act.9
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封筒に書かれた住所は、思いの外遠いところにあった。
図書館のある大通りから離れ、いくつも橋を渡る。
水の国イシュカは大河の下流に位置する国だ。大河はイシュカ国内で幾つもの支流に分かれ、海に注ぎ込む。そのせいで、イシュカのあちこちに橋が架けられていた。陸地に近い島には、本土に渡るための橋もある。そうであるが故に、住所も橋の名前で記されることが多かった。
静かな街中にソラは足を踏み入れる。
人気のない道は黄昏色に染まっている。道の左右には石造りの建物。
建物から落ちる影は普段のものよりずっと濃く深い。通りは少し坂道になっていて、そこを登った先が目的地だった。
「ネシャン橋3番地1の1……ここか」
通りに面した家は二階建てだった。窓にはカーテンが引かれていて、おまけに薄暗い。
ソラは不安になりながらも扉をノックした。
「すみません、ルイス・キャロルさんはいらっしゃいますか?」
耳をすませる。物音一つ聞こえない。
たまたまいないのか……なんにしても、厄介なことになった。ソラは顔をしかめる。
さっきの警備兵達は、明日までに持って来いといった。あしらうことくらい簡単だ。ただ、そのための時間が面倒だし、出直してくるのはもっと面倒だ。
「……って、なんで僕がいかなきゃいけないんだ」
ソラが思わず顔をしかめて自分につっこむ。
その時だった。ソラの心臓が跳びはねる。
不意に扉が内側から開いたからだ。
顔をのぞかせたのは痩せぎすの男である。
ぼさぼさの灰色の髪。古びて擦り切れたコートのような羽織ものをはおっている。
前髪が伸びすぎているせいで、目もよく見えない。それでも、不審そうな視線だけは強く感じて、ソラは身じろぎした。
「あ、あの、ルイス・キャロルさん、ですよね? この封筒を届けに、」
「……して……」
「は?」
「どうして人形がこんなところにいるんだ……!」
「へ……っ!?」
それからは、何もかもがあっという間だった。
男が金切り声を上げ、腕を振り上げる。
夕日を弾いて、男の握る何かが光る。
尖った万年筆の先だ。え、でもなんでいきなり? そうソラが思う頃には、目の前までそれが振り下ろされていて。
そして、動けないソラは、思い切り地面に突き飛ばされた。
「っ……!?」
息が詰まる。地面に尻もちをつく。鈍い痛みが走る。
思わず顔をしかめる、ソラの視界に美しい銀髪が飛び込んでくる。
「ア……リス……?」
かばわれた、らしい。アリスに。けれど、一体いつからいたというのだろう。
ソラが呆然とする中、どこからともなく現れた彼女は、ソラを守るように男を見据える。
「やめてください、なのです――お父さん」
アリスの頬には、細い傷跡があった。
男はそんなアリスを睨みつける。静寂が落ちる。
そして。
「父と呼ぶな。出来損ないの分際で」
地を這うような低い声で呟き、男は乱暴に扉を閉ざした。
***
アリスに引きずられるようにしてソラは歩く。
日はすっかり落ちていた。辺りは暗い。足早に歩くアリスは、男の家を離れてからずっと、ソラの手首を掴んだままだ。
いい加減に痛い。けれど、それ以上に知りたかった。
「ねぇ!」
「…………」
「ねぇってば!」
「…………」
「アリス!」
「……きゃあきゃあ喚きやがるな、なのですよ」
ぴたりとアリスが足を止め、振り返った。暗がりのせいで表情はよく分からない。
ただ、アリスが不機嫌なのは痛いほど分かった。だからといって、ソラに引き下がる気は毛頭ない。
「いい加減、説明してくれてもいいだろ?」
「説明? 何を?」
「さっきのだよ! あのルイス・キャロルって人。なんなのさ? いきなり怪我させられそうになるし……挙句、アリスのお父さんって……!」
「『にんぎょう ありす の ぼうけん』」
「は?」
ソラが目を瞬かせると、アリスは苛立ったように言葉を続けた。
「さっきソラが読んでた本なのです。その作者がルイス・キャロル」
「さっきの人ってこと?」
「そうなのです。彼が書いた、最初で最後の絵本。変人にして世捨て人。家から出ることも、誰かと関わることもない。その緑の封筒は、」
ちらりとアリスはソラの抱える封筒を見やり、溜息をつく。
「要注意人物に出される書類を入れる封筒なのです。普通なら、ある程度仕事に慣れた人が渡すべきもの。それをなんでソラが運んでいるのです?」
「なんでって、押しつけられたからだよ」
「断ればよかったじゃないですか。厄介な時に、妙なやる気なんかみせちゃって」
「……なんだよ、その言い方」
「別に? 包み隠さず話してるだけなのですよ」
アリスの棘のある言い方に、ソラは顔をしかめた。
困っている人がいたら助ける。そんなアリスの姿に少しだけ憧れたから引き受けたのに。当の本人からそんなことを言われるなんて。
ソラの胸の内に後悔がよぎる。思わずうつむくソラに、アリスは鼻を鳴らした。
「とにかく、その封筒をとっとと渡しやがれなのです」
「……渡して、どうするんだよ?」
「私が処理しておくのです。ソラは関わらなくていいことなのですよ」
「アリスが、その人の娘だから?」
ソラは皮肉っぽく笑う。アリスの眉間に皺が寄った。小さな仕返しは成功したらしい。
「……黙りやがりなのです」
「なんでだよ? 自分でそう言ってたじゃないか。お父さんって」
「…………」
「そうだよね。自分の父親なら仕事もしやすいよね。僕みたいな下っ端よりさ」
「それが……っ」
「なんだよ?」
アリスの声が感極まったように震えた。怒り出すのか。それとも拳でも飛んで来るのか。どっちもありうる気がして、ソラは思わず身構える。
けれど、アリスは一瞬だけ目を閉じ、大きく息をついただけだった。何かの感情を押し込めるように。
そうして再び目を開けた時には、不気味なほど感情を感じさせない橙色の瞳がそこにあって。
「……それが、本当であれば、どんなによかったんでしょうね」
そう言うなり、アリスは急にソラを引っ張って、自分の方へ抱き寄せた。
「ちょ、いきなり何して……っ!?」
アリスの胸元に顔が当たる。ソラは慌てて顔をそらす。両腕を突っ張って、体を離す。離そうとした。
違和感に気付いたのは、その時だった。
アリスの体は、冷たく硬かった。筋肉の硬さではない。どちらかといえば、木の硬さに近い。
そして彼女の体の奥から聞こえるのは、奇妙な音。
かち、かち、かち、かち……そんな、歯車が噛み合わさって、回るような。
「『マリーが大切にしていたのは、お父さんが作ってくれた人形でした』」
驚くソラを抱きしめたまま、アリスは淡々と呟いた。
一欠片だけ、悲しみをはらんだ声で。
「人形は、娘にはなれないのですよ」
そんな、声で。




