第六劇「この世界の事 I 」
世界。
それは未知。
「さぁ、入って入ってー!」
と、アリスが部屋の扉を開ける。
中に入ると四、五人位が座れそうな、木で出来た机と椅子が並び、机の中央に置かれた蝋燭が、夜の窓から差し込む闇を払い、仄かに部屋を照らしていた。
しかし、蝋燭一本では流石に暗すぎる。
「んんー……暗いなぁ……えいっ!」
と、アリスは右の人差し指を立て、垂直に腕を振り風を鳴らすと、天井に白く輝く光の球体が浮かび、部屋全体を心地良く照らす。魔法とは便利なものだ。
灯りの入った部屋の全貌は、思いのほか質素だった。
木で出来た机と椅子以外には、地味な作りの食器棚と、小難しそうな分厚い本が並べ詰められた本棚、それと何も入って居ない花瓶だけだった。
「これでよしっ!じゃあ何から話そうっかぁ……」
「だからその前に、着替えなさいって……」
と、着ぐるみ姿のアリスの言葉を遮り、着替えを急かす明葉。
「もー……分かったよ『アキハ』ちゃんっ」
と、頬を膨れながら、アリスは渋々部屋を出た。
さながら、母親に叱られて拗ねて行った娘の様だ。
パタン、と、扉が閉じる乾いた音した。廊下からは小走りに走る足音が徐々に遠退いてゆく。
部屋には竜太と明葉だけになってしまった。
いや無論、嫌では無い、寧ろウェルカム。だがハッキリ言って気まずい。
この鎧に身を包んだ少女が明葉な事は絶対間違い無い。
だが、この明葉は、竜太が知っている明葉とは、まるで違っていた。
可愛いくて可愛いくて、愛らしくて愛らしくて、愛おしくて愛おしくて、心の底から愛していた妹では無かった。
いや、悩むまでも無く、今目の前にいる彼女も文句無く美人だし、明葉の面影も見えるから、やっぱり、明葉なのだろう。お兄ちゃんの勘がそう言ってる。
でも、なんだか冷たい。
昔の明葉なら『お兄ちゃーんっ!』って言って、竜太に抱き付いてくるものだ。
しかしそんな気配は皆無な上に、背を向けて此方に顔を向けてもくれない。ずっと後ろを向いて、黙って立っている。
(……なんか、怒ってるのかな?…)
と、心配する竜太。
何とか表情を伺おうと顔を覗こうとはするが、明葉はつん、と、して背け、目を合わせ様としてくれない。
仕方無く、竜太は近くにあった椅子に力無く凭れ掛かる。
(……悲しいなぁ……)
竜太は天井を見詰めながら声に出さずに嘆いた。
(……ああもうっ!…)
と、心の中で頭を抱えているのは、明葉だった。
表の顔は辛うじてポーカーフェイスを保ててはいるが、裏の顔はもう、赤面なんてもんじゃ無い。
世界中の火山が噴火するよりも紅く、地球上の氷が溶けてしまうのではないか?と、錯覚する程暑くなっていた。
今振り向いたら、本当に顔が爆発してしまうかもしれない……だからこう、竜太に背を向けている訳だが、こうしていても、不毛で虚しい時間が流れて行くだけだし、何より竜太に悪い。
……どうしたものか。
いっそ、爆発覚悟で振り返る、か……。
だがそれは難しい。
竜太がこっちを見てくれたのに、私は背けてしまった。
竜太も何かしら変に感じている筈だし、今更此方から、何かアクションをおこすのは、なんと言うか……恥ずかしい。
明葉は情けなさを感じていた。
何で今の竜太の前だと、素直になれないのか。昔は、そんな事全く無かったのに。昔の自分なら何の気兼ね無く、向かって行けたし、自然に笑顔を見せれたし、気が付いたら抱きついていた。真性のブラコンだったし、それを寧ろ誇っていた。
それが今では、このザマだ。情けないにも程がある。
私はこの二年で随分変わってしまったかもしれない。昔と比べてかなりガサツで荒っぽくになってしまった事も自覚しているし、声も少し掠れてきた。お世辞にも華奢とは言えない身体になった。でもその方が今は便利だし、無くてはならない大切な身体だ。でも……アイツは昔の私の方が好きなのかもしれない……。華奢で小さくて、可愛いお人形さんの様な、昔の私が……。だが例えそうだとしても、アイツにはここでやらなくてはならない事がある。無論、私にも。
だから、今のこんな状態では……出来る事も出来ないではないか。どーした私!さっき砂漠で助けた時はまぁまぁいい感じて行けたじゃん!そのままの感じで行こーよテンション!いくら急にこんな狭い部屋に二人きりになったからって……狭い部屋、二人……きり……?……。
そう考えたら、顔がますます熱くなってきた。
(って……何考えてるの私っ⁉︎)
と、心の中で悶える明葉。
マンガやアニメなら、今自分の顔からぷすぷす、と、湯気が出ている事だろう。しかし現実にそんな事は起こらない。現実はいたってシンプルでストレートなのだ。
熱さはなかなか払われ無い。
優しい竜太の事だ。この顔を見たらきっとラノベの超鈍感主人公さながらに『どうしたの?熱でもあるの?』と、心配してくれるだろう、と、予想出来る。予想と言うより、明葉の個人的な願に近いが。だがそんな事されたらもう堪らない、平常心を保てなくなる自信が十二分にある。
(でも何か、よく見ると……)
明葉はチラリ、と、横目で竜太を見る。
当の竜太は天井を見上げているから視線は合わない。その事に、ホッ、と、してしてしまっている自分がまた悔しい。どうする事も出来ないのが歯痒い。
よく見ると、竜太も変わっている。決して悪い意味では無く。そりゃ私がこれだけ変われば、竜太も並んで変わるだろう。兄妹なんだから。
背も随分伸びている気がする。昔も割と高かったが、それより更に伸びていた。明葉の方は、大して変わらないと言うのに。
髪も、昔は学校の規則とかでスポーツ刈りだったけど、今はいい具合に長くなって、少し別人な雰囲気もあるが、確かに兄の竜太だ。妹の勘がそう言ってる。
とにかく昔と比べて顔付きとか、声とかも、随分大人びた様に感じる。
そう思うと、ますます意識してしまって顔を合わせ辛くなる。
ああ、もう誰でもいいから早く助けてほしい。
この状況を壊してくれ……。
「助けにきましたよ助けにきましたよ」
ガチャ、と、優しくドアが開き、ポットとティーセットとお菓子を持ったリュリュが入って来た。
パタン、と、丁寧にドアを閉め、ティーセットを並べてお茶を淹れ始めた。いい香りが漂って来た。
「あ……えっ?……っていや!な、何が助けにきたよ⁉︎」
と、視線を彼方此方に散りばめ、明らかに動揺した様子でリュリュに話す明葉。挙動不審甚だしい。
「またまたまたまた〜、やっぱり、アキハさんも女の子さん、ですね」
「は⁉︎……いやそんなんじゃな」
「はいはいはいはい、そんなに慌てないでくださいよ」
と、ニコニコ笑いながら、白い湯気の立つティーカップを明葉に差し出すリュリュ。
「いや、だから!」
バン!、と、机を叩く明葉。
するとミシッ、と、音を立て、僅かに机に亀裂が走った。
その衝撃でティーカップが割れ、せっかく淹れた紅茶が盛大に机の上に広がる。ぽたぽた、と、床に紅い液体が滴る。
「……あ」
「……」
「……手伝うよ」
明葉は「やってしまった」と、表情を強張らせる。
リュリュは黙って零れた紅茶を布巾で拭き取る。
竜太もさりげなく手伝う。
「ご……ごめんね、リュリュ」
と、明葉は萎れた様に、申し訳なさそうに謝る。
シュン、と、した明葉。やはりまた可愛い。
「大丈夫ですよ大丈夫ですよ、お茶淹れ直しますね」
と、さっきと変わらない笑顔で返すリュリュ。怒っているのか許しているのか、全く分からない。
考えても分からない。分かるのは本人だけだ。
新しいカップにお茶を注ぎ明葉に渡すと、明葉はそれを大事そうに受け取る。竜太の方にも熱い紅茶を注ぐと、バンッ、と、大きな音が響き、ドアが勢いよく開き、
「皆お待たせっ!」
と、元気な声とともに、可愛い天使様が現れた。
さっきまでの王さまの着ぐるみからは一転、真っ白な滑らかな艶やかな、純白の布をふんだんにあしらったドレスの様な服を纏ったアリスが居た。ドレス、と、言うのは少し比喩だが、それ程奇麗な服なのだ。
少しの淀みの無い布地のミニスカートに白い底の厚いサンダル、と、言ったシンプルな格好だ。
露になった脚や肩は先程までの幼さを一蹴し、何処か大人びた感じを醸し出す。しかし決して嫌らしさを感じさせ無い、綺麗な美しさを保っていた。正に、天使様だろう。
……胸元は開けてはいないが、春先のこの季節にしては、少し露出が多いかもしれない。
「……いっつも思うけど、やっぱり見せ過ぎ何じゃ無い?アンタの服」
と、明葉は心配そうにアリスの服装を窘める。
「え?そう?これ位なら別に破廉恥でも無いでしょ?」
と、当の本人はまるでその気は無い様だ。
……正直言うと、竜太は少し、目のやり場に困っていた。
竜太も健全で年頃な男子。男、と、言う生き物の本性は、この世界とて変わらぬ事だろう。
「まぁ、アンタがいいなら構わないけど」
と、ため息混じりにアリスは言う。
って、いいのかよ……。
正直なんとかしてほしかったが、自分から言う勇気もある訳も無く、そのままで居てもらおう。
「それじゃ竜太く……竜太……って呼んでもいい?」
「……え?ああうん」
あまりにいきなりな事だったので、つい反射的に返事をしてしまった。
「やったー!じゃあ私の事もアリスって呼んでっ!」
と、まるで玩具を買って貰った子供の様に、両手を広げて喜びキラキラ、と、した眩しい笑顔で言った。
(何がこんなに嬉しいんだろう?)
と、竜太は少しだけ疑問に思ったが、別に嫌な気はしないし、喜んでくれているなら何よりだ。
「……」
何故か明葉が此方をずっとムッ、と、した表情で見ていたが、何でか分からないし、可愛かったからそっとしておいた。
「……ん……」
と、竜太は紅茶を熱い内に一口、口に含む。
たった一口だけで、茶の芳醇で豊かな旨味と香りが口いっぱいに広がってくる。カップを傾けて香りを楽しもう、と、すると、なんともいい茶の匂いが鼻腔を擽る。
紅茶に詳しくない竜太でもたった一口だけで、とても美味しい高級な紅茶だと分かる。
「それじゃあ何から話そうかな……ねぇ竜太、君は一体何が知りたい?…」
と、カップを呷りながら、アリスは竜太に問い掛ける。
口調が、少し変わった様に思った。少しばかり、さっきまでの無邪気なおとぼけた雰囲気から、真剣さが垣間見えた。
その表情に、期待と緊張を覚える。
これから、一体何を聞かされるのか、と。
「それは……」
と、緊張を押し殺しながら質問の言葉を紡ぐ。
聞きたい事、そんなの決まっている。
「この世界は、退屈しない?」
「……ふっ」
少し呆気取られた様な顔をしたアリスだが、すぐに小さな笑みを零した。
「うん、きっと君にとって、退屈しない世界だよ、きっと」
と、笑顔で言うアリス。
「……そっか」
と、安堵と安心と、喜びの気持ちで、竜太は満たされた。
この世界でなら、俺は生きていられる。彼女が……舞桜さんが居なくても。
「さて、じゃあ話すね、君の知りたいこの世界の事を」
アリスはそう言うと、空になったカップを皿の上に戻した。