべきものなんて何もない。
「えへへ、パパ、大好き」
「朝から気持ち悪いですね、先輩」
「ほへっ!」
背後から突然声をかけられたら、誰だってきっとこんな声を出すはずだ。パパだってきっとそう言ってくれるに違いない。
でも、声自体は聞き慣れたものだった。
「あっ、菅原くんおはよー」
振り返ると、やっぱり思ってた通りの男の子がジトーっとこっちを見ていたので、私は笑顔で手を振って応えた。
「おはようございます」
「えへへ、相変わらずそっけないね、菅原くん。こんなにいい天気なんだから、元気がゼロだと損しちゃうよ?」
「先輩に向ける元気がゼロなだけで」
「じゃあ、その元気はどこに向けるのかな?」
「……はっ?」
「えへへー」
私はとても不愉快そうな顔をした菅原くんを置いて歩を進めた。どうせ、菅原くんは置いていったところでついてくるのだ。
案の定、菅原くんは私の隣を歩き始めた。眉を眉間に寄せて、いかにも虫の居処が悪いっていう感じの表情。菅原くんは、大体いつもこんな表情を浮かべるけれども、私の隣を歩く時はその感じがいっそう際立つ。そのくせ、いつも律儀に車道側を歩いてくれる辺りが、なんだか可愛かった。
「さっきのカミングアウト」
おもむろに、菅原くんが口を開いた。
「本当にあり得ないくらいに気持ち悪いので、止めてください」
「そうかなー? 好きなものを好きっていうの、気持ち悪くないとは思うけど」
「先輩」
「何?」
「糞とかゲロとか虫の死骸とか、そういうのを好きで好きでたまらない気持ちをデュフフとか笑いながらぶつけてくる人、どう思いますか?」
「その発想が気持ち悪いと思う」
菅原くんがもの凄い表情で睨んできた。
「……要するに」
舌打ちしながら、菅原くんは言葉を続けた。
「先輩の好きは、その程度に気持ち悪いってことですよ」
「えーなんで? むしろパパってかっこよくない?」
そう、パパはむしろかっこいい。
もちろん私だってパパのことを刀だって分かっているけれども、もしパパが実際の刀だったとしたら、重要文化財になってるくらいにいい刀に違いない。ネットで調べたどんな刀よりもパパの方がかっこよかった。パパを擬人化したら、きっと最強キャラに違いない。最強すぎて禁止キャラになる奴だ。
だけど、菅原くんの眉は額に寄ったままだ。
「……っていうか」
菅原くんは、不快な食感のものを吐き捨てるように言った。
「自分でも頭おかしいとか思ったりしないんですか? いい年こいた女子高生が刀を持ち歩いて、それをパパって呼ぶとか」
菅原くんの視線は、私が手にしている私のパパにしっかりと向けられている。その時、自転車に乗った主婦が私たちの横を通ったが、こちらにチラッとだけ視線を向けて、そのまますれ違っていった。
「俺、何回も何回も、どんなバカでも覚えてなきゃ頭おかしいんじゃねえかってくらいに何回も、先輩に言ってますよね? その刀、とっとと捨てろって」
菅原くんがパパに、私と菅原くん以外には誰にも見えない刀に向けて、言葉を吐き出す。
「うん、そうだね。でも私、他の人に不審に思われないようにはやってるつもりだよ?」
「そんな話をしてるんじゃないんですよ、こっちは」
私はえへへと笑う。
そう、これはあくまで私とパパの関係性なのであって、それをわざわざ他人にひけらかそうだなんて思ったりはしない。大体パパは私と、菅原くん以外には見えないのだから、見せようがないし、見せようとする意味もない。そんなのは、授業中に勝手に出歩いては行けないのと同じ程度には当たり前の話だ。
「気持ち悪くない? かっこいい? ふざけてんですか? ありえねえですよ、俺から言わせて貰えれば。そんなものを、そんな年になるまでお人形さんにみたいに持ち歩いて、パパって呼ぶとか。大好きって言うとか。ファザコンかよ、いや、それ以下ですよ」
「菅原くん、今日も絶好調だねー」
「……なあ、真面目に聞けよ! マジでよ! おま、先輩、いつもそんな――」
「菅原くん」
私はニッコリと笑って菅原くんの言葉を止める。口を半開きにして、何か後ろから叩かれたみたいな表情を浮かべる菅原くん。
「足、止まってるよ? それに声も、大きいよ? 周り、多分見るよ? こっちを」
一応この辺りは私と菅原くんの家の近所圏内なので、変な風に見られるのは、ちょっと困る。私はまあ百歩譲っていいとしても、菅原くんはきっと良くない。菅原くんにとって、そういうのはきっと、耐え難いものだろう。
「ね? とりあえず、駅に行こ? 私がパパを捨てるかどうかは別問題として」
まあ、私がパパを捨てるなんてあり得ないわけなんだけれども。
菅原くんはまだ何か言いたそうな表情だったが、それでもバツの悪そうな表情を浮かべて、小さく頷いた。
「……せん」
「いいよー」
すみません、とちゃんと発声されていたら聞こえていたであろう謝罪の言葉に、私はニコッと笑いながらそう応えた。菅原くんは瞬間的に顔を赤くして、「……だから嫌いなんだよ、クソが」と呟いた。私はニコニコして菅原くんと一緒に歩き始めた。
「…………」
「…………」
私たちはしばらく、無言で駅に向かって歩き続ける。
こんな時にもパパは、硬い口――どころか、あまりにも硬すぎて一切開くことのない口を寸毫足りと揺らすことなく閉ざし、ただ私の背中でカタカタと揺られ続ける。
住宅街を通り抜け、国道のる大通りも抜けて、まだまだ朝早い時間帯の商店街へと入る。
この時間帯だと24時間営業のコンビニやファストフード店くらいしか開いてないけど、駅周辺なので、流石に人通りは増え始める。大概の人が自転車で駅に向かってる中、私と菅原くんは歩きだ。家から歩いて大体二十分程度だし、健康的だし、駐輪場代もかからない。菅原くんも多分似たような理由だろう。
そんな感じで私たちは歩き続ける。菅原くんは、決して先に行ったりしないし、遅れて私にペースを合わせさせるようなこともしない。せいぜい、さっきみたいに不注意なヒートアップがあるくらいだ。
「……先輩」
駅を目の前にした交差点で信号待ちをしていた時に菅原くんが口を開いた。その口ぶりはぎこちなかったけれども、敵意がこもっていないことだけは伝わった。
「先輩がすすめてくれた本あったじゃないですか。日常系ミステリーの奴」
「あーあれね。私、気になり」
「あれ、なかなか面白かったですよ。ヒロイン可愛かったですし」
「ふーん。菅原くんってああいう女の子がタイプなんだね」
「いや、別にそうじゃないですけど」
「っていうか、菅原くんのタイプの女の子ねえ……どんなのなんだろう?」
菅原くんの目にまた敵意が戻ってきた。
見当違いのツボを押されて顔をしかめる感じの表情で、私のことをジッと睨む。
あれ? 私、何か怒らせること言った?
「……先輩、俺を一体なんだと思ってるんですか? 俺、ごく普通の男子高校生なんですけど? 笑うし、本読むし、可愛い女の子を好きになる。想像つきそうなもんでしょ?」
「いや、別にそんなつもりで言ったんじゃ」
「だから、その程度の想像力もない先輩なんかよりも、遥かに好きな人がいたって、全くおかしな話じゃないでしょう?」
「あっ、好きな女の子いるんだ」
チッと菅原くんが舌打ちした。完全に、口が滑ったっていう顔をしている。
「でも、好きな女の子がいるんなら、そっちの子と一緒に学校行けばいいんじゃない?」
「そもそも、その人は自転車登校なんで」
「ふうん、そうなんだ」
むしろこんな一緒に駅に向かって歩いてる、みたいな感じのことが出来る程度に近所同士っていうのが珍しいくらいかもしれない。高校生だと、なおさら。
「俺としては、先輩がその刀を捨ててくれればそれでいいんですよ。そうすれば俺、すぐにでも先輩の前からいなくなりますんで」
「うーん、それはちょっとなあ……」
「……あの、俺本当に――!」
「チェリオ!」
「んなっ――!」
飲み物の名前みたいな叫び声とともに、鈍く弾けるような音が唐突に響いた。
上ずった悲鳴とともにつんのめった菅原くんが、なんか面白かった。
「バカ幹久! またヒナちゃんイジメてるわけ? いい加減その悪趣味止めなさいってなんども言ってるじゃない、バーカ!」
よっぽど絶妙な角度で入ったのか、後頭部を押さえながら、んががっ……! と悶絶する菅原くんに、実に元気な感じで女の子が言葉を叩きつける。
要するに菅原くんは、元気な感じの女の子――綿木さんに思い切りぶん殴られたのだ。
「おっはよーヒナちゃん! 今日も髪が綺麗だね! ナイスお手入れ!」
何事もなかったかのように綿木さんがニコニコと笑いかける。シュタシュタッといった感じの機敏で軽快な動きは、なんだか元気なお姉さんという印象を与える。ちょっと男の子っぽいショートヘアーに、サバサバとした雰囲気が、そんな印象に拍車をかける。でも、綿木さんは私と同い年の女の子だ。菅原くんの一つ上なので、彼にとっては実際お姉さんのようなものなのかもしれない。
実際、菅原くんと綿木さんは幼馴染同士だ。
「うん、おはよー綿木さん。えへへ、ありがとねー。パパもきっとそんな風に褒めてくれる気がするよー」
「ヒナちゃんは相変わらずのお父さんっ子だよねー。うちの親父、家にいる時は大体ダメな感じだから羨ましいなー」
「えへへー、どもども……」
このやり取りに対して、菅原くんが怒気を込めた眼でこちらを見たが、私は気にしない。
パパは私と菅原くん以外には見えない。
だからこういう文脈でパパという言葉を出しても、譜面通りに受け止められるのだ。
やがてこちらから視線を外すと、菅原くんは綿木さんに向かって吠えだした。
「バカギ! いきなり後頭部をぶん殴ってくんじゃねーよ!」
「うっさいバカ! そもそもあんたがいっつもヒナちゃんに意地悪してるのがいけないんでしょ! 何か言いたいことがあるんだったら、男らしくはっきりと言いなさいよね!」
「バカギこそ、手なんて出さねえで口を出したらどうなんだ!」
「えっと、二人とも落ち着いて……って、きっとパパならそう言うよ?」
私が笑ってそう言うと、菅原くんは眉をしかめながら舌打ちをして、綿木さんはキョトンとした顔でこちらに視線を向けてくる。
「……まあいいや、一旦ね。あんまりウダウダやってると学校遅刻しちゃうし」
毒気を抜かれた様子で綿木さんが言った。
「でもヒナちゃん、私ヒナちゃんのこと好きだから言うけど、このバカ、本当に不愉快だったら私に遠慮なく言ってね、そしたら手足をふんじばってでも、二度とこいつ、ヒナちゃんの前に立たせないから」
「だから俺は、先輩が「捨てて」くれさえすればそれでいいんですってば」
「「捨てる」? それ一体何の話? ってか、本当に何がどうなってるんだか知らないけど、女の子相手に……」
「菅原くん、綿木さん、学校遅れちゃうよ?」
それだけ言うと私は、二人を置いて駅の改札に向かって歩いていった。振り返らなくても、私が駅の改札を通る頃には、菅原くんと綿木さんが私のすぐ後ろについていることが気配で分かった。
いつもの朝。
いつもの二人。
大好きなパパ。
「今日もいい一日になりそうだね、パパ」
「ん? 何か言った?」
「ううん。独り言」
綿木さんが問いかけてくるその横で、菅原くんが顔を歪めてこちらを見ていた。
※
菅原くんも昔、パパみたいな刀を携えていたことがある、らしい。
私にとってのパパのように唯一無二で、菅原くん自身以外には誰にも見えない(そして菅原くんには、私にとっての菅原くんのように、自分以外に刀が見える人は本当に誰もいなかった)、そういう刀を。
小学校を卒業する直前くらいまでは、まさに寝食を共にして、喜びも悲しみも分かち合っていたような、彼の片割れのような存在だったのだそうだ。
だけどある日突然、菅原くんは刀を捨てた。
ある日突然、こんなものを持っていること自体が馬鹿馬鹿しくなった、のだそうだ。
何故馬鹿馬鹿しくなったのか、までは教えてくれたことはない。第一、菅原くんがかつて刀を持っていたことを話してくれたのは、たったの一回こっきりなのだ。
だけどそのことを語った時の彼の口ぶりは、まるで遠い昔に土地を治めていた愚かな王様の愚かな過ちを語るかのように、とても乾いていた。
お昼休み、図書室に向かっている途中、私は渡り廊下で菅原くんとすれ違った。
菅原くんはシャギーの入った髪とシャープな目つきが印象的なイケメンの友人くんと何やら楽しそうに談笑していた。
――あの子、あんな風に笑ったりするんだ。
本当に屈託なく腹を抱えて笑っていて、私に絡んでくる時の彼とはまるで別人に見えた。 菅原くんは、何を思ったのかは知らないけれども、私と、私が背負うパパにチラッとだけ視線を向けて、そのまま横を通り過ぎた。
菅原くんは、学校内ではあまり絡んでこない。そもそも学年が違うし、こんな風にすれ違ったりする機会自体もそう多くない。少なくとも、こんな感じに過ごす友達との楽しい時間をぶった切ってまで私に絡んでくるということはない。もちろん、私の方からぶった切る理由もどこにもない。それに、どうせ放課後になったら向こうから絡んでくるのだ。
こうして私と菅原くんは何事もなく、互いに通り過ぎていった。
借りていた本を返して、新しい本を探して本棚をウロウロしていると、後ろからチョンチョンと肩を突かれた。
「やっほーヒナちゃん、いえー」
振り向くと綿木さんがいて、いかにも彼女らしい元気いっぱいの笑顔を浮かべていた。
「ヒナちゃん、何か本探してるの?」
「うーん、何読もうかなって探してた感じかなあ」
「なら円城塔を読むしかないね!」
「えんじょう……」
「円城塔! 今一番訳分かんない作家筆頭!」
つまりそれは読むしかない作家ってことだよ! と、綿木さんは目を輝かせて力説する。
普段の綿木さんはむしろ分かりやすい物事を好むけれど、ことフィクションになると、何故か「よく分からないもの」を好む。好むどころか、綿木さんにとって物語とは、原則的に訳が分からなくてはならないものなのだ。
「でもヒナちゃんはミステリ好きなんだよなあ……訳が分かることが前提の奴」
「あははっ、訳が分からなかったら迷宮入りになっちゃうからね……」
「じゃあオースター読もうよオースター!」
何がじゃあなのかはよく分からないけど、綿木さんの語りはますます熱を帯びる。
「あいつ、探偵小説の皮を被ったキ○ガイ小説を書くド変態なんだよ! 和製だったらやっぱり『黒死館殺人事件』だと思うけど、あれはヒナちゃんには刺激が強すぎるからなあ……戻ってこれなくなっちゃうよー」
あはははー奴は三大奇書の中でも最強……と綿木さんは自分の世界に入ってしまった。だけど、その気持ちは何となく分かる。
私の場合、綿木さんみたいに朗々と語るわけにもいかないけれど、それでも大好きなパパのことを思うだけで、綿木さんが今感じているくらいの幸せを感じることは出来る。
パパは今もこうして背中で背負われているけれども、ふとした瞬間にパパの重さを感じる度に、パパの存在を感じることが出来て、それはとても嬉しいことなのだった。
「重いのが玉に瑕だけど……」
「何か言った?」
「ううん、なんにも」
いつのまにこっちの世界に戻ってきた綿木さんが首を傾げていたので、私は微笑みながら首を横に振った。
綿木さんが戻った席の正面に座り(結局今日は何も借りないことにした。今読んでる本もあるし)、私と綿木さんは雑談をする。
基本的に図書室にはあまり来ない綿木さんだけど、好きな作者の新刊が出たり、後は何か私と話をしたい気分になった時などに訪れる。今日は後者だったらしく、さっきのノリの延長線上で、円城塔の話をする。
「だってフロイトさんが床下から大量に出てくるんだよ? マジ意味分からなくない?」
「ホラー小説?」
「違うよ! SFだよ! スペキュレイティブ・フィクション的な!」
「そうなんだー、それはすごいねー」
正直半分くらいは何を言ってるのかよく分からなかったので、私はニコニコしながらそう言うと、綿木さんは「でしょでしょー!」とますます熱を上げる。
「つまり、出生とパスワードとお話は分からないに越したことはないってことですよ!」
「出生は分からないとまずいんじゃない?」
「もー! 分かってないなーヒナちゃんは! 自分の生まれが分からないなんて最大の不条理じゃん! 気がついたら自分が存在していて、それが何故か分からないなんて、サイッコーにクールじゃん! そんなのは安部公房じゃあ常識なんだよ! カフカ的にも常識! なのに誰も分かってくれない! これだから若者の活字離れは!」
「私、結構本読んでるんだけどなあ……」
「バカ幹久はともかく、結構本読んでるはずのヒナちゃんも分かってくれなくてショックだよー! もーこの状況こそが最大の不条理だし不合理だし理不尽だよー!」
「えっ、それって綿木さん的にはいいことなんじゃない?」
「リアルとフィクションは違う!」
ビシッと人差し指を突き出す綿木さん。
あれ、出生が分からないのはサイッコーにクールなんじゃなかったっけ? 綿木さんにとってそれはリアルに入らないのだろうか?
「ヒナちゃんだって、春樹おじさんの小説みたいに、リアルでサバとかイワシとかヒルとかが空から振ってきたり、Qな世界に飛ばされて空に月が二つ浮いてたら嫌でしょ!」
言ってみれば作家の仕事というのは、物語という手段で、この現実世界の埒外にある不条理という概念を観測し、読者たちに掲示することなのよ!
そう高らかと断言して悦に入る綿木さんを見て私は、この前綿木さんが、「あーもー! あんた何が言いたいのかはっきりしなさいよ! 意味分かんないのよ!」と叫びながら菅原くんのお尻を蹴り飛ばしていたのを思い出していた。
「……で、そのバカ幹久のことなんだけど」
「えっ?」
ちょうど菅原くんのことを連想していたのでちょっと虚を突かれた。いつの間にか、真面目な表情で私の目をジッと見つめていた。綿木さんは感情が結構コロコロと変わるのだ。
「実際のところどうなのあいつ? ヒナちゃんにいつも酷いことしてきてるんでしょ?」
「酷いこと?」
「……学校行く時とか、帰る時とか、ヒナちゃんに付きまとって、何かウダウダ嫌なこと言ってきてるんでしょ、あいつ?」
綿木さんがなんの話をしようとしているのかを理解した。というか多分、最初からこの話をするつもりだったんだと思う。
「今朝も言ったけど、本当に不愉快だったら今すぐにでも私にそう言ってくれていいんだからね? マジであいつ、一〇人くらいにとり囲まれて殴る蹴るの暴行を加えられないと学習出来ないくらいバカなのよ」
「まさに不条理だね、綿木さん」
「で、実際どうなの? マジで」
「うーん、私は別にそんなに気にしてないからいいんだけど」
「……本気で言ってる? ぶっちゃけあいつの言動、誰でも腹が立つ奴だと思うんだけど」
「でも、実際そんなに気にならないし……」
心当たりだってあるし……。
なんて思いつつも、私はチラッとパパの方を振り返る。ちなみにパパは今、私が普段背中にかけている紐を椅子に引っかけている。
「……何で後ろ振り向いてんの?」
「ちょっと物音がした気がして」
「ふーん……」
私の言葉に納得したのかしてないのか、私のことをジッと見つめている綿木さんの表情に、訝しげな眉の曇りが浮かんでいた。
「……ねえ、ひょっとしてヒナちゃん、実はなんかスゴイ悪いこととかしてない?」
随分と突拍子もない言葉が、綿木さんの口から出てきた。
思わず「えっ?」と声が漏れて、一瞬思考が止まったけど、すぐに私は苦笑した。
「えっと……最近、あまりにも数学の時間で寝すぎてるから、先生に結構こっぴどく叱られた……とか?」
「いや、そんなんじゃなくて、割とガチな奴。煙草吸ったり酒飲んだり、マジな感じの夜遊びをしたり、誰かをイジメたり……」
「ははっ、私ってそんな風に見える?」
流石にちょっとあ……と思った。
そりゃあ私だって、ちょいちょい宿題忘れたりとか居眠りしたりとか友達と買い食いしたりとか誰かの陰口とかに付き合ったりしたりすることもあるけれども、流石にそういうのは「割とガチな奴」ではないはずだ。
そういう諸々に対してパパに罪悪感を全く抱かないかって言われたら流石にそれはないけれども、でも、私は別に、優等生でもなんでもないのだ。
そんな感じのことが表情にちょっと出たのか、綿木さんは慌てて、
「あっ、ゴメン。そんな風に思ってるわけじゃないんだけど、一応、確認したくて」
「いいよいいよー」
「いや、実際ヒナちゃんみたいにポワポワしてて可愛い子が、そんなことするわけないって分かってるんだけど……あのバカ幹久、本当に、何考えてんのよ……」
マジであのバカ、百発くらい蹴り飛ばしてやろうかな……恨めしそうにそう呟く綿木さんの表情が真剣そのものだったので、私は思わずちょっと菅原くんに同情してしまった。
「……あいつ、本当にバカなのよ。自分が間違ってるって思ったことには、とことん突っかからずにはいられない身の程知らずっていうか……それで中学の時にイジメにあってたくせに、未だに懲りないのよね、バカだから」
そんなにバカバカ言うことないのに。
「でも、それって正義感が強いってことなんじゃないの?」
そう言って見た私に、だけど綿木さんは渋い顔をして首を横に振った。
「そんなんじゃない……少なくとも昔のあいつは、そんなんじゃなかった」
「どんなんだったの?」
「いっつもボーッっとしてて、いっつもニコニコしてて、ほっとくといつも一人で座り込んで自分の世界に入ってるような、そんな奴」
……何だか、私に似てる気がする。
同じことを思ったのか、綿木さんが私の顔を見る目がどこか意味ありげに見えた。
「一般常識的な倫理観とかならともかく、あいつに確固たる『正義感』なんてものがあるわけないのよ。幼かった頃のあいつは、本当に、なんにも考えてないような奴だったんだから……バカで、鈍くさくて……」
そう語る綿木さんの眼は、どこか遠くを見ているようだった。
私はそれこそ今の菅原くんしか知らないし、昔の、私のパパのような刀を持ち歩いていた頃の、私に似た性格だった(と思われる)頃の菅原くんの姿は想像もつかないけれども、綿木さんは菅原くんの幼馴染なのだ。
「……実はね、あいつが今絡んでる奴って、もう一人いるのよ」
雫が溢れ落ちるかのように、綿木さんはボソリと言った。
「そういえば今日、好きな女の子がいるって話、菅原くんしてたんだよね」
「……多分その人ね。山原先輩。元演劇部の山原先輩。私たちの一個上。三年生」
「元演劇部?」
「そっ。進級するくらいのタイミングで辞めちゃったらしいのよね。受験勉強に専念したいからって理由みたいなんだけど」
「ふーん……菅原くんって、実は演劇とか好きなの?」
「ぜーんぜん。劇どころか、映画だってあんま観ないし、ドラマだって登場人物の名前もロクに覚えないような奴なのよ?」
「そうなの? じゃあ何で?」
綿木さんは、憂鬱そうなため息をついた。綿木さんは、やっぱり遠い目をしていた。
「……まずね、そんな無関心野郎であるにも関わらず、あのバカも元演劇部なのよ」
「そうなの?」
ビックリして私はちょっと身を乗り出した。
だってそんなこと、今まで一言も口にしたことがなかったし、それこそ菅原くんらしい感じが全然しない。菅原くんが「演技」だなんて、パパが西洋的な大剣になるのと同じくらい違和感がある。
「でもなんで……あっ、そっか」
「うん、完全に山原先輩目的。先輩のことを間近で見ていたくて入ったのよ」
ってあいつ自身は絶対そう言わないだろうけど、と綿木さんはおかしそうに言う。
「で、その好きになったきっかけが去年の文化祭――あいつ、去年遊びに来てたのよ。その時の演劇に、山原先輩が出てたってわけ」
「へえ……ヒロイン役とかだったの?」
「……去年の演劇部、ちょっと学校内で話題になってたんだけど覚えてない? ヒロインやってた、今は卒業しちゃった花宮先輩がめちゃくちゃ可愛くて演技が上手いって話題になってたんだけど」
うん、知らない、と私は首を縦に振る。言われてみればそんな話題が上がっていたような気もするけれども、それこそ私もそんなに言うほど演劇に興味があるわけではない。
ちなみに去年の文化祭の時、私はクラスで焼きそばを焼いていた。
「……ヒナちゃんらしいなあ」
と、綿木さんは苦笑した。
「でも、あのバカが好きになったのはそっちじゃなくて、脇役の方。一言で言うと、戦時下の話だったんだけど、その時山原先輩は戦争反対を訴える新聞記者の役だったのよね」
「上手かったの?」
「……下手ではなかったと思う。むしろ、特に力を入れてるわけじゃない演劇部の部員にしては上手かった方だったと思う――でもそれ以上に、花宮先輩が圧倒的だった」
それは、素人目にも瞭然と分かるくらいに、凄まじいスター性だったのだという。
単純に容姿端麗だったことは言うまでもなく、舞台上での立ち振舞も、艶やかに放たれる一つ一つの言葉も、まるで自らの存在の全てを叩きつけるような感情の出し方も、どれをとっても神がかり的であったのだという。
「私、身内ノリ以外で、学園祭のステージ発表でスタンディングオベーションが起きたの始めて見た。しかもほぼ満場一致。私とあのバカまで立っちゃったくらいなんだから」
まああのバカは空気読んだだけだろうし、そういう奴も少なからずいるのかもしれないけど、と綿木さんはつけ足す。
「でも、菅原くんが好きになったのは、花宮さんじゃなくて……」
「そっ、山原先輩。だから私ビックリしちゃったのよ、あの演劇終わった後、あの新聞記者の役の演技がスゴく良かったとか言い出して。こいつ、メインヒロインが誰かも分からないで観てたんじゃないかって本気で思っちゃったくらいだったんだから」
そうではなく、本当に「山原先輩」に惚れいていたのだと分かったのは、それからこの高校に入学した菅原くんが、迷うことなく演劇部に入り、自己紹介の場で「俺は去年の山原先輩の演劇に感激して演劇部に入りました」と堂々と宣言した時だった。
「でも、その頃には、山原先輩は部活自体にほとんど顔を見せなくなっちゃってて、あのバカが入部してそんなに経たないうちに、部活そのものを辞めちゃったってわけ」
正確には、あの文化祭の演劇が終わって以降、少しずつ演劇部に来なくなってたみたいね……聞いた話だけど。
タイミングが悪かったんだなあ、と私はのんびりと思った。
「で、あのバカも最初の一ヶ月くらいは部活にいたんだけど、案の定、山原先輩ともそれ以外の部員とも揉めちゃって、結局部活を辞めちゃった。ま、あいつはその後も山原先輩に絡み続けてるわけなんだけどね」
もうほとんどストーカーよね……。
と、綿木さんは情けなさそうにため息をつきながら言った。
「止めないの?」
「言って止まってるんだったらとっくに止まってるし、ヒナちゃんにも付きまとってない」
うーん、と私は言った。
山原さんが言っても止まらないんだから、多分それはもう止まらないんだとは思う。
でも、菅原くんって、いちいち必死だなあ、とは思った。
私に対しても、ああも絡んできて、チクチクとパパを捨てさせようとする。
「山原さんはあまりにも私的な問題過ぎるから、本当に酷いことにならない限りは止めないつもりだけど、ヒナちゃんの場合はマジで意味不明だから、もしなんかあったら、私に言ってね。ぶっ飛ばしにいくから」
※
放課後、パパの程よい重たさを感じながら家に帰ろうとした私は、駐輪場の近くで怒鳴り声を聞いた。チラホラと野次馬らしき生徒たちがいて、何よりその怒鳴り声には聞き覚えがあった。
最初は通り過ぎるつもりだった私も、その聞き覚えのある声が菅原くんのものだと気づいて、チラッと顔を覗かせてみた。
すると、やっぱりそこには菅原くんがいて、さらに、何やら大人びた印象の女子がいた。胸元のリボンの色からして、三年生だった。
メッシュの入った茶色いロングヘアーで、細い目つきは不必要なまでの鋭さを醸し出している。身長は結構高めで、クラスで真ん中より後ろの方に並ぶ菅原くんとほとんど同じくらいだった。
身長も含めて、スラリとしたスタイルのいい女性だとは思うけれども、男子受けがいい女子にはあまり見えなかった。
私は、この人こそが山原さんだと直感した
本人と綿木さんの言っていた、菅原くんの好きな女性。
「俺は絶対認めないからな! 受験勉強で忙しい? んなクソ見てえな言い訳、誰が信じるかってんだよ!」
半分は不愉快そうな、半分は嘲っているような周囲の視線を一切顧みずに菅原くんが放つ怒声。
しかし、山原先輩は全く動じるない。話を聞いているかどうかさえ疑わしいくらいだ。山原先輩は菅原くんの方を振り向くことなく、自転車の鍵穴に鍵を合わせている。
「そうやって自分から逃げてる分際でクール気取りやがって! 何を言われたって何も感じませんってか? はっ、そりゃそうだろうな! だから役者の夢だって平気で諦められんだろ! たかが、学校内のヒロイン様に敵わねえってだけでよ!」
カシャン! と自転車の鍵が開く音が何かを打ち切るように響く。それから義務的な動作でスタンドバネを蹴り、スタンドを起こし、自転車ごと後ろに引き下がり、すぐにでも発進出来る状態にする。この一連の動作が、あまりにも平常で、日常的過ぎて、一瞬、山原先輩に菅原くんが見えてないんじゃないかと本気で思ってしまうくらいだった。
しかしもちろん山原先輩は菅原くんが見えていて、ちょうど進路上に立ちふさがる形で立っている菅原くんの目の前に止まった。
「……まだ、何かある?」
「ああっ?」
「終わったなら、っていうかそういうことしか言うことないなら、どいて。邪魔だから」
「てめえ!」
「うるさいなあ」
山原先輩の拒絶の言葉には、倦怠感さえ見受けられた。山原先輩にとって怒りという感情は、遠い昔に阿蘇山の森の奥深くの穴の中に埋めてきてしまったものなのかもしれない。
それと一緒に、菅原くんへの関心も。
いや、もしかしたらそれは、他人への関心そのものなのかもしれない。
「本当にキミ……えっと、なんだっけキミ? とにかくキミ、本当にうるさいから、どっか別のところで吠えてくんないかな? 甲高い喉声が耳障りなんだよね。キミ、本当に演劇部? ああ、元だっけ? どうでもいいけど」
「菅原! 俺は菅原だ! テメーの部活の後輩の名前くらい覚えろバカ野郎!」
「キミは敬語を覚えたほうがいいね。そのうち刺されて死んじゃうよ。どうでもいいけど」
「あんたみたいな負け犬先輩に使う敬語なんて持ち合わせてねえんだよ! どうせその分じゃ受験勉強なんてロクにやってねーんだろ? 部活も夢も平気で投げ出せる奴が――」
「だからさ」
平たい。
山原先輩の言葉は、表情は、態度は、どこまでも、フラットだった。
「邪魔だからそこどいてってば。なんでもいいけど、そこどいてくれなきゃ帰れないし、なんかさっきから耳障りだし、時間の無駄だし、なんかもうとにかく、存在が邪魔」
「そんなに邪魔邪魔言うなら、無理にでも通れば――」
バチン、と鈍い音がした。
菅原くんを、山原先輩が平手で殴ったのだ。
「あんたに何が分かるのよ――!」
ギュウギュウに詰まった空気を、吐き出すように。
そんな声で、山原先輩は言う。
「あんたなんかには分からないわよ……自分が好きで、打ち込んできて、憧れてきたものを、横から掻っ攫われて、それが二度とこっちに戻ってこないって、そういうのを思い知らされるような気持ちなんて……あんたみたいな中途半端なクソガキなんかに!」
打たれた頬を抑えて呆然とする菅原くんに向ける山原先輩の青白い表情は凄絶で、地の底から怨嗟をぶつけてくるかのようだった。
好奇と嘲りの入り混じっていた態度で彼らを眺めていた野次馬たちは、山原さんの有様に凍りつく。そうせざるを得ない程に、その姿は、絶望している人間の姿そのものだった。
「……先輩、やっぱり――」
「こういうのでいい?」
呆然としていた菅原くんが、何か決意めいた意志を瞳に宿らせて口を開こうとしたその時、平坦な声で山原先輩が言った。
「えっ?」
「こういうのがいいんでしょ? こういう言葉が欲しかったんだよね? だからやってみたんだけど――気が済んだらどいてくれる? 邪魔だから、存在が」
「…………」
淡々と、面接官からの質問に事実だけを応えるような、感情らしい感情の篭っていない声色、表情……。
つい先程まで、強烈な存在感を伴って山原先輩の表情に浮かんでいた絶望の感情は、最初からさっぱり存在していなかったかのように、跡形もなく消えていた。
いや、消えたんじゃない。
そうじゃなくて、最初から存在なんてしていなかったのだ。
それはまるで、演技のように。
悲劇を求める観客に応えた、演劇のように。
菅原くんは青ざめた表情で、絶句していた。きっと、そうし続けることしか出来なかった。
「だから邪魔だからどいてってば……それとももう一回やる? 今の流れ」
「…………」
菅原くんは、心ない持ち主に引きずられる無力な人形のように、重く力のない足取りで、身体一つ、横にずれた。
野次馬の誰かが、「うっわ、キツ……」と呟いたのを私は聞いた。
そういった一切に対して何も感じていないような無表情で、「じゃ」とだけ言うと、自転車を引いて去っていった。
「そんだけの才能がある癖に――!」
その背中に向かって、菅原くんはなお叫び続ける。声はかすれる程に高くて、聞いているこっちの喉が痛くなりそうだった。
「学園のヒロイン如きに尻尾巻いて逃げ出してんじゃねえよ! そうやって自分の全てをテメー自身で否定してんじゃねえよォ!」
山原さんは駐輪場を出たところで自転車に跨り、そのまま走り去っていった。彼女は振り返るどころか、菅原くんの言葉に反応すらしなかった。
「菅原くん」
野次馬たちが浮ついた足取りで去っていく中で、私は菅原くんに声をかける。
菅原くんはそれで始めて私のことに気づいたように目を見開いた。それからすぐに舌打ちをすると、私の横を通り抜けて、そのまま早足で立ち去ろうとした。
何となくこのまま放っておいては行けない気がして、パパならきっとそう言う気がして、だから私は菅原くんの背中を追った。
「……追ってくるんじゃねえよ、クソが」
しかしその口ぶりとは裏腹に、菅原くんも無理やり私のことを振り払うつもりはなさそうで、校門を出て三分くらい追ったところで、足を緩めた。
「菅原くん、さっきの人が、今朝言ってた菅原くんの好きだっていう女の人?」
「……だったらなんですか?」
「何ってことはないけど……」
「じゃあどうでもいいでしょ。ほっといてくださいよ」
会話が終わってしまう。
いつもみたいに、パパへの悪口も込みの罵詈雑言が飛んでこないのはいいことなのだけれども。でも、この沈黙は重たかった。
「なんであの人のことが好きなの?」
「はっ?」
「いや、なんとなく気になって……」
「それこそなんでもいいでしょうが……先輩なんかに話す義理はないですよね?」
そりゃそうか。取りあえず何か言わなきゃいけないと思って言ってみたけれども、なんでそんなことを聞いてしまったんだろう。
「なんでなんだろう……」
憮然とした表情で隣を歩く菅原くんに聞こえないくらいの声でパパに問いかけてみても、やっぱりパパは何も言わない。むしろ、応えなんて絶対返ってこないことを分かった上で聞いたような気さえしてきて、そのことが何だか私に安心感をもたらした。
この後、学校の最寄り駅から電車に乗って、電車に揺られて、私と菅原くんの地元の駅に着くまで、お互いに無口だった。
「……俺が、去年の文化祭に来たのは知ってますか?」
徐に菅原くんが口を開いたのは、駅のロータリーに降り立って、ロータリーのベンチに腰掛けてのことだった。
「うん、知ってる。綿木さんから聞いたし」
私もその隣に腰掛けて、菅原くんの言葉に応える。
「……で、その時に劇を見たんですよ。戦争の話でした。先輩は見ました?」
「ううん。私は焼きそば焼いてたから」
「どうせ、その劇がすげー話題になってたことも知らなかったんじゃないすか?」
えへへっ、と私は苦笑いする。
菅原くんは呆れたようなため息をついた。
「まっ、俺も知らなかったんですけどね。部外者でしたし。その時たまたま友達と一緒に見に来てた綿木の奴に聞いて始めて知ったくらいでしたし。で、俺はその劇で、山原先輩に惚れたってわけですよ」
「話題になってたのは花宮先輩の方でしょ?」
「……それでも、俺からすれば、山原先輩の方が凄かった」
っていうのは言い過ぎにしても、と菅原くんは少し照れくさそうに付け加える。
「あの人だけが、もの凄い強度で、自分以外の人間になろうとしてた……俺には、そう見えたんですよ」
「演技が上手いってこと?」
「……演技自体は、花宮先輩の方が上手かったですよ。いくらなんでも、俺にだってそれくらいのことは分かりますよ」
どうせ綿木の奴は、俺のことをそんなことも分からないバカ、くらいに思ってるんでしょうけどね、と菅原くんは面白くなさそうに呟く。私は思わず、へへっと、ちょっと困ってしまった感じの声を漏らしてしまった。綿木さんも、もう少し菅原くんに優しく接してあげてもいいのになあ、と思うことがある。
「それでも花宮先輩は、単に「そういう自分」を演じてるだけに見えたんです。出来て当然のことを当然のようにやってる。それはそれでスゴイことだってことは分かるんですよ。他の奴らはそれすら出来てないんですから」
菅原くんは、言葉を探すように視線を下に落とした。
「……劇が終わった後、キャストが出てきて全員で一礼するじゃないですか? その時、全ての観客が総立ちになってました。俺だって立ち上がった観客の一人です。間違いなく、ほとんど全部が花宮先輩の力です。それでも俺は……花宮先輩の横にいた山原先輩が浮かべてた、無力感に打ちひしがれてる表情を、忘れることが出来ないんです」
まるで……そう言いかけて、ハッとした表情になった菅原くんが、思い切り首を横に振ってその言葉を打ち切った。
「とにかく、俺はそんな山原先輩のことを忘れられなくて、それでこの高校を受験して、演劇部に入ったんです……そしたら、山原先輩は演劇部を辞めやがったってわけですよ」
まっ、俺も面倒起こして追い出されたんですけどね、と自嘲するように菅原くんは笑った。だけどすぐに眉を潜めて、重々しく俯くと、菅原くんはポツポツと語り始めた。
「……うぜえんだよ、どいつもこいつも。何にも考えてませんって面して、ヘラヘラヘラヘラしやがって。花宮先輩の、山原先輩の足下にも及んでねえ癖に、馴れ合いばっかで適当にやりやがる」
菅原くんの言葉は続く。
「花宮先輩は確かにすげえよ。だけど本質的にはあいつらと一緒だ。楽しくやればそれでいいって言って、結局自分の事にしか興味がない……いや、違うな。あれは匙投げてんだな。だから逆に、自分の事に専念出来るんだ。あの先輩にとって、所詮あいつらは踏み台なんだよ。いや、それ以下だ。マジであの人、俺たちに興味ゼロだからな……」
菅原くんの言葉は続く。
「山原先輩も山原先輩だ。花宮先輩からすりゃテメー自身もそういう有象無象の一人だと思われてるって分かってて、だからこそそれをひっくり返せなかったテメー自身を呪って、だからあんな風に何もかもどうでもいいって感じになってテメー自身を守ってんだよ。何が受験勉強に専念するだよ……出来るわけねえだろ、今のあの人じゃあ、自分以外の何者かどころか、大学生にだってなれやしねえよ……負け犬そのものじゃねえかよ、今のあの人の顔つき……」
菅原くんの言葉は続く。
「……なんなんだよ、どいつもこいつも。綿木の奴はいっつも俺のことをバカだバカだって笑ってきやがるけど、どいつもこいつも俺よりよっぽどバカじゃねえか。テメーの内に閉じこもって、何者かになろうとしねえで、それでノウノウと生きやがって。ヘラヘラ野郎どもも、才能に胡座をかいてる奴も、勝手にテメーの才能に絶望してる奴も、みんなみんな、バカばっかりだ……」
頭を垂れた前かがみの姿勢のまま、菅原くんはピタリと言葉を止めてしまった。
本当にそのまま亀のように動かなくなってしまったものだから、私は困ってしまった。
何かを言うべきなのは分かるけれども、何を言えばいいのかはさっぱり分からなかった。
パパならなんて言うんだろう?
口を利かないことは分かっていても、それでもそう思わずにはいられなかった。私の背中に背負われているパパ。重くて細くて硬くて丈夫で綺麗で格好いい刀――パパ。
私はパパをそっと膝の上に回して、パパのことを両手で握る。ひんやりしていて硬質な握り心地。つまり、パパはパパだ。
その安心感から気持ちが楽になって――それが、緩みの気配として、菅原くんに伝わったのかもしれない。現にその時、ちょっと笑い声が、漏れていたかも知れない。
――先輩。
それは、地割れの狭間から響いてきたかのように、重い声だった。
ともかく、声がしたので菅原くんの方に顔を向けると、さっきまで頭を垂れていた菅原くんが、私のことを見つめていた――というより、睨んでいた。
でもそれは、いつものように、単に怒っているという感じではなかった。
血の気が抜けたような蒼い顔色で、表情もなく、目の色もただただ黒く、見てるこっちの気が遠くなりそうになる。そんな不吉な影を色濃く落とした菅原くんが、私の目を、磔にするように見据えた。
「なんで俺のことを追いかけてきたんすか?」
なんで。
「それは……」
と応えようとして、さらっと出てくると思っていた言葉が全然出てこなくて、半開きで動かない口と共に思考が止まってしまった。
あれ? なんで?
言われてみれば、私が菅原くんの後を追う意味がないような気がして、軽く混乱してしまった。
「どうせその刀のお告げだとでも言うんじゃないんすか?」
「…………」
その通り、としか言いようがなかったので、私はただ黙っていた。
「俺――本当に、イラつくんですよね」
ピクリとも姿勢を変えず、表情を変えず、ただただ私のことを見据えて、口だけを小さく動かす。地を這うように、低い声。私は、視線を逸らすことが出来ない。今ここでパパに視線を向けたら、菅原くんはいよいよ私のことを軽蔑する気がした。それこそ、一生。
「なんも考えてない癖にヘラヘラして、そんな生き方で幸せですって言う風に振る舞って――まるで背ばかりがでかくなった子どもですね。どうせパパとやらがいなきゃ、一人でご飯も食べられないしおトイレにだっていけないんじゃないんでしょ? 紙おむつでも履いたらどうですか? 一歳児用とかを」
「何を――」
菅原くんの目が見開く。
私はその時、確かに何かを言おうとしていた。心の底から疑問に思ったことを――理解し難い何かが固まりになって胸の奥底にキュッと詰まって、吐き出さずにはいられなくなるような、そういう言葉を。
だけどその言葉は、何故か、口まででかかったところで、というか今まさに言おうとしたところで、スウッと消え去ってしまった。
まるで、何かに吸い取られてしまったかのように。
結局言葉が出てこなくて、首を傾げていると、菅原くんの表情に再び影が降りた。その口から、空気が抜けるようなため息が出た。失望というよりは、虚無といったようなため息だった。取りあえずそういう状況になったから義務的に出しておこうか、と言うような。
「……まっ、先輩にはなんにも期待してないですよ、最初っから」
それだけ言うと、菅原くんは静かに立ち上がる。立ち上がって、視線が高くなった菅原くんの視線が私に向けられる。
周囲の雑踏が、耳を通り抜けていく。どこそこに向かう人々が通り抜けていくし、駅前のロータリーを自動車が通り抜けていく。
「先輩、とっととその刀を捨ててください。それ以上のことは、期待しませんので。殻を剥いたら、空っぽが出てくる――それだけの話なんですよ、これは」
そう言って、しばらく無言で私のことを見つめると、背中を向けて歩き去っていった。駅から途中まで菅原くんと帰り道が一緒だったけれども、それでも今菅原くんの背中を追ったらどうなるのか――正直、実感の伴った想像は出来なかったけれども。
それでも、菅原くんの背中を追う時の、私の背中に背負われたパパがとても重たくなるであろうことだけは、実感出来た。
「――流石に、ちょっと寒くなってきたね、パパ」
誰に言うともなく――いや、パパに言っているのはそれはそうなんだけれども、それでもその言葉の先にパパがいないような、不思議で、手応えのまるでない感触に、私はポッカリとした気分になった。
※
ここは、真っ黒い荒野だった。
唐突に眼前に広がった光景に、私は思わずキョロキョロと辺りを見渡す。しかしいくら四方を見渡しても固くて乾ききった褐色土の地面が広がるばかりだったし、いくら遠くを見据えても水平線が見えるばかりだった。この目に荒野が映し出されている以上、ここには光はあるはずだったし、そうであるからには太陽が出ているはずだった。しかしこの場においては太陽でさえ、この真っ暗で不毛な空間を作り出す舞台装置として機能していたのだった。敢えて言うなら夕暮れが近いだろうか。しかしこの夕暮れには、時の移ろいもなければ、太陽の先に広がる風景を思わせる郷愁もなく、このどこにも行き着かない黒色が永遠に続くのだと、有無を言わさずに思わせる昏い情念が纏わりついていた。
黒が色濃くなった気がした。程なくして、黒が動いていることに気がついた。波状に、蠢く黒がこちらに近づいているのだ。荒野の褐色めいた黒とは違う、落ちた闇で塗りつぶしたかのような黒。それが地平線の向こうから、四方を囲むように押し寄せてきているのだ。四方を見渡しても隙は存在しない。黒が、私を中心として円形を作り出しているのだ。
押し寄せる黒に気がついて程なく、その黒の移動には音があることに気がついた。ゾザザザザザ……そんな感じの、連なる節足の群れが大挙して押し寄せてくるような音。根源に眠る恐怖を呼び起こすかのような、爆発的音の増大、精神への蹂躙。
その音が意識全体を満たした頃、その黒は私の足下に到達し、瞬く間に私の全身を這い寄り始めた。
その黒は、一つの存在ではなかった。
それは、矮小な黒の無数の群れだった。
小さめの甲虫ほどの大きさ、蜻蛉のように大きく無数にギラつく眼、ゴキブリのような身体の薄さ、百足のような無数の節足、蛾のような羽根。そんな、人間が害虫に抱く生理的嫌悪感が凝縮して具現化されたかのような存在が、私の身体を縦に駆け巡っているのだ。
最初は掻きむしりたくなるようなむず痒さだった。しかしそれは立ちどころに地面を転げ回るほどの激痛に変質した。
歯が、刃がボロボロに欠けたカッターナイフで削られていくような痛みを伴って、私の肌を噛みちぎっていく。あまりにも無数の虫が私の肌を噛みちぎっているためか、その咀嚼の音も、嚥下の音も、私の耳に響いているように感じられた。
虫は、私の肌に留まることはない。口に、耳に、臍に、その矮躯を滑り込ませ、あるいは削り取り、私の体内へと入り込んでいく。中には私の眼を食いながら体内に潜り込もうとする群れもあり、私は叫び声をあげようとしたが、声をあげようにもとっくに口内に入り込んだ虫が私の喉を食い破った後だった。
内側から発せられる激痛、内側が燃やされているかのような激痛。血を流そうにも、虫達は私の血を水か何かのように啜り、飲み干してしまったかのようで、体内から出血はほとんど出てこないようだった。
意識はまだあった。つまり私はまだ生きていた。
痛い、痛い、痛い。
一生に感じるであろう痛覚を全て合わせて、それでもなお到底及ばないほどの、もはや絶望感すら塗りつぶすかのような激痛。
そんな痛みを、生きながら、むしろ鋭くなっている五感で以って、感じ続ける。
この世に地獄というものがあるとするなら、それはきっとここのことに違いなかった。
しかし、その痛みは唐突に終わりを告げる。
気がつけば私は、五体満足の状態で、地面に転がっていた。
真っ白で、どこにも出口がない、病的なまでに正確な正方形で作らている空間。
そこに、私を取り囲む白衣の男たちがいて、彼らの眼はみんな瞳孔が開いていて、彼らの手には刀身がピカピカに光っているメスが握られていた。
私は後ろから掴まれ、服を全て破り捨てられ、寝転がされ、力づくに抑えつけられ、無数のメスが私の肌に向かってきて――私が覚えているのはここまでだった。
そんな風に、私の身にたくさん、たくさん、むごたらしいことが起こった。
一番マシだったのは、傘を差して立ち尽くしているところに、空から雨の代わりにライフル弾が降ってきて、傘ごと私の全身をズタボロにしたことだった。
この時はむしろ、私のお気に入りだった、マーブル柄の真っ赤な傘が欠片も残さずに粉々になってしまったことの方が悲しかったくらいだった。実際にはそんな傘なんて持っていなかったけれども、世界で一番の宝物を壊されてしまった時、それこそパパを壊された時に抱くであろう悲しみと匹敵出来そうなくらいに、悲しい出来事に感じられた。
一番酷かったのは、沢山のカエル顔をした男たちに囲まれて、全身を隈なく舐められて、最終的には食べられてしまったことだった。
舐められる度に肌は弱めの酸に浸かるみたいに溶けて痛かったし、酷くヌルヌルしたし、生臭かったし、みんな笑ってたし、いざ私を食べる時も甘噛みしてるみたいに生ぬるい感じで、だけどそんなのでも舐められてすっかりふやけて汚れた肌はベリベリと簡単に剥がれてしまって、要するにそれはとんでもなく痛くて、だけど全体的に時間の流れがゆっっっくりで、本当に、本当に不愉快だった。
斬られて、刺されて、潰されて、撃たれて、爆ぜて、轢かれて、挽かれて、喰われて、飲まれて、溶かされて、殺されて、殺されて、殺されて、死ねなくて。
唐突に、全てが終わる。
風呂上がりのように艷やかでさえある肌に、御ろしたて同然に新品で清潔な学生服。
禊の直後をさえ連想させる程に清められた姿で、私は壁にもたれ掛かって座り込んでいる。先程までの責め苦が、まるで最初からなんにもなかったかのように。
力なく顔を上げた先に、一振りの刀が転がっていた。
パパだ。
大好きなパパだ。
身体に力の入らない私は、それでも這ってパパの下に向かう。
パパは何も言わないけど、ただ私の側にいてくれるだけだけど、ただそれだけで私の世界は回るから。
それ以外には、何もいらないし、何も必要ない。たとえどんな目に合おうとも、私にはパパがいてくれるのだ。
私とパパとではせいぜい五メートルほどしか離れていなかったけれども、引きずるようにしか動いてくれない身体に取ってすれば、気が遠くなるほどの彼方に感じられた。
ジリジリと、ナメクジのようにしか進まない身体。傷一つなくとも、先程まで確かにこの肉体に繰り広げられていた暴虐の記憶が生々しく残っている。
もう既に、手を伸ばせばパパに届く距離まで来ている。
あばら屋が崩れるように倒れこんだ私は、それでもなお、パパに向かって手を伸ばす。
あと少し、あとほんのちょっと、あと指先ほどの距離で、パパに届く。パパの、細くて固くて逞しいその身に、触れることが出来る。
届いて、
届いて、
それ以外には、何も――
※
ベッドの上で横たわっていた私の眼が開かれる。
夢の始まりがそうであったように、夢の終わりも唐突だった。
ロータリーのベンチから菅原くんの背中を見送ったその日、なんとなく何かに置いてけぼりを食らった気分で残りの一日を過ごしたその日の眠りに、私は夢を見たのだった。
四時過ぎの明け方、目覚めるには早すぎるベッドの上で、私が抱き抱えているのは、一本の日本刀。
パパだ。疑う余地はどこにもない。
だけど私は、何故か幾ばくかの胸の痛みを感じずにはいられない。
とてつもなく酷い悪夢を見た、という実感以外に、具体的な夢の内容を忘却していた。
私は、パパをより強く抱きしめて再び眠りにつこうとした。
だけど一向に眠ることは出来ず、私はそのまま朝を迎えることになった。
※
「おはようございます、先輩。相変わらずその刀が目障りですね」
「……うん、おはよう」
「大体先輩はいつもいつもボンヤリしてて、なんにも考えずにその辺をチョロチョロ飛んでるアホの鳥みたいな顔してますよね。先輩って何かロクに物事を考えたことってあるんですか?」
「……どうだろう。ごめんね、なんだか」
「……先輩? どうかしたんですか?」
「え? ……ううん! なんでもないよ!」
「ふうん……まあ、何にしてもその刀、とっとと捨ててくださいね」
「……ごめん、それはムリ」
「チッ」
「……えへへ」
「『城』の最大の謎はね、なんであの高慢ちきな測量士のKがああも城に入ることに固執したのかってことなのよ!」
「……へえ」
「そもそもあいつ最初測量士として呼ばれてたって話だったのに、途中であっさり手違いだって分かるし、その癖にフリーダっていう女性に惚れるのはいいけど、それがクラムっていう城の長官の人間の愛人だからって、なんか知らないけど『責任』がどうのこうのいって城に向かおうとするのよ? 人の女寝取っておいて責任も糞もないじゃない。むしろどの面下げて行く気よ。アホかっての!」
「……ははっ」
「しかもその癖に、なんか知らないけど、村の人々にはやたら喧嘩腰で、お付きの二人の助手にもクッソ高圧的な態度を取る。ブラック企業のクラッシャー上司そのものよね。そんなに文句があるなら、それこそフリーダを連れて帰ればいいのにね。そもそもこいつよそ者じゃない。何様よ、本当に! あー分からない! さっぱり分からない! だからこそ面白い! 全く、カフカは最高だぜ! そうよね、ヒナちゃん!」
「……うん」
「……ヒナちゃん?」
「……うん」
「ねえ、ここ一週間ずっとそんな調子だけど、何かあった? ……まさか、あのバカ幹久に本気でなんかクソなことでもされた? 言われた?」
「……違う、けど」
「ねえ、隠し事はしないで? ヒナちゃん、本当に――」
「――!」
「……ヒナちゃん? ……え? この手が、怖い?」
「……ごめんね、違う、違うんだけど……」
「――あのクソ野郎! マジでヒナちゃんに何しやがった! ヒナちゃん待ってて、今からあのクズ幹久をぶち殺――」
「やめて!」
「……ヒナちゃん?」
「ごめんね……だけど、本当に、本当に違うから……だから、お願いだから、やめて……」
「違うって……ヒナちゃん、めちゃくちゃ震えてるじゃん!」
「震えて……?」
「あのバカじゃないにしても、誰かになんか、酷いことされてるんじゃないの? だって、私が肩に手を触れようとした時――!」
「そうなんだけど、そうじゃないの……本当に、菅原くんは、関係ないから……」
「……ごめんね、ヒナちゃん。でも、もし本当に何かあったら、お願いだから隠し事はしないでね。私、出来ることならなんでも――」
「…………」
「ヒナちゃん?」
「パパ……怖いよ、パパ……」
「雛川ァ、お前、なんで先生に呼び出されたか分かるか?」
「……はい」
「この前の中間テスト、あれはなんだお前。ほぼほぼ全部、赤点スレスレじゃないか。理系教科は学年最低クラス。文系私立志望だからって、いくらなんでも酷すぎるぞ。普段は、苦手教科でも平均点は越えてくるだろ」
「……はい」
「それだけでも十分酷いが、お前ここ一ヶ月、授業をまともに聞いてないみたいだな。リーディングの古木先生が、いくら雛川さんを指名しても全く返事をしないって怒ってたぞ」
「……はい」
「……なあ雛川、お前何かあったのか? イジメでも受けてるのか? うちの高校は割と大人しい奴が多いが、ロクでもないことをしかねない奴がゼロってわけじゃないからな……どうなんだ、雛川?」
「……はい」
「……雛川! 先生の話を――!」
「――イヤァ!」
「え? ……ひ、雛川?」
「……ごめんなさい……ごめんなさい……パパ……ごめんなさい……」
「お、おい、雛川……お前――」
「……ごめんなさい……ごめんなさい……」
「分かった、分かったから雛川、ちょっと落ち着きなさい、な? ……え? な、何もありませんよ! 彼女が勝手に――!」
※
放課後の学校。
担任の猿渡先生から逃げ出してきた私は、しばらく学校内を茫然としながらうろつき周ったものの、結局誰にも会わなかったし、どこにも行き着かなかったので、そのまま家に帰ることにした。
「ははっ……最近、ホントに寒くなったよね、パパ」
玄関を出て、十月下旬の冷たい風を浴びて、思わずそう呟いた。カタカタと背中で揺られるパパが重たかった。ここ一ヶ月、パパが日に日に重たくなっていくようだった。
始めて悪夢を見てからおよそ一ヶ月、あれから私は悪夢を見続けていた。一日足りとも、例外はない。夜に眠りに着くと、それは必ずやってくるのだ。
最初は「身の毛もよだつほどの悪夢見た」という実感以外は曖昧だった記憶も、夢を見るたびにその内容が明確に形を成して脳髄に刻まれるようになり、その記憶が私を苛むようになっていた。
夢の内容は決まって、私が惨たらしい責め苦に合うもの。それこそ、普通なら気が狂うほどに苦しんで死んでしまうような凄絶なもの。だけど私は、その数々を、決して息絶えることなくこの身に受け続けるのだ。
夢の最後には、必ずパパが私の下に訪れる。きっと、パパが私のことを守っていてくれているのだという安心感に満たされる瞬間。
だけど、目の前にいるパパに手を伸ばして、その手が届いたことはただの一度もなかった。
校庭で銃声のように火薬が炸裂した。
私は脊髄反射的にヒッ! と短い悲鳴をあげて身を竦める。周囲にいた生徒たちが、そんな私に訝しげな視線を向けてくる。
冷静になってみればなんていうこともない、陸上部がスタートの時に鳴らす空砲の音だ。そもそも玄関から校庭は二〇〇メートル程度距離がある。流石に、目の前で起こったわけじゃない事象に恐怖を覚えたのは始めてだ。
だけど、今朝方見た悪夢の一幕が――爬虫類めいた目をした男が、椅子に縛り付けられた私の口に銃口を突っ込んで、何発も何発も空砲を鳴らした末に実弾を放ち、それが私の咽頭から脳髄を撃ち抜いて、それでもなお死ねずに転げ回ってのたうち回るという、そういう悪夢が――生々しくフラッシュバックしてきて、怯えずにはいられなかったのだ。
しばらくその場にうずくまって、だけどパパの重みを背中に感じて、それで平静を取り戻した私は、校門に向かって力なく歩みを進める。こんな凄惨な悪夢を立て続けに見続けているにも関わらず、不思議と気が狂うことはなかった。きっとパパがいてくれるからだ。やっぱりパパは尊い。格好いい。大好き。大好き。大好き。
「パパ……大好き、パパ……」
だけどそれでも、重たい足取りがとても辛くて、背負うパパがどうしても重たくて、ふらついてしまった私は、近くのベンチに倒れ込むように座り込んだ。
「パパ……帰ろう……お家に、帰ろう……」
意味もなく、意味のない言葉を、パパに語りかける。早く家に帰って、自分の部屋に閉じこもりたかったのは事実だったが、そんな言葉とは裏腹に、私の足は一歩足りとも前に進みそうになかった。
私にはパパがいてくれる。
私のことを助けてくれる。
そうじゃないことはあり得ない。
いつもだったら、包み込んでくれるような安心感を与えてくれるその呪文。
だけどこの一ヶ月は、その呪文を唱えれば唱えるほど、逆に私という存在が足下から崩れ去ってしまうような気がした。その崩れた足場から、逃れようのない恐怖の感情が滲み出て、私の心を囚えてしまうようだった。
いつしか私は、周囲の視線に怯えるようになったし、差し伸べられる手に対しては例え親しい人のものであっても恐怖を覚えずにはいられなくなっていたし、大きな物音がする度に殺戮の前兆を看守して身構えずにはいられなくなっていた。
パパ……パパ……。
「おい! もう一回言ってみろテメエ!」
私の身体がビクッと跳ねる。
突然あがった暴力的な怒声は、私の身体を射竦ませるには十分だった。
その恐怖心の虜になりそうな私だったけれども、ふとその声が聞き馴染んだものであることに気がつく。
いつも不機嫌で、すぐに怒り出して、何かにつけて嫌悪感を表明せずにはいられないのではないかと思われる、ちょっと幼く聞こえる高めの男の子の声。
「テメエ、今のはマジで許さねえぞ! よりにもよって、よくもテメエ自身の夢を侮辱するようなことが言えたもんだな!」
「いや、自分のことをどう言おうと私の勝手だし、ってかそれそもそも私のものじゃないし、あんたにとやかく言われる筋合いはどこにだってないんだけど」
どう考えても私の恐怖心を煽る光景でしかないと分かっていたのに、だけどそのガナリ声に、そのガナリ声をあげる男子が菅原くんであるという事実に安心感を覚えてしまって、彼と山原先輩がいがみ合っている駐輪場の方に足が動いてしまう。結局、今の私にとって他人は、例えそれが親しんでいる人であっても、恐怖心を爆発させる火薬でしかないにも関わらず、その恐怖心を一人で抱えることに耐えかねているのだった。例え、私の背中に、決して私のことを見捨てることのない、パパがいたとしても。
「……ってか、あんたホントしつこい。目障りだっていつも言ってるんだけど」
放課後の結構遅い時間だからか、辺りに全く人気はなかった。たまに人が来たとしても、その全員が見なかった振りをして去っていく。
「そう思うんだったら俺に構わずにとっとと帰りゃいいだろ? 現に先輩はそうやって足を止めて俺の相手してんだろ?」
「いや、だって……」
山原先輩は、深い溜め息をつく。憂鬱な頭痛を、吐き出したくて仕方ないといった調子のため息だった。
「……いや、やっぱいいや、どうでも」
「なんだよ? なんか言いたいことがあるならはっきり言え!」
「だから、本当にどうでもいいって……」
「どうせ言うことがないんだろ? 何もかもがどうでもいいって面して、考える頭もなくしちまってんだろ?」
「あんたがそう思うんならそう思ってればいいんじゃない?」
「んな下らねえことしか言えねえのかよ! ホント今のあんたにはなんにもねーんだな! どうせそのうち生きてることすらどうでもよくなんだろ?」
その時、ボンヤリした山原先輩の真っ黒い目が据わり始めた。
それは、私を凄惨な目に合わせた夢の中の処刑人たちと同じ目つき。なんの感情も写し出してない、ただ目の前の人間を処理することに徹しているのが分かる目。
私は菅原くんを止めなくちゃいけなかった。
「役者の夢もどうでもよくなって、学校での生活もどうでもよくなって、学校卒業したら手首でも切って最後には首でもくく――」
「それ、あんたの話でしょ?」
菅原くんの口が止まる。
しかしそのボンヤリとした表情を鑑みるに、まだこの時点では、単に相手の言っていることが分からずに困惑しているだけにも見えた。
「は? 言ってる意味が――」
「ってかホント分からないんだけど、仮に本当に私にまた役者の夢とやらを見て欲しいんだったとしたら、もっと他に方法があるとか思わないわけ?」
「なんの話だ! そんなの今の話と――!」
「客観的に見て」と、山原先輩は淡々と言葉を紡ぐ。単純作業の雑用を、最低限の動作だけで終わらせようとするような、そういう簡略的な態度で。
「私、完全に捨て鉢になってる感じよね? 一昔前の熱血ドラマじゃあるまいし、そんな薄っぺらい言葉を喚き散らして、それで何かが変わると本気で思ってるわけ?」
「そ、そんなの――!」
「やってみなくちゃ分からない? ――くっだらな。それで、もう何ヶ月も私に喚き散らすということを『やってみた』わけだけど、それで私の態度が変わった?」
「…………」
「あんたは、私にまた演劇を始めて欲しい、と思ってんだよね? 百歩譲ってそこはいいや。その癖にやることは、あんたのエゴの下らない押し付け。自分の気持ちしか語らない、相手のことをロクに見ない、それで何か語るにしても自分勝手の下らない願望込みの下らない想像。そして、そんなもので人の気持ちをそんなもんで変えられると本気で酔っ払ってる、くっだらない童貞男子の妄想――単純に、クソ迷惑。世が世なら死罪ね。私は手にかけたくないけどね、あんたなんて」
傍から見ている私にさえ分かるくらいに、小刻みに震える菅原くん。
これ以上はいけない。
これ以上は、私が毎晩見る悪夢のように酷いことになる。
分かる、それくらいは、分かるのに、ちっとも足は動かない。
まるで見えない手が、私の背中を抑えつけているように。
「なんなんだよ、なんなんんだよお前……! なんでそんな、傍観者気取りのことが言えんだよ……!」
「だから言ったじゃん。本当にどうでもいいって。どうでも良かったんだけど、なんか、あんまりにも、あんたがバカだから――」
「テメエマジで何様だ! じゃあテメエには本当に何もねえのかよ! あんだけ演技が上手い奴が、文化祭の時に花宮先輩の隣であんなに悔しそうな顔をしてた奴が、なんにもないなんて、そんなバカな話が――!」
「だから、それだよ」
また、ボンヤリとした表情になって菅原くんの言葉が止まる。
だけど、私は確信していた。
次に続く言葉は、本当に菅原くんの心を壊す一言になると。私には分かる、分かってしまう。だから、だから、ねえ、パパ――!
「やめ――!」
「あんたにも、なんにもないんだよ」
私が声をあげる前に、その一言は放たれてしまった。
菅原くんの目から、見る見ると生気が失われていくのが分かる。まるで一発の弾丸で脳髄を撃ち抜かれたように、菅原くんは最早、「死んで」いた。
「なんにもない、空っぽ。だから、空っぽの私に、そうやって付きまとって、否定しようとすることで、そんな自分を否定しようとする。で、上手いこと、自分の同類にしようとした。っていうか、空っぽを押し付けられる相手にしようとした――違う? 違わないとは思うけど、なんかまだあるなら、どうぞ」
私くらいしか見ている人がおらず、生徒たちの遠い喧騒くらいしか音がない、そんな静かな空間だったのが、逆に残酷だった。
青ざめた表情で、呆然と立ち尽くす。その瞳からは涙は出ておらず、それどころか、救いようもないくらいに、死んでいた。
山原先輩は、自転車のスタンドを蹴ると、そのまま自転車を引きずってそのまま立ち去ろうとした。菅原くんに、別れの一言すらなかった。
「……何、あんた? 邪魔だからどいてくんない?」
私の真正面から乾いた言葉が放たれる。
気がつけば、私のすぐ目の前に、自転車を引きずった山原先輩が、いかにも邪魔くさそうな表情で私の前に立ち塞がっていた。それに気づいた私は、山原先輩の目にゾッと震える。つい先程まで菅原くんに向けていた、人を凄惨に嬲り得る、悪夢のような目。その背後、少し離れたところで、菅原くんが見開いた眼で私のことを見ていた。私はそのどちらにも、間違いなく怯えていた。
その段になって私は、立ち塞がったのは山原先輩じゃなくて、私であることに気づいた。
菅原くんが目の前で殺された今になって、しかも悪夢を連想して怯えているというのに、一体何をやってるんだろう、私――パパ?
「…………」
「……まっ、別に通れんだけどさ、横」
何も言えずにいる私の横を、山原先輩が通ろうとする。
「あのっ」
多分、不意を突かれたんだと思う。
振り返った山原先輩の表情はきょとんとしていて、なんというか、素を感じさせた。
というより、私も自分でもビックリしていた。先輩の前に立ちはだかったことと言い、自分でも自分の行動にビックリしっぱなしだった。きっと山原先輩が振り返ったのもそれだろう。私が菅原くんだったら絶対に振り返らなかったに違いない。
しかし山原先輩はすぐに表情を消して、先ほどまでの生気のない雰囲気に戻す。ただし、少し苛立ちが混じっているようには見えた。
「……何っ?」
「あの……えっと……」
言おうとした言葉が、頭から消えていた。
背中が重くて、口も重い。
「……あんた、あいつの彼氏か何か?」
「違います」
何故かスッと出てきた。間髪のかの字もなかった。いや、事実ではあるんだけど、それにしてもビックリした。
多分それが表情に出たんだと思う。山原先輩は口元を抑えて俯いた。小さく、何かが吹き出るよう音がした。
「……なんなんだよ、あんた」
「すいません……でも、あの……菅原くんに、あまり酷いこと、言わないでください」
頭から消えたと思っていた言葉が、少しつっかえながらも、あっさり出てきた。
それを聞いた山原先輩が、私のことをまじまじと見て、それで何かを納得したかのように、少し微笑んだ。ただし、その微笑み方は、捻くれた仄暗さを感じさせるものだった。
「あんた……えっと……」
「雛川です」
「雛川さんは、本当にあいつの彼氏じゃないんだよね?」
「はい」
「だから即答しないでよ、地味にツボるから」
そう言って今度は普通に吹き出した。
それにしても、山原先輩は当たり前のように私の名前を呼んだ。菅原くんのことは覚えようともしなかったのに。
「……まあいいや。あんた、あいつの何?」
「えっと……」
そう言えば、なんだろうか……友達? 知り合い……?
私の逡巡を知ってか知らずか「まっ、想像つくからいいや」と呟くと、再び私に言葉を向けた。
「私は別にあいつのことなんとも思ってないからどうなろうとも知ったこっちゃないし、あいつから絡んでこないなら何も言うつもりはないけど……でも、そう言うなら、あいつと付き合ってあげなよ。恋愛的な意味で」
「…………」
「冗談だよ」
そんな顔しなくてもいいじゃない。
そう言われて、私は反射的に自分の顔に触れた。
そんな顔って……私、どんな顔してたんだろう?
「どっちにしても私、間違ったこと言ったつもりはないから。私にああいうことを言われるあいつをどうにかしたいなら、雛川さんがどうにかするしかないんじゃない? あいつの彼女になるかどうかは別にしてね」
そう言って笑う山原先輩の笑顔には、きっと他意はないはずだった。
だけどそれでもその笑顔にはやっぱり拭いきれない陰はあって。
ああ、この人が、菅原くんが好きな人なんだなと、思った。
「あの、菅原くんは――」
「じゃ、私行くから」
私の言葉を待たずして、自転車に跨った山原先輩はそのまま走り去っていった。
山原先輩が見えなくなったところで振り返った私は、菅原くんの方を見た。
菅原くんは私のことをジッと見ていた。私と山原先輩の話を聞いていたかどうかは、そののっぺりとした表情からは伺い知れない。
――けれども、尋常の状態ではないことだけは、伺い知れた。
「菅原く――」
しかし私が声をかける前に、菅原くんは黙って私の横を通り過ぎる――というか、走り去っていった。
突然のことにビックリした私は、ちょっと出遅れて菅原くんの後を追いかける。
校門を出て少し走った頃には、その差は数十メートルは開いていて。このまま行くと菅原くんの姿を見失ってしまいそうだった。
「――待って!」
だから私は、曲がり角を曲がろうとしたところで、思わず叫んだのだった。綿木さんだったら、「待てって言われて待つ人がいるわけないじゃん」なんて言うんだろうけども。だけどそれでも、菅原くんは立ち止まった。俯いて、拳をギュッと握りしめて。
周辺は閑静な住宅街。駅に向かう通学路の途上ではなく、少なくとも私は一度も来たことのない場所だった。
「菅原くん」
近づいて、その背中に向かって声をかける。私以上に全力疾走をした菅原くんだったけれども、その息は大分整っていた。
相変わらず、その背中を前にしても、どう声をかけたものかよく分からなかったけれども、だけど、それこそこのまま黙っているわけにもいかないことくらいは分かった。
きっと、パパもそう――
「――ろよ」
だけど、その思考が遮られた。
私はその声色に、息を飲んでいた。
私の悪夢の中では、誰も喋らない。
だから、この連想はおかしいはずなのだけれども――。
その声は、まさにあの悪夢を、連想せずにはいられないものだった。
「その刀、捨てろ。今すぐに」
振り返った菅原くんの目つき。
先ほど、山原先輩が彼に向けていたのと全く同種の、悪夢の中の処刑人たちの眼。
私は震えることも、悲鳴をあげることも出来ずに、ただ立ち尽くしていた。
「菅原くん――」
「そうだよ、それで全部解決するんだよ。そんなのがあるから、先輩みたいなアホが、テメエの頭で考えられない奴がいなくならねえんですよ」
だけど、山原先輩と違うのは、菅原くんの眼には、怨念らしきものが炯炯と輝いていたことだった。山原先輩の眼には、怨念も執念も何もなく、ただドス黒い。むしろ菅原くんの眼の光らせ方は、彼の中のそういうドス黒い部分を否定しようとするような、闇いギラつきだった。
だから私は菅原くんから連想される悪夢にではなく、そのギラつきそのものに怯えて解けた金縛りの身体を、怖いものに対する素朴な恐怖心に震わせながら、後退った。
「綿木の奴も、山原先輩も、演劇部の低能どもも、何も考えてねえし、何もしようともしねえ……なのに、何かをしようとしてる俺が、なんで馬鹿にされなきゃならねえんだよ……」
「菅原くん、私、私は――」
私は――に、続く言葉は見当たらない。いや、浮かんでいるのかもしれないけれど、それはすぐに消えてしまう。むしろ消えるという表現にさえ違和感を覚えるほどに、最初から何もなかったようにさえ感じられる空白。
菅原くんは、まるで幽鬼か何かのように、私にジリジリと近づいてくる。
「俺は何かをしようとしてんだよ、何かを変えようとしてるんだよ……なのに、なんで、なんで先輩は、何も変わらないんだよ、なんで刀を捨てようとしないんだよ……それがどんだけバカなことか、なんで分からねえんだよ、なあ――!」
「私は……菅原くん、私――!」
「捨てろ……捨てろってんだよ! そんな鉄くず、今すぐ――!」
イヤァッ!
私は悲鳴をあげていた。
自分で自分を抱きしめるように両腕を組んで、菅原くんから全力で逃れようとした。ピタッと止まった菅原くんの右手は、私に向かって振り上げられていた。
それは、私が恐怖を覚えた、私に触れようとした腕とは違っていた。そんなものよりももっと生々しくて、恐怖心よりも嫌悪感を想起させるものだった。
「助けて……助けてよ、パパ……お願いだから、助けてよ……」
決して何も言わないパパ。
だけど私の言葉を受け止めてくれるパパ。
だからこそ素敵で、カッコよくて、大好きなパパ。
それなのに、私はとうとうはっきりと口に出してしまった。パパに向かって、助けを求めてしまった。それは紛れもなく、パパに対する不信だった。
「嫌だよ……捨てたくないよ、パパ……」
にも関わらず、やっぱりパパのことを捨てるのは、耐え難かった。
私が物心ついたころから一緒にいる、大好きなパパ。私のことを見守ってくれるパパ。それを捨てるなんて、私には到底、不可能なことだった。
「――雛川先輩」
ビクッ! と私は菅原くんの声に過剰反応してしまう。処刑人のドス黒さを連想させる、自身の得体の知れない怨念や執念でギラつかせた、彼の眼。
だけど実際に目の前にいるのは、常に何かに怒っているような表情を浮かべた菅原くんだった。
つまり、いつもの菅原くんだった。
「俺、今日、夢を見たんですよ」
夢――?
冷静に考えると、訥々と語る菅原くんの言葉には脈絡がなかったけれども、だけど「夢」という単語に、私はハッとなった。
「基本的には何も起きなかった夢なんですけどね。でも俺、久々に、自分の刀を手に取ったんですよ」
菅原くんが昔、持ち歩いていた刀。
今でも携え続けている私と違って、とっくの昔に、「持っていること自体が馬鹿馬鹿しくなっ」て捨ててしまったという刀。
「やっぱり、嫌悪感しかなかったですね。なんせ、昔捨てた奴ですし。実際、夢の中で、何度も捨てようとしたんですよ。でも捨てられなかったんです」
「……なんで?」
この時私は、「なんでそんなに捨てようとするの?」と聞こうとした……んだと思う。
だけど、やっぱり菅原くんは、そういう意味には取らなかった。
「……自分でも、よく分からなかったんですよ。ガキじゃあるまいし、こんなの持ってるなんて馬鹿馬鹿しい、現にとっくの昔に捨てた奴じゃねえかって……でも、駄目でした。捨てられてなかったんですよ。固く決意して投げ捨てて見ても、その数秒後には拾いに行っちゃう見たいな……馬鹿っすよね、ホント」
そう言って情けなく自嘲する菅原くん。こんな形でも、菅原くんが私に直接笑いかけてきたのは、これが始めてだった。
「結局どうにもならなくて、途方に暮れてたんですけど、その時、目の前に光が差したんです――と言ってもそんな大げさな奴じゃなくて、真っ暗い部屋の扉が開いて、その隙間から差し込む感じの光です。そして――それは現に扉だったんです。それに気づいて、その扉に手をかけたところで、目が覚めました」
菅原くんは、真っ直ぐに私の目を見据えていた――まるで、射殺すように。
「俺、今、悟りました」
菅原くんが、迷いなく言う。
「その扉、きっと、先輩のところに繋がってます。そして今日、俺はその夢の続きを、見ることになるでしょう――俺の、昔捨てたアホみたいな刀を携えて」
私は、何も言えなかった。
でも、ただ、怖かった。
「先輩、最後通告です。刀を捨ててください。そしたら俺は、夢の中でもう一度刀を捨てて、それでお終いです。そうじゃなきゃ――」
きっと、菅原くんが、処刑人になる。
理屈の上では、誰が処刑人になろうが私が受ける責め苦は変わらないはずなのに。
「イヤだよ……」
自分でも、「どっち」のイヤなのか、分からなかった。あるいは、ただ単純に意味もなく声に出てしまっただけなのかもしれない。
少なくとも菅原くんは、「片方」のイヤだと解釈したようだった。
「じゃあ決まりですね、先輩」
せいぜい、そんな鉄くずにしがみつかずにいられない自分自身に生まれてきたことを、後悔してください。
菅原くんの据わった目は、私の目から離れることがない。迷いのない、決意に満ちた目。
処刑人たちが向けてくるような、残酷過ぎて非現実的なそれとは違う、本物の殺意。
私は生まれて始めて、生身の人間から殺意を向けられていた。
「イヤ……やめて……やめようよ、ねえ?」
「…………」
「なんで? ……なんでなの、ねえ?」
「…………」
「……ねえ、私は……私は、菅原くん――」
「そんなにイヤなら――」
菅原くんが、腕を伸ばしてくる。
処刑人の――菅原くんの手。
「ヒッ――!」
過剰な勢いで後退った私は、そのまま尻もちをつくように転倒してしまった。
そんな私のことを、なんにも感じていない目で見る菅原くん。
それは、処刑人の、菅原くん。
あるいは、菅原くんが、処刑人。
その二つが、私の頭の中でこんがらがって、菅原くんの腕が再び伸びた瞬間、弾けた。
「イヤアアアァッ!」
私はもがくように立ち上がると、全速力で菅原くんから逃げ出した。
「いくら逃げだって無駄だからなぁ!」
菅原くんは逃げ出す私の背中に向かって、獣のように叫び声をあげた。
「俺は今日、必ず先輩のことを殺してやる! 夢の中に現れて、必ず先輩のことを、斬り刻んで殺してやるからなぁ!」
どうせ菅原くんが現れなくても、私のことは処刑人が殺す。
菅原くんのいるいないで、私の悪夢の悪夢的な光景は変わりはしない。
だけどそれでも、私は処刑人の菅原くんが現れることを思うだけで、私の心は平常ではいられなかったのだった。
あるいは、菅原くんが、処刑人になるということを、思うだけで。
※
明晰夢の中で目を覚ましたい時には高いところから落下するといい、という話をどこかで聞いたことがある。私の実体験的にもそれは、納得の出来る意見だった。
だけど悪夢の中にいる私は、唐突にどこか高いところから落下しているにも関わらず、目が覚めるどころか、またしても唐突に目の前に現れた崖、しかも明らかに不自然に突起している岩壁やら大木やらに、落下の勢いそのままに全身が打ち付けられていた。
眠らない、という選択が出来ればどれ程楽だろうか。
だけどこの一ヶ月で学んだ――というか諦めたことは、この悪夢を見て然るべき時がやってきたら、望むと望まざるとに関わらず、背中からそっと忍び寄ってくる不吉な気配のように私を眠気が包み込み、そのまま私の意識を闇へと落としてしまう、ということだった。だからその「不吉な気配」がやってきた時に、パパと離れ離れのまま悪夢に落ちてしまうよりはマシだと悟って、時間が近づいてきたらパパを抱いて眠ることに決めたのだ。
ともかく、私はこうしてまた、悪夢の世界にやってきて――やっぱり、責め苦にあった。
口内に入り込んだ針が胃を突き破り、血管に入ったそれが全身を駆け巡り、私をズタボロにする責め苦。
両手両足を固く結んだ紐で引っ張られ、たっぷりと時間をかけて私の四肢を引き裂く責め苦。
数人の顔のない男に取り囲まれて、やっぱりたっぷりと時間をかけて私の全身を刺し尽くす責め苦。
そういう責め苦の数々が続く、続く、続く。
痛いに決まってる、苦しいに決まってる、怖いに決まってる。
だけど、そういうのが一ヶ月続くと、そういう痛みを受けている自分と、それを感じる自分とが、なんだか違う生物になっているような気分にもなってくる。
あるいは、身体に受ける痛みを、パパが引き受けてくれているのかもしれない。
痛みを受けているのがパパで、
それを感じているのが私。
そう思うと、痛みを感じている私の心が、少し軽くなった。
唐突に全てが終わる。
傷一つない艶やかな肌、神聖な衣装であるかのように新品で清潔な学生服。力の入らない身体が腰を落として無色透明の見えない壁に寄りかかる。
最初から、何事もなかったかのような白々しさ。
いつも通りだ。
パパも、少し先に転がっている。
だからいつものようにパパに向かって腕を伸ばそうとしたその時、目の前に光が差した。
真っ暗な部屋の扉が開いて、その隙間から差し込んできたような、そういう扉。真っ暗どころか、この部屋は無機質なまでに真っ白だったけれども、だけどとにかく、そういう光だったし、そしてそれは現に、扉だった。
光が広がり、その中から、一人の男の子が現れる。
菅原くんだった。
いつも何かに怒っているように眉根を寄せている仏頂面に、几帳面なまでにきっちり校則通りに身に着けている学生服。
そして腰に携えているのは、一振りの刀。
私のより少し長くて、鞘は気品を感じさせる光沢のある金色。もちろんパパには劣るけど、十分立派な刀だった。
菅原くんは私を認めると、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。私は、目の前に転がっているパパを拾うのも忘れて、ただ菅原くんのことを眺めていた。
菅原くんが私の夢の中に出てきて、昔に捨ててしまった刀を携えて、私に向かって歩いてきている――私を斬り刻むために。
それは紛れもなく宣告されていた事実で、夢の中にあってもなお、まさにこの日の夕暮れ時に私に宣告してきたあの姿を、私に湧き上がってきた恐慌を思い出せるというのに、私にはどうしても、その事実を上手く飲み込むことが出来なかった。
菅原くんが、私の前に立ちはだかる。
正確には、私と菅原くんを隔てるパパの前に立っている。視線は落ちていて、その先には転がるパパがいる。
おもむろに腰をかがめた菅原くんがパパを拾い、私に向かって無造作に放った。
パパが私のすぐ目の前に転がる。拾え、と言いたいことは言われなくても分かったけれども、それでも私はただ菅原くんのことを見上げていた。私はパパのことを拾う気になれなかったのだ。
しばらくそんな私を静観していた菅原くんだったけれども、やがて右腕を左腰に回すと、そのまま刀を抜き払った。スラッと言う、硬質なものが滑らかに流れる音がした。波打つような刃文が美しい、白金の刃。彼は、自分が抜いた刀の刃を、物珍しそうにジイっと見つめる。きっと菅原くん自身、刀を抜いたのはこれが始めてだったのだ。
菅原くんは刃先を私――ではなく、パパに向けた。
きっと菅原くんは、私にパパを抜くことを、そしてそれで私と斬り合うことを――そしてその末に、私が絶望の中で斬り刻まれることを望んでいるのだ。
私は首を横に振っていた。菅原くんの目が見開き、徐々に眉を曇らせていく。
菅原くんは無造作に刀を持つ右腕を上げると、それを私の右肩から斬り下ろした。
いくら刀そのものには詳しくない私でも、現実でこんな斬り方をしてもまともに何も斬れないことくらいは分かる。だけどここは不条理のまかり通る悪夢の中。素人そのものの太刀筋で振るわれた刀は、私の肩口から胴体の半ばくらいにかけて深く斬り裂いた。
戯画的なまでに大げさに血しぶきが舞い、不条理で理不尽な激痛が私を襲う。
私は身を丸くして悶えるように転がった。
正直、この悪夢の中で受けた責め苦の度合いとしては、ものの数にも入らない程度のものでしかない。何しろ、ただ単純に、一人の男の子に刀で斬られただけなのだから。
でも、この痛みが菅原くんによって齎されたものだと思うと、何故か私の心の中に言いようのない、重たい感情が生じてくる。
灼けるような痛みを堪えながら、私は菅原くんの顔を見上げる。
私の血を吸ってテラテラに濡れた刀を片手に、私のことを無表情で見下ろす。その目つきは処刑人そのものだった
私はそんな菅原くんを見ながら、とても悲しい気持ちで首を横に振った。
なんで、菅原くんはそうまで刀のことを憎むのだろう? 過去に捨てた刀をもう一度手にしてまで、私のことを斬り刻もうとするのだろう? パパのことを捨てないことの、一体なにがそこまで罪深いと言うのだろうか?
私たちの刀は、傍にいてくれるだけで、決して返ってこない言葉を問いかけるだけで、深い安心感を与えてくれるものだというのに。
制服の襟がグッと力任せに掴まれて、そのまま菅原くんに半身を持ち上げられる。
その刹那、私の心臓は菅原くんの刀によって貫かれた。
胸が灼けるように熱くなり、その熱が全身を犯す痺れのような痛覚になる。口から塊のような血が吐き出され、菅原くんを血の色に染める。
至近距離でかち合う私と菅原くんの視線。
何も写し出されていない菅原くんの眼。
――あんたにも、なんにもないんだよ。
この時私は、処刑人ではなく――山原先輩の目を連想した。
刀を引き抜くと、菅原くんは私の身体を起こして、そのままデタラメに刀を振るって、私の全身を斬り刻んだ。
普通の人間だったら、この一連の斬撃で一体何回死ぬことが出来るだろうか? そう出来たらどれだけ楽だろうか?
だけど私は死ねない――この悪夢の中で、私は決して死ぬことは出来ないのだ。
――あんたにも、なんにもないんだよ。
いつもの悪夢の中の私だったら、ここで力なく倒れているところだった。
「――?」
菅原くんの表情に、見るに明らかな戸惑いが生じた。
私は、これほどの傷を負ったにも関わらず、決して倒れることなく踏みとどまり、この両足で立ったのである。
「――」
口を開き、言葉を発しようとする。
だけど、私の喉頭は全く揺れない。口は動いているのに、声が出ない。
何かを言おうとした言葉が、その傍から消えてなくなるように。そしてそれは、この悪夢に限らず、何度もあったことだった。
一体何でだろう? 一体何で、こんなことが起こってしまうのだろうか?
菅原くんの言う通り、結局私には、自分で考えられるだけの頭がないのだろうか?
だって現に、今この時にも、私はパパの助けを、心のどこかで望んでいるのだから。
「――」
処刑人の目に戻った菅原くんが、もう一度地面に転がるパパを刀で指し示した。
あるいは、いっそ拾ってしまうべきなのかもしれない。
パパの刀を抜いて斬り結んで、菅原くんに打ち勝って、そこで始めて私の言葉を菅原くんに届ける。それはいけないことで、間違っていることなんだと、そう言って聞かせてしまった方が良かったのかもしれない。
パパは、絶対に私のことを守ってくれる。だから私はきっと、例えこの悪夢の中にあっても、私が菅原くんに負けることは、絶対にあり得ない。
だけど――私は、菅原くんの刀のことを見ていた。
血塗られた刀、かつて自分自身で存在を否定した刀――彼が憎悪する刀。
「――ん」
何かが、胸の奥から湧き上がる感覚。
例え私に、自分で考える頭がなかったのだとしても。
だけどそれでも――
私はパパを、こんな風にしたりはしない。
「菅原くん!」
この悪夢の中に、始めて私の声が――人間が何かを語るための声が、響き渡った。
それは、自分自身でもちょっとビックリするくらいの大きな声だった。
私はきっと、生まれてこの方、ここまで大きな声で、何かを喋ったことがない。
「それは違うよ! 間違ってることだよ! パパは――菅原くんのその刀は、そんな風に使うためのものなんかじゃない!」
私はパパが大好きだ。
菅原くんは刀が大嫌いだ。
私は未だにパパのことを愛していて大事に持ち続けて。
菅原くんは憎んでとっくの昔に刀のことを捨ててしまった。
一体どっちの方がまともなんだろう?
やっぱり、私がおかしいのかもしれない。
パパを捨てるのが正常な人の在り方なのかもしれない。
菅原くんは私に叫んだように、何かを変えようとして、頑張って、そのためにはきっと自分の刀を捨てなくちゃいけなかったのかもしれない。だから、いつまでたってもパパを捨てない私のことが大嫌いなのかもしれない。
でも、それでも――間違ってるのは、少なくとも今この場で間違ってるのは、絶対に菅原くんだった。
「パパはね、かっこよくて、いつも私のことを見守ってくれてて、一緒にいるだけでとっても安心で幸せな気分にしてくれるんだよ……菅原くんもきっと、そうだったんでしょ? なのに駄目だよ、そんな風に、自分の刀を使っちゃダメ……」
「そんなに私のことが、パパのことが大嫌いだったら――自分の手で、私を傷つけてよ!」
私のことを、自分の言葉で、傷つけてよ。
きっとそのために、菅原くんは、刀を捨てたんだよね?
私はそう言って、菅原くんの目を見た。
処刑人の眼――何も写し出してない眼。
「――」
菅原くんは刀を薙いだ。
私の胴体がスパッと斬れる。気持ちのいいくらいの斬れ味。
「あああああっ!」
私は大きな声で悲鳴をあげた。
痛いって、私はとっても痛いんだって、それを伝えるために――まるで赤ん坊のように。
「――」
立て続いて降り注ぐ、菅原くんの斬撃の嵐。
先にも言ったように、こんなのは今までに受けてきた悪夢の責め苦からしたら、ものの数じゃない程度のものでしかない。
だけど、菅原くんに――処刑人の眼をした菅原くんにこういう風にされているという事実が、私にはとても堪えた。
痛い、苦しい、怖い――悲しい。
助けて、パパ――!
「――違う!」
私の叫びに反応したのか、菅原くんは刀を振るう腕を止める。きっと後数秒もしないうちに、嵐は始まるのだろう。だけどそれでも、私は思う。
私はパパが大好きだ。だけどここで大好きなパパにすがっちゃいけない。
それが、それこそが、菅原くんが私を大嫌いな理由なんだ。
「菅原くん、私に言ったよね? 何かをしようとしてるって、何かを変えようとしてるって……ねえ、菅原くん」
だから、言おう。
パパを背負わない私自身の身体から、私が思っている何かを言おう。
だけど、それでも――パパ、大好き。
「菅原くんは、一体何をしたくて、何を変えようとしたの?」
現に菅原くんの腕は大上段に振り上げられていて、今にも私の脳天に向かって振り下ろさんとしていた。
しかしその腕は、その体勢のままピタッと止まった。
菅原くんの眼は、処刑人のもののままだ。
今に、その刀は、また私のことを襲うのだろうか。
だけど、それは、もう二度と誰のことも斬り刻むことはなかった。
「――は」
ポツリ、と声が漏れる。
菅原くんの身体は震え、表情は青ざめて強張り――だけどそれでも、それでもなお、処刑人の眼のままの菅原くん。
菅原くんが、腕を振り下ろす。
振り下ろした腕は――地面に向かった。
カシャン! という大きな金属音と共に、刀は地面に叩きつけられた。
「俺は、自分が、大っ嫌いなんだよ!」
そしてそのまま、菅原くんは叫んだ。
処刑人の眼のままで――山原先輩から同じと言われた、なんにもない眼。
そんな眼をしたままで、菅原くんは訴え続ける。まるで、自らの罪を懺悔する教徒のように。
「何でだよ……何でお前、パパのことを大好きなんて言えんの? ふざけんじゃねえよ。そりゃあ俺だって好きだったよ。こいつを――兄貴を持ってるだけで、俺はすげえ幸せだったよ。そりゃそうだよ。だって俺は――」
菅原くんは自ら叩きつけた刀――兄貴を拾い、そして腰に差していた鞘も持ち、それを私の前に差し出した。
その表情は、努めて悲壮に歪められていたはずだったけれども――堪えきれずに漏れ出たような、そういう笑みが刻まれていた。
「なあ、これ、兄貴、カッコイイだろ? 生まれた時から、ずっと一緒だったんだ。飯食う時も、寝る時も、学校行く時も、ダチと遊ぶ時も――なんだったら風呂場にまで持ち込んだよ。刀なのにだぜ? 兄貴が刀だってこと自体は認識してるのにだぜ? そんくらい好きだったんだよ――先輩の言う通りだよ。俺は、兄貴さえいれば、後はこの世界に、なんにもいらなかったんだ! これが俺にとっての全てだったんだよ! 気持ち悪いよな?」
「…………」
「――なあ、気持ち悪いって言えよ! 言ってくれよ、頼むからよぉ!」
「…………」
そう言って慟哭し始めた菅原くんの気持ちを、きっと私は理解出来ない。
パパのことを大好きな娘。
兄貴のことを大好きな弟。
それの一体、何がいけないと言うのだろうか? 大好きなものを大好きだということに対して、一体どこの誰にそれを否定する資格があるというのだろうか?
「俺、怖くなったんだ」
慟哭の止んだ菅原くんの口から、再び懺悔の言葉が吐き出される。
「あんまりにも一緒にいるもんだから、俺が今考えてることが、俺の感じてることが、俺が感じてることなんだか、兄貴の考えてることなんだか、それが分からなくなっちまったんだ――俺、綿木の奴にバカにされてたんだよ。あんたは本当に、いっつもボーッとしてるよねって」
「それは、バカにされてたの?」
菅原くんは、キョトンとした表情を浮かべながら私の顔を見る。
「私も結構のんびりしてるし、菅原くんの言う通り確かに自分の頭で考えてないかもしれないけど――でも、それでも幸せだったよ? 確かに誰かにバカにされてたかもしれないし、菅原くんには嫌われちゃったけど、それでも、私と友達になってくれた人はいたよ?」
恋人はいたことないけど――とは言わなかったけれども。
でも、本当に、それ以上の何が必要だったというんだろう?
私がいて、パパがいて、家族がいて、友達がいて――菅原くんは、そういうのの、一体何が嫌だったというんだろう?
少なくとも、雛川さんは、そういう風に生きていた菅原くんのことを、嫌いではなかったはずなのだ。
今もなお、私と三人で一緒に登校して、気軽にバカって言ったり、気軽に暴力を振るったり、そういうのを、出来る程度には。
「……先輩には分からねえよ」
「何を?」
「自分が、自分以外の何かに、ましてや、自分が世界で一番大好きな何かに塗りつぶされて、それ以外に何もないことを、自覚することすら出来なくなる、そういう、怖さが」
やっぱり、よく分からなかった。
どんなにパパを好きだったとしても、それを好きになるのは私だし。
どんなにパパが私の心の中にいたとしても、この心は私のものなのだ。
それで、「世界で一番大好きな何か」に塗りつぶされるのだとしても――それを、「世界で一番大好きな何か」のせいにしてはいけないのだ。それを大好きになったのは私であり、菅原くんであったのだし、それが「世界で一番大嫌いな何か」にとって代わる可能性だって、あり得たのだから。そういう意味で私も菅原くんも、きっと幸いだったのだ。
だから、私は幸せだったのだ。
例え私が人よりものんびりしていて、菅原くんの言う「自分の頭で考えられない人間」であったのだとしても。
私はきっと、そういう自分を大好きなのだ。
「……助けて、助けてくれよ……兄貴、頼むから……俺、もう嫌なんだよ、もう……」
菅原くんは、座り込んで、膝を抱えて、グスグスと、悄然と泣いてしまっていた。俯く直前に見せた彼の眼は――未だに処刑人のもののままだった。
「そんな風になるくらいなら……」
兄貴のことを受け入れてあげれば良かったのに。
兄貴とは自分のことで、自分とは兄貴のことだ――そんな風に。
でも私はそれを言わなかった。菅原くんに理解出来ると思えなかったからだ。私が菅原くんのことを理解出来ないように。
現に菅原くんが私に言ったことも、間違っている訳ではないのだから。
だから私は菅原くんの真ん前で屈み込んで、そのまま何も言うことなく、頭を撫でてあげたのだった。
その頭は何だか思ってたよりもちっちゃくて、その髪は結構傷んでて、あんまり身だしなみとかに気を遣ったりしないんだろうなあって、ボンヤリとそんなことを思った。
※
「行ってきまーす!」
「あ、ああ、行ってらっしゃい……」
何だか妙に落ち着かない様子でリビングでコーヒーを飲んでいたお父さんの声を背中に家を出た私は、制服のポケットから取り出した読みさしの本を開いた。まあそりゃあ、つい昨日まで、今にも死にそうな顔をしていたり、昨日なんてガクブル震えてたりしてた娘が、ケロッと元気になってたりしたら、お父さんとしても戸惑うしかないんだろうとは思う。多分、今日あたり学校から帰ったら色々聞かれそうな気もするけど、まあ今はそんなことはどうでもいい、かな。
そんなわけで私は、左肩にかけた学生カバンと、右肩から背負ったパパの重みを感じながら通学路を歩く。
「高くて青くてとてもいい天気だね、パパ!」
石窯の奥から取り出した焼きたてのパンを差し出すような気分で、私はパパに言った。
十月の下旬。まだほんのりと晩秋の暖かみも感じなくはないけれども、もう次の春が訪れるまでここから暖かさを感じることはなくなっていくだろう。コートをタンスから出す日も、そう遠くもないだろう。
「でも、それでもいい天気なんだけどね」
私は誰に言うでもなく、そう呟いた。
背中のパパは何も言わずにカタカタと背中で揺られ続けている。やっぱりパパは重い。そりゃあこんなのを背負って毎日を生きてたら、疲れて言葉も出てこなくなるっていうものだ。そんなんだから菅原くんに何も考えてないとか言われちゃうのだ。
気持ちのいい空だ。
大好きなパパだ。
これ以上は何もいらない。
これ以上つけたすべきものなんて何もない。「えへへ、パパ、大好き」
「…………」
菅原くんが、いつも合流する辺りでボーッと立っていたので、幸福感いっぱいな微笑みを浮かべながらそう言ってみた。ぶっちゃけ、当てつけである。
「菅原くん、おはよー! 今日もいい天気なんだから、元気がゼロだと損しちゃうよ?」
「は、はい……そう、です……かね?」
「そうに決まってるじゃん。知らないの?」
「す、すみません……」
「えへへー」
まるでまともに女の子と喋ることも出来ない挙動不審系男子のように、ぎこちないコミュニケーションを展開する菅原くん。こいつ、結構コミュ障なんだなあ、なんて思ったりする。知ってたけど。綿木さんが蹴り飛ばしたくなる気持ちも分かる気がした。
「あ、あの、先輩……昨日」
「んー?」
「昨日……その……」
「なあに?」
「……や、やっぱり、なんでもな――」
「ってことは常識的に考えて多分きっとないと私なんかは思ったりするんだけど、菅原くんがそう思うんならそれでいいんじゃない? 少なくとも私はどうでもいいよ。どうでも」
「…………せん」
謝るならはっきり謝れよ。
聞こえるか聞こえないかくらいの、だけどまあ別に聞かれたからってだから何? 的な声量で呟いてみたけど、菅原くんはただただ、俯いて縮こまるばっかりだった。ヘタレか何かみたいに。
そんな感じに、しばらく私たちは無言で歩いてたけれども、私は徐に立ち止まった。
「ねえ、菅原くん」
「……なんですか?」
私が無言で右手側に視線を向ける。その先には、この町内のゴミ置き場があった。今日は不燃ゴミの日らしかったけれども、多分パパがリアルの刀だったら引き取ってくれはしないだろう。っていうか、警察沙汰になる。
菅原くんも従順なだけが取り柄な飼い犬みたいな挙動で私の視線を追って、それを認めた彼は、むしろ狼狽えてる見たいな感じの戸惑いの表情を見せた。流石に、私が何を言わんとするかを理解したらしい。
「私、パパ捨てるね」
向き直って菅原くんにそう言うと、彼はそんな表情のままで固まってしまった。
「……なんで、ですか?」
「なんで菅原くんがそれを聞くの? 捨てろって言ってたの、菅原くんだよね?」
「そ、それは……」
「じゃあ、私が菅原くんの質問に応える意味とかなくない? キミ言ってたよね? 『こんなものを持っていること自体が馬鹿馬鹿しくなった』ってさ。それでいいじゃん」
「で、でも……」
「で、パパを捨てたらそれでお終い――これでいいんでしょ? それが、菅原くんの望んだことのはずだったよね?」
「………………………………………………」
なんか無駄に三点リーダを並べるみたいなどうでもいい沈黙の後に、菅原くんは消え入るような声で「はい」と応えた。
その「はい」を聞き届けてから、私は背中からパパを外す。文字通り背中から重荷が降りて、今は両手にズッシリとした重みが乗っている。だけどもう間もなく、これと同じ重みを感じることは、二度となくなるのだ。
「……大好き、パパ」
パパに向かって、私は語りかける。例え私に一生の伴侶が出来たとしても、これ程までには愛を込めた言葉をかけないだろうと、そんなことを思うくらいには。
菅原くんが、何か言いたげな表情になる。
やっぱり捨てたくないんじゃないですか? いかにもそう言いたそうな表情。
それが実にウザかったので、私は思い切り破顔すると、
「――嘘だよ!」
大喝一声。
私は私の持ちうる全力を乗せて、思いっきりパパを投げ捨ててやった。
「じゃーねパパァー! 今までありがとう! なんか面倒臭いから不燃ゴミに出しちゃったけど、夢の島辺りでガラクタたちと余生を元気に楽しくやってねー!」
近所の人たちが何事かと来るんじゃないかというくらいの、腹から思いっきり出す感じの大声をあげて、ポリ袋詰めの不燃ごみたちに並んで横たわるパパに別れを告げた。
「……先輩」
体内の酸素という酸素を出し尽くした気分だった私が身をかがめて息をついているところに、菅原くんが恐る恐るという風に、声をかけてくる。
「……何?」
そう言って私は菅原くんを見上げる。多分、この世に生を受け以来、最大の敵意を込めて睨みつけていたに違いない。
それに菅原くんがビクッ! とみっともなく震えたけれども、だけどそれでも菅原くんは、生唾を一度飲んでから、口を開いた。
「先輩……先輩が、パパを大好きなのを嘘だっていうのは、嘘、ですよね?」
「……当たり前じゃん」
そんなことをわざわざ聞くなんて、やっぱり菅原くんはバカなんじゃないかと思う。
「じゃあ、なんで捨てたんですか?」
「…………」
「……もう分かってますよね? 俺が先輩に刀を捨てろって言ったのは、俺のエゴでしかないですよ? 俺、自分のことが――」
「ごめん、黙って」
なんかいかにも不愉快な自分語りが始まりそうな気配だったので、ピシャリとそのじめついて気持ちの悪い口を閉ざした。
「私、『自分の頭で考えて』パパを捨てることにしたんだよ。菅原くんは何にも関係ない――とまでは流石に言い切らないけど、でも、それでも最後にパパを捨てるって決めたのは、私なんだよ」
「…………」
「それを、そんな下らない言葉で、汚さないで欲しいんだよね。それで気が済まないんなら、ツイッターの鍵垢にポエムでも呟いてなよ。少なくとも、私の前では絶対に何も言うな。反吐が出るから」
菅原くんは、見捨てられた小型犬見たいな表情で、呆然と私を見る。菅原くんのあまり出来の良くない頭でも、もう間もなく、菅原くんが何を言ったところで、その言葉は私に届かないことを悟ることだろう。それが、私と菅原くんの、別れの時――
「――私ね、一つ、分かったことがあるんだ」
でも良かったんだけど、流石にちょっと菅原くんが可哀想だったので、ほんの少しだけ、救いを与えることにした。
少なくとも、菅原くんの言っていることが、何から何まで全部間違っていた、というわけではないのだから。
「…………」
「パパはね、いつも、いつでも、一緒にいてくれてるんだよね。私の傍に」
「……捨てたじゃないですか、自分で」
「だって必要ないから」
理解出来ない、と極太マジックで額辺りにデカデカと書かれてる見たいな表情を浮かべる菅原くん。アホの子みたいだな、と思った。
「別に背中に背負ったり、パパって呼ぶ刀に向かって語りかけなくたって、パパはいつも、私の傍にいてくれてるんだから。だから、いらないの、もう」
私はパパだし、パパは私なのだ。
なのに、何でわざわざパパなんて持たないといけないんだろう? なるほど、確かに私は「自分の頭で考えていなか」った。
でも……。
と、それでもなお、菅原くんは縋り付くように私に言葉を投げかける。
「じゃあ、なおさら捨てる必要、なくなかったですか?」
「……え?」
「だって、別にそれ、捨てる理由にはならないですよね? これからも、一緒にいればいいじゃないですか。せっかくなら、パパを、ちゃんとモノとして持ち歩いて――」
「だって、重いじゃん」
「は?」
いや、私今そのまんまのことを言っただけなのに、そんな「さっぱり理解出来ない」見たいな顔をされても……やっぱり、本当にバカなアホの子なんだな、菅原くんって。ってか、あんただって、ガキの頃にはいつも一緒にいたって言ってたじゃないか。自分の大好きな兄の重みも忘れたのか。今でも心の何処かでは大好きだに決まってるのに。
「こんな重いの持ち歩いてたら、すぐ疲れちゃうじゃん」
私、何か変なこと言ってる?
ぐうの音も出ないなのか、開いた口が塞がらないなのか。その辺はよく知らないけれども、それでもとにかく絶句してしまった菅原くんは、そのまま固まってしまった。
荷物にしかならないものは捨てる――当たり前のことじゃないか。
そんなことをしなくても、私はパパだし、パパは私なのだ――つまり、私はいつも、パパと一緒なのだ。
――パパ、大好き。
菅原くんは、まだ固まっている様子だったので、なんだかもう面倒臭くなって、先に行くことにした。さっさといかないと、遅刻してしまう。多分、綿木さんも先に行っちゃったんじゃないかな。
「……先輩」
「んー?」
後ろからついてくる菅原くんを置いていくくらいの気持ちで、私は通学路を歩く。住宅街を抜けて、国道の通っている大通り、その交差点の辺り。
「先輩、俺のこと恨んでます?」
「別に、恨んではいないかな」
「……じゃあ、俺のこと、嫌いですか?」
あーもー本当に、なんでそんなことを聞くのかなあ。
ちょうど交差点の信号が赤信号だったので立ち止まって、しばらく黙ってる。表情らしい表情のない、自転車に乗った学生、主婦、社会人。結構うるさくエンジン音を鳴らして目の前を走っていく沢山の乗用車や大小のトラックの群れ。いくら菅原くんがバカだからといって、私の顔を覗き込む度胸なんて絶対ないに違いない。
だから、信号が青になって、自転車が動いたその瞬間、振り向いて、とびっきりの笑顔を浮かべて、言ってやったのだ。
「うん、大っっっ嫌い」
しばらく、菅原くんの表情に浮かんでいたのは無だった。それでもやがて、何かを諦めきった様子で、卑屈な笑みを浮かべると、
「……ですよね」
と、ポツリと呟いた。
そして今度こそ、私たちは何も言うことなく、駅に向かって歩き始めた。
※
「やっほー、ヒナちゃんおっはよー! ――って幹久! あんた、何でヒナちゃんと一緒にいるのよ!」
「それは……」
私があんなことになったのを綿木さんが知って以来、そうなった理由を菅原くんにあると考えた綿木さんは、私に絶対近づかないようにと菅原くんに迫っていたのだ。現にこの数週間、昨日を除いて、菅原くんと一緒に登下校はしなかった。
「……って、あれ? ……この分だと、あんたがヒナちゃんに何かされたの?」
「うん。大っ嫌いって言ってやったの」
「あっはっはっ! 言われてやんの、バカ幹久! これに懲りたら、少しはバカを直しなさいよね、バカなんだから!」
「ホント、菅原くんってバカだよね。思い込み激しいし、無神経だし、バカだし」
ヒナちゃん容赦なーい! と、綿木さんは腹を抱えて大笑いする。
「まっ、でもホントのことだから、しょうがないよね。バーカバーカ!」
真っ白だった菅原くんの顔が、みるみる真っ赤になっていく。そして沸点を超えたお湯みたいに、彼は喉を痛めそうな喉声で思いっきり怒鳴り始めた。
「……っせーな! バカバカ言ってんじゃねえよ! 俺だって反省とかしてんだよ! いっつも俺のこと蹴り飛ばしてきやがって!」
「わーバカが逆ギレしてるー! バカにバカって言って何が悪いのよ、バーカ!」
そんな感じに、わーわーわーわーとじゃれ始める二人。最初は二人はちょっと頭が悪い感じに罵詈雑言をぶつけ合っていたけれども、やがてちょっと痛いところを突かれた綿木さんが、怒りに任せて蹴りを入れ始めて、それが止むと、綿木さんがよく分からないツボに嵌ったらしくて笑いだし、菅原くんも釣られて「アホかよ……」と含み笑いを浮かべた。
そして何故か、私もいつの間にか、笑ってしまっていた。
いつも何かに怒っているように眉根を寄せている仏頂面――だけど、友達の前では、普通に楽しそうに笑ったりもする、そんな、どこにでもいる感じの、普通の男の子。
「ねえ、菅原くん――」
だから、私は言うことにしたのだ。
私は菅原くんは大嫌いだけど、それでも、友達にはなってみない? と。
だって、菅原くんの何から何まで全部が間違ってたってわけではないんだから。
だから、今度は私の方が菅原くんに歩み寄ってみる番なのだ。
パパもきっと、私にそう言うに違いないのだから。