act.14
がたりと世界が動く音でソラは目を上げた。
薄暗い天井に格子模様の光の影が見えた。夕方、だろうか。のろのろと目を動かせば、鉄格子の嵌められた小さな窓が見える。外からは小鳥のさえずる微かな音がした。
わずかに湿り気を帯びた空気はお世辞にも気持ちのいいものではない。薄暗い中で身じろぎして横を向けば、同じように鉄格子の嵌められた壁が見える。
再び聞こえる鳥の鳴き声と、羽ばたきの音。
どこ、だろう、ここ。
牢屋?
ぼんやりソラはそう思う。
そう、思って。
跳ね起きた。
「っ、ジンとカイ、っは……っ!?」
王城にいたんじゃなかったのか。
シェヘラザードとハールーンと戦って、カイと逃げて、リューを探そうと思って、ジンに声をかけて。
「誰も居ないのですよ」
ソラの思考を遮って、ぶっきらぼうな声が飛んできた。
アリスだ。少し離れたところ、牢の外から、ソラをじっと見つめている。
夕日の光は微かに届くばかりで、彼女の表情に暗い影を起こしている。
ただ、その淡々とした声だけはよく聞こえた。
「王城への不法侵入の罪で、投獄中なのです。陛下の裁き待ちってとこですね。ご愁傷様」
「裁きって、そんな……! それに他の皆は……!」
「はっ! なにを被害者面してやがるです?」
アリスの声に冷ややかなものが混じった。
ソラは言葉に詰まる。
アリスは鼻を鳴らす。
「王城に勝手に入った挙句、女王陛下と水の龍に戦いを挑んだ。だから女王陛下は君を氷漬けにして裁きをくだされた……処刑されたって文句は言えねぇですよ」
「それは……でも! 僕達の話を聞いてくれたって!」
「あっは! どうせ勢いで乗り込んだだけのくせに、何を言い訳することがあると?」
「っ……」
ソラが唇を噛み締めてアリスを睨みつけると、彼女は呆れたように首を振った。
「やっぱり図星なのです……超だせぇのです」
「っ、な……! だ、ださいって……」
ソラが思わずぽかんと口を開ければ、アリスは冷めた目でソラを見つめた。
「考えもなしに王城に乗り込んだのでしょう」
「うっ……そ、それは……」
「それで誰も助けられずに戻ってきたと。それを『ださい』と言わずして、なんと言えば良いと?」
「う、うるさいな……! 僕だって色々考えて……!」
「色々考えてたら、考えなしに城に飛び込むなんてことしないのです」
「……っ、あぁもう分かったよ! 分かった! 僕が悪かった! ごめんなさい! これでいいだろ!」
「全然よくない!」
ガシャン、と鉄格子が大きな音を立てた。
投げやりに答えていたソラは思わず目を見開く。
アリスが鉄格子を両手で掴んでいた。ソラの方へ身を乗り出さんばかりだ。
彼女の橙色の目がソラを睨みつけている。
そこにいたって、ようやくソラはアリスがひどく怒っているということに気がついた。
ほんの少しの沈黙。自分の息遣いの音しか聞こえない。そんな沈黙の後、アリスがわずかの顔を歪ませる。
「可哀想だと、思わないのです? そんな中途半端な気持ちで助けに来られて、嬉しいと思うわけないじゃないですか」
「それは……」
「挙句失敗したのでしょう。考えなしに行動したせいで、もう二度と助けられないかもしれないのですよ?」
「……っ」
「ソラが謝るべきなのは、私じゃない。ソラが助けようとした人たちに、謝るべきなのです」
ソラの脳裏にジンの顔が浮かんで、リューの顔が浮かんだ。
行けない、と、今にも泣き出しそうにジンは叫んだ。
良かった、と、微かに笑ったリューは未だに目を覚まさない。
ソラは、顔を俯ける。
さっきよりずっと深く、じわりと滲んだ。
反省も。
後悔も。
「……そう、だね」
「わかればいいのです」
アリスが鼻を鳴らして、そっぽを向いた。
互いに口を閉ざせば、静寂が落ちる。
訪れた沈黙はひどく重い。
外では、急速に陽が落ちようとしていた。夜が始まる寸前、牢に差す光は細く弱くなっていく。
これから、どうなるんだろうか。不意に不安と後悔が胸の奥からにじみ出て、ソラは思わず体を縮こまらせた。
アリスの言う通りだ。もう少し考えてから動けばよかったのだ。というか、少しでもまともな思考があれば、あんな馬鹿な真似なんてしなかった。城に直接乗り込むなんて。
このまま、この国の片隅で、死ぬまで暮らす?
リュー達に、一生会えないまま?
そんな。そんなの。
「夢を、叶える方法は」
打ちひしがれていたソラは、思わずアリスの方に顔を向けた。
彼女はほんの少しそっぽを俯けていた。
それでも、言葉は続く。
「何があっても諦めないことなのです。諦めるってことは、考えるのをやめるってことだから。考えるのをやめた時点で、何も生まれなくなってしまうのです」
「諦め、ない」
「夢を見つけるのも、夢を目指すのも、夢を諦めるのも、全部全部、自分が原因なのです。だから……夢を叶えることができるのも、自分しかいない。少なくとも、私はそう思うのです」
アリスが顔を動かす。
ソラの方を見た。
夕焼けにも似た、優しい橙色の瞳がソラを映す。
「ソラの、叶えたい願いは何なのです?」
叶えたい願い。
そんなの、考えるまでもなく明らかだった。
「……リュー達に、会いたいんだ。会って、助けたい」
「えぇ」
「でも、どうすればいいのか分からない、し……」
「じゃあ諦めるのです?」
「それは、」
たった一言、言うのにも時間がかかった。それでもソラは拳を握りしめ、息を少し吸って。
「……諦めたくは、ないんだ」
顔を上げる。蒼の瞳でアリスを見つめる。
そうすれば、アリスは小さく微笑んだ。
「なら、大丈夫なのです。その気持ちを忘れないことなのです。何があっても」
用は済んだと言わんばかりにアリスはくるりと踵を返す。ソラは思わず鉄格子に駆け寄った。
「あ、ちょっと……!」
「なんなのです?」
「その! アリスはなんでこんなところまで来てくれたの?」
暗闇の中、振り返ったアリスの眉根が少しばかりひそめられた。
「……まぁ、その。今回の件は、少しばかり私にも非があるかな、と思ったからなのです。どうせ今朝、私と話したのが原因なのでしょう」
「それは……」
「だからといって、勢いで突っ走ったのも、ヘマやらかしたのも、全部ソラのせいなのですけどね? 私の責任といったら、そうですねぇ……100ある内の10? いや1? うーん、0.001くらい?」
「さ、サヨウデスカ……」
にやりといつも通りの笑みをアリスが浮かべる。
多分、からかわれている。そう思って、ソラはほんの少し疲れを覚えて。でも、少し、ほっとしたような感じもして。
「アリス」
「まだなにか?」
「その……ありがとう」
「ありがとう?」
「ここに来て……それから励ましてくれて」
アリスはほんの少し目を丸くした。
それから、ふいと顔をそむける。ほんの少し頬を赤くして。
「……そ、そういうのは全部上手くいってから言いやがれなのです」
「そういうもの、なのかな?」
「そういうものなのです! せいぜい足掻きやがればいいのです!」
早口で言って、アリスは踵を返して走り去ってしまった。ソラが止める間もなく。
いや、待って。いまなにか変なこと言っただろうか。ソラは目を瞬かせる。
けれど、深く考える余裕はなかった。
アリスが去っていった方向から足音。
けれど暗闇の中から姿を現したのは彼女ではない。
「理解、しがてぇな」
「ハールーン……何しに」
ソラは顔をしかめた。
そんな視線も物ともせず、ハールーンはだらしなく着崩した服の裾を揺らし、牢の前で足を止める。
ひどく凪いだ目でソラを見据える。
「理解しがてぇ。人間はいつも感情で動く。なんの知識もなく。けど、それで一体何をなしうるっていうんだ?」
「どういう、意味だよ」
「あの人形女に何を炊きつけられた?」
棘のある言い方に、ソラはハールーンを睨みつけた。
「別に何も……それにアリスはアリスだ。そういう言い方、しないで欲しいんだけど」
ハールーンの眉が跳ね上がった。
「この期に及んで、まだ龍に楯突こうとはな……いいだろう、気が変わった」
「気が変わった?」
「大昔の物語に、とある罪人の話がある」
「は?」
ソラが戸惑う中、ハールーンはソラを見据えたまま、滔々と語り出す。
むかしむかし、あるところに一人の罪人がいた、と。
「罪人は処刑されることが決まっていたが、奴にはたった一人の妹がいて、しかも結婚式間近だった。そこで、罪人は懇願した。せめて死ぬ前に妹の結婚式だけでも見させてくれ、と。それで奴は一時的に釈放された。親友を人質に置いて、処刑が行われる当日までには必ず戻ってくる、っていう約束の上で……お前、この話どう思う?」
「どうって、聞かれても……」
「俺はな、馬鹿げた話だと思ってる。しかしまぁ、この話から得られる教訓ってやつは、なかなか的を得ていてな」
「教訓?」
「そ。シェラの奴がうるせぇんだよ。『お前には知識はあるが知恵はない』ってな。だからそう……この話の教訓を実践してみようと思ったってわけだ」
瑠璃色の瞳が猛禽類のように細められる。
嫌な予感がしてソラは眉根を寄せた。
「実践、って、なんだよ」
「ルイス・キャロル。この名前、知ってるよな?」
「……アリスの」
父親。あるいは『アリス』という本を書いた作者。どちらで呼ぶべきか迷って、ソラは口ごもった。
ハールーンは小さく鼻を鳴らす。
「三日後に、この国は女王即位二十年を迎える。その日に行われる式典にルイスを連れて来い。そしたらお前の罪をなかったことにしてやる」
「それだけで?」
「そ、簡単だろ? ちなみに、この話を受けなかった場合は、お前はめでたく処刑ってわけだ」
「そんな……」
戸惑うソラに、にやりとハールーンが笑った。
「連れてきたら、こっから出してやるよ。処刑の話もなし」
「連れてきたら、って……そもそも閉じ込められてるんだから探しに行けるわけないじゃないか」
「こっから三日間は特例で出してやるよ。俺が言えば、それくらい造作ない」
「逃げるとか、思わないわけ」
「そうだな。その通り。だが、だからこその罪人の男の教訓さ……『人質は有効だ』っていうな?」
お前の大切な人がどうなっても知らないぜ? 満面の笑みでそう言葉を続けたハールーンにソラは奥歯を噛み締めた。
それでも、拒否権がないことは明白だった。
「…………なんのために、連れてくるんだよ」
「シェラが会いたがってるからだよ」
「……それだけ?」
なにか確信があった訳じゃなかった。それでもソラが念を押すように尋ねれば、ハールーンが笑う。
そしてぐっと声を潜めた。
「俺も詳しくは知らねぇが……あの男には竜に関わった容疑がかけられてる。シェラが会いたがってんのも、きっとそのせいだ」
ソラは目を丸くした。
「ど、どういうことだよ? 竜と関わるって……」
「言っとくが、お前が今まで見てきたでかい魔物の方じゃねぇぞ。恐らくは本体の方だ。だからこそ、もっとタチが悪いんだがな」
「タチが悪い?」
「龍に似た魔物の方は、いわば竜の眷属だ。竜の本体の方は、人間の強い望みに惹かれて姿を現す。契約すれば、ありとあらゆる願いと望みを叶える……願いの数と同じだけの命と引き換えに」
「…………」
「さらに悪い事に、竜と契約できる人間は一人じゃないってことだ。しかも揃いもそろって、どっかぶっ飛んでる。ま、そうでもなけりゃ、誰かの命を犠牲に願いを叶えようだなんて思わないわけだがな」
「……そんな竜と、ルイスは契約してるってこと?」
「十中八九。だって、そうだろ?」
そうじゃなけりゃ、なんでただの人形が人間みたいに動けるっていうんだ。
さも当然のようにハールーンが告げた言葉。その言葉が示す意味に気がついて、ソラは目を見開いた。
思わず一歩後ずさる。
ハールーンが不審げな眼差しでソラを見つめる。
「なに驚いてんだよ? ちょっと考えりゃ分かるじゃねぇか」
「それは……でも! 魔法とか!」
「命を生み出す魔法なんて聞いたこともねぇ……それこそ、どっかの馬鹿が竜に願わない限りな」
「っ……! じゃ、じゃあ……もしルイスが竜と関わってたら……アリスは……」
「壊す」
ひどく簡潔で、だからこそ残酷な言葉だった。ソラの全身から血の気が引く。体が震える。
牢から出て、リュー達に会うためには、ハールーンの依頼を受けねばならない。
けれどもしもルイスが竜と関わっていたら。
アリスは壊される。殺される。
自分が選んだ、その選択のせいで……?
――夢を叶える、方法は
唐突に、ソラの脳裏にアリスの声が響いた。橙色の瞳を思い出す。
優しい色。
竜の瞳とは似ても似つかぬ綺麗な色。
「…………」
ソラは静かに息を吸って吐いた。体の震えが止まる。
そうだ、簡単なことだ。
アリスがさっき教えてくれたじゃないか。
大切なのは。大切なことは。
「……分かった。その話、引き受ける」
顔を上げ、まっすぐにハールーンの顔を見据えてソラは返す。
大切なのは、諦めないこと。
だというのならば、やってやる。
自分が、リューたちも、アリスも助けるんだ。




