Layla
Hellow,How Low?
今から少し前。
もう一年くらい前になるのだろうか。
インディーズシーンを席巻したとあるロックバンドがメジャーデビューを目前にして活動を休止した。
ファンの間では音楽性の違いから解散したとも、メンバーの一人が自殺したとも噂された。
時には唸るような轟音。
時には触れたら割れそうなメロディー。
彼らは確かな個性をライブハウスという小さな空間で披露し、その場に居た人間を魅了した。
そのバンドの名前は――
In Case of Emergency
略称はICEである。
ガール・ミーツ・ボーイ
1
私こと阿武玲羅は道に迷っていた。
この春から大学生となる私は親元を離れて父方の祖父の家に住むことになっていた。
お祖父ちゃんの家に行くこと自体は決して初めてじゃない。少し、同級生のお祖父ちゃんと比較した場合、特殊であるかもしれないが、息子夫婦との仲は良好で玲羅にも優しい人だった。
だから家くらいは一人で行くことは出来る。問題はそのお祖父ちゃんが今、家に居ないということだ。
携帯に入っているアプリの地図とにらめっこしながら玲羅は立ち止まっていた。
大学入学を期に手に入れた憧れのスマートフォーンは手に負えるようなものではなくて、どうもいまいち使いこなせていなかった。
こうなったら仕方がない。ちょっと恥ずかしいけど人に道を尋ねよう。そう決心した矢先にちょうど向こうから若い男が歩いてきた。
「あの、すみません」
玲羅は男に声をかける。
「ん?何か用……ですか?」
男は少し気怠そうに言う。
「あ……」
髪は金髪に染めていて、白い肌と共鳴して輝いているみたいだった。眼は薄いサングラスで隠れているが絵画から切り抜かれたかのような美しい造形に玲羅は言葉を失っていた。
「何か用があったんじゃないの?」
「あ、す、すみませんっ」
男に再度、声をかけられ我に返る。
「ここに行きたいのですが分かりますか?」
差し出したのは一枚の紙。そこに行き先が載っていた。地元の人ならもしかしたら分かるかも。そんな軽い気持ちだった。この人が分からなかったら交番に行こう――。
漠然と玲羅はそんなことを考えていた。
「あぁ、俺も今からここ行くよ」
予想だにしない言葉をかけられると人は反応が一瞬遅れるものらしい。
「へ?」
運命というものがもしあるとして、私と彼の出会いは何とも間抜けなものだったな、と玲羅は後にこのときを振り返る。
2
目的地は私鉄の高架下だった。
「おー、玲羅。待っとったぞ。しかもコタローと一緒に来たのか」
「君、マスターの知り合い?」
ここまで一緒に歩いて来た男が玲羅に尋ねる。
「孫です」
玲羅の祖父である陣内志門はライブハウスの経営者だった。その名を『アンダーザブリッジ』というライブハウスは時折、電車の音と揺れを感じた。ライブになればどうせ分からないし、何よりも『アンダーザブリッジ』という名前は最高にロックなのでこの場所は気に入っているとお祖父ちゃんは言うが何のことやら玲羅にはさっぱり分からなかった。
「孫が今日から来るって言ったじゃろ、コタロー」
お祖父ちゃんはライブハウスのマスターであると同時に本人の言葉を借りるのであれば
「現役のロックンローラー」
であり、玲羅くらいの年齢の孫が居る人間としてはやや特殊な人物である。
「あぁそう言えば、聞いていたような……」
コタローと呼ばれる男はあまり玲羅に関心はないようだ。
「二人共、ちゃんと自己紹介せい。今日から同僚じゃぞ」
お祖父ちゃんのその言葉を聞いて自分をここまで連れてきてくれた美青年がここの従業員なのだと玲羅は理解した。玲羅自身も下宿させてもらう以上、ここでアルバイトをする約束だった。
「阿武玲羅です。よろしくお願いします」
「加東小太郎です。よろしく」
丁寧に頭を下げる玲羅に対して素っ気ない感じの小太郎。二人の性格が現れていた。
「いい名前じゃろ、コタロー?」
「ロックですね」
「?」
祖父とバイト先の先輩の会話は玲羅には通じなかった。
3
お祖父ちゃんは今日来たところだし家に届いている荷物をほどいたらどうだと提案したが、せっかくだし今日から働かせてくれと玲羅の方から申し出た。その結果、今日は一日コタローさんに付いていって仕事を習うことになったのだが……。
無口な人なんだなぁ。
容姿は既に述べた通り女の自分が嫉妬するくらいに美しいにも関わらず、乙女チックな表現をするのであればコタローさん相手にキュンとときめくことはなかった。
だってこの人やる気がないんだもん……。
つまらなそうな顔でつまらなそうに淡々と仕事をして音程を感じさせないフラットな言葉で仕事の説明をする。
ライブハウスの仕事と言っても、今はまだライブが始まっていないし、音楽関係の仕事は素人の私には任せられないので簡単な雑用ばかり。
せっかくの美顔が台無し。
コタローさんはおそらく女性から人気あるだろうけど、親しくなる人は滅多に居ないんだろうな、と玲羅は勝手な分析を行う。
「あの、コタローさん」
「ん?」
何だか沈黙に耐え切れなくなって声をかける。
「コ、コタローさんも楽器を演奏するんですか?」
玲羅は当たり障りのない質問をしたつもりだった。ライブハウスでバイトしているのだもの、きっと楽器が好きなんだわ。玲羅がそういう発想をしたことは普通だった。
「やらないよ」
「え?」
それはほとんど聞き取れないような小ささでけれども耳に残る鋭さだった。
「俺は演奏なんてしないんだよ」
そう言ってコタローさんはどこかに去ってしまった。
玲羅はそれを眺め、立ち尽くすことしか出来なかった。
その日の夜――。
「ほぅ、コタローとそんなやりとりがあったのか」
夕食のお寿司を食べながらその話をする。
可愛い孫との共同生活初日ということもあり、仕事は他の人に任せてちょっと贅沢にお寿司を注文して水入らずといったところ。
「なんか私、気に障るようなこと言ったかしら」
「コタローも難しい男だからのぅ。特にここ一年は色々あってな。まぁ向こうのが少し年上だけど同世代だし仲良くしなさい」
玲羅は、はーい。と答えた。
アイソレーテッドアイランドベイビー
1
玲羅が祖父の経営するライブハウス『アンダーザブリッジ』でバイトを始めて一週間が経った。
大学の入学式もその間にあって、環境が一気に変わり始めている玲羅だったが、どうも面白くはなかった。ライブハウスで演奏をしている人たちに比べると自分は
「生き生きとしていない」
理由は何となく分かっていた。でも、それを認めたところで何も変わらない。自分の進路は自分で決めたのだ。もしかしたらそこには分かりやすい案内標識があったかもしれない。しかし、その標識に逆らわないことを“選択”したのだ。玲羅はそう自負している。
「何を今さら……」
カウンターでそう呟きながら玲羅は帳簿を整理していた。
「あら、玲羅ちゃん今日は学校お休みなの?」
常連の塩谷さんが近づいて声をかけてくる。
塩谷さんは体格が良くてスキンヘッドという少し近寄り難い風貌の男性なのだが何故かお姉言葉だ。そういえばお祖父ちゃんが演奏はもっと
「変態的じゃぞ」
て言ってたけ。どういう演奏が変態的なのかは素人には分からないけど。
「今日は午後から授業ないんですよ」
玲羅は塩谷の質問にそう答える。
「あらいいわね、大学生はうらやましいわ」
「そんないいものでもないですよ」
これは一週間ほど大学に通った率直な感想。
別に面白くもない。何だか周りの人間全員が薄いペーパーで出来た人形のような感覚がぬぐえなかった。
「まぁまぁ、医学部の学生さんがそんなこと言っちゃって。アタシのような勉強出来なかったし、音楽も中途半端だしでお先真っ暗な人間からしたら代わって欲しいくらいなのに」
「はぁ……」
塩谷さんに悪気は何一つなかったのだろう。
しかし、その言葉に玲羅の心は沈んだのだった。
2
激しい轟音が周囲を支配する。
この一週間、毎日のように聴いているとさすがに慣れてきた。
今はこの音に高ぶりさえする。
そこはお祖父ちゃんから受け継がれてきた遺伝子が確かに流れていたのかもしれない。
ライブハウスとは不思議な場所だと思う。
元々、さほどロックバンドのライブに興味がなかった玲羅がアマチュアのおそらくコピーバンドというのだろうか……彼らの演奏を耳で聴いて眼で視て興奮出来る空間なのだから、ここは。
お祖父ちゃんがあの歳になってもはしゃぐのが分かる気がする。玲羅は既に立派な『アンダーザブリッジ』の店員だった。
それだけにどうしても気付いてしまうことがある。
熱狂的なこの箱の中でそこだけは他を寄せ付けずに冷えきっている孤島なのだ。
コタローさん、楽しくなさそう……。
仕事なのだから楽しくはない。
そう言われたらそれまでのことではあるが、瞳に写るコタローさんの表情は、苦痛を浮かべているようにも見えた。
「さぁ飛べ飛べ飛べ飛べー」
塩谷さんのバンドのボーカルが観客を煽る。
頭を振って飛び続けるオーディエンスとは対照的に何故だか先ほどまでノリノリだった玲羅の心は冷めてしまっていた。
3
その日の夜だった。
一度、お祖父ちゃんと一緒に帰った玲羅だったが、鞄の中に大学のテキストがないことに気付き、『アンダーザブリッジ』へ引き返していた。
お祖父ちゃんから預かった鍵をライブハウスの扉にさして異変に気づく。閉めたはずの鍵が空いている。「おかしいな」と思いながら、暗い建物の中に入っていく。ここから先のことは鮮明には覚えていない。光が先か、音が先か。眼が先か、耳が先か。玲羅の心は目の前の光景に奪われた。
ライブハウスのステージで一人の男がギターを弾いていた。しばらくしてそれがコタローさんだということに気付く。
音楽の知識がない私でもその白いギターが左利き用(正確にはギターが利き腕で変わるのかが玲羅はしらない)だということ、ギターを弾いているコタローが神々しささえ感じるほどう美しいということ、そして何よりもその旋律が心を惹きつけることだけは分かった。実際、このとき鳥肌が立っていた。
「…………」
私に気づいているのか気づいていないのか。コタローさんは無心でギターを弾き続ける。
それはもう圧倒的という以外に表現のしようがないものだった。
無意識の行為だった。
玲羅はこの素晴らしいギタリストに惜しみなく賞賛の拍手を送っていたのだ。頬には温かい滴が流れていた。涙なのだと分かるのに少し時間がかかった。
するとコタローさんがステージから降りてきて、私の前までやってきた。
「涙、ふきなよ」
左手で私の目元をつたう涙を拭ってコタローさんは去っていった。
4
次の日、玲羅は少し憂鬱だった。
昨日のコタローさんとの出来事を思い出すだけで顔から火が出そうだった。
そんなこんなで玲羅はまだ馴染んでいない大学に少しでも長い間、滞在しようと必死だった。
幸い、今は新歓であちらこちらのサークルや部活がかよわい新入生に声をかけてくる時期である。入学してから一週間、入学式で知り合った友人らといくつかのサークルを回ってみたが、どこも惹かれるものがなかった。
そんなとき、耳に覚えのあるメロディーが聞こえてきた。
「この曲は……」
まさしく昨晩、聞き惚れたメロディー。コタローさんの演奏した曲だった。
「阿武さんも、軽音に興味があるの?」
後ろを振り返ると、セミロングにヘアバンドの女の子が居た。
「えーと……」
「あ、もしかして私が誰だか分からない?」
「ごめんなさい……」
相手をこれ以上、傷つけないために素直に謝っておく。
「同じクラスの星よ」
星というのが苗字だと気づくのに少し時間がかかった。ちなみに後になって下の名前は林檎というのだと知った。
「星さんは知っているの、この曲?」
「なるほど。初心者か」
「え?」
「この曲はね、『Layla』って言うの。ギターの神様、クラプトンの代表曲。日本では『いとしのレイラ』の方が通じるかもね」
その瞬間、あの日の会話を思い出した。
「いい名前じゃろ、コタロー?」
「ロックですね」
「?」
『玲羅』という名前がいい名前なのもロックなのもこういう理由か、と少し頭を抑えた。
名付け親がお祖父ちゃんなのも知っているんだからね。
「下手くそね」
「え?」
「この演奏よ。ほら、向こうにステージがあるでしょ。あれよ、あれ」
星さんの指さす先には楽器を持った集団がいた。
「まぁ、大学生だし、好きでやっているのだから上手い下手は重要ではないのだけれども、恥ずかしくないのかしらね、あの程度で」
おいおい、あなたも大学生じゃないのか。しかも成りたての。玲羅は心の中でツッこむ。
「私、そんなに興味ないけど、阿武さんが興味あるならあのサークルの新歓ご一緒しますけど?」
多分、星さんは親切心でそう言っているのだろうけれど、私だって別に星さんの興味ないところに一緒に行こうとは思わないし、何より私もあそこのアマチュアバンドに興味がさほどあるわけではない。
「いや、私はアルバイトがあるから」
この発言が失敗だった。
「へぇー阿武さんってどこでアルバイトしているの?」
でも仕方ないよね、普通そこまで仲良くない人がバイト先まで押し込んでくるなんて思わないんだもの。
5
「おやおや、可愛いお客さんじゃな」
「お客さんじゃないでーす。バイト希望でーす」
「おっと、失礼」
玲羅のバイト先がライブハウスだと知った星さんこと林檎ちゃん(下の名前で呼ぶように言われた)は自分もそこでアルバイトがしたいと言い出した。知り合って間もない人(玲羅目線で)に何を言い出すのだと思ったけど、どうやら林檎ちゃんはイケイケ青信号な性格らしく言っても通じなそうなのでとりあえず連れてきた。
「星……林檎さんね、ふむなかなかロックじゃな」
「玲羅ちゃんにも負けてないと思います」
こちらが『林檎ちゃん』ならむこうは『玲羅ちゃん』である。
「好きなバンドは?」
「ツェッペリン」
「好きな曲は?」
「天国への階段」
「座右の銘は?」
「学べ、そして忘れろ」
「合格!」
ズコーン。
古い漫才みたいに玲羅はズッコケてしまった。
「お祖父ちゃん、早すぎない?」
「バカモン。思い立ったらロックンロールて言うじゃろ」
いや、言わない。
「それに玲羅と同じ大学の友達だったら何も不都合じゃないわい」
最近、人手も足りとらんし。お祖父ちゃんはそう付け加えた。
「よろしくね、玲羅ちゃん」
「はぁ」
決して林檎ちゃんが『アンダーザブリッジ』の仲間になることが嫌なわけではないが、こうもあれよあれよと決まってしまうと、そのなんていうのかな、これ以上、雇う余裕があるの、だとか何でそんな簡単にここでバイトしようと思えるの、とか色々なことが頭の隅っこから離れなかった。
クロスロードに御用心
1
今日もまた、一日の労働が終了した。
彼――加東小太郎にとって労働とは拷問でもあり、救いでもあった。
働いている間は無心になれる。
嫌なことを思い出す必要も考える必要もないのだ。
しかし、小太郎の場合、職場に大きな問題を抱えていた。
それは決して、職場でのイジメだとか、勤め先がブラック企業であるとかそういう意味ではない。
「思い出したくない嫌なこと」と職場、つまり『アンダーザブリッジ』がダイレクトにリンクするのだ。
その日の仕事が終わり、耳障りなノイズから解放される瞬間。
それが労働に対する一番の報酬だと小太郎は思っていた。
ふと、左手に軽い痛みが走る。というよりは疼いたという方が正しいだろうか。
「……っ」
ちょっと表情を歪める。
別に痛いわけではない。
ただ、反射的に左手を見てしまった自分に腹立った。
柔らかい己の左手が大嫌いなのだ。
嫌いなものが視界に入れば聖人君子でも表情を歪めるだろう。
もっともこの世にそんなものは存在しないというのが小太郎の持論ではあるが。
どんな人間だって等しく汚れていて、だからこそ等しく美しい。それがロックとういう音楽なのだ。
聖人君子なんてクソくらえ。
そんなことを考えながら小太郎は『アンダーザブリッジ』を後にした。まだ店には彼の雇い主であるマスターこと陣内志門を初め数人の従業員が残っていた。
それから十分くらい歩いた。
小太郎は十字路の入口で足を止めた。
「……?」
霊感というか、シックスセンスというか、ともかく誰かに呼ばれた気がしたのだ。
しかし、周りを見回しても誰もいない。
不思議に思いながらも、もう一度、正面を向いたとき、それが眼に入った。
エレキギターがポツンと電柱に立てかけられていた。
状況からしておそらく捨てられているものであり、弦は切れている。しかし、そのボディは妖しく白く光っている。まるで、新品のように。
途端に手に取りたい衝動が襲ってきた。
このギターには魅力があった。
ある程度、音楽に精通しているものなら、いや、全くの素人だってこのギターには惹かれるだろう。
その白いボディは人を惑わす。
きっと奏でる音も魅力的なのだろう。
小太郎は自身の中に眠る欲望が踊っているのを感じた。
しかし、それを手にすることはありえなかった。
コタローは二度とギターを手にしないのだ。
そこに小太郎の意思はない。
ただ、そう決まっているのだ。
ギターから視線を外して帰ろうとしたその刹那。
最後の最後にあることに気付いた。今の小太郎にとってそれはとても重要なことだったかもしれない。
この白いギターは
「左利き用かよ」
2
ギターを持って『アンダーザブリッジ』へ戻っていた。
こんな光景、誰かに見られたら勘違いされそうだが、小太郎は職場のスペアキーをポケットから取り出した。
どうやら、有難いことに他の人間は全員帰ったらしい。
部屋の明かりを点けてそこからはあまり覚えてない。
一心不乱に弦を張り直した。手馴れたもので、そこまで難しい作業ではない。
張り直した弦をいじってチューニングをすませる。
そしてアンプに繋ぎ、適当に左手で6つの弦を撫でる。
ボロロン。
それは挨拶みたいなものだった。
だが、凄いやつは挨拶の段階で分かるのだ。
確信した。
このギターは名器であると。
びっくりするくらいに手に馴染んでいる。
今の自分がここまで弾けるということに小太郎は驚いていた。
この時の小太郎は間違いなく調子に乗っていた。
次々に頭に浮かんでくるメロディーを奏でていく。その多くが、かつてギターを覚え始めたとき、一番、努力したときに身体に刻まれたメロディーだった。
そんな感じだから来訪者の存在に最初は全く気付いてていなかった。
あれは……。
ステージの先に一人の少女が立っていた。
マスターの孫、玲羅だった。
ついでに言うと小太郎は彼女の教育係である。
小太郎は玲羅に「演奏はしない」と言ったがそんなこと忘れていた。
ただただ自分を見つめるオーディエンスに今できる最高のパフォーマンスを見せようということだけを考えていたのだ。
案外、上手く弾けるものだな。
それはギターの力かはたまたコタローのセンスによるものか。
遊び心で披露した『いとしのレイラ』を弾き終える頃には、少女の目元には涙が浮かんでいた。
……!
その時、小太郎の脳裏には別の光景が流れていた。
「……一生、許さない」
それは忘れられないメモリー。
小太郎の記憶の中の女が涙を浮かべながら告げた一言。
あぁそうか。
ゆっくりと眼を瞑る。
似ているんだよ、雰囲気が。
次にまぶたを持ち上げたとき、彼の瞳には現実が写っていた。
俺が泣かせたのか。
小太郎はギターをそっとステージの上に置き、少女に近づく。
少女は――玲羅は、吸い込まれるような瞳で小太郎を見つめて動かない。
その目元に指を近づける。
「涙、ふきなよ」
それは誰に向けた言葉だったのか。
口にした本人にも分からなかった。
忘れられないの
1
夜。私はお祖父ちゃんの部屋を物色していた。
「ねぇ、本当にここにあるの?」
押入れの中にあるダンボールをかきまぜながら持ち主に聞く。
「んーあるはずじゃがのぅ」
ペンを片手に何かの作業(おそらく仕事)をしているお祖父ちゃんがこっちを振り向きもせずにそう答える。
可愛い孫を手伝ってやろうとは微塵も思わないようである。
「しかし、お前さん確かロックに興味なかったじゃろ」
「別に興味がないわけじゃないけど」
普通に最近流行りのポップスが好きなので、テレビに出てくる人気ロックバンドは好きだ。
もちろんお祖父ちゃんもそういうバンドのこと好きなのかもしれないけど、お祖父ちゃんの言うロックとは主に昔の洋楽のことを指す。
あの日、コタローさんがギターを聴いてからあの曲が耳から離れない。
そう『いとしのレイラ』だ。
正確には曲そのものよりコタローさんの演奏している姿、イメージそのものが忘れられないのだけれど。
何だか気になって一度、原曲を聴いてみたいと思ったのだ。
冷静になれば曲を聴くだけなら今どき、インターネットの動画サイトとかで十分なんだけど、多分お祖父ちゃんがCDか何かを持っているだろうと予測した私はお祖父ちゃんの部屋におしかけた。
「持ってなかったらモグリじゃわい」
という、良く分からない台詞と共に指差したのが押入れ。
「?」
何を言っているのか通じていない私を無視してお祖父ちゃんは押入れを開けた。
中には大量のダンボール。
「そのどこかにあるわい」
繰り返すようだけど、このご時世にはインターネットの無料動画サイトで大抵のものは見ることが出来る。
だがそのことに気づいてない私はこうしてダンボールを漁っているのだ。
「ないなぁ」
ていうかごちゃごちゃし過ぎだよ、お祖父ちゃん!
「ん、そう言えば」
お祖父ちゃんが何かを思い出したかのように立ち上がり、CDプレイヤーの前に行く。
「さっき聴いとったわい」
CDプレイヤーから一枚のディスクを出す。
玲羅は血の繋がった祖父の痴呆を心配した。
2
「~~~♪」
「ご機嫌ね」
「うわっ」
「『うわっ』て……玲羅ちゃん、落ち着きが無さすぎじゃない?」
大学の構内を歩いていたら背後から林檎ちゃんに声をかけられた。驚いた私は素っ頓狂な奇声を出してしまったのだ。
「『いとしのレイラ』ね」
「……聴いてたの?」
「聞こえたの。だからご機嫌ねって言ったのよ」
どうやら鼻唄をガッツリ聞かれてしまっていたらしい。
「ねぇ、私、気になっていたんだけど」
林檎ちゃんが隣に来る。
「なーに?」
「玲羅ちゃん、何かその曲と想い出でもあるの?」
「……どうして?」
「だって、初めて会ったときに曲のタイトルも知らなかったじゃない。なのに何かやけに気にしてたし、今も歌っているし」
「ほら、タイトルにレイラって入っているから」
「玲羅ちゃんて嘘つくの下手くそだよね」
「ふへっ」
本日二度目の奇声。
「もうカマかけただけなのに、玲羅ちゃんたら分かりやすいわね」
「えーっ」
そうだったのか。お腹をかかえて笑っている姿からして本当にカマだったらしい。
「酷い」
「アハハ……ごめんね。でも、玲羅ちゃんが悪いんだよ?」
「私が?」
「だって私が質問したときにすぐに答えられなくて目が泳いでたんだもん」
「…………」
もう、何も言い返さなかった。
しかし、友達になって、いや知り合ってまだ少ししか経っていないのに林檎ちゃんにいいように遊ばれている私って一体……。
「で?」
「で?……とは?」
「とぼけちゃって。お・も・い・で」
この人にはこれからも振り回されるのだろうな、と肩を落とした。
3
「コタローさんってあぁ玲羅ちゃんと一緒にいるあの?」
「その言い方は感じが悪いわね」
二人共空きコマだったということもあり、大学のテラスでお茶をすることになった。
コードネーム追跡者林檎から逃げるのを諦めた私はコタローさんの演奏を見たあの夜のことを話した。
「だいたい、林檎ちゃんにとってもバイト先の先輩でしょ」
「でも私、ほとんど喋ったことないのよねぇ」
そう、玲羅の教育係はコタローさんだけど、林檎ちゃんの教育係は別の人なのだ。
コタローさんは林檎ちゃんどころか私とも殆ど喋らないし、多分、お祖父ちゃんくらいだろう喋るのは。
とことん一匹狼の気難しい人。
それがあの人に対する一般的な評価だと思う。
「でも、変わった人よね。演奏しないとか言いながら夜にこっそり一人で弾いているなんてね」
「うーん」
そこが分からいところだった。
どうしてコタローさんは誰も居ないライブハウスで一人、ギターを弾いていたのか。
それは毎日行われていることなのか、それともあの夜だけのことだったのか。
気になって仕方なかった。
けれども昼間のコタローさんは近寄りがたく、とてもあの夜のことは聞けそうにもなかった。
二人だけのライブを自分はこうして未だに引きずっているのに、あの人は何とも思っていないのだろうか。
何とも……。
「涙、ふきなよ」
「玲羅ちゃん顔が赤いよ」
「ほへっ?」
「あなたって驚くとすぐ変な声出すのね」
「あは、ははは……」
笑って誤魔化そうと思ったけど、多分失敗。
耳が熱い。自分の顔が真っ赤なのが感じられる。
「コタローさんねぇ。小太郎……こたろう……コタロー……」
「ど、どうかしたの?」
林檎ちゃんは上の空に「こたろう」と連呼している。何かの呪文みたいで不気味だ。
「いやね、何か私、あの人のことを知っている気がするのよねぇ。名前の響きも気になるし」
「でも、コタローさんて一度見たら忘れられなくない?」
「そこなのよねぇ。あんなイケメン忘れるはずがないのだけど」
それからしばらく林檎ちゃんは「うーん」とうなり続けていた。
4
「こんにちは、玲羅ちゃん」
「あ、池谷さん。どうも」
授業が終わると『アンダーザブリッジ』に向かった。林檎ちゃんはまだ、授業が残っているらしいので一人で来た。
「ご予約ですか?」
今日はライブの予定は入ってないため、殆どの従業員(バイト含む)が休み。
つまり、池谷さんが来たのも本日、ライブをするためではなくて近日中に行うための予約だと考えるのが自然なのだ。
「あら、ごめんなさいねぇ。今日は別件なのよ」
そう言って池谷さんはご本人の巨体とはミスマッチの可愛らしい鞄から一枚の紙を出す。
「実はアニバーサリーライブの件なんだけどね」
「アニバーサリーライブ?」
「あら、玲羅ちゃん聞いていないの?」
「はい?」
私と塩谷さんの間で?が飛び交う。
「おぉ、来てたのか」
奥からお祖父ちゃんが出てきた。
「はーい、マスター。ごきげんよう」
池谷さんを初め常連の人達や従業員はお祖父ちゃんをマスターと呼ぶ。
「で、どうじゃ?」
お祖父ちゃんが池谷さんに向かって言う。
私には何の話かは見えてこない。
「ごめんなさいね。今回はメンバーの都合がつきそうにないの。私だけなら問題ないんだけど」
「そりゃ残念じゃな。ならいっそとワシと組むか?」
「マスターと?あまり無理しない方がいいんじゃないかしら……」
「何じゃと。失礼な、こちとらまだまだ現役じゃぞい」
二人の会話が何のこっちゃか分からない。
「こんにちはー。お、皆さんおそろいで」
そこに林檎ちゃんが勢いよく入ってきた。
「あら、また可愛い子ね」
「え、えーと」
やばい。林檎ちゃんが池谷さんを目にして固まっている。そういえば初対面なんだっけ……池谷さんはいい人だけど、年頃のレディには(私含む)ちと刺激が強すぎるかもしれない。
「あ、あの……」
あぁ、あのイケイケな林檎ちゃんが口をパクパクさせながら震えている!
こ、ここは私が哀れな子羊と化した林檎ちゃんを助けてあげないと。
「あ、あの池」
「MASAYAですよね?ギルボルの。私、ライブに行ったことあるんですよ!うわーまさかこんな所でお会いするなんて!いや、でもここライブハウスだし……ウチで演奏しているんですか?」
「……へ?」
助けようと思った私の声をかき消した林檎ちゃんのマシンガントークを前に戦略的撤退を余儀なくされた。
「あら?あなた私を知っているの?」
どうやら驚いたのは自分だけではないらしい。池谷さんはちょっとびっくりしているみたいだ。
「ねぇ、どういうこと?」
しびれをきらして私は誰に言ったわけでなく、そう呟いた。
5
お祖父ちゃん、林檎ちゃん、池谷さんの三人の話をまとめると以下のようになる。
今度、『アンダーザブリッジ』で毎年恒例となっているアニバーサリーライブが行われるらしい。これは要するに『アンダーザブリッジ』のお誕生会で、毎年この時期に常連を集めて飲めや歌えやの大騒ぎをするらしい。
残念ながら池谷さんが所属するバンド『ギルティーシンボル』、通称ギルボルはメンバーの都合があわず、今回の参加を見送るらしい。
で、そのギルボルというバンドはインディーズでは割かし名前の通っているバンドらしくて林檎ちゃんはライブを見たことあると興奮しながら言っているのだ。
「まぁ、全員がもう社会人だからメジャーは目指していないんだけどねぇ。仲間内でやりたい音楽をやるのが私達のロックなのよ」
と、池谷さんは笑いながら言う。
風貌のいかつい人だけど、このときばかりは何だか素敵に思えた。
「確かにギルボルは知る人ぞ知るファンキーで変態的な良いバンドじゃが、女子大生が知っているようなバンドではないぞい」
と、お祖父ちゃんすら言っているのだから林檎ちゃんがおかしいのだろう。
ファンキーで変態的と良いがどう修飾するのかは不明だけど。
「アニバーサリーライブってギルボルみたいなバンドがたくさん出るんですか?」
林檎ちゃんがお祖父ちゃんに尋ねる。
「いや、そういうわけではない。あくまでウチの常連が中心じゃからのぅ。ギルボルみたいなバンドも居れば学生のコピーバンドも居る。この日ばかりは、演奏の上手い下手より情熱のある人間が優先じゃからな。そうそう、うちのスタッフ達も即席でバンドを組んで出演するぞい」
「え、じゃあコタローさんも演奏するの?」
玲羅の口は思わずそのような言葉を発していた。
「え?」
戸惑うようにそう言ったのは以外にも池谷さんだった。
「玲羅ちゃんて本当にコタローさんのことが好きだよね」
呆れたとも言いたげな表情で林檎ちゃんが言う。
「な、な、な、な、何を言っているんですかコノヤロー」
「ほらね」
「あら、本当」
「わしの孫がコタローをのぅ……」
「だから違うってばぁ」
理解を示そうとする三人に向かって私はシャウトする。
そりゃまぁコタローさんほどの美形はそうお目にかかれるものでもないけどさぁ。
玲羅はため息をつく。
あぁもう林檎ちゃんとかずっとこのネタでからかってきそうだな、と。
「残念ながらコタローはそもそもアニバーサリーライブに出席するかも怪しいんじゃわい」
「え?そうなの?」
従業員なのにそんな一大イベントに来ないという選択肢が許されるのだろうか。
「まぁ彼の場合は……」
何かを言おうとしたけど、私や林檎ちゃんが居ることを思い出してか塩谷さんは口を閉ざした。
「それより、星さん」
「何ですかマスター?」
「何か楽器は出来るかのぅ?」
「ギターとベースなら少しだけ。でも一番好きなのはドラムです」
「ほぅ!素晴らしい」
「林檎ちゃんて演奏も好きなんだ」
ロック好きとは聞いていたけど。
「兄貴の影響なのよ」
林檎ちゃんの家はどうやらお兄さんがこういうことが好きな人みたいだ。
「では星さんがドラムで池谷君がベースじゃな」
「マスター、本気だったの?」
「本気じゃともギターはワシがやる」
どうやらお祖父ちゃんはアニバーサリーライブとやらに自ら出演するつもりみたいだ。
「で、ボーカルが玲羅じゃな」
「うん……って……えぇぇっー」
あまりにも自然に言うからさらりと受け入れかけてしまった。
「わ、私にボーカル?無理!無理!」
「……」
「な、何……?」
林檎ちゃんがじっと私を見つめる。
「玲羅ちゃんてさ、結構、声高いよね」
「な……」
「それにハスキーよね」
腕を組みながら池谷さんが言う。
「大切なのはソウルじゃぞ」
お祖父ちゃんはそう言いながら親指を立てる。
阿武玲羅、十九歳の春。
ロックバンドのボーカルに就任しました、とさ。
ちなみに、後日。
「そういえばバンド名はどうするの?」
「若いの二人で決めたらえぇ」
「マゾヒスティックレイラバンド!」
「それは色々な意味でまずいよ、林檎ちゃん」
「玲羅ちゃんがメインなのに~」
「え、ずるいよ!林檎ちゃん押しで行こうよ」
「私?例えば?」
「『クレイジーアップル』……とか?」
リンゴだけに。
「何だか簡単に砕けそうねぇ」
「じゃあ、『高架下事変』は?」
林檎だけに。
「『高架下事変』……うーん、まぁこれくらいなら大丈夫かな。何だかロックっぽいわ」
ティアーズ・イン……
1
それから、私達の練習は始まった。
池谷さんもしばらくはこちらに付き合ってくれていて、練習は結構な頻度で行われた。
お祖父ちゃんと池谷さんはやっぱり上手だったが、驚いたことに林檎ちゃんも決して負けていなかった。本人は「物心ついたときから叩いていますから」とすました顔で言っちゃてくれる。
しかし順調に進んでいる中、玲羅は一人、取り残された気がしていた。
「今日はここまでじゃな」
お祖父ちゃんの一言で練習が終わる。
夜。ライブハウスの営業が終わってからが練習時間だった。
「お疲れ様。玲羅ちゃんも林檎ちゃんも上手くなったわねぇ」
池谷さんが笑顔で言う。この人は本当にいい人だ。
未だに見た目には抵抗があるけど……
「お疲れ玲羅ちゃん、はい水」
ミネラルウォーターを片手に林檎ちゃんが近づいてくる。
「……いらない」
「え?」
「そんな気分じゃないの、今」
私の中のモヤモヤ。
真綿で首を絞められるように徐々にそれは私を蝕んでいった。
「お祖父ちゃん、先に帰るね!」
そして私は駆け出していった。
2
ドジに気付いたのは、お風呂の中でだった。
「あーっ」
まただ……。
鞄置いてきちゃった……『アンダーザブリッジ』に。
つくづく自分でもヌケているなと思う。
そんな自分に恨み言を言いながら私は鞄を取りに戻った。
ちょっと錆びている店のドアーに手をやる。
「あれ……鍵開いてる?」
玲羅は一瞬顔をしかめてから中に入る。
しかし、こんなことは初めてではなかったし、何となく中で何が起きているかは想像が出来ていた。
だからこそ、玲羅はほんの少しワクワクしていた。
やっぱり……。
耳に音の渦が流れ込んでくる。
そしてまた、目の前の光景に心が奪われていく。
ここ最近、聴きなれた弦楽器の音。
だが、玲羅はその白いギターの音と他のエレキギターの音なら簡単に区別がつくだろう。
一瞬、奏者と観客の――コタローさんと玲羅の瞳が合う。
コタローさんの瞳は空間を独り占めするこの音色に負けないくらい、キレイで儚くてそして危なかった。
ねぇ、どうしてあなたはそんな表情でギターを弾くの?
笑っているかのように泣いて、哀しんでいるかのように喜んで。
ねぇ、どうして。
どうして私を写すの。
鏡みたいに嫌な所を写すくせに、どうしてあなたはキレイなの。
鏡なら汚い私だけを見せてよ!
ねぇ、どうして!
玲羅は泣かなかった。
泣きたいのを我慢した。
泣くのが悔しかった。
これ以上、この人に弱みを見せたくなかった。
そんな玲羅を見てコタローさんは少し手を休めてステージの右手へと動いた。
小さな丸い椅子。
それはアコスティックギターの奏者などが座って演奏するのに使用するものだった。
おもむろにそこに座ってコタローさんは新しい曲を奏でた。
静かで優しい曲だった。
有名な歌なのか、コタローさんが作った歌なのか、ただの即興なのか分からなかったけれどもどうでも良かった。
「私、今度ライブに出るんです」
殆ど独り言のようにそう呟いた。
「『アンダーザブリッジ』のアニバーサリーライブ。しかも、何故かボーカル。場違いにも程がありますよね」
「……」
コタローさんは答えない。
それでいい。
答えを期待しているわけではなかった。
「別に歌は嫌いじゃないし。歌うことはむしろ好きなんです。ただ、何かなし崩し的に歌うことになったのがちょっと嫌で」
私はいつもそうだった。
「大学だって別に誰かに強制されたわけでもないのに、医学部ですよ。親の跡を継ぐために。そして勝手につまらないと感じているんです、私は」
次々と言葉の弾丸を充填して、一気に撃ち放つ。
「そんな自分が気に入らない……私って甘えているんでしょうか。何も考えずに生きてきた私に今を嘆く権利なんてないんでしょうか。私はただ、見えない何かに、きっと大勢の人間によって操られているマリオネットのような感覚が拭えなくて、それがたまらなく嫌なんです」
なぜ、こんなことを今、口にしているのかは分からなかった。
でもきっとこの美しい音楽の前では自分も美しくありたいと玲羅は思ったのだ。
メロディーが柔らかくて少し悲しいものへと変わっていく。
「昔」
ふと、うつむいている玲羅の耳に声が届いた。
玲羅は顔を上げる。その声はステージからした。この空間には二人しか居ないのだ。
3
もう随分と昔のことのようで、それでいて昨日のことのように思える。
これから自分は何を話そうとしているのか。
小太郎がそんなことを考えるよりも先に喉から言葉が生まれていた。
「バンドを組んでいたんだ」
やめろ、俺。思い出すな、苦しいだけだぞ。
それでもギターを奏でるリズムは変わらない。
「そのバンドのボーカルが言っていたんだよ」
「何て言ってたんですか?」
ステージの下からこちらを見上げる少女と記憶の中の女が重なりあう。
「悩みがあれば叫べばいい。悲しいのなら叫べばいい。嬉しいなら、良いことかまあるなら叫べばいい。何もなくても叫べばいい。ステージなんていらない音程なんていらない、仲間もいらない。そいつが――」
小太郎は一呼吸置く。ギターから一瞬だけ指を放す。
「そいつがロックだ」
そう言うや否やギターのメロディーをアップテンポなものに変えていく。
「自分が好きじゃない?結構じゃないか。俺だってこんなドブネズミみたいな自分は大嫌いだ。やりたいことをしなくてもいいし、流されるままに無駄に思える毎日を過ごせばいい。それでいいんだよ、それで。魂を縛られるな。着衣のまま水平で在り続けろ。悩みがあるならとにかく思い切り大声を出せばいい。それだけで汚い魂は輝くんだ」
小太郎はそこで思いっきり、力任せに六つの弦を弾かせた。
4
まるで合図のようだった。
コタローさんが一度、強くギターを弾いた。
そして、今、コタローさんの両手は完全にギターから離れて宙ぶらりんになっている。
「ありがとうございます」
玲羅はそう言った。
演奏を聴かせてくれたお礼と、話を聞いてくれたこと、そして話してくれたこと。色々な意味を込めて。
「…………」
さっきまで、あんなに喋っていたコタローさんはもう何も言わない。
まだ室内に残っていたギターの反響音が徐々に小さくなる。そして静寂が空間に訪れようとしていた。
玲羅はステージの上に、コタローの横に立った。その様子をコタローさんは黙って見ている。
完全なる静寂。ステージの上から誰も居ない観客席を見下ろす。
「――っ」
思いっきり息を吸った。
「うぁーーーーーっ!」
お腹の底から声を出す。声というよりただの音かもしれない。酸欠になるくらい、頭の中、真っ白になるまで叫んだ。
隣のコタローさんが目を白黒させているのが視界の端にチラッと写った。
「……ハァ……ハァ……」
「だ、大丈夫?」
私の気が狂ったとでも思ったのかコタローさんが優しく聞いてきた。
「私、歌います」
「…………」
コタローさんと目を合わせる。
「上手く歌えるか分からないし、足引っ張りそうで怖いです。でも大声で叫んできます。とにかく楽しんでこようと思います。ロックしてみようと思います」
何も考えずに叫ぶこと。
その気持ちよさをたった今、知ったから。
「……頑張って」
少し微笑んでそう言ったあと、ギターを片付けてコタローさんは去っていった。
「コタローさんはアニバーサリーライブ来ないんですか?」
コタローさんの後ろ姿にそう尋ねたけど返事はくれなかった。
ハード・デイズ・ナイト
1
その夜も小太郎は『アンダーザブリッジ』で、独りだけのライブを行っていた。
ときたま、現れる少女も今日は居ない。
本当に一人だけである。
「~~♪」
最初は拾ってきたギターのメンテナンスのために行っていた。無残に放置されているギターが忍びなかったからだ。
だが、今は違う。今の小太郎はギターに魅せられていた。忘れていた感触を思い出してしまっていた。
結局、人は変わらないのかもしれない。
とことんギターが好きなのだと思い知った。
「楽しんでいるのぅ」
「マスター!?」
ライブハウス『アンダーザブリッジ』の店主、陣内志門がいつの間にか入口の前にあるカウンターに座っていた。
「最近、良く弾いてるみたいじゃな」
「……知ってたんすか?」
「いいや。知らんかった。今、ここに居るの、も偶然じゃ。でもな、コタローのプレイを聴けば分かる。そのギターを使い込んでいることがな」
本当に偶然なのか。小太郎には調べる術もないし、またどうでもいいことなので、それ以上は言及しなかった。
「左利き用の白いギター……まるでカート・コバーンじゃな」
「俺はあそこまで破天荒じゃないさ」
「ほっほっほ。どうかのぅ」
マスターは笑いながらこちらに近づいてくる。
「それにしてもお前さん、そっちの指でも上手じゃのぅ」
「……」
触れて欲しくないところに触れて欲しくないと思っていることを分かっていながら触れてくる。マスターはそういう人だった。
「もう、一年くらい経つのか。あれから」
同意を求めているのか、自分で確認しているだけなのか。よく分からない言い方だった。
だから小太郎は何も答えない。
「やはり、コタローにはギターが似合っている。例え、下手くそでも弾いているコタローが一番えぇ」
玲羅が涙を流す程、聞き惚れた小太郎のギターを志門は下手と評したのだ。
それもそのはず、加東小太郎の本当の演奏をこの老人は知っているのだ。いや、知っていたのだ。
「わざわざそんなことを言いに?」
指摘して欲しくないことをズバズバと言うわけだから小太郎もトゲのある返しをした。
「いやいや。だから偶然じゃよ、偶然」
両手を振って否定するが、逆に胡散臭さが増した。
「もういいです」
ギターをアンプから外して片付けを始めた。
偶然でも必然でも当然でも何でも良かった。
どうせいつかはバレるのは覚悟して真夜中に演奏していたのだ。別に気にする必要はない。
むしろ、マスターが咎めないということは今後も客が帰ったあとにここでギターを弾いていいと言われたようなものだった。
かなり都合のいい解釈だが、小太郎はそう受け止めた。
「偶然ついで何じゃが」
どうやらマスターの話はまだ続きがあるらしく、小太郎は手を止める。
「お前さん、今週の金曜日夜は空いているかのう?」
「……以前、空いていないと答えませんでしたっけ?」
それは『アンダーザブリッジアニバーサリーライブ』の日時だった。
「ワシは今のコタローに聞いているのじゃ。死人同然だった加東小太郎ではなく、そのギターに出会ったコタローにの」
「空いていたら何なんです?仕事なら他のスタッフが居るでしょ?生憎、今も昔も他人のライブを見るのはそんなに好きじゃないんで」
「来たら分かるわい、来たらのぅ」
くるりとマスターは背を向ける。
「待ってるからのぅ。それじゃあ後片付けと戸締りはよろしくな」
そしてドアーを開けて去っていった。最後に、「そのギターも持って来いよ」と、付け加えて。
2
もやがかかっていた。そこに誰かが立っている。
「あたし、コタローのギターがとても好き」
髪の長い女がこちらを振り向く。
「あなたのギターからはソウルが感じられるわ。ロックだわ。きっとあなたはキース・リチャーズの生まれ変わりだわ」
「勝手にキースを殺すな」
自分とその女の間にたくさんの小窓のようなものがあって、映像が流れていた。
「ねぇ、一緒にバンドを組みましょう。あなたと私なら天下を取れるわ。ポールやレノンも敵じゃないわ。あ、リーダーはコタローね」
「まだ、返事もしていないのにリーダーにするなよ……」
どこかで見たことある光景ばかりだった。
「バンド名はどうするんだ?」
「とりあえず英語?いやいや日本のバンドなのだから漢字で攻めるべきか。洋楽コンプレックスが日本人ロッカーの悪いところだし」
「何でもいいよ」
「ひどーい!大事なことなんだからちゃんと考えてよね」
そうだ、これは古い記憶。あいつと俺の。想い出が水に溶けてグラスからはみ出ているかのように容赦なく、小窓からは新しい映像が次々に流れていく。
「コタロー、初ライブの場所が決まったよ!」
「へー、何てとこ?」
「『アンダーザブリッジ』ってとこ」
「聞いたことねぇな」
「えー、老舗の箱だよ。審査厳しいんだから」
もうやめてくれ。
これ以上、俺を苦しめるな。
左手が、指がズキズキと痛む。
「今度のライブ、メジャーの事務所の人が狂って」
「本当!?どこ情報?」
「『アンダーザブリッジ』のマスターが言ってた」
「……」
「緊張してるのか?」
「ううん、大丈夫。だってあなたが後ろで弾いてくれているもの。それだけで、あたしは大丈夫。いつまでも歌える」
モヤが段々晴れていく。
女の顔がはっきりとしてきた。
痛いくらいの眼差しでこちらを見つめてくる。
眼には涙を浮かべている。
彼女の口が動く。
「裏切り者」
裏切り者。裏切り者。裏切り者。裏切り者。
裏切り者。裏切り者。裏切り者。裏切り者。
裏切り者。裏切り者。裏切り者――。
女の口はどんどん早く動いていく。
「――っ」
左手を抑えたまま小太郎はその場にうずくまった。やめてくれ。もう聞きたくない。許してくれ。昔のことだろ?
絶望。暗い感情で小太郎は覆われていく。
尖っていても汚れることなかった魂が黒く染まっていく。
そのとき、小太郎の目の前に何かが落ちてきた。
ゆっくりと、物理法則を無視してそれは落ちてきた。
いつか拾った白いギターだった。ギターは小太郎に何かを語るようにその白いボディを光らせる。
先ほどまで小太郎を責めつづけていた女の顔が別の人間へと変わっていく。それは今のコタローの唯一のオーディエンス、阿武玲羅の顔になった。
「コタローさんはアニバーサリーライブ来ないんですか?」
ガバッ。
小太郎は勢いよく布団から飛び上がる。実際は上体を起こしただけではあるものも、まさしく飛んだかのような気分の悪さだった。乱気流の中、進んでいく飛行機の中で酔ったかのような気分だった。
あたりを見回せばそれはいつも通りの自分の部屋。夢を見ていたのだということを思い知る。
だが、数秒して異変に気づく。あの、白いギターが壁に寄りかかっているのだ。こちらを見ているかのように。昨日、確かにケーズにしまったはずなのに――。
本日は金曜日。
アニバーサリーライブの日だった。
決戦は金曜日
1
金曜日、玲羅は大学をサボった。
今日は記念すべきライブハウスデビューの日だった。
でも、別にライブに向けての準備だとか緊張で体調を崩しただとか、そんなわけでサボったわけじゃない。
サボり。
サボタージュ。
フランス語で破壊活動のこと。なかなかロックな単語じゃないだろうか。未だに演奏中にギターを叩き割ったりする人のことは理解出来ないけど。
純粋たるサボりに理由も理屈もない。
だが、玲羅にとってそれは必要な行為だった。
なぜなら今日、私はロックンローラーってやつになるのだから。昨日までの惰性で生きる自分とはサヨウナラしたのだ。
その手始めが人生初のサボりだった。
まぁ、これまでの私が惰性というなら今日の私は怠惰なのかもしれない。
大学は高校までと違うのだからサボるということにそれほどまで強烈な悪は含まれていないのだが、玲羅はご満悦だった。
だが、サボったところで他にすることのないのが私って言う人間だった。
友達と遊ぶ約束もなく、バイトに行くでもない。でも、家でゴロゴロするのも少し抵抗があった。だから、結局『アンダーザブリッジ』に向かった。そして今、誰も居ないライブハウスのステージに立っている。
夜にはここも人でいっぱいになるのだろう。
でも、今は私だけ。
眼を瞑ってここ何日かのことを思い出す。
この場所でコタローさんの演奏に出会ったこと。私のことを(多分)励ましてくれたこと。
あの後、『高架下事変』の練習中に「私をボーカルにしてください」なんて頭を下げたら、林檎ちゃんと池谷さんにキョトンとされたこと。そのとき、お祖父ちゃんだけ何故か微笑んでいたこと。
ライブでやる曲をCD聴きながら覚えたこと。練習中にお祖父ちゃんが、ぎっくり腰になって大変だったこと。実は池谷さんに奥さんと娘さんが居て林檎ちゃんと驚いたこと。
バイト中に相変わらず言葉は少なかったけど、コタローさんの表情が少し柔らかくなってきたこと。
色々なことを経験出来た。
この春、親元を飛び出して。
依然として玲羅は自分が好きになれなかったし、このまま医者になって親の跡を継ぐという未来に折り合いをつけたわけでもない。
それでも玲羅は決めたのだった。
歌唱力にだって自信はない。
それでも歌うと決めたのだった。
ライブハウス『アンダーザブリッジ』――。
この小さな箱で、玲羅は自分で決めた自分になるのだ。
2
「ねぇねぇ、あのボーカルの子、格好よくない?」
「そうかな……?私はギターの子のがいいと思うけど」
アニバーサリーライブが始まった。
玲羅たち『高架下事変』は『アンダーザブリッジ』のマスターであるお祖父ちゃんのバンドということでなんと大トリにされてしまった。このことはお祖父ちゃんも予想外だったらしいが、さしずめ他の従業員や常連からの手荒い感謝の気持ちというか、ささやかな仕返しだろう。
仕返しと言えばまるでお祖父ちゃんが日頃から何か意地悪しているみたいだけど、ここで言うところはそういう意味ではなくて、感謝の仕返しと言ったところだろう。もちろん、面白半分の。
そんなわけだから私と林檎ちゃんは出番まで時間があるのだ。
出演者達には控え室があるため、自分の出番が来るまでは楽譜と睨めっこしていたり、発声練習をしていたり、あるいは他のバンドの方々と交流を図ってもいいのだが、ライブを見たいということで二人の意見は一致した。
「玲羅ちゃんってあぁいうのがタイプなんだね」
「ちょっと、その言い方は酷くない?どちらかと言ったらだし。だいたい、どっちにしろ年下でしょ。そういう意味ではなしよ」
「あら、愛に年齢は関係ないと思うけど?」
「愛にはなくても私は年上がいいの」
今、演奏しているバンドは名前はよく分からないけど、高校生くらいのもしかしたら中学生だろうか。とりかくそれくらい若い男の子4人組のバンドだった。
ボーカルの子は確かに端正な顔立ちだったが、玲羅は右斜め後ろに居るギターの子が一番、気になった。何だか、ツンツンしていて一匹狼な雰囲気を醸し出していた。
「コタローさんといい、あぁいう尖っている系が好きなのね」
「ど、ど、どうしてコタローさんが出てくるのよ!それにあの人はもの凄く美形じゃない」
「見た目の問題じゃないわよ。内面。ていうかオーラ?尖っているでしょ、コタローさん」
それを言われたら何も言い返せない玲羅だった。
その後もライブは続いていった。
改めて『アンダーザブリッジ』は色々な人が関わっているのだなと思った。
女性だけのバンドもあれば全員が顔に悪魔的なメイクをしているバンドもある。オリジナルの曲をやる人たちも居れば玲羅でも知っている邦楽の名曲をコピーしている人たちも居る。
バイトとして携わっている身としてはもちろん、池谷さんのように顔見知りになった人達もたくさん居るけど、それでも知らない人達がたくさん来ていた。『アンダーザブリッジ』は決して大きなライブハウスではないがそれなりに歴史がある。ここからメジャーになっていたバンドだって一つや二つではない(らしい)のだ。
中にはお祖父ちゃんと年齢が変わらなさそうな人達も居た。
この中にはプロを本気で目指している人も居れば、趣味でやっている人も居るだろう。もしかしたら、もうバンド活動をしていない人も居たかもしれない。
けれども、それだけの人が居るのに誰ひとり例外なく笑っているのだ。
お祖父ちゃんって実は凄いことをしているんじゃないの。
ちょっとお祖父ちゃんのことを今までより好きになった玲羅だった。
「負けてられないわね。演奏でって意味じゃないわよ?」
ステージの方を見ながら林檎ちゃんがそう言った。
うん、と私は頷いた。
3
そして時がやってきた。
「スーハースーハー」
「あら、玲羅ちゃん緊張しているの?」
楽屋で深呼吸をしていたら池谷さんが近づいてきた。
「私、人前で歌うなんて初めてですもん」
緊張からか手や足が少し震えていた。
「まぁ気持ちは分からなくもないわ。私だって緊張はするもの」
「池谷さんも?」
「もちろんよ。緊張と言っても悪いものじゃないの。……そう、武者震いってやつね。肌がスーッと冷えるような感覚が来てそれからワクワクするのよ」
池谷さんは自分の両腕をさすりながら愉悦に浸るかのような表情をする。だからあなたがそういうことすると女子大生には少し心臓に悪いんですって!
「あら、どうかしたの?固まっているわよ」
「ど、どうもしていません!」
まさか、池谷さんにビビっていたとは言えない。
「良かった。私、こんな見た目だから玲羅ちゃんを怖がらせちゃったんじゃないかって不安で」
自覚あるんかい!
「でも、いつもの玲羅ちゃんに戻ってきたわね」
「え?」
「表情。柔らかくなってきた」
「あ」
玲羅は両手で口元を抑える。
池谷さんはやっぱり良い人だ。自分の小ささが恥ずかしいくらいに。
「適度な緊張はあなたの味方になってくれるわ。ステージの上でも緊張したら後ろを見なさい。私も林檎ちゃんもマスターもあなたの仲間よ。後ろが盛り上げているから、ボーカルは堂々としていればいいの」
気がつけば震えは止まっていた。そして今から始まるライブが楽しみになっていた。
「そろそろ出番じゃぞ」
「レッツロックンロールよ、玲羅ちゃん」
四人は自然と円の形に集まり互いに目を見合わせる。
そしてごく当たり前のように片腕を円の中心に差し出す。
一人、二人、三人、四人。腕が重なり合う。四人は分かっていた、このメンバーでバンドを組むのはきっと最初で最後だと。『高架下事変』にとってたった一度の桧舞台が始まるのだということを。
言葉は発さなかったが、四人は自然に手を引っ込め、そしてステージの方へと向かっていった。
4
「うわっ」
ステージに立ってその熱さに驚いてしまった。うめき声のような歓声と共に熱風が押し寄せてきたのだ。
それもそのはず、このライブハウスの主人であるお祖父ちゃんの登場なのだ。
今日、ここに居るのはお祖父ちゃんとは深い親交がある人達ばかりなのだから、当然のことだ。
ライブもクライマックスであるし、ボルテージは最高潮。
これほどの空間でライブデビュー出来る人間が一体どれくらい居るだろうか。もちろん、そのことが玲羅にとって幸運であるか不運であるかは議論が分かれるところだろう。しかし、少なくとも玲羅はこの状況を楽しめていた。肌が焼けるような熱風を夏の山頂に吹くような心地よい風のように感じていた。
「皆さん、初めまして『高架下事変』です!」
玲羅のその言葉に合わせて、林檎ちゃんがドラムを叩く。観客がそれに合わせて盛り上げを見せる。慣れたものでベースの池谷さんもギターのお祖父ちゃんもドラムと観客が生み出すリズムに合わせて音を刻む。
「一生懸命演るのでよろしくお願いします!」
そう言い終わると同時か少し早いかくらいのタイミングでカンカンカーンと林檎ちゃんが左右のスティックを叩き合う。
その合図に乗っかりギターとベースが音を出す。
一曲目は玲羅が小学生くらいのときにヒットしたJ―popの曲だった。何処かで一度は耳にしたことのあるような有名な曲。この曲を提案したのは池谷さんだった。「初めてのライブなのだから、玲羅ちゃんも林檎ちゃんも知っていて、かつ歌いやすく、観客も乗りやすい曲をオープニングにした方がいい」
細かい言葉までは覚えていないがそのような趣旨の発言だった。
「~~~♪」
池谷さんの目論見は見事なまでに的中した。
玲羅はすんなりと曲に入れ、そのおかげか緊張はどこかに吹っ飛んでいた。
「はいっ!はいっ!はいっ!はいっ!」
皆が知っている曲なので煽るときの音頭も自然にとることが出来る。
こうして最初の一曲は成功を収めることが出来た。
二曲目は林檎ちゃんのリクエストだった。私はよく知らないけど、名前くらいは聞いたことのあるかつてイギリスで活動していたバンドの曲だった。お祖父ちゃんに言わせるとそのバンドの曲の中では定番の部類かマイナーの部類かなら定番、つまりそれなりの人気曲であるということだった。
実際、観客の人達はこの曲をよく知っていそうな感じだったし、ロック好きにとっては定番の曲なのだろうか。林檎ちゃんにとっては大事な曲らしい。細かいことまでは聞かなかったけど、ドラムの師匠であるところのお兄さんとの想い出の曲らしい。
「ここでメンバー紹介をしますっ」
二曲目の終わったところで私がそう言うとこれまた凄い歓声に包まれた。楽器組の三人はアドリブで音を鳴らしている。
「オンドラムス――林檎ぉ!」
ドドドドンドンドドンドン!
軽快かつパワフルにドラムの音が鳴り響く。
林檎ちゃんは観客を煽るのが本当に上手だった。曲が終わって一旦静まった熱気がすぐに復活した。
「オンベース――MASAYAぁ!」
林檎ちゃんに負けじと池谷さんがベースを弾く。しかし、それ以上に野太い歓声が客席から聞こえてくる。
池谷さんはこの界隈で人気を誇る『ギルティーシンボル』のMASAYAなのだ。きっとファンや友人がたくさん来ているのだろう。改めて凄い人なのだと認識した。
「オンギター――志門!」
今日、一番の、割れんばかりの歓声。お祖父ちゃんの紹介で『アンダーザブリッジ』は比喩ではなく揺れた。空気が振動したのだ。
その時、その場に居た全員が異変に気付いた。お祖父ちゃんが、ギター志門が、ドラム林檎やベースMASAYAのように楽器をかき鳴らしていないのだ。歓声が次第にどよめきへと変わっていく。そしてお祖父ちゃんが目の前にあるスタンドマイクに少し近づいた。
「すまん、ぎっくり腰じゃ」
いきなり何を言いだすのか、玲羅は混乱した。
だって、お祖父ちゃん、堂々と立っているし、表情もいつも通り。どう見ても腰に異変ないじゃない!
「あと、一曲だけ残っているのじゃが、誰か替わってくれんかのぅ」
悪びれもせずにそう言う。玲羅だけではない。池谷さんも林檎ちゃんもステージの下に居る人達も状況を理解出来ず戸惑っている。
「誰か居らんかのぅ」
お祖父ちゃんは遠くを見て言う。一体、どこに焦点を合わせているのか玲羅には分からなかった。しかし、次の瞬間に答えが出た。
「俺が替わろう!」
大きな声が聞こえた。その声に聞き覚えがなかったのは主が元々、寡黙だからだろうか。あるいはそんな大きな声を出すのを聞いたことがなかったからだろうか。
コタローさんだった。
ライブハウスの入口にギターケースを背負ったコタローさんが立っていた。
声はそこから発せられたものだった。
場が静まり返る。
コタローさんがこちらに近づいてくる、その足音しか聞こえない。誰もが音を出すのを憚れているのだ。
ケースから白いギターを出し、肩にかける。
コタローさんの前に自然と道ができる。コタローさんがステージに立つことを止める人は誰も居なかった。
「待たせてくれたのう」
お祖父ちゃんはギターをアンプから抜いて、コードをコタローさんに渡す。
「別にアンタを待たせたわけじゃない」
ギターとアンプを繋げる。
「じゃあ、誰を?」
「俺、自身さ!」
コタローさんがギターを鳴らす。
鳴らす、鳴らす、慣らす――。圧倒的な存在感。初めからギターはコタローさんだったかのように、私達は吸い込まれていく。
「オンギター、コタロー!」
ステージから降りたお祖父ちゃんが、ちゃっかりと右手に握っていたマイクでそう叫ぶ。
観衆が沸く。コタローさんがあまりにも格好良かったから。玲羅はそう思った。少なくとも玲羅はそうだった。後にこの話をするとお祖父ちゃんに笑われた。あの場に居た殆どの人間はコタローを知っていたからじゃ、と。
この圧倒的な光景を前に玲羅はコタローさんはギターの神様に愛されているに違いないと思ったほどだ。あまりにも似合い過ぎている。もちろん、そのことをコタローが聞けば否定するだろう。
彼は一年前に神に見捨てられたのだから。
メロディーが変化していく。そして玲羅は、正確には玲羅達は気づかされる。このまま三曲目に入っていくことを。どうして知っているのか、謎だが間違いない。
「オンボーカル、レイラァ!」
コタローさんがそう言うや否やあの特徴的なイントロが流れ始める。
いとしのレイラ
原題・Layla
ギターの神様、エリック・クラプトンの代表曲。元ビートルズ、ジョージ・ハリスンの妻パティ・ボイドへの禁断の想いを表現したこの曲は世界中で人々を魅了した。その最大の特徴であり見せ場の一つがイントロから続く激しいスライドギターである。
「Layla!」
ギターに合わせて演奏が始まる。
くしくもロック好きの祖父によって自らに与えられたその名をレイラはシャウトする。
コタローさんのギターが心地よく、歌いやすい。それに呼応するかのようにベースもドラムも弾んでいた。たった一人で他の三パートに多大な影響を与えているのだ。
あぁ、何て楽しいのだろう。
ロックとはこれほどまでに凄いものだったのだ。
大げさではなく、自らの魂が肉体から解放され、飛んでいくのが分かった。
飛んでいった魂はライブハウスを縦横無尽に踊っている。
ロックン・ロール。ロックとは踊るものだ。
踊れ!私!
踊れ!あなた!
踊れ!世界!
こんなにも多くの人と一つになれちゃうことはどうして気持ちがいいのだろう。
いつまでも続けばいい、いつまでも続けたい。
初めまして、レイラ。
二○年近くも待たせてごめんね!
5
「昔、バンドやっていたんだ」
「え?」
アニバーサリーライブから数日たったある日。空になったコーラやビールの瓶を裏口まで運んでいるときに突然コタローさんがそう言った。
「前にも話したかな?」
「えぇ、お聞きしました」
コタローさんが裏口のドアーを開けて外に出る。私はそれについていく。
「『In Case of Emergency』て言うバンドだったんだけど、もう解散したんだ」
「…………」
「あれ?知ってた?」
「実は……はい」
あのライブの後に林檎ちゃんがやや興奮してお祖父ちゃんに問い詰めたのだ。「コタローさんってもしかしてICEのギターやっていた人ですか?」と。
ICEとはコタローさんの所属していたバンドの略称である。『In Case of Emergency』の大文字を並べて。
聞けばICEは一年程前までこの辺りを拠点に活動していたインディーズの有名バンドだったらしい。林檎ちゃんが「知らないの?」と説明してくれた。だから、普通の女子大生はそんなこと知らないって!
「メジャーデビューを目前に活動を休止した、と……」
「へぇ、そこまで知っているのか。恥ずかしいな」
ここ最近、ライブの後からコタローさんは少し話しやすくなった。何かよくないものが取れたような感じがする。
「まぁ正確には解散。もう二度と揃うことはない」
瓶を詰めた箱を指定の場所に置いてコタローさんは言う。玲羅も同じ場所に置く。ちなみにコタローさんの方が箱の数が少しばかり多い。そこは男性の優しさと維持かもしれなかった。
「そして解散したのも俺が悪い。一方的に俺が悪い」
それは初耳だった。ICEが活動休止した理由については諸説あるが、真実を知る人は殆ど居ないとのことだった。
「俺、右利きなんだよね」
「へぇ……ってえぇーっ」
「玲羅は一々、リアクションが大きいな」
今さらりと呼び捨てにされたが、そんなことよりもコタローさんは間違いなく左利き用のギターで演奏していた。つまり、利き腕ではない方のギターを扱っていたということだ。
それが難しいことなのか知らないし、野球選手なら右投げ左打ちも珍しくはないけれど、余程、ひねくれていない限り、初めてギターを弾くときは右利きのものを選ぶのではないだろうか。
「ちょっと、色々有って左手は指が粉々に砕けた」
「えーと……」
呼び捨てに続いてさらりと重たいことを告白されてしまった。
「だから、もう昔みたいにギターは弾けない。それで辞めた、一年前。日常生活には支障をきたさないから心配しないでいいよ」
「で、でも。左利き用でも――右指でもあんなに上手じゃないですか」
「あの程度じゃダメだ。熟練度が違う」
コタローさんは静かに首を横に振る。あれだけの演奏があの程度だなんて……。私の表情を察してかコタローさんは「ギターのおかげ。あのギターは俺と息がピッタリだから」と、付け加えた。
「楽しかった」
一年前を思い出しているのだろうな、と私は思った。
「どっち?」
「え?私に聞いていたんですか」
どうやら「楽しかった?」と尋ねていたつもりだったらしい。口調が平坦なので伝わらなかった。
「楽しかったです。凄く。ハートが震えました」
一生忘れられない経験をした、と玲羅は思った。
「私、音楽を、ロックを続けたいんです」
大学のサークルに入るか、『アンダーザブリッジ』で人を探すかは分からないけど、私はバンドがしたい。ライブがしたい。歌を歌いたい。
コタローさんと向き合って今の想いを伝えた。
「続けよう、俺と一緒に」
それは予期せぬ言葉だった。けれど、心の底で望んでいた言葉でもあった。
「私、初心者ですよ?」
「まぁ複式呼吸は身につけてもらうとして……」
あ、ボーカルなんだ。まぁベースやれとか言われても困るけど。
「それに俺も左は初心者みたいなものだから」
「いや、そんなに上手い初心者も居ないと思いますけど」
居たら多分、音楽の歴史を変える程の天才じゃないだろうか。
「君の声が好きだ。君の歌い方が好きだ。ライブのとき全身を使って歌い上げるその姿が好きだ」
自分の顔が紅潮していくのが分かった。嬉しさと恥ずかしさから両手で顔を隠す。
そんな殺し文句を言われたら断ることなんて出来るわけがないですよ。
「一つ、お願いが」
「何?」
「仕事が終わったら、『いとしのレイラ』を聴かせてください」
「歌ってくれるなら喜んで」
レイラは頷いた。
玲羅はレイラとして、小太郎はコタローとして。
私鉄の高架下にあるライブハウス『アンダーザブリッジ』。
ここでの演奏はまだイントロが流れ始めたところだった。