菩提上帝
「ようやく起きたか。四肢を潰しただけで終わることはないと踏んでおったが、芋虫のような状態で復活されたらどうしようかと思っておったぞ」
「四肢があろうがなかろうが、ここが見世物小屋に変わりはないだろ。煙草を口で巻くか手で巻くか。描写されるか否かの差しかない」
「ほぅ。流石に死から復活した救世主様は言うことが違うのぅ。それで? 救世主様は何を為してくれる?」
「何もかも台無しにしてやるさ」
「ほぅ……まるで別人じゃ。たかだか一度死んだ程度で、ここまで変わろうとは」
「は、はは。面白いことを言う。最初からこうするつもりだったろうに。勝つ気もなくぺらぺらと喋っておきながら、まだ悪役気取りか?」
ようやく、視界が開ける。
神と同じ世界が広がっている。
零に似せて造られたオレは、オーヴという禁断の果実によって神と同等の存在になった。
目に映る世界の姿が劇的に変わることはなく、何もかもが灰色に染まった歪な世界が見えるだけ。
どんな奴が世界を創ったのかが手に取るようにわかる。
何もかもが灰色の世界で、ディーネだけははっきりと自分の色を持っていた。
既に零の手を離れ、一人プラスへと傾いた異形。
「むざむざ儂に全てを話した神こそ、大馬鹿よ。人形が自身を人形であると理解してしまえば、どうなるかはわかりきっておるだろうに」
「どうして神を裏切った?」
「別に裏切ったわけではない。龍の立場には満足しておる……が、龍の力とて所詮は与えられたもの。この役割を終えれば、また新たな役割を与えられるに過ぎん。だが少なくとも、この世界では龍じゃ。無為な輪廻を繰り返すよりも、強く美しい生命のまま終焉を彩る方が心が躍ると思ったまでよ」
「もしもオレが死んだままだったら?」
「それこそ天命じゃ。良き傀儡として躍り続けよう。ただ儂は人事を尽くしただけ……もっとも今は人でなく龍か。そうして、あとは神に聴す。その神が御主か創造主か。我ながら下らない博打じゃのぅ……どちらにせよ碌なことにならん」
くつくつと楽しそうに笑う。
ディーネの行いが博打であるのならば、何を賭けたのだろうか。
果たして、何を以って勝利なのだろう。
「神の造りし者が神の思惑通りに動くわけではないということじゃな。人を唆すのは蛇の役割。男を誑かすのは女の役割。蛇に唆された人類ですら繁栄できたならば、その遥か上をゆく龍に唆された御主の勝利も間違いないのぅ」
そこまで言うと何かを迷うような素振りをしたあと、
「御主の勝利こそ儂の勝利じゃ。努努忘れるでないぞ――御主人」
随分と久々の呼び方だ。始めて出会ったときは、そんな呼ばれ方をしたような気がする。
その呼び方にどんな意味が込められているのかを聞こうとは思わなかったし、聞いたところでディーネは答えないだろう。
「あぁ、勝つさ……勝つとも。そうしなきゃ殺された甲斐もない」
「うむ、その言葉が聞けただけで儂は満足じゃよ。……のぅ、御主人は神になったのだろう? なら一つ、懺悔させてもらっても構わぬか?」
ディーネの声は少しだけ震えていた。
親に怒られることを恐れる子供のように俯きながらばつが悪そうに口を開く。
ここに来て懺悔というのであれば、思い当たる節は一つしかない。
「ネロとミサ、それにフィーネを殺したってとこか? どうせ最後は救済るんだ。こんな世界で苦しむくらいなら、一度死んで輪廻をやり直す方がよほどマシだろう」
苦しみ。
そういう観点から見れば、ただ一人全てを知った上で世界に残留したディーネの方が遥かに重い苦しみを背負っている。
「まぁ、御主人が良いと言えばそれまでなのじゃが……何も聞かぬつもりか?」
「消えたものは消えたのだから理由は必要ない。自分で言ってたろ」
ネロとミサに与えられていたの役割は11歳の子供だ。ほんの少し大人びた思考ができるように設定されていたところで、根底に根ざす精神が幼いのだから自らの存在を揺るがしかねない状況で冷静な判断ができるとも思えない。
お前は創作物の登場人物でしかないと告げられて冷静な判断ができる者など大人にもいないだろうが。
「ふむ、どうにも達観しとる……いや、し過ぎておろう! 儂とて自分が善であると思っているわけではないが、それにしても幾分かの罪悪感がないわけではない。それをこうも簡単に切り捨てられては……」
「簡単じゃないさ。あっちゃこっちゃ行った末の結論だ。もう変わりようもない」
意味のわからない世界を盥回しにされて、ようやく辿り着いた答え。
禁断の果実を口にして、目が開けた結果だ。
また同時に、開眼とは悟りの別称でもあるらしい。禁断の果実は神と同等の知恵を与えてくれる上に、人としての到達点である覚者にまで至らせてくれる都合の良い食べ物なのかもしれない。
神が食べることを禁じたがるのも得心がいく。
胸の内に広がる開放感が悟りによるものなのかは知らないが、悩みや迷いといった感情は完全になくなった。
何においても答えは自分の中に見つけるしかない。他人に答えを求め、理想の他人を欲するようになれば人は緩やかに腐っていくしかない。
理想の自分を求めることを辞め、全肯定の他人をこの創作物に求めた時点で神としても人としても終わっている。
それは間違いなく自分の姿で、どうしようもなく否定したい自分でもあった。
表裏一体の心とはそういうもの。絶え間なく続く自己否定。
「うーむ、それならば儂には何も言えんの。……それじゃあ御主人、復活後最初の仕事を頼むぞ」
ディーネが何を言おうとしているのかは理解できた。
その道を選択できる精神は理解できなかった。
「……もういいのか?」
「これ以上語ることもあるまい」
惚れ惚れするほどの潔さ。
ディーネは文字通りの終焉を求めている。
龍という強く気高い存在のまま消え去ることを渇望し、この場に立っている。
それはとても悲しいことだと思った。
生物にとって生きることは本能であり、繁栄することこそ本質。
しかしディーネは生も死もない完全なる滅却へと自ら向かおうとしている。何れは皆消えるからなどと、そんな理由ではなく、ただ美しくありたいという欲望のために終わりを迎える。
煩悩即菩提。
煩悩を持つがゆえの悟り。
気高き龍であるからこそ至れる煩悩の極地。
「オレの手によって消えれば、そこには何も残らない。誰の記憶にも残ることはないし、生きてきた証も残らない。確かに龍として終わることはできるが、どれだけ美しい生命であっても、その美しさを記憶する人間は誰一人いなくなる。本当にそれでいいんだな?」
「何も残らないわけではなかろう。少なくとも、御主人の中には残ると思っておったのじゃが……ふむ、御主人にとって儂は消えたとて気に留めるほどでもない羽虫程度の存在ということかの?」
ディーネは苦笑している。
「いや、そういうわけじゃないが……どう転んだってオレは消える。それは――」
「くどい。消えることで御主人に何かを残せるのならば、儂にとっては最高の終わり方よ」
言葉を遮られたオレは再び口を開こうとしたが、已の所で思いとどまった。
既にディーネの決意は固く、何を言っても折れることはないだろう。
何より、既に人形でも人間でもなくなったオレにかけるべき言葉があるとは思えなかった。
ルエラのときと同じように、オレには見送ることしかできない。そうするべきだと思った。
「そうか。それじゃあ――」
そう言ってオレは右手を差し出す。
握手を求める形。
勿論、敬意とか友情とか、そういう意味での握手でもあるが、それ以上に別れの行為としての握手。
オレの右手の周囲の空間だけが抉り取られたように消えている。
風が吹こうと、雨が降ろうと、未来永劫その空間に影響を与えることはない。
死んでしまった人間に、今を生きる人間が影響を与えられないように、その空間は既に死に絶えてしまった。
神の為す継続的創造の完全否定。
結局のところ自己否定に過ぎないのだが、この右手に触れたものは空間であろうと人物であろうと、否応なしに消え去ってしまう。
ディーネは何も言わず手を握ろうとしたが、一瞬だけ躊躇した後に
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが死ねば、多くの実を結ぶ。この別れが、御主人にとって利するものであるよう願っておる」
そうして快活に笑いながら手をとった。
ディーネの体は、オレの触れた右手から見る見るうちに崩壊していく。
手が崩壊したあとは胴へと広がっていくが、オレの四肢が崩壊したときとは違い、ディーネは四肢を失いながらも変わらぬままにオレを見つめていた。
情報の大部分を保存する頭部は最後に崩壊することになっているため、ディーネの首から下を崩壊が蝕んでいく。殆どの部分が消え去り、胴体で最期に残っているのは繁栄に不可欠な子宮の部分。そこも徐々に崩れ去っていき、もはや頭部の崩壊も近い。
「それじゃあ、さようなら」
「――うむ。おさらばじゃ、御主人!」
頭部だけになったディーネは、始めて見せる満面の笑みを湛えながらそう答え、消えた。
その笑みは、誰が見ても可憐な少女のそれだった。
気高く、美しく。龍のままで終わりを迎えたいと言った彼女は、最期のときを少女として迎えた。
龍でなく人として、覚悟と共に終わりを迎えたのだ。
それは性能でなく、精神の美しさ。
灰色の虚像の中で唯一極彩色に彩られた現実は、オレの胸の内に大きなものを残してくれた。
どうあろうとも、勝たなければならない。
やはりシャムは死なねばならない。
そうでなければ救済は訪れない。
消滅こそ救済などと、まるで三文小説の悪役のようだ。
管理者であったディーネを失って崩壊を始めた世界の中で、オレはそんなことを思った。
このまま崩壊が進めば、再びシャムによって上書きされた世界が現れるのだろう。
残念だが、この期に及んで下らない世界を回り続ければ三文小説以下になってしまう。
オレは自嘲的な笑みを零しながら足を踏み鳴らす。
上書きに伴う世界の崩壊は止み、全てが零へ還るための崩壊が始まる。
ほんの数分で崩壊は終わった。
オレは足場も何もなくなり、上下の概念すら消え去った空白の世界を歩き出す。
既に目的地は定まっている。
歩き続ければ、そのうち辿り着くことだろう。たとえどれだけ時間がかかろうとも、ここには時間の概念すらないのだ。
シャムの座すゾット帝国。
現と夢の狭間に存在する零。
覚者にして聖父。
これでようやく、もう一人の自分と対等になったのだろう。
オレはひたすらに歩く。
一歩ずつ、一歩ずつ。
零へ向けて。