25 呼吸
ぴしゃりと季節外れにも感じる冷水を頬に打ち当てる。
腫れ上がり熱を持った顔面を水で洗うとじくじくと内側から痛みが湧き出してくる。
ズィーク国内の南端。煉瓦造りの家が建ち並び、あらゆる店が集う大通り。その西の外れには湖がある。そう大きくはないがこの国の水事情がかかっている湖。
国外に危険が蔓延しているため生活水は国に二カ所ある内の一つ、このヨルク湖から得るしかない。
生物はほとんど発見されないが問題なく摂取可能な水である。
とは言え、自然のままではやはり衛生面に不安が残るためこの国には「上下水道」の設備が成されている。イメージはし辛いが国の地下に管を通してそれを偉い人が管理しているそうだ。
俺はもう一度俺は透明な水を掬い上げると次は口の中に含み、血の味がする口内を濯いで、近くの草むらへはき出した。
上水道が整備されているならば家の蛇口を捻れば水なんぞ湖に来なくともよっぽど綺麗なものを使用できるのだが、なぜこのような場所で顔を洗っているかと言えば彼女、ラントに強引なまでに連れ出されたからである。
今日この国へ来たのだから水道の存在を知らないのも無理はないと思う。
それにずんずんと先に引っ張られてしまうので水道の話を持ちかけようがそうでなかろうがこの場所に来ていたような気がする。
チチッ
どこかの木から鳥が飛び立つ。
大通りの喧噪が嘘のように静かで、周りには煉瓦の家の代わりに深緑の広い草原が広がっている。
小等学校に通っていた頃に何度か遠征、もとい近征で訪れたことがあった。もちろんその頃からファルベの名を持っていたのだから楽しい思い出など一切無かったが。
横を見やれば口に串を咥えたままのラントが腰を下ろして大きく伸びをしていた。
串には数秒前まで屋台で購入した焼かれた牛の肉が刺さっていたのだが、そやつらはすでに彼女の腹の中だ。
・・・正確には俺が屋台で購入した牛すじ焼きは彼女の腹の中だ。
まあ、俺が奢ると主張したのだが、躊躇無く店のもの買い占めようとするなんて想定外だった。
さすがにそれは丁重に宥めたが。
小さく風が身体の隙間を縫うとまた遠くで鳥が飛んだ。
俺は水に濡れない位置まで戻り、ラントの隣に腰を下ろす。
「・・・」
「・・・」
沈黙が続く。
「え・・・っと」
気まずさから口を開くが何を話したものかとまた閉じる。
聞きたいことは・・・ある。
何故助けてくれたのか。
「ファルベ」である自分が憎く無いのか。
しかし、どれも抽象的で、どの答えも聞きたいようでそうでなかった。
結局唇を湿らせたり視線を少し送るに留まる。
そして4度目に視線をやったそのとき、彼女は口に含んでいた串をもぞもぞと自らの袖の中に仕舞おうとしていた。
「ちょっと何やってるんだ」
「?食べ終わったから仕舞おうかと」
「ばっちいだろ!めっ!女の子がそんなことするもんじゃないぞ」
「・・・おかん?」
「違う!あ、ほらまたさっきみたいに手のひらべたべたにしてるし・・・ちょっと待っててくれ」
手ぬぐいを懐から出し、水で濡らす。
何だこの子は。俺は決して潔癖症ではないが、さすがに手がたれでべたべたするのは耐えられないのだが。
軽く絞ってラントの元に戻ると、彼女は手を開いたまま胡座で待っていた。
俺は嘆息しながら彼女の手を取り拭いてやろうとする。
「ほら、女の子でその座り方も・・・」
どうかと思うぞ。と続けようとしてやめる。
女の子の手を握ってしまっている。
水で冷えた手から伝わる温もりを自覚する。
自分より細い腕。きめ細やかな肌。
・・・ええっと
「うわっ!すまない!」
彼女に手ぬぐいを押しつける。
「?」
ラントは受け取りつつも小首を傾げている。
少し早まった鼓動を抑えるよう努めながら再度彼女の隣に座る。
「・・・」
「・・・」
手を拭き終わった彼女は先程の俺のように湖で布を濯ぎ、絞ってから戻ってくる。
「はい、ありがと」
「・・・ああ」
また鼓動を早めながら受け取る。
ありがとう。か・・・
捩れたままのそれを引き伸ばしながら率直に感じたことを口にする。
「君はなぜ俺を助けてくれたんだ?」
「助けなくて良かった?」
「・・・いや助かった」
「だからだよ」
少し息苦しい感じがする。
「・・・俺はファルベの血縁だぞ」
「そうだね」
「・・・」
言いしれぬ幸福感が心を襲った。
俺は疎まれて然るべき。俺は呪われて然るべき。そうすることに存在価値があるのだ。そう思ってきた。
ラントが一個人として俺を見ていることは幸せだ。だけど俺の存在価値は俺個人のどこにあるのか。
幸福が一瞬で不安になる感覚。
息が詰まる。
だからそこからの解放を求めて言ってしまう。
自らの内に秘め続け、万人が認める意見を。
「俺は・・・憎まれないと存在できないよ」
言ってしまって後悔する。こんな事を言えば嫌われると。
考えて後悔する。今更になって嫌われることを後悔するなどと。
また手ぬぐいが皺をつくる。
誰かが俺を嫌ってくれるほど俺は俺としていられる。好かれたい、優しくされたいという心は深い連鎖を導く。嫌われればそこでこの後悔は終わるのだ。この無闇な連鎖は心を抉って呼吸を止めさせる。苦しい。息が出来ない。泣きたい。はき出したい。だから・・・!
「でもあなたは私の前にいるよ」
とんっ。と
肺から空気が押し出される。
一度止まった空気が細い呼吸と共に肺に戻る。
「・・・え」
間の抜けた声なのが分かる。
「うん。君、アーベル・ファルベは今ここに存在してるよ。見えてるし、なんてったって私が君を見つけたんだから」
「・・・」
いともたやすく引っ張り上げられた。今日二度も。
違いがあれば、先程は握手で、今回は言葉で。
「うお!もうディヴェルトとの合流時間だ!」
呆ける俺の隣でラントは何か慌て出す。
彼女は小さく汚れを払うと「じゃあまた!」と言って駆け出す。
その言葉で我に返る。
「ラント!その・・・また、見つけてくれるだろうか!」
情けない事この上ない台詞。
しかし、この瞬間決意する。俺は彼女の前にいると。
「当たり前!君はかなり見つけやすいよ!」
そう言って後ろ手に手を振ると彼女は一瞬で豆粒のような距離へ行ってしまった。
おそらくこれがアーベル・ファルベという王族が人生で最も美しいと感じた瞬間に出会ったそのときだった。




