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B:Lue ~図書室の女王、夢見の人形~  作者: 湊波
ある陽のプロローグ
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act.4

流血を伺わせる表現が出てきます。苦手な方はご注意ください。


 ばしゃばしゃと、荒々しい水音が世界に響いた。


「……はっ……はぁ……っ……はぁっ……」


 忙しない息遣いが鼓膜を震わせる。こんなに息を吸っているはずなのに、少しだって気分は良くならなかった。頭が痛い。ひどい目眩がする。鼻先をくすぐる臭いに今にも吐きそうだ。逃げ出したい。今すぐに。そう思うのに、けれど足は一歩も動かない。体を震わせて、今にもこの現実から目を背けてしまいたいのに、瞳を閉じることさえ叶わない。

 ただただ、小刻みに揺れる己の両手を映して。その手をべっとりと濡らす生温かい血が滴る様を片時も逃すこと無く知らせ続けて。いやだと。思う。なのに。ゆっくりと瞳は動いて。

 地に倒れ伏す大切な人を。

 その背中から止めどなく溢れだす赤を。

 己が今しがた突き立てたばかりの短剣の柄を。



 ――ソラ、そう優しく自分の名を呼んでくれた彼女の終わりを、映す。



「っ、うわああああああああっ!?」



***


「ソラ?」

「……っ……!?」


 静かに自分の名前を呼ばれて、ソラは目を見開いた。

 どくどくと体の奥が狂ったように脈打っている。上手く整わない呼吸が苦しい。息ができない。そう思って、知らず胸を押さえて、体を曲げて。

 けれどそこで、そっとその上に手を重ねられた。

 暖かい手。

 そうしてほんの少し落ちる影。


「大丈夫かい?」

「……っ、ぁ……」

「ここがどこだか分かるかな」

「……こ、こ……」


 穏やかな、男の声。それに促されるようにぎゅっと拳を握りしめたソラは、ゆっくりと視線を動かした。淡い光の差し込む窓辺。机の上に散らばったすり鉢や薬草の束。そのすぐ傍に二つ、柔らかな湯気を立てた赤茶色のカップが置かれている。

 ここ……ここは。


「……先生の、家……」


 からからの喉で小さく呟いた。そうすれば、そうだよ、と満足気な男の声が返ってきて、手が離れる。それが合図だったかのようだ。わん、と音にならない音が鼓膜を震わせて、世界が押し寄せてきた。

 ちちっと小鳥が鳴き声を上げて飛び立つ音。肌を優しく包む陽光。柔らかな薬草の香り……確かに馴染みのある、そんな世界だ。そのお陰で今まで見ていたのがこの場所に来る度にいつも見る白昼夢だったのだと、そう理解できて。


 ソラは一つ、息を吐く。


「呼んでも返事がなかったから心配したよ」

「……すいま……せん……」

「いやいや、体調でも悪いのかと思ってね。なんなら診てあげようか?」

「いえ……!」


 大丈夫です! 今度は幾分しっかりした声でソラは返事をした。顔を上げる。そうすれば見慣れた木造の小さな小屋の中で、彼が先生と慕う男がそうかい、と微笑んだ。その体の動きにあわせて、ゆらりとカップの湯気が揺れる。


「ならばせめて、このお茶でも飲みなさい。温かいものは気分を落ち着けてくれる」

「……ありがとうございます」


 差し出されたカップを両手で受け取った。じわりと染み入る熱は、自分の中の冷たい何かを溶かしていくようだ。揺れる透き通った茶色の水面に映る自分の顔は気難しい。それでもソラはやっと、小さく息を吐いた。

 ここは、先生の家だ。

 ソラの家と同じように木でできた小さな家で、けれどソラの家とは正反対に荒野に程近い場所に立てられた粗末な家で。そうしてソラの家以上にたくさんの本と小箱でいっぱいの場所。

 家の主は先生。その正体は……だなんて大げさなことを言うつもりもないのだが、実は隣村の医者だったりする。なんでも、この家は別荘みたいなものらしい。村の近くの森によく研究のために入っていた、その何回目かの調査の帰りに、この場所で見つけたのだとか。

 こうやって先生が隣村から定期的にやってくるのを知っているのはソラだけだ。村人は知らない。というより、知られたくない。ソラ自身が。なんとなく。

 ここはソラの唯一落ち着ける場所なのだ。

 そうして先生が、ソラの心許せる唯一の人……なのだが。


「……先生」

「うん?」

「本当に行かれるんですか?」


 唐突なソラの問いかけの意図を、それでも正確に読み取って、目の前でお茶を啜っていた先生が困ったように眉根を寄せた。


「そうだねぇ……ソラには申し訳ないんだが、こればっかりは」

「! いえ……! 僕のことはいいんですけど……!」


 すまなさそうに肩を竦める先生に慌てて首を振りながら、それでもちらりとソラが視線を送った先はその後ろだ。

 幾分かまとめられた荷物、である。麻袋が幾つか。旅行用のフード。そうして護身用の小さなナイフ。


「ただ……その……、」


 暫く旅に出るのだという。出立は明朝。そのことをまざまざと実感させられて、ソラの口は自然と重くなる。


「……心配、っていうか。先生、人が良すぎるから」


 目を逸らしながら、どうにかそれだけをぼそぼそと呟けば、視界の端で少しばかり瞳を丸くした先生が微笑んだ。


「ありがとう。ソラは優しい子だな」

「っ、そんな別に……!」


 気恥ずかしさから頬が熱くなるのを感じながら早口で返す。それでもそんなソラに気付くこと無く、まぁ、と先生はのんびりと続けた。


「大丈夫さ。都までの道は昔に比べて随分整備されているし、優秀な護衛もお願いしてあるからね……それに心配というなら私はソラの方が心配だよ」

「僕、ですか?」


 それはどういうことだろう。疑問に思って首をかしげると、先生の片眉がひょい、と上がった。


「おや、知らないのかい? 最近、森で動物の変死体が多いらしくてね。この前この村から治療に来た狩人も妙に大きな影を見たと言っていたし……」

「そう、なんですか」

「まぁ熊か何かなのだろうけどね。何にせよ、ソラは森の近くに住んでいるだろう? 暫く森の中に入ってはいけないよ?」

「あ、はい……」


 素直に頷いて答える。そうすればいい子だ、といつものように先生が満足そうに頷いてお茶を一口。そうして美味しそうに目を細める彼を見て、じゃあ僕も、とソラも口をつけかけて。

 はた、と気付いて声を上げた。


「……ってちがう!? 僕は今先生の心配をしてるんですよ!」


 先生、今誤魔化そうとしたでしょう! そう指摘すれば、先生がばつの悪そうな顔をして肩を竦めた。


「おや。気付いてしまったか」

「気付いてしまったか、じゃないです……僕は真面目に心配してるのに」

「ソラのそういう隠れ一生懸命なところが私は好きだよ」

「隠れ一生懸命……ってなんですか」

「それを説明するに、他にもっと良い表現があった気がするんだが……はて何だったかな……つん……?」

「……はぁ、もういいですよ」


 そうやって一人、腕を組みうぅん? と悩み始める先生に、ソラはため息をついて肩を落とした。こうなってしまってはどうしようもない。考えるというか悩むというか。先生はとかくそういう行為が多いし、そうなったらなったで周りのことなど欠片も気にしなくなる。そんなところが、けれど嫌いではないのだけれど。ソラはそう思うが、勿論思うだけだ。

 だって恥ずかしいじゃないか。なんて。胸の内だけでそうぼやきながら、窓の外にちらりと目をやれば、枯れかかった木の枝で丁度羽を休めていたらしい小鳥と目があって、小首を傾げられた。


「……ふむ……いや、それにしても楽しみだよ」


 己の中で何らかの結論が出たらしい。といってもそれを欠片も口にしないで……どころか、そんな会話などなかったかのように、先生がのんびりと言葉を続けた。

 これで私の研究もはかどるよ、と。しかしその言葉に振り返ったソラの顔は曇るだけだ。


「でも、皆言ってますよ? 先生のところは遠い上に高いからあんまり治療に行きたくないって……先生はちゃんとしたお金をとってるだけなのに」

「そうだな……まぁそれでも、収入の少ない彼らにとっては高いということなんだろう。構わないさ。私は私のところに来る人を診ればいいだけなのだからね」


 だからそんなむくれた顔はやめなさい。穏やかに指摘されて、ソラは瞳を瞬かせた。


「……僕、今そんなにむくれてました?」

「私のために怒っていてくれているように見えた、かな。ははっ、流石に驕りすぎだね」

「! 驕るだなんてそんな……!」 


 困ったように先生が笑う。それにソラは思わず立ち上がって口を開いた。


「先生は少しも悪くないっていうか! それどころか良い人過ぎて僕はだから心配して……っ、」


 だってなんだかふわふわしているし。

 かと思えば興味のあることには危ないって分かってても手をだそうとするし。


「それから、えぇと……!」

「ソラ」

「っ……」


 そこで、名前を呼ばれた。静かな声で。それに必死で言葉を探していたソラが先生の方を見つめると、優しく笑った顔が見えて、ソラは赤くなった顔をぱっと伏せる。

 恥ずかしい、と思う。先生の前ではいつだってそうだ。なんだかどきどきして、落ち着かない。だから妙に舞い上がって、空回りする。普段はもっと……ちゃんと出来るのに。そのちゃんと、が何なのかは言葉に出来ないけれど。



 それでも、そんな自分を見て先生は笑ってくれるのだ。

 優しく。拒むこともせず。いつだって。

 何もかも分かっていると、言わんばかりに。

 そしてそうであることが当たり前と、言うように。



「心配しないで。また必ず会えるさ。私はいつでもソラのことを思っているからね」


 そう言って、頭をくしゃりと撫でられる。その掌の暖かさにソラは肩を震わせた。胸の内から溢れそうになる何か。それを小さく唇を噛み締めてこらえる。

 先生は、ソラにとって特別な人だ。爪弾きにされている自分を唯一優しく迎え入れてくれる人。たった一つの拠り所。そうしてきっと、この事実は一生変わらないだろう。そんな風にソラは思い、瞳を閉じる。






 あるいはそうであれと、祈るように。







2013/05/25 初版

2013/06/02 誤字脱字訂正

2013/06/16 改稿

2013/08/13 改稿

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