Three days after... -Night-
***
廊下に響く静かな足音。それにソラはゆっくりと瞼を上げた。
「…………」
何度か目を瞬かせる。澄んだ薄青色の空気はどこか冷たい。見慣れた宿屋の部屋。薄く色づいた空気に小さな丸テーブルと荷物が沈んでいる。朝の、それも日が昇る前だろう。
外に出るにしてはあまりにも早すぎはしないか。ジンに対してソラが抱いたのは、驚きというよりも不安な気持ちだった。ここ数日の彼女は、どこか変だ。さしたる理由もない、そんな漠然とした不安。そして不安はそれだけじゃない。
「リュー……」
薄闇色の空気の中、傍らのベッドの中で昏々と眠り続ける彼女。名前を呼ぶ。けれど返事はない。
もう、三日間も。そう思ったソラは唇を噛み締めてベッドの傍らの椅子から立ち上がった。突っ伏していたせいか体中が痛い。それでも眠り続けるリューを何も出来ずに見ているよりはずっとましだ。
足音を忍ばせて部屋を出る。後ろ手に扉を締めた。部屋と同じ色の空気に沈む廊下は黒々としていて、少しだって気分は晴れない。小さく息をついたソラは気を紛らわせようと一階へと続く階段へ足を向けた。
とんとん、とささやかな足音が響く。その中で浮かんでは消えるのはこの三日間のことだ。
三日――連れ去られたルーサンとチモシーを助けに行って、エレミアで見た禍々しい魔物と対峙して、そして本物の龍が現れた。そんな日からもう三日経っていた。
魔物との戦いの幕切れはあっけない。攻撃を受けた魔物はカイがノイシュを助けると同時に碧風に撒かれて消滅した。大変だったのはそれからだ。意識を失ったチモシーとリュー、そしてノイシュとその仲間たち。彼らを怪我の軽かったノイシュの仲間と共に地下通路を使って街へと運んだ。チモシーはカイとソラだけで運びだしたのが……なんにせよ彼らが協力的だったのはありがたかった。
自分たちで怪我の手当をすると言い張ったノイシュの仲間たちを警備隊に残し、ソラたちがチモシーとリューを連れて宿屋に戻ってきたのは夜も随分更けてからだ。そこでカイの母親に見つかって説教をもらい――ちょうどその時にふらりとジンが宿に帰ってきた。
それが三日前の話だ。
三日間、ジンは何かに追われるようにひたすら鍛錬をしていた。
三日間、リューは眠り続けたままだった。
そして三日間、ソラは二人の傍に居続けて。
だというのに、彼女たちに何もしてあげられない。
もう何度目になるか分からない同じ結論に至ってソラはため息をつく。チモシーは二日前に目覚めたのだ。リューだってその内目覚めるかもしれない。信じてもいない淡い期待を胸の内で呟いて、階段の最後の一段を降りた時だった。
「あ」
誰も居ないと思っていた食堂に響く間抜けなカイの声。驚いてソラがみやれば、薄暗い部屋に淡い橙色の光がぽつんと灯っている。整然と並べられた長机の一つに置かれたランプだ。その周りにカイとルーサン、それに名前も知らない金髪の少年が向かい合って座っている。
いつもと変わらぬ口調でカイが尋ねた。
「どうしたんだよ、こんな時間に」
「……目が覚めただけだよ」
「ふぅん……? まぁいいや。こっち来て座れよ」
「では我は隣に座るとするかの」
「え、いや僕は」
ソラは断ろうとしたが、カイと少年の方が動きは早かった。カイがテーブルの上のポットに手をかけ、少年が一つ隣の席に座り直す。橙色の光の中で一つ空いた席。むっつりとした顔をしているルーサンの目の前だ。
「早く座りなさいよ」
ぶっきらぼうなルーサンの言葉にソラは仕方なく座ることにした。カイから差し出されたカップを受け取り両手で包むようにして持つ。
中に入った白湯がやわらかな湯気を上げた。
「……ていうか、皆こそこんな朝早くにどうしたのさ」
「俺は警備隊に行って帰ってきたとこ。で……えっと」
カイの戸惑ったような視線に最初に気づいたのは少年だった。カップを置いてにこりと微笑む。
「オーチャードじゃ。このような時間に起きているのは……まぁいつものことだからじゃな。お主、名は?」
「えっと……ソラ、だけど」
「良い名じゃな」
「はぁ……」
「オーチャードはルーサン達と一緒に旅してたらしいんだ。んでもって聞いて驚くなよ……俺もさっき聞いた話なんだけどな、その正体は龍なんだぜ!」
「…………」
いや、知ってるけど。ソラは白けた目線をカイに送るが、興奮したように話す彼が気づくはずもない。オーチャードがまた笑ったが、苦笑いにも見えたのはソラの気のせいだろうか。
「ごめん、なんか馬鹿で……」
申し訳無さからソラが思わず口を動かせば、カイがきょとんとした。
「? ソラ、お前馬鹿なのか?」
「なんでそうなるんだよ! 馬鹿なのはカイの方だろ!」
「えぇ!?」
「仲が良いのう」
「仲は良くない!」
図ったわけでもないのに二人で声を揃えて反論する結果になってしまった。不本意だ、実に。そう思ったソラは顔をしかめて一つ咳払いをする。手元のカップを無造作に掴んで煽った。白湯は思いの外熱い。後悔しながらもやせ我慢して飲み下せば、隣の空気が微かに揺れた。ちらりと見やればオーチャードが小さく喉を鳴らしながら笑っている。
むっとしたソラが睨みつければ、オーチャードは飄々と肩をすくめてルーサンの方へ視線をやった。
「それで……我が主殿は何故朝早くからこんな場所におるのかの?」
「っ、あ、あたしは……」
それまでずっと黙っていたルーサンがびくりと体を震わせた。狼狽したように口を開けては閉じ、閉じては開け。彼女がそれを幾度か繰り返したところで、カイが耐え切れなくなったように口を開く。
「どうしたんだよ?」
「や、その……おっ……」
「お?」
「おっ……お、教えてあげようと思ったのよ!」
「……主よ、それは」
「オーチャードは黙って!」
顔を真っ赤にしたルーサンはオーチャードをきっと睨みつけるだけで黙らせる。それだけ見れば実にいつもの彼女らしい。
だが、彼女が一体何を教えるというのか。ソラが問いかければ、また少し押し黙った後、ルーサンがゆっくりと口を開く。
「心当たりがあるのよ……あの警備隊の男とリューが眠ってる理由。もしこれが正しいなら二人を助けられるかも」
その言葉はソラの心臓をどきりとさせるには十分すぎるものだった。カイも椅子から腰を上げ身を乗り出す。
「何か治す方法があるのか!?」
「か、勘違いしないで! 一番治療方法を知っていそうな者に心当たりがある、っていう話よ!」
「どういうことだ……?」
ルーサンの含みのある言い方にカイが頭に疑問符を躍らせる。ソラも全く同じ気持だった。二人の疑問に答えたのはオーチャードだ。
「そのためには竜について知っておいてもらわねばならんの」
「竜?」
「三日前に戦ったあの魔物のことじゃ。覚えておろう?」
あの魔物――穢れた黒き鱗に覆われ、血の如き赤き瞳を持ち、龍によく似た頭の魔物。思い出しただけでも嫌悪感が胸の内に広がってソラは顔をしかめる。
ランプの中の灯火がゆらゆらと揺れた。まるでその場の全員の不安を映したかのように。
そんな中で、オーチャードがゆっくりと言葉を続ける。
「龍によく似た、けれど似て非なる悪しき魔物じゃ。召喚者によって喚び出され召喚者を喰らって完成する忌まわしき獣。奴らを倒すには龍か、それに類する力が必要じゃ」
じゃが分かっていることはここまででな。そう言って、オーチャードはため息をつく。
「何故龍に似た頭を持っているのか、何故召喚することでしか現れないのか、そもそも奴らを召喚するための方法がなんなのか、ほとんど分かっておらぬのが現状じゃ」
「……それとノイシュさん達を助ける方法に何の関係があるんだよ?」
「主はこう考えておるのじゃ。二人が目覚めぬのはもしや竜による傷のせいではないか、と」
「竜の……?」
一つ頷いてオーチャードは続ける。
「そういうことがあってもおかしくはない。なにせ竜はここ十数年で出てき始めた魔物で、情報が不足しておるでの。ゆえに我々はある人から頼まれて調べておったのじゃ……そしてその人こそが治療法を知っているかもしれない者、でもある」
「もったいぶらずに教えてくれよ!」
カイが痺れを切らして声を上げた。それに、ぽつりと漏らしたのはルーサンだ。
「図書室の女王、よ」
「書物の管理者にしてあらゆる物語を愛する者。そして水の龍と契約者でもある」
オーチャードがさらに歌うように付け足した。その、最後の言葉。それにピンときたソラは恐る恐る口を動かした。
まさか、と。
「水の国の王……」
「ご明察」
ソラの言葉にオーチャードがにこりと微笑んだ。まじかよ。目を丸くしてカイがそう呟く。ソラも続ける言葉を失ってしまった。
決して、治療法を知っている者が近くにいる、と思っていたわけではなかった。かといって、それが一国の主であると誰が想像できただろう。ただの人間に会いに行って治療を頼むのとは訳が違う。
まずどうやって会えばいいのか。そもそも隣国の王だというのに。
「王様、かぁ……」
カイがしみじみと呟いた。流石の彼も相当戸惑っているのか。当然かもしれない。なにせ彼には家族もいるのだ。ソラ以上に動けないはずで、きっと歯がゆい思いも……。
「こっから水の国まで一週間だっけな」
「……え?」
カイの言葉にソラは耳を疑った。慌ててカイの方を見やる。が、彼は真剣にぶつぶつと呟くばかりだ。
「移動は馬車でいいとして、あと、ノイシュさんの世話は……警備隊の奴らに任せればいいか……」
「ちょ、ちょっと待って。カイは今なんの話を……」
「? なんの話って、水の国に行く話に決まってるだろ」
「……誰が?」
「俺が」
きょとんとした顔で返されて、ソラは呆気にとられた。オーチャードが声を殺して笑っているし、ルーサンに至っては冷めた目でカイを見つめるばかりだ。
「俺、なんか変なこと言ったか?」
不思議そうなカイの言葉に、ソラはただただため息しか出ない。なるほど、呆れ過ぎた先にあるのはこんなにもやるせない境地だったのか。ありがたくもない経験にソラはまた一つ息をついて口を開く。
「……変なことどころの話じゃないでしょ……」
「なんでだよ? 手がかりが見つかったんだぜ?」
「そりゃそうだけど……だからってすぐ行とか考えてないにも程があるだろ? 家の人にはどう説明するんだよ?」
「旅に出てくるから、で十分じゃね?」
「そんなので納得するわけないだろ!」
「大丈夫だって! 勇者に旅はつきものなんだぜ? なんだかんだで許してくれるから!」
「またそんな適当な事を……! だ、大体、隣の国まで行くんだよ? ちょっと外へ出て行くのとは訳が違って、」
「そんなこと分かってるに決まってんだろ。馬鹿にすんなよな」
カイが頬をふくらませた。というか、彼は自分が絶賛その手の発言をしている最中であることを知っているんだろうか。いや知らないんだろうな……とソラはどっと疲れを覚えながら遠い目をする。
なんていったって馬鹿だし。いちいちツッコむのも馬鹿らしくなるくらい馬鹿だし。
「あいつらを助けるために、何かしてやりたいって思わないのかよ」
……だというのに、この言葉だ。カイがぽつりと呟いた言葉。それは奇妙に胸の中で響き、残って、ソラは顔をしかめた。ずるい、と思ったのだ。その言葉がずるいと思ったし、そう言ってしまえる彼がずるいとも思った。そうしてそれだけの理由で動くことの出来る彼も。
ずるくて、羨ましい。
彼はまっすぐで、どこまでも揺らがない。三日前、魔物と戦った時もそうだった。あるいは目の前でルーサンとチモシーが連れ去られた時もそうだった。いつだって、どんな場所だって、どんな状況に置かれていたって、彼は彼の心に正直なのだ。悩んだり、立ち止まったりしない。
ソラとは決定的に違う、他の誰とも違う、彼を彼たらしめる、それは。
「……勇気があるっていうのかな」
「えっ?」
「……そうね。あたしもそれには同意するわ。馬鹿だけど」
「えええ!? 途端に褒めてんのかけなしてんのか分からなくなった!?」
俺はどんな反応しろって言うんだよ! 喜ぶべきなのか、怒るべきなのか。頭を抱えて真剣に悩み始めたカイを見て、ソラとルーサンはどちらからともなく小さく吹き出した。カイが不満そうに頬を膨らませる。
「なんなんだよ! 二人して笑いやがって……!」
「あんたが面白すぎるのがいけないんでしょ」
「っ、じゃ、じゃあ言わせてもらうけどさ! ルーサンだっていつもらしくねぇじゃん! なんか大人しいし!」
「う、うるさいわね! あんたと違ってこれには深い訳があるのっ」
「へぇ! どんな訳だよ!?」
「うっ……そ、それは……」
ルーサンは言葉をつまらせた。顔が一気に赤くなる。彼女の視線が助けを求めるようにオーチャードの方へ向かうが、彼は面白そうにルーサンの方を見つめるばかりで。
「っ、う……」
「ほらほら! なんだよ? 大人しく白状し、」
「だ、だからっ、お礼が言いたかっただけなの!」
にやにやしたカイの言葉に、ルーサンが耐え切れないとばかりに叫んだ。ソラはカイと顔を見合わせる。そんな二人が気に入らないとばかりにルーサンは早口で言葉を続けた。
「そ、そんな顔しなくてもいいでしょっ。助けてくれた相手にお礼言うのの何がおかしいのよ!?」
「助けたって……んなこと言ったら魔物倒したのはお前だろ? 俺もソラもお前に助けられたっていうか」
「そういうことじゃなくて……!」
「?」
「……あ、あんた達はあたしのこと信じてくれたし……」
ぼそぼそとルーサンが呟く。それにすぐにソラもカイも返事ができないでいれば、耳まで赤くした彼女は、もういいわよ! と叫んで、二階に上がっていってしまった。
「な、なんなんだよ……」
「許してやっておくれ。特別なことなのじゃ、主にとっては」
「特別なこと?」
ソラの言葉に、オーチャードは穏やかに頷く。
「特別なことで、大切なことじゃ。言葉に出して伝えるということはの。主だけではない。ソラとカイにも言えることじゃろうが」
「どういうこと?」
「受け入れてもらえた時の、言葉は何よりも強い」
オーチャードは微かに笑って付け足した。それに二人は首を傾げるが、オーチャードはそれ以上言及しようとしなかった。
代わりにソラに尋ねたのは、これからどうするのか、ということだ。
「どうする、っていうのは……」
「カイは水の国に向かうのじゃろう? ソラはどうするのかと思うての」
「それは、」
ソラは言葉に詰まった。けれど一瞬だ。オーチャードの視線を真っ直ぐに受け止める。口を開く。
答えは、不思議とすんなり出てきた。
「……僕も、会いに行くよ。水の国の王のところに。リューを助けたいから」
窓の外で、陽の光が朝の空気を白く染め始める。
それぞれの夜が明けようとしていた。




