act.14.5 はじまる、前の夜
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牢から出されたソラは、人気のない大通りを歩く。
夜も随分ふけていた。家々の軒先にかけられた灯籠の明かりは、今にも消えてしまいそうなほど頼りない。
聞こえるのはソラの足音と、街中を流れる川のせせらぎだけだ。ひどく静かで、静かすぎて、それでも今のソラにはありがたかった。
与えられた時間は三日だ。その三日の間にどうすればいいのか。
ルイスに会う。彼をハールーンの元へ連れて行く。そうしてリュー達を助ける。
その一方で、ハールーンを出しぬいて、アリスを助けなければならない。
女王とハールーンにアリスを助けるよう頼む……のは、どう考えても無理だろう。
かといって、女王と戦うのはもっと無理だ。勝算なんてない。
じゃあいっそ、もう一回王城に忍び込んで、リュー達を助けて、アリスも一緒に水の国を出るとか……?
だからそれが出来れば苦労ないんだってば。自分に自分でつっこんで、ソラは宿にたどり着いた。
振り仰げば、晴れ渡った夜空に幾つもの星が瞬いている。
こっちは少しだって気が晴れないというのに。
八つ当たり気味に深い溜息をついたソラは、窓の一つに灯りが灯っているのに気付いた。
夜もずいぶん遅い。誰も彼も寝しずまっているはずの時間帯のはずだが。
首を傾げたソラは宿に入り、階段を登る。
そして立ち止まった。
真っ暗な廊下に細い光の筋が一つ。あそこはたしか……共同の台所だっただろうか。こんな時間に誰が起きているのだろう。なんとなくそれが気になって、台所を覗き込んだソラは固まった。
「あ……えっと……」
「……なんなのです」
台所のテーブルには山積みの書物が並べられていた。その山に挟まれて、不機嫌そうに顔を上げたのはアリスだ。
この宿は警備兵たちのための宿舎の役割を果たしている。アリスがこの宿に泊まっていることも知っていた。
けれど、まさかこの時間帯にアリスに会えるとは思ってもいなくて。
「もう、帰って来たんですか」
口火を切ったのはアリスだった。うん、まぁ、とソラがまごつきながら返事をすると、アリスは一つ息をつき、立ち上がる。
「なんなのです? 歯切れが悪いのですよ?」
「や……そんなことより、アリスは何をしてたの?」
「何をって、仕事ですけど」
そう言いながら、アリスはポットを手に取った。紅茶飲みます? そう問われて、ソラは反射的に頷く。
「あ、ありがとう」
「立ってないで、座りやがれなのです」
「う、ん……」
「…………」
「……ええと、アリス?」
「なんです?」
「その……仕事って、こんな時間までしてるの?」
「毎日のことなのです」
「でも、寝ないといけないんじゃ」
「人間なら、まあそうでしょうね」
そうとだけ、答えたアリスは湯気の立つカップをソラに手渡した。
「まあ何はともあれ、出所おめでとう、なのです。どんな方法使って出たかは知りませんけどね?」
「……一言余計だよ」
なんとかそれだけ絞り出したソラに、アリスは小さく笑う。
カップを打ちつけた。乾杯、だなんて、そう言って。
ソラはカップを両手で包む。水面に映る自分は頼りない顔をしていた。
小さく首を振り、目を背けるように顔を上げる。
「その……アリスはさ、なんでそんなに仕事頑張るの?」
「なんなのです? いきなり」
「なにって……なんとなくだよ」
「うーん……諦めたくないからですかね?」
「何を?」
ソラの向かいに座ったアリスが少し黙りこんだ。
カップから立つ湯気が、少しだけ揺れる。
「ルイス・キャロルに、認めてもらうことを、なのです」
「…………」
「あはは! 何を妙な顔してやがるのです?」
からりと笑ったアリスはカップを机に置き頬杖をついた。
だって、腹が立つじゃないですか、と。少しばかり頬を膨らませて言う。
「会う度に娘じゃない、だの、とっとと帰れ、だの言いやがるのですよ? それならもういっそ、何も言えなくなるくらいに完璧になって見返してやるのです」
「完璧って……だから何でもかんでも仕事やってるの?」
「その通り。完璧になった私にぐうの音も出ないルイス・キャロル……フフフ……いま想像するだけでも胸が高鳴るってもんなのです」
……高笑いするアリスが想像できた。ソラは苦笑いする。アリスに軽く睨みつけられて、慌てて紅茶に口をつけてごまかす。
それでも、ほんの少しだけ、安心した。自分のよく知ってるアリスだ。そんな気がして。
あぁやっぱり僕が守らなきゃ。理由もなく、そう思いもして。
「何を妙な顔をしてやがるのです?」
「べつに、なんでもないよ」
「んんん? 超絶怪しいのです……」
「なんでもないってば。それより……仕事、手伝おうか?」
返事はすぐになかった。ソラが顔を上げると、アリスが目を丸くしている。
「……どういう風の吹き回しなのです?」
「ちょっと……さすがにそれは失礼すぎじゃない?」
「やっぱりなにか下心があるとしか」
「あのねえ……!」
流石に怒るよ? そう言いながらソラが椅子から腰を浮かせると、アリスが小さく噴き出した。
「ぷ、くくくっ……冗談なのですよ」
「……あのねぇ……」
深い溜息とともにソラはがっくりと肩を落とす。やっぱり、怒ってもいいだろうか。
そう思ったところで、目の前に崩れんばかりの書類の山を置かれた。
「と、言うわけで? 手伝うと言うからには全力でアテにするのですよ?」
「え……ちょ、多、」
「男に二言はないのですよね?」
ニコリ。いつもの含みのある微笑みを見せられて、ソラは頬を引き攣らせる。
ほんのすこしだけ引き受けたことを後悔する。
そんな夜は、それでも穏やかに過ぎていった。




