act.12
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アディリティア。
シェヘラザードが呟いた言葉に、聞き耳をたてていたソラとカイは顔を見合わせた。
「アディリティアって……もしかしてノイシュさんが言ってた……?」
「だと、思うけど……」
不安げなカイの声に、ソラは頷いた。
思い出すのは、ルーサンとチモシーを助けに行った時のことだ。
仲間を倒され、追い詰められたノイシュが叫ぶ姿。
蒼い本を手に持って。
アディリティアと、そう叫んで。
そして、穢れた黒色と血の如き赤い瞳を持つ、竜が現れた。
ソラは顎に手を当てる。
「……ってことは、ノイシュが竜を喚び出したってこと……?」
「え、でも、そんなことできんのかよ?」
「それは分かんないけど……」
「面白そうな話をしてるじゃねぇか」
扉の外から響いた不機嫌な声に、ソラとカイは肩をすくめた。
二人揃って、ぎこちなく首を向ければ、部屋の入口に、腕を組んで立つ少年が見える。
「げ、ハールーン……」
「……ただの料理人見習いの分際で、俺の名を呼び捨てとは、いい度胸だ」
水の国イシュカの龍はピクリとこめかみを震わせ、唇を釣り上げた。
「お前ら二人とも、職務放棄の上にシェラの話を盗み聞きとはな……覚悟はできてんだろうな?」
「おうおう! なんだ! やろうってんなら受けてた、」
「馬鹿なこと言ってないで逃げるよ、カイ!」
「ちょっ、ソラ!? なんでだよっ、ぐえ!?」
喚くカイの襟首を掴んでソラはかけ出した。
出口はもちろん一つだ。
カイの顔が青ざめた。
「え、ちょ、待てソラ! ま、まさか窓から飛び降りるとか言わないよな!?」
「それ以外に逃げ道ないだろ!?」
「逃げるんじゃなくて、戦えばいいじゃん!」
「龍相手に、何が出来るっていうんだよ!」
「それは!」
『水よ、彼の者を掬え!』
ハールーンの苛立たしげな声。その直後だ。
飛び降りようとした窓の外で、水柱が立つ。
水柱は、またたく間に拳のような形をした。
蛇のごとくゆらりと揺れ動き、ソラたち目掛けて振り下ろされる。
それにカイは悲鳴を上げ、ソラは奥歯を鳴らして。
「カイ、歯くいしばって!」
「い、いやいやいや! なんで窓の方に向かってんの!? なんか訳わからん手があるし! や、それ以前に俺高いとこ苦手だっ、てぇぇぇぇぇ!?」
カイを窓から放り出す。
ソラも空中に身を躍らせる。
刹那の間を置いて、窓に拳がぶつかった。
城壁に大砲がぶつかったような音。ガラスの割れる音。それらを響かせて。狙いを掠めた拳は破裂する。ただの水となって、庭に降り立ったソラ達に降り注ぐ。
万事休す--
上を見上げてソラは冷や汗をかく。
「これは夢これは夢これは夢……」
一方カイは、地面に尻餅をついたまま目を閉じてブツブツと呟いている。
怪我は、ないようだ。それにソラは一安心するが。
「ちょっと、カイ! ふざけたこと言ってないで立って!」
「はっはっはっ……なーにあわててんだよソラ? これは夢だろ? 夢なんだろ? そうだよな、高いとこから落ちるとかさ……」
「現実逃避してる場合じゃな、」
『水よ 流転しろ』
ハールーンの声。水が凍りつく澄んだ音。
ほとんど直感で、ソラは飛び退った。
その直後だ。カイとソラの間に刃のごとく切っ先の尖った氷の塊が突き立つ。
ちょうど、遠い目をしているカイの頬をわずかにかすめて。
カイの顔が驚愕で青ざめた。
「……夢じゃない、だと……?」
「馬鹿なこといってないで走る!」
ソラの声を合図に、二人はばらばらの方向に走りだした。
庭からはどんどん氷の塊が降ってくる。ハールーンの舌打ちとともに。
どうすれば。走り回りながら必死にソラは頭を巡らせた。
とにかくここから逃げなくては、いずれジリ貧だ。城の中にひとまず入らなければ。どのみち、一度城を出れば、もう二度と入れないだろう。なら、逃げながらリューとジンを探す必要がある。あぁけれど、中の方が追手が増えるんじゃないか--
「ソラ!」
その時だった。
声がした。
聞き慣れた、けれど久しく聞いてない声だった。
きっとそのせいだ。顔を上げ、声の主を見つけたソラは不覚にも少しだけ泣きそうになった。
「ジン!」
バルコニーから身を乗り出したジンは少しも変わっていない。
物言いたげな目をしていた。どうしてここに、だなんて今にも言い出しそうだ。ソラだって、話したいことは山ほどあった。が、逃げ回っているこの状況で、結局口をついて出てきたのはこの言葉だけだった。
「ジン、飛び降りて!」
「む……!?」
「逃げるんだよ! 一緒に! ここから! リューもこれから助けて、それで! また皆で一緒に…!」
「これはこれは、なかなか盛り上がる展開だな」
返事は、ジンの背後から聞こえた。
車いすに腰掛け、優雅に自分たちを見下ろす女性に、ソラは顔をしかめる。
「シェヘラザード……!」
「さしずめ、勇猛果敢なる騎士に助けられる囚われの姫、といったところかな? ジンよ」
「っ……」
ジンの顔が僅かに青ざめた。顔を俯ける。なにか、変だ。ソラは直感的に思った。
けれど逃げ回っているこの状況で、深く考える余裕はなく。
「ふざけてる場合じゃねぇぞ! シェラ!」
ハールーンが苛立ったようにシェヘラザードの方へ身を乗り出した。
対するシェヘラザードは澄ました顔で肩をすくめる。
「そうかね? 我が龍殿」
「そうだろ! こいつら、隠れてこそこそ盗み聞きしてたんだぞ! イシュカ国法第三十二条、盗聴罪違反だ!」
「成程。その主張はもっともだが、この状況で再会を邪魔するというのも無粋だな……」
「っ、シェラ!」
ハールーンが焦ったように声を上げる。シェヘラザードは思案するように目を閉じる。
術者が動揺したせいか、氷の塊が降り注ぐのも止まった。
そのせいもあってだ。
ソラもカイも、同じことを期待した。期待してしまった。
が。
「――まぁ、ここで素人二人に逃げられたとあっては、王宮の警備に傷がつくだろうしな」
目を開け、藍色の瞳を輝かせたシェヘラザードはゆったりと片手を掲げた。
微笑む。そして、唇を動かす。
『水よ 数多かけ全てに宿りし 流転の雫よ――』
紡がれるは、流れる水の如き、清らかな歌。
「ソラ!」
「っ!?」
シェヘラザードの紡ぐ歌に耳を奪われていたソラは、鋭い声とともに、カイに押し倒された。
今しがた、ソラが立っていた場所に氷の塊が突き刺さる。
「あっぶな……」
「ご、ごめん、カイ」
「いいけどさ……! それより……!」
ソラと共に立ち上がったカイは、後ろを振り返った。
カイが睨みつける先には、窓辺からひらりと降り立ったハールーンの姿がある。
「なにすんだよ! さっきから! こっちは武器持ってないってのに、卑怯だぞ!」
「卑怯? 相手より優位な立場に立つことは戦略上必要なことだろ」
「そんなの、ただの一方的な虐めじゃねぇか! 戦いってのは、もっと誇りがあるもんだろ!」
カイの言葉に、ハールーンは静かに目を瞬かせ……思い切り噴き出した。
「ぶっ……はははっ! 何だよソレ!」
「っ……何がおかしいんだよ!?」
「おかしいとこだらけだろ! 戦いに誇りだぁ? 笑わせてくれるな!」
『水よ』
ハールーンが右手を無造作に上げる。軽やかに唱える。ただそれだけのことで、空中で制止していた無数の氷の刃の切っ先がソラ達に向けられる。
そうして、ハールーンは口角を釣り上げた。
「戦いに誇りなんざ綺麗なもんはねぇよ。生きるか死ぬか、それだけだ。なぁ、ぼうや?」
その言葉を皮切りに、氷の刃が再び降り注ぐ。
ソラは慌てて逃げようとした。
だが、カイは違ったらしい。
「あったまきた……!」
「ちょ、カイ!?」
「あいつ、一回殴んねぇと気がすまねぇ!」
「待ってよ! 殴るって、そんなのでなんとか出来るわけないだろ!」
「だからって、このまま引き下がる訳には行かねぇんだよ!」
ソラの制止を振りきって、カイはハールーンに向かって駆け出す。
ハールーンは少しだけ眉を跳ね上げたが、それだけだった。
カイが拳を振り上げる。それを見越したかのように、氷の刃がハールーンを守るように地面に突き立つ。カイもそれを見越していたのだろう。距離をとり、回り込もうとした。だが、その進路もことごとく氷の刃に阻まれる。
傍目から見ても、カイが遊ばれているのは一目瞭然だった。
相変わらずシェヘラザードの軽やかな歌も続く。それが終われば、何かが起きるのは間違いなかった。ルーサンが風の魔法を使った時のことを思い出す。
あの時も、ルーサンの詠じた呪文は長かった。そうして現れた風の魔法は竜をも倒した。
呪文が長ければ長いほど、より強力な魔法が現れるのだとしたら。
「っ……!」
ソラは首を振った。弱気になって、立ち止まりそうになる気持ちを叱咤する。
顔を上げる。
ジンへ視線を向けた。何故か彼女は怯えたように体を震わせる。
だが、ソラはそれに気づかなかった。
「ジン! 早く! 飛び降りて!」
「そ、ソラ……私は……」
「なにしてるんだよ! まさか高いところが怖いとか!?」
「違う! そうじゃなくて……!」
「じゃあ!」
息巻くソラにしかし、ジンは何故か目を伏せた。
服の裾をぎゅっと握りしめる。
「わ、私は……行けない……」
「っ、え?」
「行けない……行っちゃ、いけないんだ……あの時みたいにならないように……!」
「は……!? な、」
なにを、言ってるんだ。そうソラが言いかけた時だった。
不意に、体中に冷気が走る。
殺気だとか、そういうものではない。
物理的な寒さ。冷たさ。
体中の全ての水が凍る。体が凍る。動けなくなる。そんな、感覚がして。
『……全てを巡り 凍てつかせ 我もとにひれ伏せ――氷縛』
シェヘラザードの詠唱を最後に、ソラの意識はふつりと途切れた。




