syamu_game
できるだけ一つのみ宗教や神話に偏らないようにしてるため、色々ごちゃ混ぜになってます。
比較的短めな話ばかりで申し訳ないです。
意識が落ちていく。
混濁の海へと墜落する感覚。
ただひたすらに深淵へと。
一本ずつならまだしも四肢を一度につぶされてしまえば出血多量は免れない。
思考が正常に保たれているのは、もはや痛覚を認識する必要すらなくなったからだろう。既に死が確定し、意識は肉体という牢獄から開放されて魂へと導かれる。
魂とは理解しがたい本質であり目を逸らしたくなる業。
誰しもが死の間際に触れる原型の錯覚。
誰もが持ち得る本質的な狂気の山脈と矛盾の坩堝。
無理解こそが救済である。自らの底が知れてしまえば、人は生きる目的を失ってしまうのだから。
人の底に根差すは無であり、その価値もまた空虚なものでしかない。
肉体と魂の狭間、たゆたう無意識は自然に魂へと引き寄せられる。
そうして真実を視てしまう。
零によって生み出されたオレもまた、零。
オレを生み出した零は失うことを恐れているようだった。
だからこそ他者に求め続ける。
オレに宿っているのは、零の求める別の側面。
オーヴに宿っているのは、零の背負う別の役割。
神は人を神の像に造る。
役割の双生。
この世界における誰も彼もが神と繋がっているのだろうが、それを認知できる人間がオレしかいない以上、オレは肉体でなく魂で零に繋がるただ一対のシャム双生児。
闘技場の男が何を指してSと言ったのかは未だわからないが、オレの中でSとはシャムを示す言葉となっていた。
コインの裏表のように、オレと神もまた一心同体。
世界とは神の遊戯に過ぎない。
どこもかしこも綻びばかりの世界を創り続ける、不安定な零は終わりを恐れ、終末を告げるギャラルホルンを隠蔽した。
自らがもっとも近くで操作する主人公という役割を設定した分身とも呼べる存在へ。
死こそが真理で崩壊こそが原理。
表が創造ならば、裏は破壊。
自らの創造する世界をすぐさま妥協して放棄する創造主の行いは、謂わば自衛手段のようなものであり、それは他人を慮ってのことではなく傷つかないため。
しかし自らの作った世界に対する他人の評価や時勢の流れを汲み世界を途切れさせることがあっても、その世界を壊すことはできない。絶対的な自信を持つ神が、その手による創造物を壊すことなどできはしない。
結果として途中まで紡がれた物語が累積し、まるで貝塚にも似た文字の遺構が完成する。
そうやって神は文字の遺物によって死を迎える。
死と再生こそが神話の絶対条件。
創造主が神話を築くためには、古き世界の消却こそが必要である。そうしなければ幾重にも世界が重なり続け、最後には破綻した歴史のみが残る。
オレの眼には、その過ちこそが映っていた。
禁断の森。アルガスタ。ユニフォン。
終わりのない物語が際限なく積み重なっていく過程。
道半ばにして未来が閉ざされた世界の登場人物たちも死ぬことは叶わず永劫に上書きを繰り返され、新たな役割をこなし続ける機械人形と化す。
創造主には創ることしかできない、と言えば当然のように聞こえるかもしれないが、神の絶対性を示すには二面性がどうしようもなく不可欠なのだ。
シヴァに対するプーテーシュヴァラ。
荒魂に対する和魂。
ではこの世界では?
創造に対する破壊。
創造主は本来ならば自らが持つべき役割を他者に押し付けた。
主人公の片割れに、破壊という武器を与えて。
自らの尾を貪り喰らうウロボロス。
永久に悟りの訪れない輪廻。
“どんな形であれ力を得た者は狂うしかないんじゃが、未だに人であろうなどと無様にも程があろうて”
ふとディーネの言葉が頭を過ぎる。
確かに、人では勝てない。
堪らなくおかしな気分になり、思わず腹の底から笑ってしまう。所詮ここはオレの中であり、世界の底。どんな行動をとったところでそれを咎める者はいない。
全知全能の神を殺すことは叶わなくとも、不完全な神ならば幾らでも殺しようはある。
何より、オレこそが不完全さを補う半神なのだ。
文字通り敵は自分。
シャムという概念を殺すことで神様気取りの下らないゲームを終わらせることができる。
即ち自殺。
オレは自分自身を正しく殺すためにも、ディーネに殺されるわけにはいかない。
既に真理は得た。もはや人であれ龍であれ、オレを阻むことはできない。
龍では神に勝てないのだから。
さぁ、目覚めの時間だ。
シャム双生児における『シャム』はタイ王国のことであり、正しい綴りは“syamu”でなく“siam”になりますが、物語の都合上から今後の展開に用いられる『シャム』は“syamu”であると認識して頂けると幸いです。