1. DEAD-LINE
練習がてらに
1.DEAD-LINE
「——という訳で、今の境界線は、ここになる」
その言葉と共に教壇に立つ若い男の教師が黒板を叩いた。
それほど広くない教室には二十人程度の少年少女が机に構えている。
「……で、正確に言えば”最果て”と呼ばれるノースランドより更に50km北に位置する!」
そしてそこに絵描かれた大きな大陸地図に、赤のチョークで太く一本線を引く。
丁度、南北に伸びた地図は二分された。
教師は更にその線の上に、カツカツと音を立てて大きく書き殴る。
——『DEAD-LINE』——
と。
(はあ……またこの話だよ)
(先生も飽きないのかしら?)
先生には聞こえない程度にボヤく生徒達は、地図の描かれた黒板を見る。
些か退屈ではあったが、頬杖をついたり余所見などは決してしない。
実際真面目に聞いているのはほんの一握りだったが、先生に怒られる為しっかり授業を受けているふりをするのだ。
昼食後の昼下がりの教室。
退屈な話しもあいまって、窓から攻める煌びやかな陽光は眠りを誘発する。
「いてっ!」
唐突に、男子生徒が声を上げた。
「レオン!何度言ったら分かるんだ!人の話しはしっかり聞けと普段から教えているだろ!」
欠伸を咬み殺すそうともしなかった少年——”レオン”は悪びれる様子もなく、額に投擲され床に転がったチョークを拾いあげた。
レオンの逆立つような赤の短髪と、歳の割に凛々しく精巧な顔付きは、人に活発なイメージを与える。
事実、レオンは運動が得意でそれに比べては勉強が不得意な、素行も決して良くはない、やんちゃな男の子だった。
しかし同じ学び舎の女子生徒には彼は人気がある。
つまりこの年頃の女の子というものはまだ純粋なもので、甲斐性、知的さ、家柄に比べてスポーツマン的な爽やかな男の子に惹かれるのだ。
もっとも、本人はその寄せられる好意に全く気付いていない訳だったが。
レオンは拾い上げたチョークを一瞥し、鼻息荒く——
「分かってるよ!先生も何回同じ話聞かせるんだよ!今月に入って十回は聞いたよその話!!」
一息で言い切ってチョークを投げ返した。
「なんだと!」
そう言って、眉を顰めた教師は片手で乱暴にチョークを受け取った。
それと同時に、レオンの吼えるような言い分にクラスメイトも同調するように教師を見つめる。
「いい加減飽きたな。なあ…リュージ、お前もそう思うだろ?」
レオンは少しトーンを落として横の席で妙に気だるそうに頬杖をついていた黒髪の少年——”リュージ”に声を掛けた。
歳の頃は同じ、十歳にも満たない少年。
だが、この教室では少々浮いた存在になっていた。
というのも彼の容姿に問題がある。鴉のような黒髪黒眼。
同じ教室内を見回すと彼一人しか黒髪はいない。
皆、煌びやかな金髪、銀髪、碧髪などカラフルな髪色と宝石の様な眼をしている。
どちらが異質か?と、問われればそれはリュージの方になるだろう。
何故ならこの世界では黒髪、それも黒眼は珍しいのだ。
無論、珍しいというだけで居ない訳でもないし、差別や畏怖の対象になったりはしない。
貴族階級と平民との関係の方がよっぽど確執があり、差別や虐めの対象となるのだ。
「おーい聞いてんのか?」
「……ん?ああ、そうだな。流石にな」
「だろ?」
不意にレオンに話しかけられ咄嗟に生返事を返したリュージだったが、彼も思う。
(流石に調べ尽くしたし他人からも聞き飽きたな……)
歴史の時間は決まってこの話だった。
境界線の話。
もう一年生の時から——いや、もっと前から耳に蛸が出来る程聞かされてきた。
ここにいる全ての子供達も同様であろう。
歴史の授業に限らず、人ならば誰でも知っている話だ。
「うっ……お前ら……」
次第に子供達の厳しさの増す視線に居た堪れなくなった教師は思わず呻いた。
やがて教室はガヤガヤとざわめき立ち、野次が飛ぶ。
それに見兼ねた教師は顳顬を痙攣させて息を大きく吸い込んだ。
「……ええいうるさいぞ!大人にも事情ってもんが有るんだ!それにこれはお前達にも将来関係ある話かも知れないんだぞ!!前線で戦うことだってあり得る!」
ぜえぜえと息を吐きながら一息で言い切る。
突然の大きな声に教室は一気に静まり返った。
子供相手にここまで本気になれる大人も昨今では珍しいかも知れない。
「お言葉ですが、”リチャード先生”。それは多分無いでしょう」
不意に、静寂の訪れた教室に凛と透き通る声が響いた。
暑くなったのか季節外れのネクタイを弛めていた先生はその声の主をみとめてギョッとする。
「いや……”アリス”君。それは分から「過去、百年以上境界線は動いていません。更に言うなら二百年前に確かに一度、動いていますが、それは北に約113km遷移しただけです。確かその時に最果ての街ノースランドが造られたのですね?人類の最前線拠点として」
先生の言葉を遮り、淡々と、かつ明瞭に語ったのは艶やかなブロンドヘアーの少女だった。
絹のような白い肌に細い指先。
顔の造詣もさることながら、健康的な色の唇は見た目不相応な艶美さを醸し出す。
鼻はスッと筋が通り、目は大きく瞳は硝子のような碧眼。
まだ幼いなりに発育も良い。
端的に言えば、そう、街中で見掛ければ誰もが振り返るような美少女だ。
彼女の落ち着いた雰囲気と、秀麗な容姿は教室での一際目立っていた。
当然だった。
彼女、アリス=リトルウィッチはこの辺鄙な土地では珍しい長耳族であるからだ。
「もっと言うと史実上、人類が押し進む事はあれど後退した事は一度足りとも無かった筈です。……確かに将来私達に全く関係がないとは言い切れないですが、戦うことはまずないでしょう。……むしろ私は戦いたいですが」
最後の部分だけ、小声で愛愛しい笑みをたたえてアリスは言った。
鳥肌の立つほど美しく、ひどく冷涼で、妖しい笑みだった。
「……あ、ああ。そうだな。よく勉強している。お前らもアリス君を見習え!特にレオン!!」
「何で名指しなんだよ!」
話題の矛先が再びレオンに戻される。
思いもよらぬとばっちりに堪らずレオンは机を叩いて立ち上がる。
「お前の座学の成績がここで最下位だからだ。しかもズバ抜けて!……そうだ、今度親御さんを交えて三人でゆっくり話そうじゃないか」
ニヤニヤと、悪戯の思い付いた子供のような笑みを張り付けてリチャードわ先生は言った。
「先生!それだけは止してくれ!母ちゃんに殺されちまう!」
リチャード先生の無慈悲な通達にレオンは顔を青くした。
彼の両親は厳しい事で有名だったのだ。
レオンの余りの焦燥っぷりに教室から笑いが巻き起こる。
「……確かに実技だけじゃ生きていけないぞ」
「リュージまで!信じてたのに酷いぞ!」
ひときわ笑いの渦が大きくなった。
————そこで視界は暗転した。
………
……
…
▼▼▼
…き……ろ…………ジ。
お………リュ……ジ。
「おい。リュージ」
目を開く前に耳に入ったのは聞き慣れた声だった。
「……起きてるよ」
「いや絶対今起きただろ」
重い瞼を開けるとまず、逆さまの友人の顔が目に入る。
蒼穹を穿つ幾つかの真っ白な雲を背景に、レオンの顔面はちょうど拳二つ分の距離にあった。
「近いぞ」
「うるせぇ。お前が起きないからだろ。……しかし、あのババアおせえな」
フンと鼻を鳴らしたレオンは、芝の上に胡座を掻いて座り込む。
体重ですり潰された若葉の青臭い匂いがリュージの鼻腔を擽った。
今、二人は一面芝生で覆われた小高い丘の上にいる。
街道沿いの雑木林を抜けた先にある、街を一望できる丘だ。
ここである人物と待ち合わせをしているのだ。
厳しい冬もとうに過ぎ去り、外の陽気は小鳥囀る小春日和と変化を遂げる。
燦々と降り注ぐ陽光に眼を細めながらレオンは口を開いた。
「でもこの街とも今日でおさらばか。嬉しいような寂しいような……」
まるで今生の別れのような、どこか哀愁を漂わせながら街を見下ろすレオン。
心底さみしそうに、ゆっくりと深い息を吐く。
それを横目にリュージは呆れた顔で言った。
「何でもう受かった気でいるんだよ。しかも一回生は冬の休暇で帰れるだろ。二回生に上がれば夏も帰れる。更に言えば四回生、五回生なんか申請して許可が降りたら休みは取れるぞ。勿論限りはあるが。……まさかお前案内読んでないのか?」
「え。そうなのか?」
レオンは心底不思議そうな顔で小首を傾げた。
——ああ、こいつは全く成長しないな。
リュージは改めて思った。
成長したのは図体のデカさだけだ。
それはあながち間違いではない。
レオン=ティノーリラ。
彼は『獣人族』である。
その中でも餓狼の血を引くレオンの外見は歳を重ねる毎に顔の造詣に深みは増せど、人間族の様に顕著には変わらない。
精々ほりが深くなる程度だ。
但し、餓狼に関しては体格は他種族に比べ最も変化する。
成長に向かうにつれ強靭な筋肉を備え、身体は肥大化していく。
純粋な膂力も非常に高い。
身体も頑丈である。
おつむに関しては完全に個人差だが、レオンの場合非常に残念な事になっているので12歳となった今、彼は完全に只の脳筋となり果ててしまったのだ。
可哀想なものを見る目で横の友人を眺めていると、彼は一度鼻を短く鳴らした。
「……ようやく来たか」
匂いに敏感な餓狼は百メートル先の人物でも嗅ぎ分ける事ができる。
修練すれば匂いだけで暗闇での戦闘時や、眼が見えない状態でも戦えるのだ。
非常に便利な特技であった。
「香水臭いんだよな。あのババア」
レオンは近づいて来るであろう人物に聞こえないように小声で呟いた。
「リュージもそう思わないか?…『長耳族は身体が汚れないのよ』とか言って、風呂に入らず香水で誤魔化してるって絶対!」
無理な裏声でレオンが言った。
「……流石にそれは無いだろう。彼女なら、香水なんて高価な物使うぐらいならナイフの一つでも買ってそうだが」
お洒落云々以前に、このご時世香水は非常に高価な代物だ。
専ら貴族階級用の嗜好品扱いである。
確かに粗悪品なら匂い消しとしても使用されてはいるが、どっちもどっちだ。
毒を以って毒を制すみたいに、悪臭を悪臭で打ち消している感じが正しい。
もっとも彼女に限ってはそんなお洒落はしないだろうが。
「確かに良い匂いはするけどな」
「シッ!来たぞ!」
リュージに小声で喚起するレオン。
どうやら直ぐ後ろまで彼女が来ているらしい。
気配の殺し方は、相変わらず上手い。
「お待たせ。二人とも早いわね」
「遅いじゃねぇか」
「まだ五分前よ」
レオンの文句を軽くあしらった声の主は、手に持った黒のスーツケースを勢い良く置いた。
——但し、地面ではなくレオンの頭の上に。
「ぎゃあ?!」
「聞こえてたわよ」
鈍い音と共に後頭部に大きな衝撃を覚えたレオンは短く悲鳴を上げた。
「長耳族は耳がいいの。忘れた?」
澄ました顔でそう言うと、後頭部を強打し翻筋斗打つレオンを尻目にリュージの横へと移動する。
そして——見目麗しい可憐な長耳族の少女は淑女の様に穏やかに芝生に腰を降ろした。
「アリス……荷物は飛脚に頼んでないのか?」
凶器となった、明らかに女性の手にあまる大きなスーツケースを一瞥したリュージは声をかける。
横ではまだレオンが転がりながら呻いていた。
「勿論頼んだわ。けど、自分で持っていきたい物だってあるの」
——そうか、とリュージは曖昧な表情で相槌を打った。
恐らく男には分からない領域だろう。
女には女にしか分からない感覚があるのだ。
「それにしても本当に早いわね。見たところ今さっき来たって訳でも無さそうだし」
アリスは転がるレオンの方を見て言った。
「ああ、ちょっと朝からレオンに付き合わされていただけだ」
そう言った途端にアリスの表情が変わる。
「……なに?もしかして手合わせ?なんで私も呼んでくれなかったの!」
アリスは少し怒ったように頬を膨らませ、冷たい視線でリュージに問いかける。
(——しまった。余計な事を言うんじゃなかった)
彼女は重度の戦闘狂なのだ。
アリス=リトルウィッチ。
彼女は長耳族である。
長耳族とは、智を好み自然を愛し歴史を尊ぶ物静かな杜の住人である。
特徴として他種族に比べ、寿命は非常に永く外見はいつまでも年若い。
というのも、老いる程永く生きる長耳族など珍しいからだ。
大抵は寿命の前に外的要因で生命を落とす。
主に森での狩りを生業とする彼らの気性は概ね穏やかで、自己主張はあまり激しくない。
だが元々他種族に多少排他的なきらいもあり、中には人前に中々出ない長耳族も存在する。
話を聞けば、一生をその集落で暮らす猛者さえ中には存在するらしい。
戦闘方法については特に魔法の扱いに長け、他にも弓や飛び道具などの遠距離系を主軸とした攻撃を得意とする。
生身の身体はそれほど丈夫ではないものの、魔法による身体強化、種族特有の器用さもあいまって繊細な動きが可能な為、パーティーでは後衛につくことが多いらしい。
——が、その種族の垣根をぶち破った変わり者も存在する。
それが、今、横にいるアリス=リトルウィッチ。
朝稽古に何故自分を誘わなかったのと憤慨する美しい少女は、長耳族にして生粋の戦闘狂であり、攻撃方法も魔法を組み合わせた近接、更には自己主張は激しい方で、全然物静かではなかった。
おまけにめっぽう強い。
実技では同年代など、全く相手にならないぐらいだ。
かと言って学科が出来ないわけでもなく、地元では筆記試験と教養の成績は常にトップ。
その少々過激な性格さえなければ、まさに才色兼備。
天は彼女に明らかに二物を与えていた。
「ねぇ。なんで?誘ってくれなかったの?」
ずいっと顔に吐息が掛かる距離まで近づくアリス。
子供の頃からの付き合いで馴れたとはいえ、ここまで顔が近いとまだ緊張する。
仮にも超がつくほど美少女なのだから。
リュージは悩んだ末、口を開いた。
「それは……急な事だったし、何より俺たちじゃ相手にならないだろ?」
当たり障りのない返答を返す。
しかしアリスは冷たい目をして直ぐに言い返した。
「何よそれ。怒るわよ。寧ろ貴方たちぐらいじゃないと相手にならないでしょ」
とは言うもののレオンは兎も角、リュージがアリスに一対一で勝てる確率は限りなく低い。
何故なら単純に、純粋な膂力も押し負けるし魔法でも少し劣る。
何度も手合わせしてはいるが運がいい日は勝てる、そんな程度だ。
彼女とは自力差がある。
自惚れや誇張ではなく、間違いなくアリス=リトルウィッチは武の神に愛された、天才だった。
「それに実は貴方の方が強いでしょ?」
そう言ってアリスは悪戯に笑みを浮かべた。
「勘弁してくれ。それはないだろう」
「そうかしら。案外お互いに本気でやり合えばリュージの方が強いかもね」
リュージとしてはそれは是非やめて頂きたかった。
確実に五体満足で帰れないだろう。
何故大事な入学前日に大怪我を負わないといけないのか。
しかし、実際アリスを朝早くから呼ばなかったのは、別に意図的に仲間外れにしている訳ではなかった。
純粋に家が離れている為、突発的に決まったレオンとの朝稽古に誘えなかったのだ。
学院へ入学の為の移動の準備もあるし、何より女の子だし何かと準備もあるかもしれない。
汗も掻くし気持ち悪いだろう。
だから敢えて、態々夜遅くに声を掛ける必要もないと思い誘わなかった。
だがそれは当人にとって、仲間外れにされていると感じたらしい。
「とりあえず誘わなかったのは謝るよ。ごめん」
「まあいいわ。でも次からはちゃんと教えてね」
そういえばアリスは服が汚れたり汗を掻くぐらい気にする女の子ではなかったな、とリュージは苦笑する。
「『まあいいわ』じゃねぇぞ!やってくれたなこの怪力女!!」
ふと、復活したレオンが噛みつくように言った。
「五月蝿いわね。レオンが非力過ぎるだけでしょ。獣人の癖に」
「なんだとこのクソババア!」
アリスとレオンが、全力で腕相撲勝負をした時の事は記憶に新しい。
約5分間にも及ぶ死闘の末、アリスが勝利したのだ。
確かに純粋な力比べでは、獣人でしかも男のレオンに軍杯は上がる。
しかもそれでもアリスは結構食らいつく。
しかし魔力強化という同条件で闘った場合、力こそ正義を地で行く獣人のレオンに、か細い長耳族の少女が勝ってしまった。
その結果にレオンは血の涙を流し、より一層トレーニングに励む事になった。
「そんなのじゃ守るものも守れないわよ。……私だってもう二度と後悔はしたくないもの」
言葉尻に憂いを含んだアリスは拳を握り締めた。
燃えるような闘志を秘めた固い決意を孕んだ表情で。
「……チッ。分かってる」
それを聞いたレオンは短く舌打ちをした。
そして彼もまた、何かを思い出したかのように表情が一風していた。
まるで猛る肉食獣のように深い殺意の籠った眼で遠くを睨んでいた。
彼らの周囲に、息の詰まるほど重苦しい雰囲気が漂う。
先程までの穏やかな空気ではない。
——だがそんな中、普段と何ら変わらない表情で居座り続ける者もいた。
「二人とも辛気臭い顔はやめよう。先生への挨拶前だろ。……ほら、もう行こう」
リュージだった。
彼は唯一剣呑な雰囲気に吞まれる事なく、飽くまで普段通りの調子で言い切る。
「……ごめんなさい。行きましょうか」
アリスは自分の一言を発端として生まれた空気の悪さに謝罪しつつ立ち上がる。
しかし表情には微妙な感情を確かに残して。
「ああ」
そう言ってレオンも踵を返した。