猫夜叉
「よくぞ黒騎士を解放して下さいました。心からお礼申し上げましょう」
黒騎士が消え去った瞬間、背後から声をかけられた。
誰もいなかった筈の世界で、優しげな微笑を浮かべる修道女。
「仲間が消えてありがとうとは、随分だな」
「彼は未来ある若者です。このような世界に縛られるくらいならば、いっそ開放された方が幸せというものでしょう?」
修道女は灰色の世界において、毒々しいまでにサイケデリックな色に見えた。
黒一色だった黒騎士とは対照的だ。
「わたくし、猫夜叉と申します。ふふ、この世界を守護しながら破滅を待ち続ける地蔵菩薩。六道輪廻を業の炎で燃やし尽くし、自己完結の他者依存を肯定する堕落の徒。補陀落にして自堕落。あわや観音は瞳を閉じ、座天使は車輪を焦がす。閉じた世界は死に絶え、永久に終わることのない外界に思いを馳せる。ああ、なんと哀れなことでしょう。去来全ての聖人が匙を投げたとて、未だ諦観には至っておりませぬ。全ては空虚であり、この世界も仮のもの。しかして負と正の中にある零。……せめて貴方には救済をお与えいたしましょう」
「まるで矛盾している。何もかも」
「まさしく左様で。猫とは古代文明における神性の象徴であり、夜叉とは守護する者にございます。矛盾と言うのであれば、わたくしこそが矛盾の体現。真に滅びが尊いと知りながら、愚かにも同情心を抱いてしまった悪鬼。ですが止まることは叶いません。たとえ偽りであろうとも、それが救済の形を成すのであれば」
黒騎士では持ち得なかった狂気。
模倣でも虚像でもなく、心の内側から湧き出る狂気の源泉。
それは他者に向く凶器。
救済という形で。
「流石に宗教家は救いの押し付けが凄まじい。世の中には救えない人間もいることに気がついていないらしい」
「確かに世には救えないものもありましょう。貴方のような作り物など、初めから生きていないのだから救うことはできません。しかし、彼は生きている。どれだけの業を背負えば、ああなるのか。生きていなければ苦しみもなかったでしょうに……なればわたくしが生者に安らぎの錯覚を授けようと考えるのも必然。彼を知った気になったところで、意味はありません。貴方のように」
猫夜叉の静かな口調は慈しむようでもあった。
それはオレに向けてではなく、生きている者へ向けて。
飽くまでオレを生きていないと断じる猫夜叉にとって、救済の矛がこちらへ向くことはないのだろう。
救済すべき業の盾となる。
矛盾の権化。
最強の矛も最強の盾も、一人の手に収まるのならば論理の破綻はない。
「錯覚だと理解しているのなら、終わらせてやればいい。なぜ奴を救えないのか理解していないのはお前の方だ。奴の目的は世界を創ることではなく、世界の評価だ。創造などは過程に過ぎない」
「理解がどうして必要なのでしょう? 恋は結ばれなければ幸福でないと? 相手が女性の振りをした男性だったとしても、女性だと錯覚している間は幸福だった筈です。夢は叶わなければ幸福でないと? 夢に向かっているという錯覚は、心を際限なく満たしてくれる筈です。虚構が現実を語り、真作が夢に耽る」
「それで何か変わったか? 何か一つでも良い方向に進んだか?」
「ええ、貴方は夢の産物だからそのようなことが言えるのです。人は苦しみから目を逸らし、夢を見る。それを悪と断じることは何人にも許されません。逃避は罪ではなく、業によって生じる防衛手段に過ぎない。それを否定するのならば、わたくしが裁きましょう。神の矛として、不倶戴天の贋作を打ち滅ぼしましょう」
しかし猫夜叉が動く様子はない。
優しげな瞳でこちらを見据えているだけで、動く気配は微塵も感じられない。
逆に不気味だ。
「大きなことを言った割に何も起きない。今までの口上は時間稼ぎか何かか?」
「まさしく。偽りの世界において、この場所は更に深く歪な偽りです。既に貴方は異なる輪廻に囚われています。ここには偽りの世界ですら起き得た事象も存在しません。ただ無限に同じ時間が続くだけ。無限ループとは恐ろしいものでございましょう?」
何一つ変わった気はしない。
そもそも、世界に変化があるのならオレに知覚できないわけがない。
世界とオレは同義なのだから。
「わたくしの言葉が虚言か否か、確かめて見ては? 貴方は決して空間から逃れることはできず、わたくしもまた然り。ともに輪廻から外れた輪廻に朽ち果てましょうぞ。終わりがあればの話しですが」
空間から逃れることができない。
その場を動かずとも理解できた。
世界を構成する一切の物質を消し去ることができない。
シャムの創った世界ならばその全てを消去することも可能なのだが。
「既にお前の世界というわけか」
「はい。もっとも、彼の世界では当然のように存在していた時間の概念すらありませんが。陽が沈むことも、月影が指すこともございません。この空間ではわたくしを傷つけることはできませんし、貴方を傷つけるつもりもございません。どうです、一つ禅問答でもなさりますか? 時が動かない空間ほど、無益な宗教談話に相応しいものもないでしょう」
「お前の目にシャムはどう映る?」
「シャム……? 貴方はそう呼んでいるのでしょうか? わたくしは月影と呼称しておりますが。彼は痛ましい傷口を見せびらかしているようなもので、自らが負うべき絶望を他者へ振り撒く無自覚の悪意。黒騎士の言葉ではありませんが、狂気の体現とでも言いましょうか」
禅問答でも何もないが、世界から出る術がない以上はどうすることもできない。
どんな存在であろうとも死ぬときは呆気ない。
物語の主人公でさえ劇的な人生のあとに穏やかな死を迎えてしまう人物ばかりなのだから、紛い物のオレには明確な終わりすら来ないわけだ。
「その無自覚の悪意で人を傷つける人間を守護する価値がどこに? 一人を守ることで少なくとも四人が傷つくのであれば、それは終わらせるべき災禍では?」
「貴方はわたくしを聖人か何かと勘違いしているのでは? わたくしは聖人ですら救えない月影を救おうとしているだけです。聖人たちが手を伸ばしても月に届かないというから、自らの足で月へ赴いただけの話。そこで貴方という兎さんと出会ったのですよ」
「自己満足の偽善の押し付け。聖人どころかただの人じゃあないか」
「全てを救いたい。だけれども、そんなことを目指せば自分は救われない。この時点で矛盾しているのですから、聖人も真に救済に至ることはございません。そもそも、宗教など屁理屈と欺瞞で塗り固められた偶像に過ぎません。握手会とミサになんの違いがございましょう? 聖者の血や肉を食べるのも、握手をするのも変わらないと思いますが」
ただの人以下だった。
間違いなく根底に根ざすのは善意のような何か。
善人ではあるが行動原理は破綻している。
どこかが破綻していなくては関われない世界なのだろう。
壊れた機械の玩具工場。
故障した機械が更に壊れた人形を作り出す。
歪で不安定な世界。
しかし猫夜叉に至っては理解が出来る。
聖者を軽んじる発言を口にしながら、心では憧れを隠しきれない。
メサイアコンプレックス。
眼前の敵を傷つけることすらしない不殺の聖者。
弱者に手を差し伸ばさずにはいられないが故に、自身より大きな業へ取り込まれてしまった贄。
狂気の供物。
自身の行いが愚を助長させるとも気付かずに、シャムの望む絵を描こうとする狂った善人。
「……このままでは千日手にしかならないな。お前はこのままでいいのか?」
「ええ、構いません。それで彼が救われるというのであれば、永劫を捧げて悔いも残りません。実はわたくし平和主義者でして、最強の矛も盾も未だ使ったことはないのです。きっと貴方も見ることはない。わたくしは理想の世界を夢想し、思い描くだけ」
まるで存在そのものが最強の盾だ。
この世界において、シャムの世界から断絶した場所にあって猫夜叉は支配者たり得る。
足りないのは本人の欲望だけ。
他者に自身を捧げることを悦びとする狂気のみ。
自分ですら持ち得なかった狂気をオレが理解できる筈はない。
他者のための自己犠牲など表にも裏にも存在していないのだから。
「お前にとっては何もない世界が理想ってことか。時間の流れも一切の事象もない空間が理想? 籠の中で飼育されている昆虫以下だ。それを生きているとは言わない」
「ですが誰も傷つくことなく、業も生まれない世界。他者を傷つける存在も、傷つけられる存在すら生まれない。何故、それ以上を望むのです? 傷つかずに済むのならば、それが最上だと何故気付かないのでしょうか?」
極端に傷つくことを怖れている猫夜叉の姿は、過去に味わった苦痛から逃れたがっているようにも見えた。
何かから逃れてこの世界に辿り着いたのか、シャムの世界から逃れたいのか。
「お前は何を怖がっている? 親に叩かれるのを怖がる、虐待されてる子供みたいだぞ」
「貴方がそれを言いますか……他の誰でもない貴方が……っ! わたくしの尽くを踏み躙った貴方が! 何もかもを混沌へ貶めておきながら。わたくしが今ここにいるのは猛りを上回る痛ましき嘆きによって。誰よりも貴方を壊したいのは、わたくしをおいて他にはいない!」
激昂。
余裕を感じさせる笑みも、どこか侮ったような瞳もない。ただ深い怒りだけが刻まれている。
「は、ははは。それがお前の業か? よくも人のことを言えたもんだ。怒りを覚えるような奴が人を救えるわけないだろう。怒りを抱えながら人のために生きる……なんだお前、どこにでもいるただの人じゃあないか。その程度の矛盾なら、誰だって持ってる! あぁなんだ、なんとも下らない女だ! お前のような正しい女が、歪みきった世界で何を成せるわけもないだろうに!」
演技ぶった口調で執拗に煽り立てるのは、心を傷つけるため。
本当にそれだけの理由か、自分でも理解できなかった。
ただ、彼女に対して憎しみだとか怒りだとか、そういう感情は抱いていない。
それどころか彼女の幸福さえ願っていた。
たとえ短い間と言えども、彼女は自分という存在を受け入れてくれていたのだ。
表は微塵も抱かなかったであろうが、裏のオレは万雷の賞賛を投げかけたい。
それと同時にこの世界から開放されてほしいと、心の底から願っている。
願いを聞き届ける神が誰なのか考える余裕もなく、不可侵の世界へ光が振った。