鼠の電話番
この小説は企画小説です。「鼠小説」と検索すると他の先生方の作品も読むことができます。
しかし残念ですが、今回の参加者は僕のみとなってしまいました。ご了承ください。
長いあいだ思い出せずにいる情景がある。これまでの人生で最も大事とさえ言える情景だ。峰岸老人は背もたれのない三脚椅子に座りながらじっと電話を眺め、そのことについて終わりのない模索を続けていた。選択することを根本から否定していた時代、勇猛果敢でなおかつ暴力的でもあった青年時代。彼の胸には驚きと緊張よりも、深い哀しみがあった。それは自分の孫が死にかけているせいというよりも、若かりしころの自分が思い出から永遠に姿を消そうとしている事実だった。
こつこつと時を刻む、壁に掛かった古時計。生ぬるいウィスキーを喉の奥に流し込み、峰岸老人は深いしわの刻み込まれた両手を眺めた。ためしにゆっくりと手を閉じたり開いたりしてみる。このごろでは、寒い日になると手が嫌というほどに痛んだ。自分が歳をとったということを否定するのにも、もはや疲れ果ててしまった。
彼はおもむろに受話器へ腕を伸ばし、震える指でひとつずつナンバーを押した。
「まだわからないの、おじいちゃん。ねえまだわからないんだってば」
孫娘の声は苛立っていた。無理もない。血を分けた弟が片足をもがれ、今なおベッドの上でもがき苦しんでいるともなれば。
「お母さんに代わってくれないか……今家で探し物をしてるんだ」
「おじいちゃん、お母さんはいないの。お母さんはいない」
「いるさ。だってさっき──」
「ねえ、今がどんな事態かわかってる? 淳が死にそうになってるの。なにか探しものがあるんだったら明日にすればいいでしょう」
「アルバムが欲しいんだ」
なにかを推し量る沈黙があった。数秒おいて、電話ががちゃんと切れた。
峰岸老人は諦めて受話器をおき、自分の膝を押して立ち上がった。蔵書まで歩きだそうとしたそのとき、彼はまたひとつ大きな事実を忘れていた。もはや自分の足は意思どおりに動いてくれはしないのだ。
壁に手をかけ、彼はゆっくりと半歩ずつ部屋を進んだ。床とスリッパの擦れる音が、もぬけのからとなった家に響き渡る。胸が大きく膨らみ、首といっしょに肩が上下した。どうしてあのころに死んでしまわなかったのか──そんな無茶な考えが、執拗に彼の老いた心を揺すぶった。今では死ぬ気力さえ残されていないようだった。
どうにか蔵書にたどり着くことができると、彼は書架にしがみつくような格好で、踏み台に腰を下ろそうと試みた。しかし体勢がくずれ、棚にしがみつこうとはしたものの、重い体は幾冊かの本といっしょに床に叩きつけられた。そのまま痛みで気を失ってしまいそうだった。だが書架のいちばん下、誰も読まなくなった分厚い本たちのあいだに、かすかにだが見覚えのある赤い表紙を目にしたことで、その意識はなんとか紡がれた。
彼は本に向かって懸命に手を伸ばした。ゆっくりと一ページ目を開いてみる。まさかという驚きが、始めに彼の心を打った。写真に写っているのはいったい誰だろう? これが若かりしころの自分だというのだろうか。
そこにはすっかり年下になってしまった自分の母の姿と、学生帽をかぶったか細い少年が写っている。そばには明治大学の看板が掲げられ、灰をまぶしたように景色は一面くすんでいる。母親が息子を自慢するために、幾度となく人の手へ写真を見せて回ったのだろう。真ん中のところに穴があくほど畳み込まれ、角のところはぼろぼろになっている。
彼の目は夢物語を見るように輝いていた。息が乱れ、説明しようのない歓びが心を満たした。笑い声がもれ、次に「ああ、ああ……」という虚ろな喘ぎが漏れた。寸暇を惜しんで東京中を駆けずり回ったあのころ、出会うものすべてに尻込みすることなく踏み入っていけた時代。遠いさざなみが消え去ってしまうまで、彼はその場所を離れることができなかった。
そのせいで、電話が鳴っても立ち上がろうという気になれなかったのかもしれない。峰岸老人が写真をアルバムから引き剥がし、胸のポケットにしまいこんだときには、世の中がもう朝を迎えていた。彼は長い時間をかけて電話のあるキッチンに戻り、受話器を手にした。
「……なにをしてたの?」
静かな声だ。そこには激しく感情が乱れたあとの余韻が残されていた。
「淳はどうだった。無事か」
「うん、無事みたい。でも二度と両足で歩くことはできないけど」
「そうか」
「もうお母さんはそっちに向かってる。おじいちゃんも眠って」
誰もが疲れ果てていた。峰岸老人は受話器を置くと洗面所へ向かい、長い時間をかけて用を足すと、鏡の前に立って自分の顔を眺めた。そこに映っている姿は、写真の自分とはあまりにかけ離れてしまっている。鼻と思えるものと、口と見られるものが密集しているだけ。まるで禿げ鼠だ。
彼はそう考えて虚しく笑い、よたよたと寝室に向かった。ベッドに体を横たえ、胸の写真をもういちど取り出してみる。彼はこれまでと同じように長い時間をかけ、ゆっくりと深い深い眠りに落ちていった。
The Strokes - 「The End Has No End」
http://jp.youtube.com/watch?v=scvlHaADBqc