初夜
満月の夜でした。
春の夜風は気持ちが良いので、レオンは窓を半分開けたままベッドに横になっていました。ふわりと風にたなびくカーテンが時折背中を撫でますが、さして気にした様子もありません。いつもなら気になってカーテンを縛ってしまう彼ですが、今夜はそれよりも気がかりなことがあるのです。
「はあ……」
何度目かも分からないため息を落とし、レオンは寝返りを打ちました。苦手な回復魔法の授業でさえ、こんな気持ちにならなかったというのに。この調子では、せっかく入団が決まった聖都騎士団でこれから先やっていくことなど不可能に思えました。
(……そうだ、俺が入団を辞退してしまえば―――)
辞退してしまえば、どうなるというのでしょう。自己満足な欲求を満たしたところで、あとには何も残りません。それが理解できないほど彼は愚かではないゆえに、またとても優しい性格ゆえに、こうして苦しまねばなりませんでした。
しばらく悶々としていると、誰かが小さく部屋のドアを叩く音が聞こえました。レオンは訝しみ、机の上にある時計を凝視します。月明かりにぼんやり照らされた時計の針は午前二時を指していました。寮の消灯時間はとっくに過ぎていますし、こんな時間の来客など身に覚えはありません。たぶん気のせいだと思う事にした矢先―――再び、控えめにドアを叩く音が聞こえました。
「………」
彼はベッドから起き、面倒だったので履物は履かず素足のままドアに向かいます。そして静かにドアを開けると、そこには寝間着姿の少女が立っていました。腰まで届きそうな長い蜜色の髪の持ち主です。少女はうつむいているため、表情まではわかりません。
「……アリス……お前、こんな時間に何の用だよ。ていうかここ男子寮だぞ。先生に見つかったら―――」
「顔貸して」
アリスと呼ばれた少女は有無を言わさぬ口調でそう言いました。
*****
ひと気のない真っ暗な廊下を二人は歩いていました。燭台を使うと目立ってしまうため、レオンは魔法で夜目が利くようにしています。アリスも同じようにして彼の部屋まで訪ねてきたのでしょう。
(靴、履いてこればよかった……)
レオンは前を歩く少女に気圧され、素足のまま部屋を出てきたことを後悔しました。石の床には木のような温かみはありません。とても冷たいのです。気を紛らわすには話でもするのが良いのでしょうが、少女の醸す雰囲気がそれを許しませんでした。とても怖いのです。さらに少女が手に携えているのは二本の剣。真夜中のランデブーというにはあまりに物騒な得物です。
「止まって」
レオンが連れてこられたのは訓練場でした。ここで学院の生徒たちは剣や魔法の鍛錬を積み重ねるのです。レオンやアリスにとっても馴染み深い場所です。日中の喧騒がまるで嘘のように、場内は不気味な静寂に包まれていました。アリスはレオンから数メートル離れると振り返り、持っていた剣を一本投げてよこしました。
「構えて」
「ちょっと待て。全然意味がわからない」
「―――わからないの?」
アリスは意外そうな声でつぶやき、うつむいていた顔を上げます。彼女の赤く泣きはらした目を見たレオンは言葉に詰まってしまいました。彼女のこんな顔を、一度だって見たことがなかったからです。彼が納得し得るだけの説得力が彼女の表情にはありました。
「………決着方法は?」
レオンはアリスを抱きしめたい衝動に駆られましたが、恋人でもない彼にそんな権限はありませんし、彼女も望んではいないはずです。今の彼が出来ることは、そう尋ねる他にないのです。しかし、彼はまだ剣を構えることができませんでした。この剣は真剣です。防具も付けずに戦えばただでは済みません。なんとか彼女の気を落ち着かせることが出来ないものかと考えを巡らせますが、打開策が見出せませんでした。
アリスは彼の問いに答えます。
「どちらかが倒れて、動かなくなるまで」
予想通りの返答にレオンは苦笑しました。生徒同士の決闘はもちろん規則で禁止されていますが、断れる雰囲気ではありません。
「マジかよ……寝間着姿で決闘するとは思わなかった」
「ベッドに誘うとでも思ったの?」
「ばッ…!」
アリスが真顔で言うとレオンは赤面しました。その手の挑発に彼が弱いことを心得ているのです。
「ばかにすんなよ、誰がっ……くそ、早くかかってこい!」
「うん。いくよ」
やけくそ気味に叫んだレオンが剣を構えたと見るや否や、アリスは斬りかかってきました。
キィン! と乾いた音が場内に響きます。まだ心のどこかでアリスが「なんちゃって♪ 冗談だよ。ビックリした?」などと言ってくれることを期待していたレオンは戦慄しました。
(思い切り殺気込めてきやがって……!)
斬り結べば相手がどれだけ本気かわかります。怒りよりも驚きと落胆の比重が大きいのは、彼が彼女に抱く感情ゆえです。交差して軋む剣のすぐ先に彼女の顔が見えました。その表情はまるで親の仇でも睨むかのようです。
ひゅっ、と短い呼吸を起点にしてアリスは連撃を繰り出しました。彼女の剣の腕は教師陣も舌を巻くほどで、速さは学院で一番です。公式試合ではレオンも負け越していました。服の切れ端が飛び、彼の脚、腰、腕に次々と赤い筋が浮かびます。しかしそのどれもが致命傷には至りません。それは技術によるところもあるでしょうが、彼には彼女がまだ迷っているように―――そうであれば良いのにと思いました。
アリスは不満を漏らします。
「どうして返してこないのよ」
「………」
「もしかして同情してるの?」
「ちがう―――グッ」
腹部に蹴りを食らってレオンは後ろへ跳びました。アリスは構えを解くと腰に手を当て、首をかしげながらつまらなそうに言いました。
「ああ、そっか。レオンあなた、私のことが好きなのよね。だから本気が出せないんだ?」
レオンは再び赤面し、しどろもどろに反論します。
「それは……もう終わったことだろうが」
「ならどうしてよ。理由を言ってみなさいよ」
視線を逸らしてしまった彼に、彼女は侮蔑の眼差しを向けました。
「ずっと思ってたけど……あなたさ、戦場じゃ真っ先に死ぬタイプよね」
言葉の剣が彼の胸に突き刺さります。
「由緒ある血統だかなんだか知らないけど、調子に乗らないで。あなた言ったわよね? 女、子ども、老人には手を掛けないって。立派な心掛けよね? 大層な自信よね? だけど、その甘さが隙を生むの。その傲慢さが仲間を死に至らしめるの。私は―――あなたの騎士道精神が大っ嫌い……反吐が出るの」
うつむいたレオンの、剣を持つ手に力が込もりました。アリスは尚も容赦しません。
「へえ、怒ったんだ、一丁前に? けど何もできないでしょ。あなたは私に散々コケにされて、じわじわいたぶられて、泣きながら許してくださいって土下座するの。犬みたいに足を舐めるの。あなたの大好きな私に懇願すれば許してくれるって期待しているんだものね? だけど私は許さない。惨めなあなたを笑いながら―――」
刹那、アリスの視界からレオンが消えました。
「―――え?」
思わず疑問の声が出た次の瞬間、アリスの身体はくの字に折れ曲がっていました。
「がッ…! は……」
レオンの強烈な当て身がアリスの腹部にめり込んでいました。彼女の手から剣が落ち、床に膝をついてしまいます。酸素を求める口がぱくぱくと開き、そこから垂れた唾液が床を濡らしました。アリスは痛みに耐えながら唇を噛んで顔を上げ―――息を呑みました。彼女の知らない、まるで猛獣のようなレオンの目に恐怖してしまったのです。彼は荒々しい息遣いのまま彼女に手を伸ばしました。
「きゃああっ!」
抵抗できぬまま髪を乱暴に鷲掴みにされ、アリスは悲鳴をあげました。レオンはそのまま片手で軽々と彼女の身体を宙に掲げ―――、
「……それで? もうお仕舞い? ――だから甘いのよッ」
宙に浮かされたまま、気丈にも言い放った彼女の身体を床に叩きつけました。
全身の骨がばらばらになったかのような衝撃に、アリスは声も出ませんでした。おぼろげな視界に、彼が剣を構えるのが見えます。
(……私は……………弱かったんだ)
どうやら認めるしかなさそうだとアリスは思いました。卑怯な手を使って、全力で挑んで、それでも彼の垣間見せた『本気』には遠く及ばなかったのです。なればこそ、いっそ清々しいほどの敗北でした。これなら銀色の剣の切っ先も、潔く受け入れられそうです―――心残りは、ひとつだけ。
(……ごめんなさい、おばさん)
戦争で両親を失った自分を引き取り、実の娘のように育ててくれた伯母に謝りたいと思いました。強くなりたいと言ったアリスのために、伯母があちこちから借金して学院の入学金を用意してくれたことを知ったのは、随分あとになってからでした。聖都騎士団に入団できれば高いお給金が貰えるので、それで恩返しをしたいと思い、剣も魔法も勉強も必死に頑張り―――卒業間近の今日、その夢は断たれたのでした。
(迷惑掛けるだけ掛けちゃったなあ)
己の無力さが悔しくて、悲しくて、頬を伝う涙を、アリスは拭うこともできませんでした。
「早くしてよ」
「…………」
いつまで経っても剣を振り下ろそうとしないレオンに、アリスは催促しました。しかし彼は微動だにせず、石像のように突っ立っています。
「……レオン?」
怪訝に思ったアリスは、未だ全身にまとわりつく痛みに耐えながらのろのろと起き上がります。彼の顔を覗き込んでみると、ようやくその原因がわかりました。
「……寝てるし」
先ほどまでの緊張感はどこへやら。アリスはどんな顔をしていいのかわからなくなってしまいました。
「刃を向けた相手の前で寝るなんて、どういう神経しているのよ」
馬鹿にされているか信頼されているかどちらかなのでしょうが、せっかく覚悟を決めて決闘に臨んだアリスにとっては当然、面白くありません。今なら簡単に彼に勝てますが、最早そんな気にはなれないのでした。
「……はあ」
アリスはため息を落とし、それから〈ヒール〉の魔法を唱えました。掌に宿った淡い青色の光が彼女の身体の輪郭をなぞり、全身を包みました。痛みが和らいでいきます。
「うん……良かった、折れてない」
光が消えた後、アリスは試しに屈伸運動してみましたが、特に異常はなく安心しました。骨折や脾臓破裂などの重傷の場合、聖職者級の回復魔法でないと治療が不可能です。彼女はついでにレオンの傷も治してやりました。しかし頬の傷だけは、そのままにしておきました。
「優しすぎる顔だもんね。そのほうが箔が付くでしょ」
「ぐう……」
レオンも頷いたように見えました。アリスは控えめに微笑み、彼の手から剣を抜き取りました。手がふれた瞬間彼がびくっと震えたように見えましたが、気のせいだと思うことにします。
訓練場を出て、アリスは女子寮へと戻って行きました。いま自分のすべきことは、
(部屋に戻って、暖かいベッドで寝よう)
それに尽きます。
(目が覚めたらきっと―――この夜は終わっているから)