act.8
ごうごうと闇が鳴っている。空気が渦巻いている。あの、低級の魔物を祓った時のリューの声以上に清浄で、そうして無条件に身を伏せたくなるほどの静謐さをたたえて。
その中で。それでもジンはやっとの思いで口を開いた。
「お前は……誰、だ?」
少なくともソラではない。直感的にそう思う。ならばリューの言うとおり、ヨルという別の人物なのか。
だが……ならばヨルとは誰だ? どうしてソラと同じ顔をしている? そんな警戒混じりのジンの疑問を見透かしたようだ。振り返ったヨルが淡く微笑む。
「案じずともよい。我は所詮、仮の者なのでな」
「仮の者……?」
「ソラの体を借りているだけ、ということだ……『騎士』の末裔よ」
「!」
ヨルの最後の言葉に、ジンは僅かに目を見開いた。彼の正体が何なのか。そんな疑問を押しのけてしまうほどの衝撃が走る。
「それは……どうして……」
言っていなかったはずだ。ソラどころかこの村の誰にも。
言わなかった、のではなく、言えなかった、と言った方が正しいのだけれど。
自分こそが、この国唯一の『騎士』であるということ。
隠していた事実。自身も目をそらしていた現実。それに小さく体を震わせるジンの耳に、ヨルの厳かな声が届く。
「……怖れを抱くか。だが、それではその剣は汝に応えはせぬ」
その言葉に、ジンははっと顔を上げた。見れば、僅かに目を細めたヨルが小さく肩を竦める。
「怖れることは悪いことではない。だが、怖れて立ち止まる者にその剣が道を示すはずもない」
「……この剣のことを知っているのか?」
「多少は……だがお主には到底及ばぬ。我だけではない。この世界中の誰も」
ひどく謎めいた言葉に、馬鹿な、とジンは思う。そんな筈はない、とも。
自分が一番この剣のことを知っている、なんて。
剣のことを知るどころか、抜くことさえ出来ないのに。
この、剣のことをよく知るのはきっと、剣に詳しい人のはずで。
ならふさわしいのは、自分じゃない……自分なんかじゃなくて。
グオォォォォォォォォン――
そこで魔物が一際低い声を上げ、夜空に飛び立った。巻立つ風に驚いてジンが目で追えば、魔物の背中の方で淀んだ黒が渦巻いて羽のような形を成しているのが見える。
でたらめだ。唖然としたジンはそう思うが、ヨルは少しも気にしていないようだった。
「話は終いのようだな」
言いながら、ヨルがジンに背を向け、空中で威嚇するように吠える魔物を見据えた。
凛とした、空気が漂う。清浄なる闇が応じるようにヨルの足元で渦巻く。
「さぁ、立ち去れ。これは我が相手しよう」
静かだが有無を言わせない口調だ。それに自然とジンはディアドラを伴って立ち上がるが、リューは項垂れて立ち尽くしたままだ。
ヨルが、それに気付く。
そうして困ったように目元を緩めた。
「……信用できぬか。幼き者よ」
「……う……」
途方に暮れたような小さな声を上げて、リューが伸ばしかけた腕を力なく下ろした。
小さく、首を振る。そうじゃないと言いたげに。けれどまた、それ以上に、何か別のことを言いたそうにして。
「……リューは……」
「言わずともよい」
おずおずとしたリューの言葉を静かに制したヨルは、彼女の小さな頭にそっと手を置いた。
「大丈夫だ。汝と我の志は同じ。この子は必ず護ってみせよう」
「…………」
穏やかなヨルの言葉にリューがきゅっと唇を噛み締め、己の服の裾を耐えるかのように掴む。
「……あい」
やがて小さく返事があった。自分の中の何もかもを押し込めたかのような小さなリューの返事が。
それにヨルは済まなさそうな顔をし、それでも今度は何も言わないで手を離す。そのまま一歩踏み出す。
では、と軽やかに口を動かして。
「参ろうか」
口元に微笑みを浮かべてヨルが呟く。その言葉が終わるやいなや、闇が空気を鳴らして渦巻いた。
「っ……!?」
視界いっぱい埋め尽くさんほどの黒。それに反射的にジンは腕をかざし……次に気付いた時にはヨルもまた、夜空に体を踊らせていた。
***
「――闇よ、彼の者を捕らえよ」
小さく呟く。そうして右手を横薙ぎにはらう。
その瞬間だ。涼やかに鳴り響く鈴の音を合図に渦巻いていた闇が勢い良く飛び出し、空を舞う魔物へと襲いかかる。
が。
ガアアアアアッ――!
魔物が猛々しく吠えた。途端、周囲で渦巻いていた濁った黒が霧のごとく飛び出し、闇を押しとどめる。
鈍い音。手応え。拮抗する闇と黒。それにけれど動じるでもなく、ヨルは小さく鼻を鳴らした。
まるで空中に地面でもあるかのように平然と立ち、闇夜に白銀の髪をなびかせながら。
「我の闇を阻むというのか? その程度の穢らわしい黒で?」
笑わせてくれる。己の攻撃を防ごうとするその行為も。そうして不完全な存在で、自分と同じく……けれどはるかに及ばない『闇』を使おうとしていることも。
「愚弄するなよ! 闇はかくあるべきものだ……!」
闇よ、侵食せよ。
その一言に応じるかのように闇がその色の深みを増す。競り合っていた黒が徐々に闇に押され始める。魔物が狼狽の声を上げる。
単純に黒が闇に押されているからではない。魔物の濁った黒が、次々とヨルの操る純粋な闇へと変わっていたからだ。
それはまさしく、夕空を塗り替える夜闇が如く。
「大人しく立ち去れ。されば、見逃してやらぬこともない」
闇が勢力を増して魔物を押し始める。ヨルが平然と魔物に向かって足を進める度、魔物がじりじりと後ろへ下がっていく。今や黒は魔物の体の周りをうっすらと覆う程度だ。
最後のなけなしの防壁。それでも魔物がヨルの言葉に苛立たしげに吠え。
それにヨルは、そうか、と肩を竦めた。
「残念だ」
闇よ、押し潰せ。
ヨルが謳うかのように呟いた瞬間、閃いた闇が魔物を森の中へたたき落とした。
グガアアアアアアッ……!?
ドンッという衝撃音。激しく空気が動く。木々が折れる。もうもうと立ち上がる粉塵。
それが晴れれば、闇に体躯を覆われ、まるで強大な力で地面に押し付けられているかのように必死にもがく魔物の姿がある。
「動けまいよ……それには重さを与えたからな」
そんな無様この上ない魔物の様を、ヨルは冷たく空中から見下ろした。
『闇』。それは光と相反するもの。一日の終わりに訪れる絶対的な時間。誰しもが必ず抱えている心の底。黒であり、影であり、夜である……そんな『闇』が司るは”侵食”と”重さ”
――その両方を使いこなして、闇夜を統べる彼は、そこですい、と瞳を細めた。
「――それにしても、妙だ」
そう、静かに呟いたのは、魔物の姿がヨルの知るあるものとどこか似ていたからだ。
正確に言えば、濁った黒の鱗で覆われ、血のごとき汚れた赤の瞳を爛々と光らせる頭部が。
この世界で最も高位な聖獣。原始を統べるもの。高潔にしてあまねく全てを支配する獣。ただ一人の人間と契を交わし、これを祝福して力を授ける存在。
――すなわち<龍>と、酷似していて。
「……馬鹿な」
そんなはずはない。自分の考えをヨルは一笑した。あぁ確かに頭は<龍>にそっくりだろう。けれどそれが一体なんだというのか。こんな愚鈍な体つきを、<龍>がしているはずもない。まして自分ごときに敗れるなんて。
そう思う。否定する。それで十分のはずだった。<龍>のことは誰よりも知っているのだから。だからこそ、これ以上に疑問に思うことなどないはずで。
ないはず、なのに。
どうして、この出来損ないの魔物に見覚えがあると……そんな気持ちに、自分は……。
――ふふっ……なかなかどうして、それは気のせいではあるまいよ。
それは、不意にどこからともなく響いた。
ヨルがはっと顔を上げる、音の正体は姿なき声。
軽やかな。
艷やかな。
妖しく。
そしてどこまでも……『強欲』に。
「お前は……っ、」
――久しいのう……! 闇の!!
ヨルが瞠目する、その瞬間、彼の視界は反転する。




