刻の寓話 ~誕生日~
「朱鷺様~」
睡蓮が、朱鷺の御座所にひょっこりと顔をのぞかせた。
朱鷺が御簾を上げ琵琶を手に酒杯を傾けているのを見て、中に入ってくる。
酒杯を傾けているイコール今日の務めはもう終わっている、という判断らしい。
儀式の時はきっちりと結い上げる黒髪は背でひとつにまとめただけ。胡坐を組んでとっくりを片手にしているだらしない姿を見れば、そう思っても当然だ。
朱鷺の前に立つと、
「見てくださいませ、新しい衣」
白と淡い桃色の薄絹を何枚も重ねあわせ、ところどころ翡翠と金をあしらった豪華な衣装でくるりとまわって見せる。
頭には衣装と同じ紋章をあしらった金の簪。
長い裾とやわらかな白髪が、ふわりと揺れる。
若草色の瞳に合わせて作らせたらしい衣装と簪は、睡蓮に良く似合ってる。
「ふぅん…」
いたずらに朱鷺が琵琶の弦を弾くと、睡蓮は扇子を広げ音に合わせてステップを踏んだ。
桃色の霞がたなびくような、軽やかな舞。
「まあ、悪くはねぇな」
「わぁい」
睡蓮はうれしそうに顔を赤らめ、扇子で口元を隠して笑った。そのまま朱鷺の隣にちょこんと腰を下ろす。
「いや、ちょっと露出が足りねぇかな。ここらへんをちょちょいっと…」
いたずら心で白い足を覆う裾をたくし上げようとした朱鷺は、睡蓮からぺしんと手の甲を打たれた。
「やぁん、ダメです、そんなことしちゃ! これは、翠玉兄様がお誕生日にって送ってくださったんですから」
「あぁ? 誕生日ィ? 誰の?」
「睡蓮のですよぅ」
「いつだ?」
「今日です」
「……聞いてねぇし」
睡蓮は下を向き、くすんと鼻を鳴らした。
「朱鷺様ひどぉい…」
「い、いや、その…」
また、忘れたのか、と内心ひやりとする。
人や物に関する様々な記憶が抜け落ちていくのは朱鷺にとっては当たり前で、些末なことなど忘れる方がありがたいくらいだが…、これは覚えておきたい、と自分は考えなかっただろうか。
そう思いながらも、
「んな、どうでもいいこと、覚えてられっかよ」
口では、悪態をついてしまう。
言った後ですぐ、しまった、とひやりとしたが、うつむいていた睡蓮はくすくすと笑い出した。
「なーんちゃって」顔を上げて朱鷺に微笑みかけ「いいんです、お誕生日の話なんてしてませんもの。朱鷺様がご存じなくて当然です。朱鷺様のおそばにいられれば睡蓮は幸せだもの。なにもいりません」
「……」
本当に睡蓮が誕生日の話をしなかったのか、聞いたのに記憶から零れ落ちてしまったのか、朱鷺にはわからない。
どっちであったとしても、睡蓮は同じように微笑むのだろう。
そばにいることが幸せなのだ、と。
「ねぇ、朱鷺様、そんなことより雲船か妖狐で、水仙境の滝つぼに銀華草を見に行きませんか? 今日は産卵の日なのですって、爺やに教えてもらいました。きっとすごく綺麗ですよ」
「…いや、そういうわけにはいかねぇ」
朱鷺の脳裏に、翠玉のすまし顔が浮かぶ。
睡蓮との婚儀の席で、隙を見計らい、祝いとは思えぬ言葉を朱鷺にだけ聞こえるように耳打ちした時の、牽制ともつかないいけ好かない態度。
水神が末娘を溺愛しているというのは、知らぬものがないほど有名な話だが、その息子で睡蓮の兄である翠玉も妹を過剰に可愛がっているらしい。
押しかけてきたのは睡蓮とはいえ、しきたりを破って強引に婚儀を取り結んだ朱鷺を毛嫌いしていて、綺麗な顔に似合わぬ嫌がらせを常に忘れない。
“刻守の王”としてふるまうことに馴れた朱鷺が、久しぶりに感じた苛立ちが、ふつふつと腹の奥によみがえる。
(あいつに負けられっか!)
「朱鷺様?」
訝しげに睡蓮が首をかしげる。
「今、何刻だ?」
「えっとぉ」
返事を待たずに、
「まだ時間はあるな? ちょっとそこで待ってろ」
言うが早いか琵琶を投げ捨て、部屋から飛び出して行った。
「朱鷺様!」
慌てて睡蓮が後を追う。
表に出た朱鷺は、従者を待たず指笛で妖狐を呼びつけ、ひらりと背中に飛び乗った。
見る間に空を駆けあがっていく。
「朱鷺様! 待って! 置いて行かないでくださいませ」
睡蓮の声が届くはずもなく、妖狐の姿は遠く離れていった。
「すん。朱鷺様行っちゃった。睡蓮、新しい衣で朱鷺様と銀華草を見に行きたかっただけなのに…」
しょんぼりと肩を落として、今度こそ本当にくすんと鼻を鳴らす。
一緒にいられるのならどこでもよかったのだ。
星海を渡りに行くのでも、銀華草を見に行くのでも、風鈴蝶の羽音を聞きに行くのでも。
睡蓮のことでさえ時に寄せ付けなくなる朱鷺の側にいるために、新しい衣に託けただけだった。
(お誕生日なんて言わなきゃよかったな…)
なんだかひどくさみしくて、睡蓮は細い指の背を眦にあてた。
「…見に行かねぇなんて言ってねぇだろーが」
声が急に降って湧いた。
「え?」
顔を上げると、目の前に怒ったように唇を引き結んだ朱鷺の姿があった。
先ほど妖狐で空を駆けあがって行った朱鷺が、どうして目の前にいるのかわからず、あたふたする。
「えぇ? 朱鷺様? だって、さっき…」
「ほらよ」
朱鷺は、背中に抱えていた人の背丈ほどもある大きな青い花を睡蓮に差し出した。
水滴を纏った茎と葉は翡翠のように輝き、天鵞絨のような花弁は光りを集めて虹色の光沢を放っている。
「わぁ綺麗…!」
大きいのに小鳥の羽ほどの重さしかない不思議な花を受け取り、珊瑚色の花芯に鼻を近づける。
「それにいい匂い。私、こんな綺麗な花初めて見ました」
「誰が摘んできたと思ってるんだ。それくらい当たり前だろ」
天界にしか咲かないその花を手に入れるため、門番とひと悶着を起こした挙句空間と時間を捻じ曲げて帰ってきたことはおくびにも出さず朱鷺。
「朱鷺様ってすごい…。ありがとうございます。とっても嬉しい。睡蓮、こんな素敵なプレゼント初めていただきました」
睡蓮が花を抱きしめて幸せそうに微笑む。
「ふん。たいしたことねぇよ」
朱鷺は、怒ったような表情のまま、ふんっとそっぽを向いた。
珍しく照れている様子の朱鷺を見て、睡蓮がくすりと笑う。
「笑ってんじゃねぇ! ほら、行くぞ!」
妖狐の背に乗ったまま睡蓮に手を差し出す。
「ん?」
「水仙境に行きたいんだろ?」
「あ、はい」
睡蓮はうれしそうに朱鷺の手に手のひらを重ねた。
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