act.13
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一週間後に開催される水の国イシュカの王、シェヘラザード女王即位二十周年記念式典。
各国から要人が招かれ、女王へ挨拶する。
水の国イシュカの伝統文芸の披露、国内有数の吟遊詩人による詩吟の朗詠。
三日間に渡る式典の間は、連日女王主催の夜会が開催され、王城の広間にてダンスパーティーも行われる。
ということは、警備に必要な人数は王城にくまなく配置するために百人必要だ。それに、街中の警備も強化する必要があると考えると、常に三十人体制で四時間毎に交代させて……
――なんだよ、その言い方。こっちはアリスのこと心配してるのに!
「……っ、あぁもう!! なんなのです!」
朝のソラとのやりとりを思い出して、アリスは書類片手に身を投げだした。
広場のベンチだ。昼過ぎということもあって、人通りは多い。いきなり大声を上げた彼女を怪しがる視線が突き刺さるが、そんなことに構ってられなかった。
なんてったって、ソラが悪い。
心配してるのに、ってそんな言い方はないだろう!
いや、百歩譲って、そういう気持ちはありがたく受け取るとしても、もう少し言い方とか……。
「……はぁ、なんで言っちゃたんですかね、私……」
アリスは快晴の空を見つめながら、深々とため息をついた。
自分が人形だなんて。普段の自分なら絶対に言い出さなかった。隠すつもりもなかったが、進んで口に出したい事実でもない。そのはずだった。
あぁでも、あの場は仕方なかったのかもしれない。ソラはルイスに襲われようとしていた。あの日は夕暮れで、少し薄暗くもあった。そのせいで、彼はソラとアリスを見間違えたのだ。
ルイスはアリスを嫌っている。それこそ、顔を合わせれば暴力を振るってくる程度には。理由は簡単だ。
アリスが人形だから。
本物ではない、偽物。だからこそ、人形嫌いのルイスは、人形のアリスと人間のソラを間違えて攻撃した。そのことを説明するためには、アリスが人形であることをソラに言わざるを得ない状況だった。
アリスは眉をしかめる。
「そう、ですよね……そうなのです。どう考えたって、あれは状況が悪かった訳で……!」
「お姉さん、お姉さん」
「こっちとしては、とっとと終わらせたかったのに、今朝になってもソラが女々しく聞いてくるから……!」
「お姉さんってば!」
「っ、きゃあっ!?」
いきなり肩を叩かれて、驚いたアリスは座っていたベンチから滑り落ちた。
その拍子に、思い切りベンチの角で頭を打つ。痛くはないが、思わず頭を押さえて呻けば、心配そうな声と共に、影が落ちた。
「お姉さん? 大丈夫かしら?」
「あ、はははっ、ありがとうございますなのです……」
苦笑いを浮かべて、差し出された手を掴んで立ち上がる。
アリスに声をかけたのは、一人の少女だった。背中まで届くくすんだ茶色の髪。同じ色の瞳は、心配そうな色を宿している。口元には可愛らしいほくろが一つ。
旅人なのだろう。身なりはいいが、少しばかりくたびれたフードをまとっている。
「あの……これ、あなたの落し物だと思うのだけれど」
そんな少女は、アリスに向かって紙切れを差し出した。見ればそれは、先ほどアリスが格闘していた、一週間後の式典の警備計画表だ。
十分すぎるほどに重大な機密情報に、アリスは慌てて書類を受け取る。
「わわっ……す、すみませんなのです……!」
「良いですけど……近々何か式典でもあるんですか?」
「まっ、まっさか〜! ちょ、ちょっとしたお誕生日会みたいなものなのですよ〜やだなぁ〜」
「ふうん……?」
「え、えっと、何か変なものでもついてます……?」
少女の探るような視線に白々しい笑みを浮かべながらアリスは首をかしげる。
人間なら背筋を嫌な汗がダラダラと伝っていたことだろう。
少女は小首を傾げる。
「あなた……」
「は、はい!」
「何か心配事でもあるのではなくて?」
「へ?」
「だって、先ほどから一人で大声をあげたり、ブツブツ何か言ってらっしゃったでしょう。具合が悪いのなら、お医者様を呼んできましょうか?」
少女は本気で心配そうな目をしている。それにアリスはほっと胸を撫で下ろした。
どころか、少しでも少女を疑ってしまった自分を殴りたくなった。
「あ、あははは! すみませんなのです! ちょっと考え事してただけで!」
「考え事? 悩み事ということかしら」
「え? えぇっとまぁそうというか……」
「ならば私が聞いて差し上げるわ! 一体どうなされたの? 意中の方が夜な夜な遊び歩いてらっしゃるとか? それとも永遠を誓った方が他の女に懸想してらっしゃるのかしら?」
「えええ?」
いや、なんでそんなドロドロしたのばっかなんだろう。アリスが混乱する間も無く、やや興奮気味の少女はベンチに腰掛け、アリスを座るよう促した。
バンバン、と椅子を少々乱暴に叩いて、だ。
そうなってしまえば、どうしようもない。渋々アリスが隣に座ると、少女は身を乗り出してきた。
「で!? 実際のところどうなのかしら!?」
「い、いや、どうって……ええと……」
少女の真剣な目に押されて、アリスは必死に頭を巡らせた。
「や、その、ちょっと同僚と……いや、パシリと喧嘩したというかですね……」
「まぁ、喧嘩を?」
「そう、なのです。いや、でも向こうが言ってることは全然悪くないのですよ? ただ、私は昨日で終わらせたかった話を、今日も引きずってくるから、なんかイラッとしたと言いますか……」
「なるほど! つまり貴女の殿方は昨日の夜の話を引きずってきて……今日もその……昨日の感想を求めてきたと……」
少女が顔を真っ赤にした。
いやちょっと待て。何を想像したんだ。
「あ、あの! 何を考えてるのかは分かりませんが、全然やましいことは何も、」
「愛ですわ!」
「は、はい?」
「っは! 失礼しました……私としたことが取り乱してしまいましたわ……」
ぶるりと頭を震わせた後、少女は一つ咳払いをして、アリスの方を向き直った。
「お姉さん、それは貴女のことを心配して、なのですわ」
「し、心配?」
「えぇ、そうです。殿方というのは、実に不器用な生き物なのですわ。きっと、昨晩の夜に貴女がご無理をされてなかったか、そのことを案じてらっしゃったのでしょう。けれど……えぇ、これは経験の少ない殿方ほどその傾向にあるのですが……往々にして男という生き物は女の機微を分かっていないものなのです。貴女の殿方のように執拗に聞いてきたり、あるいは直接的に聞いてきたり……」
「ええと、あの……なぜそこで顔を赤くして、」
「それでも! 彼らが私たちのことを案じていることには違いないのですわ!」
「心配……」
ーーこっちはアリスのこと心配してるってのに!
ソラの声が、アリスの脳裏にもう一度響いて消えた。同時に、アリスの中でストンと何かが落ちて、彼女は小さく吹き出す。
あぁそうか、だなんて。つまり彼は自分のことを心配していて、でもそれを表現するのが下手なのかと。
なんか、いかにも彼らしい。そうだ、だってそうじゃないか。ソラは役所に行って仕事がもらえないくらい、対人能力が最悪というか。口を開けば、愛想がないことばっかり言っていた。
それでも、ここ一ヶ月で少しはマシになったけれど。
それが、悪くないかな、とも思っていた訳で。
アリスは微笑んだ。
「まぁ、絶対に付き合いたいとは思わないですが」
「お姉さん?」
「あ、いや、こちらの話なのですよ……そんなことより、ありがとうございますなのです。おかげで、少し楽になった気がするのです」
「まぁ。私なんかでお役に立てて嬉しいですわ。それに……そうね、そろそろいい時間ですわね」
「時間……? あ! もしかして、どこかへ旅立つ直前だったのですか? それなら申し訳ないことを……」
「えぇ、確かに私もそうですけれど……どちらかといえば、貴女の時間ではないかしら?」
「え?」
その時になって、アリスは気づいた。
いつの間にか広場に人気がなくなっていること。
自分と少女しかいないこと。
人の気配どころか、小鳥のさえずりも、聞こえないこと。
「え、え……?」
戸惑うアリスをよそに、立ち上がった少女はスカートをつまんで綺麗にお辞儀する。
「それでは、またどこかでお会いしましょう……私の可愛い人形さん」
少女はニコリと微笑んだ。
茶色であるはずの瞳に、穢れた血のごとき光を宿らせてーー
「お嬢さん!」
男の鋭い声にアリスは目を見開いた。空気が震え、音が一斉に飛び込んでくる。
話し声、行き交う人々の足音、小鳥の鳴き声……慣れ親しんだ空気だ。手には握った書類そのまま。
じゃあ、今までのは全部夢だったのだろうか。
夢? 人形である自分は眠ることさえ必要ないのに?
ベンチに座ってアリスが一人混乱していると、声をかけてくれた銀灰色の髪の男は薄汚れた眼鏡の向こうで、気遣わしげに目を細めた。
「大丈夫かい? 随分うなされてたみたいだが……」
「大丈夫、じゃないかもしれないのです……」
正直、もう帰って休んだ方がいいかもしれないと思った。そんな気持ちは生まれて初めてだったが、心の底からアリスはそう思って。
だが。
「見つけたぞ! アリス・リデル!」
名前を呼ばれて顔を上げる。人ごみをかきわけて王城の兵士が走ってくるのが見えた。
なんだか嫌な予感がした。
それでも現実は疲れたアリスに容赦なかった。
駆け寄ってきた兵士は険しい顔でアリスに話しかける。
「お前の部下が王城への無断侵入の罪に問われている。事情聴取のためにご同行願おうか?」
***
「実に忙しない。やはり育て方の違いは如実に現れるな」
「やーね。あなたはほとんど子育てしてなかったでしょ!」
アリスが慌ただしく去っていく。その背を見つめながら銀灰色の髪の男が呟けば、傍らに現れた少女は茶色の髪を揺らしてカラカラと笑った。
男は無表情で首を傾げる。
「見守ることも十分な子育てじゃないのかね?」
「そうねぇ。あなたに育てられたら、とんだ変人に育っちゃうわね」
「変人といえば、君の方こそおかしかっただろう」
「そう?」
「先ほどの話し方はなんだ」
「あれは、お忍びで下町に出てきた世間知らずなお嬢様、という設定よ? おかげで先生も良い夢は見れたでしょう?」
「その設定と夢見は些かも関係がないな」
「あら、つれない」
男が踵を返した。羽織っていた白衣が音を立てて翻る。
少女もふわりとスカートを揺らして彼を追いかける。
「ルクスからこっちに来たわけだけど……これからどうするの?」
「式典」
「式典?」
「水の国イシュカの女王、シェヘラザードの即位二十周年記念式典……そこの情報を欲しがる者なんていくらでもいる」
「情報をあげちゃうの? てっきり潜り込むだけだと思ったわ」
「騒動が起きれば、こちらとしても観測しやすくなる。女王は我々のことを嗅ぎまわっているようだが……逆にこちらが利用させて頂こう」
男は銀灰色の目を細めた。
少女は嗤う。
「あら、とっても悪い顔してるわね、先生?」
「君ほどではない。ディアドラ」
一人の男と一人の少女は他愛もなく会話する。
そして。
ふらりと広場の人混みの中に、かき消えた。




