act.11
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窓の外には、きらめく陽射しが差し、庭の緑や噴水から湧き上がる水を眩しく照らしていた。庭を流れる小川のせせらぎにあいまって、聞こえてくるのは小鳥のさえずりだ。
空は青く、快晴。水の国イシュカは早朝こそ霧に包まれることが多いが、日が昇れば今日のような陽気が続くことが多かった。
ジンが城に滞在して一ヶ月、雨が降った日は十日にも満たない。
……そう、この城に来てから、もう一ヶ月にもなるのだ。
ソラたちと引き離されてから。
リューを城の中で見つけられないまま。
「…………」
「ジン? 何か気になるものでもあったか?」
「……いえ」
シェヘラザードの声に、ジンは頭を振って向き直った。
王城の一室だ。細かな意匠の施された丸テーブルには、レモン水の注がれたワイングラスが二つ。そしてその向こうに、車椅子に腰掛けたシェヘラザードがいる。
片眼鏡の向こうの藍色の瞳は、何かを探るような光をたたえている。
この目は、苦手だ。
何もかも見透かされるようで。
「天気が良いな、と思いまして」
ジンは何でもないように微笑んでみせた。
シェヘラザードはゆっくりと目を瞬かせる。
それから小さく肩をすくめ、ワイングラスを手にとった。
「そう思うのなら、私と散歩する以外にも出歩いて構わないが?」
「お気遣い、ありがとうございます。でも大丈夫ですよ。朝は鍛錬のために中庭を使わせて頂いてますし」
「それ以外の話さ。鍛錬をして、私と散歩に出て、それ以外は自分の部屋に閉じこもっているだろう」
「それは……」
「言わせてもらえば、服もそうだな。私が用意した服ではなく、旅の時の服装ばかりしている」
「はは……ドレスは私のような無骨者には似合いません」
「それにその堅苦しい口調だ。ソラ達と話す時と同じようにしてもらって構わないが?」
「と言われましても……」
一国の王からの要求に、弱り果ててジンは頭を掻いた。不満げにシェヘラザードはジンを見つめる……が、やがてその目元を緩めた。
小さく笑う。
「冗談だ」
「は……?」
「ルクスの騎士殿は、うわさ通りの生真面目な方であるらしい」
くすくすと笑いながら、シェヘラザードはワイングラスに優雅にくちづける。
一体何が面白いというのか。一ヶ月経っても、水の国イシュカの女王の考えていることはちっともわからない。釈然としない気持ちのまま、ジンもワイングラスを手に取り、中身を一気に煽った。
ほのかにハーブの香るレモン水が喉を滑り落ちる。清涼で冷たい水の感触。ほんの少しだけ頭がすっきりした気がして、ジンは小さく息をつく。
「――ふむ、ではチェスでも指しながら、龍についての話をするとしようか。ルクスの騎士、ジン殿?」
来た。
そう思って、ジンはテーブルにワイングラスを置いた。
「いつもの講義、でしょうか」
「さよう」
「……講義などではなく、私はリューに会いたいのですが」
「それは叶わぬと言ったであろう? 案ずるな。かの少女は変わらず眠ったままさ」
「…………」
「ふふっ、不満そうな顔をするでない。諦めて私の話に付き合うことだ」
「ですが」
「最初に言ったが、この講義は光の国ルクスの軍師殿からの直々のお願いだ。ルクス唯一の騎士殿に竜についての情報を与えること、というな。そして、これは裏を返せば、お前自身に課せられた義務でもある。与えられた情報を本国に持ち帰れという命令のはずだ。違うかね?」
「……わかりました」
「よろしい」
シェヘラザードは手を一度叩いた。
音もなく部屋の扉が開き、四角い箱を手にした侍女が現れる。
その様子を見ながら、ジンは憮然として、ため息をついた。
講義。それはシェヘラザードとお茶をするたびに行われる。内容は竜について。
シェヘラザード曰く、竜はごく最近現れ始めた魔物らしい。ゆえに水の国イシュカ以外では竜という存在すら把握されていない。
この一か月、ジンはその竜についての話を聞いてきた。
竜は龍によく似た姿をするが、全く異なる魔物である。
特徴的なのは、血の如き赤の瞳と穢れた黒の鱗。
特定の人間と契を交わす龍と違い、竜にはそれらしき行為が見当たらない。
性格は凶暴にして残虐。現れる場所は水の国イシュカ国内――特に火の国イグニス、光の国ルクスとの国境沿いが多い。
現在のところ、複数匹の竜が確認されている――
そこまで思い出して、ジンは首をかしげた。
「ちょ、ちょっと待ってください」
「なんだね?」
「この講義は竜について知るためのものでしょう? なのに、今日はなぜ龍のことを?」
「ふふっ……今日は龍と竜との違いでも話そうかと思ってな」
シェヘラザードは片手に持っていたグラスをテーブルの上に置いた。
侍女はいつの間にかどこかへ消え、代わりにテーブルにはチェス盤が広げられている。
整然と並べられたのは、水晶に細かい意匠が施された駒だ。
王、女王、剣士、歩兵、弓兵、戦車――そんな中で、シェヘラザードが手に取ったのは、そのどれでもない駒だ。
獣の形をした瑠璃色の駒。同じ形をして、色の違う駒はあと三つある。
碧色の駒。紅色の駒。そして、白金色の駒。
「この駒を見るのは?」
「初めて、ですが……それは?」
「龍の駒さ」
「龍……」
「龍は一つの王につき、一匹が従う。盤面では、常に王の前後左右斜めの一マス以内のいずれかに置く。王を移動させたら、龍もそれに付き添って、次のターンで王の傍に必ず動かさねばならぬ。現実世界と同じようにな」
コトリ、と軽い音を立て、シェヘラザードは己の王の駒の後方に龍の駒を置いた。ジンも目を瞬かせてから、一番手近にあった駒を王の前方に置く。
碧色の駒。
シェヘラザードは微笑みながら、紅と白金の駒を盤面の外へと置いた。
「色は龍の種類を表す。瑠璃色は水の龍。碧色は風の龍。紅色は火の龍。白金は光の龍。お前は今、風の龍と契約したという訳だな」
「はぁ……」
「そして、この龍の駒は特別な力を持っておる」
「……魔法、ですか」
「さよう。それも現実世界と同じという訳だ。そして、龍は王を守る時のみ……チェスで言えば、王が敵の駒に狙われた時のみ、魔法を使える。龍が持つ魔法は二種類だ。一種類ずつを各一回、つまりゲーム中では二回まで魔法を使えることになるな。ここまでは?」
「え、えぇ……分かりは、しましたが。それと龍の話となんの関係が?」
「ふふっ、それはゲームをしながら話すとしようか」
シェヘラザードはゆったりとした動作で己の歩兵を動かした。始まってしまってはどうしようもない。ジンもつられて歩兵を動かす。
小鳥のさえずりと庭を流れる川のせせらぎの音。それらを背景に、しばらく二人が駒を動かす音が響く。
先に口火を切ったのは、やはりシェヘラザードの方だった。
「お主は、龍の力についてどう考えておるかな?」
「どう、と言われましても……」
剣士を動かしたジンは眉根を寄せた。
「魔法を使う聖獣、でしょう。風の龍は風の魔法を、水の龍は水の魔法を使役する」
「半分正解、半分不正解だな」
ジンが置いた剣士をとって、シェヘラザードは弓兵を動かした。
「その考え方は、あくまでも基本的なものさ。実際には、龍は二種類の魔法を使用している。己の本質に従った魔法だ」
「己の本質?」
「そう」
火の龍ならば『創造』と『浄化』。
風の龍ならば『意志』と『伝達』。
光の龍ならば『不動』と『変化』。
そして水の龍ならば『知識』と『流転』。
「チェス盤でも示そうか? たとえば……こうして私がお前の王を狙ったとする」
シェヘラザードは無造作に剣士を動かし、王を狙える位置に置いた。
「すると、お前の龍は王を守ろうとするために魔法を使う。風の龍の本質に従った魔法だから、『意志』か『伝達』だな。どちらの魔法を使うかね?」
「え……?」
「深く考えなくていい。好きな方は?」
「む……では『伝達』を」
「よろしい。『伝達』は同種の駒を、同じ方向にまとめて動かすことができる。全ての歩兵を一マス前に進めたり、二つある戦車を四マスだけ後ろに下げる、といった具合だ」
「ふむ、なるほど。ではこうすれば……」
ジンが戦車を動かして、剣士をとると、シェヘラザードは満足げに笑った。
「そういうことだな。まぁ、今回はチェス盤の話だが……これが本物の戦場なら、風の龍により『伝達』された情報は、まさに兵団を効率よく動かす力になるだろう」
「なるほど……む? ということは、陛下の持っていらっしゃる本も」
「あぁ。私の『グリモア』は全てを知ることができる本……まさしく水の龍の『知識』の本質が具現化したものだ」
「……興味深いですね。つまり、必ず龍は本質に従った魔法しか使わない、と?」
「その通り。たとえば、風の龍たるオーチャードは、風にのせて全ての情報を任意の場所へ伝えることができる。が、水の龍たるハールーンには、そんなことはできない……『伝達』は水の龍の本質ではないからな」
軽やかな音とともに、シェヘラザードは優雅に女王を動かした。
「そして、龍と契約する時は、この本質を見抜くことが重要となる」
「え?」
次の一手を考えていたジンは、シェヘラザードの言葉に顔を上げた。
「契約は、龍に選ばれるだけで良いのでは?」
「それだけでは足りぬ。考えてもみろ、どうして魔法も使え、強靭な体を持ち、永劫生きながらえるだけの生命力を持った獣が、たかだか人間如きと契約するのか?――それは、契約により、生きるのに必須のものを手に入れているからさ」
本質とは、己の魂のよりどころだ。
けれど、龍一人ではその本質を知ることができない。
本質を知らぬ龍は魔法も使えず、己の魂を知ることもできず、短命に終わる。
「その本質を見抜き、言葉にして龍に与える……それが龍に選ばれた人間が、契約時に求められること。私はハールーンに『知識』と『流転』という本質を与え、あいつはそれを受け入れた。ゆえに、私は水の龍の契約者となったわけだ」
「本質を見抜く……ですか。ふむ……?」
「なにか疑問かね?」
「いえ……それだと契約者によって、同じ龍でも違う本質が名づけられる可能性があるのでは、と思って……」
「ハールーン曰く、それでも良いそうだぞ?」
シェヘラザードは目を細めて、瑠璃色の龍の駒を撫でた。
「龍は人の願いから生まれる獣なのだそうだ。人の願いそのものが彼らの本質だ」
人は時代が移るごとに変化する。人が変われば願いも変わる。
そんな人間にあわせるように、龍もまた主人を変えるごとに新たな本質を得て、変化する。
「この世のどんな者よりも強いくせに、この世のどんな者よりも弱く不安定……そんな龍が、私は愛おしく思えてならんのだがね」
「陛下……」
「……しかし、だ。そんな龍によく似ていて、けれど全く異なる獣が現れた」
シェヘラザードが瞳を曇らせ、ジンは思わず居住まいを正した。
「竜、ですね?」
「あぁ。先ほど説明したとおり、龍は一人の主と契約し、主から二つの本質を授けられる。だが、私が調べた限りでは……竜は複数の人間と契約し、たった一つの本質しか持ってない」
「その……本質、というのは分かっているのですか?」
「あぁ」
日差しのせいか、盤外に置かれた歩兵の一つに影が差していた。
水晶は輝きを失い、黒く染まっている。
穢れた、黒色。そして、血の如き赤。
一瞬だけ、不穏な色がジンの脳裏をよぎって。
「――アディリティア。古き言葉で、『強欲』を意味するその名こそ、竜の本質だ」
シェヘラザードがささやく。
その瞬間、大きな物音がした。




