夕暮れ時の教室
放課後、夕暮れが誰もいない教室をオレンジに染めている。
私はここで、初めて彼に出会った。
彼は教室でも全く目立たないポジションにいる人だ。欠席してもあんまり気にされない、そんな立ち位置だった。
わたしが彼に会ったのは、高校一年の初夏。五月辺りだったろうか。
忘れ物をした私はわざわざ再登校して教室へ向かっていた。その時はただただ面倒だと思っていた。
そして苛立ちそのままに教室の扉を開くと、そこには寝こける彼がいた。
オレンジに染まった教室で、上着を布団がわりに眠る彼。
突っ伏して、ゆっくりと寝息を立てて眠っている。
私はなんの間違いか、それを美しいと思ってしまったのだ。
それから私はわざと夕暮れ時の教室へ行くようになった。最初は一週間に一回。多くとも週三回。理由は毎日行って怪しまれたり迷惑がられたりしたくなかったのと、単純に天気の問題だ。夕焼けが教室を照らさなければ、あの光景は見れない。たったそれだけの理由。
彼はいつも、同じ体勢で眠っていた。
私はその光景を見たときのなんとも言えない気分が好きだった。
暖かいオレンジ色と、上着の黒、そしてドアを開けたことによって空いた窓から吹く柔らかな風。その全てが合わさって、私の心にさざ波を起こすのだ。
彼のことは何も知らなかったけども、寝ている彼を見ていればそんなことは些事に過ぎなかった。
そういえば、一度だけ彼に会えなかった日があった。ただオレンジに染まった教室は、彼がいないだけで寂しげに見えたのを覚えている。
いつもの授業でも、彼はよく寝ている。しかし不思議と教師に注意されることはなかった。気づいたら教室から消えていることもしばしばだ。
だから私が見る彼は、何故かいつも後ろ姿だけだった。
そんな不可思議な教室通いが続き、季節は流れ、秋になった。
高校一年の秋、それは行事に勉強にとなにかと忙しい季節である。
それでも不思議と教室に行く時間がなくなることはなかった。
この頃になって私はようやく、彼と話したいと思うようになっていた。
彼に親しい友人がいるかはわからない。そのことすら、私は未だに知らなかった。今思えば、神秘性が損なわれるとでも考えていたのだろうか。
そうして、私は今日もドアを開ける。
いつもの通り、オレンジに染まる教室と眠る彼がいると思うと自然と気持ちが落ち着く。
だが、それは打ち破られた。他でもない彼によって。
彼は寝ておらず、頬杖をついて窓の外を眺めていた。
彼は当然、ドアの音に反応してこちらを向く。そして驚いて固まっている私になおざりに会釈をして、また窓の方を向いてしまった。
私はどうにかこうにか足を動かして、机の方へ向かう。
馬鹿みたいに緊張しているが、それもやむ無しである。だって彼が寝ていない。それは私にとって静止画がある日突然映画になったようなものだった。
机の引き出しを漁り、目的のプリントを見つける。もちろんわざと忘れている。
いつもであれば、このまま帰る。
──私は数瞬ほど葛藤して、そのまま自分の席に座った。
一列挟んで斜め前の彼が否応なしに視界に入る。
私は努めて彼を見ないようにしながらプリントを解き始める。
しかし、彼が気になってプリントは遅々と進まない。内心で自分を叱咤し、無理矢理に問題を解き進めた。
彼を見て帰るだけの『いつも』が揺らぎかねない行動に心が脈打つ。
五分ほどたった頃、私は不安やら期待やらでごちゃ混ぜになった感情に耐えられず、視線を彼に向けた。
相変わらず窓の外を見ている彼。
何を見ているのか、無性に気になった。
そのまま窓へ目を向けて──
──彼と窓越しに視線が合った。
思わずびくりと硬直する。
見間違いなんかじゃない。あれは明らかに視線があった。
目を逸らすか、迷った。
このままプリントを解き終われば、同時に彼とは何の接点もできずに終わる。
迷った末、問題を解き終わったせいで逃げ場のない私はしっかりと窓越しに視線を返した。
そのまま十数秒が経ち、気まずさのあまり視線を逸らそうか悩み始めたとき、彼がこちらを向いた。
窓越しでなく、ばっちりと視線が合う。
両者、無言。
傍目から見れば大変奇妙なこと請け合いだ。無言で大して近くもない距離で男女が見つめ合う。今までドアが開いたことはなかったが、それでもいつかの私のような闖入者がいないことを切実に願った。
そうして、今度はすぐに彼が折れた。
頬を気まずげに掻きながら、口を開いた。
「──さっきから百面相してるのは、もしかして俺のせい?」
………どうやら随分顔に出ていたようだ。
顔が赤くなるのも止められず、こくこくと頷いた。耳が熱い。
「あー……ごめん」
「謝られることじゃないから……うん。え、えっと、気にしないで?」
そして訪れる静寂。
気まずい。
私は逃げと分かっていたが再びプリントを解き始めようとした──が、生憎問題が残っていなかった。
彼は私の手元を見て、クスリと笑った。私が墓穴を掘ったことに気づいたらしい。
「……帰るか?」
「あ……うん」
彼の助け船に救われ、いそいそと帰り支度をする。そのまま彼と学校を出た。グラウンドからはどこかの部活の掛け声が聞こえる。
「そういえば……家はどこらへんなの?」
「ああ、西南地区の方だ」
「え?私、青蘭地区だから近いね。全然気づかなかった」
かなり意外だった。西南地区と青蘭地区は目と鼻の先だ。登校ルートもかなり被るのだが、彼に会ったことはなかったはずだ。
「青蘭か。意外だな」
「うん、不思議と会わないけど」
「あー……まあな」
曖昧に言葉を濁された。今更だが彼がいつ登校しているのかも知らない。ないない尽くしである。
そのまま私と彼は他愛もない話を続けた。彼の話は面白く、どうして今まで目立ってこなかったか不思議だった。
「そういえば、昨日夢を見た」
もうそろそろ別れる道となった所で、唐突に彼は言った。
「夢の中で、俺は猫だった。そんな俺にに後ろから犬がついてくるんだ」
どことなく楽しそうな笑顔だった。
私は相槌って続きを促す。
「俺には意味がわからなかった。夢だから余計に。それに俺は振り向いたわけじゃなかった。なんとなく、犬がいると思っただけで」
夢ではよくあることだ、と私は思った。夢は記憶なのだから、自分の見えないものが見えてもおかしくない。
「夢だから音とかも聞こえない。俺は興味がなくなって、ただ一人──一匹で歩いてたんだ」
話の終着点が見えない。いったい彼は何が言いたいのだろう。
私の怪訝そうな顔に気づいたように彼は笑った。まるで、予想通りと言うように。
「だけど、俺はふと下を向いたんだ。そこには水溜まりがあって、誰かの顔が映ってたんだ」
そして、彼は堪えきれないと言った調子で笑った。
「──その顔は、ついてきてた犬だった。でもなぜか、俺は嬉しかったんだ」
私は意味がわからず、不審げに彼を見た。からかわれている気がしたというのもある。
私はもう一度彼の言葉を反芻する。ついてきてた犬、彼が猫だったこと、そして水溜まりに映る犬の顔。
一人で歩く猫と、追った犬。
夢は記憶の、蓄積──
「──あ」
「じゃ、ここまでだな。気を付けて帰れよ」
気づけば、青蘭と西南を分ける道に来ていた。一緒に帰るのはここまでだ。
私が慌てて彼を問い詰めようとしたが、彼は走って行ってしまった。
「───逃げられた」
でも、これではっきりした。してしまった。
彼は私の行動に気づいていた。
かなりの頻度で私が教室に行っていたことを。
「うう………恥ずかしい」
それでも悪い気分はしなかった。
だって彼は、一人じゃないことに気づいたとき嬉しかったと言っていたから。
存外、不器用なのだろう。
私は無意識に笑みを零し、家路についた。