act.21
「っ……!?」
風は一瞬で勢いを増した。渦巻くそれは瞬く間に砂を巻き上げ天高く伸び上がる。立っているのも目を開けているのも辛いくらいの勢いは、ルーサンとチモシーが連れ去られた時の風とひどく似ているようで、しかし決定的に遠い。
肌をさすような悪意、昏く(くらく)淀んだ空気。穢れた黒き風は得たいの知れない恐怖を運ぶ。
「ノイシュさん……っ! なんで……ッ」
ごうごうと吹き荒ぶ風の中、カイの声がソラの耳に届いた。地面に座り込みながら、すがるような目でカイが見つめる先は渦巻く穢れた黒の向こう、ノイシュの方だ。
カイ。そう呟いて微かに顔を歪めたノイシュにカイは必死に口を動かす。
「何しようとしてんだよ……っ! やめてくれっ、こんなの……!」
「……言ったはずだ、カイ。特別じゃない俺達は力が欲しいなら何でもしなくちゃならねぇって」
「っ、それがこれだって言うのかよ!? 復讐のために仲間の命を犠牲にしてまで……っ!? そんなのおかしいだろ……ッ」
「だから、なんだ」
「!?」
カイが言葉をつまらせた。そんなカイを睨みつけるようにしてノイシュは静かに言葉を紡ぐ。
おかしいのは百も承知だ、と。
「殺されたから殺す。そんなんじゃ何も解決しねぇことは分かってる。でも……どんなにエゴでも耐えられねぇ。俺たちの仲間は戻ってこないのに、こいつらだけのうのうと生きてる。死んでいった奴らのために苦しい想いをしてる仲間がいる。そんな状況が……!」
だから俺は決めた、とノイシュは続ける。瞳にぎらぎらとした激しい光を宿して。
「どんなに間違ってたっていい。俺は死んでいった奴らの無念を晴らす。生き残って悔しい思いをしてる仲間の意思を受け止める。それが俺の正義だ」
「そんな……違う。こんなのが正義なんて……俺は……」
「なぁ、カイよ。お前に一つ教えてやろう」
認めたくない。信じたくない。そう言わんばかりにゆるゆると首を振るカイに、ノイシュは静かに告げる。
どこまでも残酷に、冷たく。
けれどほんの少し、悲しげに。
「正しい行為が、必ずしも正義とは限らねぇんだ」
風が逆巻いた。穢れた黒に紛れてノイシュの姿が見えなくなり、同時にびりびりと鼓膜を震わせる獣の咆哮が響く。音は衝撃だ。あざ笑うかのような乱暴な咆哮に倒れそうになり、ソラは必死に顔をしかめてやり過ごす。
そうしてそれが、姿を現した。
渦巻く穢れた黒の向こうから。同じ色の鱗を持ち、骨ばった翼を広げている。もたげられた長い首の先、額にあるのはねじ曲がった一対の角と血の如き赤い瞳。
ソラは息を呑んだ。
「そんな……!」
かつてエレミアで見た魔物と全く同じ姿をした魔物。どうしてここに。そんな驚きと肌を刺す悪意にソラは言葉を失う中、悲鳴じみたルーサンの声が響く。
「駄目よ……!」
「なんでだよっ!?」
消えたノイシュを今にも追いかけんとしていたカイが苛立ったように振り返った。だが青い顔をしたルーサンも引く気はないと言わんばかりに声を張り上げる。
「なんでも何もないわ! 目の前の魔物を見なさいよ!」
「それがなんだって言うんだよ! ノイシュさんがあそこにいるかもしれないのに!」
「いないわ!」
いるわけないじゃない! そう繰り返してルーサンは大きく頭を振る。
「あいつは普通の魔物じゃない! 召喚主を喰らう化け物なのよ! どのみちあの男はもう助からないの! あたし達だけでも逃げなきゃ、」
「伏せて!」
チモシーの有無を言わせない鋭い声。迫る黒い影。すんでのところでそれが魔物の巨大な腕であることに気づいたソラ達は慌てて身を伏せる。淀んだ風をまとった腕は近くにあった巨岩を砕きながらすぎ去っていった。もしも今の一撃が当たっていたら。嫌な想像にソラの腹の底が冷える。
そんな中で、小さく舌打ちしたチモシーが素早く立ち上がるのが見えた。
「……またルーを傷つけようとするなんて許せないな」
「やめて……!」
ルーサンの制止の声も聞かずチモシーが魔物の方へ駆け出す。その背には迷いも恐れもない。身を屈め疾風のごとく駆ける。魔物の振るう鋭い爪のついた腕。それを軽やかな身のこなしで避け、それどころか踏み台にして跳躍する。
彼のまとう服の裾が音をたててはためいた。放たれる二本の斬撃。それは正確にがら空きになった魔物の胸に吸い込まれる。鮮やかで華麗だ。防ぐ暇もない。
やったのか……? 魔物の動きが止まり、誰もが期待に息を呑む。その瞬間だった。
魔物の血の如き赤き瞳がぎょろりと動く。
「っ!?」
鱗で覆われた巨大な反対側の腕が振るわれる。地面に降り立つ直前だったチモシーはひとたまりもない。ろくな受け身もとれずルーサンのすぐ近くまで吹っ飛んだ彼はそのまま動かなくなった。
「お兄ちゃんっ!」
ルーサンが悲鳴を上げる中、咆哮を上げた魔物は翼を広げ舞い上がった。見せつけるかのように一度ゆるりと旋回した後、地面すれすれを飛んでソラに向かって飛んでくる魔物。それにソラは体を震わせる。
骨ばった不吉な黒翼が巻き起こす風は砂埃だけでなく純粋な恐怖を運んでくる。血の如き赤い瞳は見つめるだけでソラをその場に縫い止めた。指先一本だって動かせない。そんなソラの脳裏を掠めたのはヨルのことだ。
このままいけば自分は魔物に殺されるだろう。けれどもし、これをきっかけにヨルが出てくることができたのなら。
自分以外の、皆は助かるんじゃないか。そう思って目を閉じかけた時だった。横向きに突き飛ばされる。驚いて目を見開けば、大きく振るわれた魔物の腕と舞い散る赤が見えて。
「っ……リュー!?」
自分に向かって飛んできた小柄な体をソラは慌てて抱きとめた。リューの服は魔物の爪によって引き裂かれ、じわりと血が滲み始めている。
「そんな……どうして……」
どうして庇ったりなんかしたんだ。戸惑うソラの思いを察したかのようだった。腕の中で薄く目を開けたリューがゆっくりとソラの頬へ指先で触れる。消え入りそうな声で呟く。
「……良かった。無事で」
「っ……!」
責めるわけでも諭すわけでもない。ただ安心したようにそう言って、微かに笑ったリューの言葉にソラは今度こそ言葉を失う。動けなくなる。リューが気を失って、添えられていた彼女の指先が己の頬から離れていっても。良かった。無事で。単純なはずのその言葉がひどく胸をついて。
ふと、思った。根拠もなく、何の前触れもなく。できない、と。
ヨルを呼び出して戦うことはできない、と。
「ぼさっとすんな!」
鋭い声にのろのろと顔を上げれば、肩で息をしたカイがソラとリューを守るかのように魔物との間に立ちふさがっている。
「な、にしてるんだよ……」
「何してる? んなの見りゃ分かんだろ! こいつと戦おうとしてんだよ!」
「戦う……?」
何を馬鹿な。ソラは思わず笑ってしまった。笑わずにいられなかったのだ。魔物は相変わらず無傷で、馬鹿にしたような目でゆっくりと自分たちを見下ろしている。それに比べて自分たちはどうだ。ろくに戦ったこともないカイが震える手で短剣を握りしめているだけ。
無茶よ! と泣きそうな声で叫んだのはルーサンだった。
「逃げて! あんただけでも……!」
「お前ら置いて逃げられるわけねぇだろ! それにノイシュさん達も助け、」
「助けられないわよ!」
カイの言葉を遮ったルーサンは激しく頭を振る。
「言ったでしょ! あの魔物は……竜はっ! 召喚者を喰って完成するの! 取り込まれたら最後、戻ってこないわ! 何考えてるのか知らないけどっあんたがここに来た時とは状況が違うの! 今見捨てたって誰もあんたのことは責め、」」
「何が違うっていうんだよ!」
カイの絞りだすような叫び声にルーサンはびくりと体を震わせて口をつぐんだ。そんな彼女を横目で睨みつけ、カイは何度か肩で息をした後、静かに口を動かす。
何が違うんだ? と。
「俺はお前らとノイシュさん達を助けに来たんだ。そこにこのデカブツが割って入ったってだけだろ。なら、こいつを倒して、お前らを助けだして、それで終わりだ。何も違わねぇ」
「無茶なこと言わないでよ! そんなことしたら、あんた死ぬわよ!?」
「死なねぇよ。だって痛そうだし」
ルーサンの制止に対し、カイの返答はどこまでも呆気からんとしていた。それにソラは言葉を失い、ルーサンは目を丸くしてぽつりと呟く。
「あんた……正真正銘の馬鹿なの?」
「はっ! ただの馬鹿じゃねぇ! 生き残りたいって思ってる馬鹿だ! だからこそ言わせてもらうけどさ!」
俺はお前らを信じてる! だからお前らも俺を信じて力を貸してくれ!
その言葉は、全然かっこ良くなかった。カイの体は相変わらず震えていて、顔色だって良くない。状況だって悪化するばかりだ。魔物がしびれを切らしたかのようにゆっくりと腕を振りかざし始めている。その腕を振り下ろせば、カイなんてひとたまりもないだろう。だというのに。
カイの口元に浮かぶのは笑みだった。瞳には目を逸らすことの出来ないほど強い光を宿している。何故かひどく堂々と。
絶望的な状況は何も変わっていないはずなのに、何かがあると、そう期待したくなるような空気をまとっていて。
「っ、カイ……っ!」
全ては同時だった。魔物が腕を振り下ろす。ソラがたまらずカイの名を呼ぶ。カイが覚悟を決めたように魔物を睨みつける。
そして。
「――オーチャード!」
凛とした声が響き渡った。同時に吹き荒れるのは清冽な風。魔物のまとう淀んだ黒とは違う、澄んだ風は魔物の腕を受け止め、弾き返す。
「なん……っ!?」
ソラが思わず声を上げ、カイが目を見張る。
巨大な竜巻が突如として出現していた。碧の光の粉をまき散らし澄んだ風が渦を巻く。激しい音を立てる風と距離をとった魔物の忌々しげな鳴き声が響く。一体何が起こったのか。その答えはすぐ背後から聞こえた。
「やっと己が"意志"を決めたか、風の乙女よ」
聞いたことのない朗々とした声。それにソラとカイが振り返れば、目の前の竜巻を操るかのように片手をゆったりと突き出した金髪の少年が見える。そしてその背後でふらりと立ち上がったのはルーサンだ。
えぇ、と小さく頷いて。顔を上げたルーサンは真っ直ぐにカイの方を見つめる。青い顔。それでも、あたしは、とカイに向かって呟いた声に先程までの怯えの色はない。
「……あたしは、あんたを信じるわ」
「ルーサン……」
カイが顔を綻ばせる。それが居心地悪かったのかルーサンが顔を僅かにそむけた。
「素直じゃないのう」
「っ、うるさいわよっ! オーチャードも集中して!」
少年がそんなやりとりを見て微かに微笑む。ルーサンが顔を赤くしてきっと彼を睨みつけるものの、オーチャードと呼ばれた少年は小さく肩を竦めただけだった。
そして一歩踏み出す。
さぁ、では望み通り聞こうではないか。我が契約者よ。そう言って。
「汝は己が"意志"を持って、風の龍たる我に何を"伝える"?」
清廉なる風に髪を遊ばせながら堂々と問いかけたオーチャード。それにルーサンは迷いなく前方を指差し、告げる。
まさしく主が如く。
「竜を、倒して」
「――心得た」
にやりと笑ったオーチャードの姿が、その一言と共にかき消える。風だ。碧い光をまとった風が渦巻いて、形を成しながら魔物に向かっていく。細く、長い、蛇のような巨大な肢体。魔物と同じ、けれどまっすぐに伸びた一対の角を持つ頭部。碧の鱗を煌めかせ、風の中から飛び出したそれはびりびりと鼓膜を震わせる鳴き声を上げながら魔物に躍りかかった。
龍――この世界の誰しもから畏敬の念を集める聖獣が。
「ぼさっとしないで!」
ルーサンの厳しい声が飛んだ。慌てて振り返ったカイに彼女は口早に告げる。
「助けたいんでしょ!? なら、あたしの言うとおりに動きなさい!」
「! 助ける方法があるのか!?」
「……前に見た竜を見た時、召喚者の死体は丁度心臓の位置から出てきてたわ。なら今回も同じはずよ」
カイに応じながら彼女は自動式拳銃を懐から取り出す。
「作戦は馬鹿なあんたでも分かるくらい簡単よ。竜はあたしとオーチャードが倒す。竜が死ねば召喚者も死ぬわ。だから竜が死ぬ直前にあんたは召喚者を助ければいい」
「そ、それで助かるのか?」
「さぁ」
「さぁって……!」
声を荒らげたカイをルーサンはちらりと見やって、仕方ないでしょ、と口を動かした。
「竜については分からないことだらけなの。今言った作戦があたしが知ってること全部を踏まえた上で、最大限あんたの願いを叶えるための方法だわ。やるもやらないも自由よ。実際、この作戦を実行したところで死ぬかもしれないしね……でもやらないのなら確実にあんたの大切な人は死ぬ」
「っ……」
「どうするの?」
ルーサンの静かな眼差しがカイに注がれる。彼が、返事に迷ったのは一瞬だ。
「……やるに決まってんだろ!」
カイの返事にルーサンは頷いた。ならばと言わんばかりにカイに向かって指示を飛ばす。
「出来る限りあの魔物に近づいて! 合図をするから魔物の心臓に切りつけなさい!」
「りょーかいっ!」
カイが返事と共に走り出す。その背を見送りながら銃を構えたルーサンは龍と組み合う魔物を睨みつけ……そっと口を動かす。
「……で、あんたはどうするの、ソラ」
「っ……」
どきりとしたソラは意味もなく視線を地面に落とした。
何も言えない、とソラは思う。カイの声を聞きながら、ルーサンの決意を目にしながら、それでも体を動かせなかったからだった。こんな自分を責めるのだろうか。そうソラは思う……が、続くルーサンの言葉はその予想を裏切って、どこまでも淡々としていた。
「別にあんたにどうこう言える立場じゃないわ。あたしは……あんたが何を選択しようとケチをつける気もない。誰も彼もがカイみたいに真っ直ぐでいられる訳じゃないんだから」
「……ねぇ」
「なに?」
「ルーサンはなんでカイに協力しようと思ったの」
ソラの口からぽつりと出た疑問。それにルーサンは小さく笑った。馬鹿みたいだけど。そう前置きして答える彼女の表情は明るい。
「腹が立つけど、あいつが……カイが、あたし達のことを信じてくれる、って言ってくれたから。だから、もう一度信じてみたくなったの。カイのことも。あたし自身の本当の気持ちも。後悔はもう、したくないから」
誰かを犠牲にするような生き方は、あたしだって本当は嫌なのよ。そんなルーサンの心の声が聞こえた気がした。カイと同じ気持ちが。そしてそれは。
自分も思ったんじゃなかったのか。そうしたいって決めたんじゃなかったのか――そう、ソラは思って。思い出して。
『古より渡りし風よ……』
凛とした声が響いた。瞼を下ろし銃を構えたルーサンの唇から静かに紡がれる、不思議な抑揚のついた歌。同時に彼女の周囲でもゆったりと巻き起こる碧風。魔法だ。龍と契約した契約者だけが使える奇跡の力。だがそれに見とれている時間はソラにはなかった。
鼓膜を震わせる不快な獣の鳴き声。碧の龍に巻きつかれ、のたうちまわる淀んだ黒き竜がソラたちの方を見て口元を膨らませる。何か、来ると思った。そこからは何も考えなかった。
「っ……!」
ソラは素早く弓を構え、つがえた矢を放つ。淀んだ黒と碧の風が吹き荒れる中、奇跡的にまっすぐ飛んだそれは過たず竜の右眼を穿つ。竜がのけぞり口元から不吉な黒い靄を溢れさせ、その喉元に碧龍が噛みつく。
同時に、ルーサンの紡ぐ歌が完成した。
『……空舞う鋭き隼の姿をもちて 我が意志を伝え 数多に知らしめよ』
――隼颯。
そう呟くと同時に碧の光を宿した目を開いた彼女は、そのまま拳銃の引き金を引いた。ありえないくらいの発砲音と共に弾丸が飛び出す。風が弾丸の周囲で碧の光をまき散らしながら渦をまく。小さな弾丸はすぐに竜の頭部ほどの大きさの碧風を纏った。それが、当たる。ちょうど魔物の胸の辺り。
魔物が咆哮を上げ、大きくその体を傾がせる。
「カイ!」
ルーサンが声を上げると共に、竜に絡みついていた碧龍の体を伝って登っていたカイが飛び出した。迷うこと無く竜の胸元、碧風が渦巻く中に突っ込む。竜の鱗が剥がれ、肉が露わになる、さらにその先へ手を伸ばす。
「ノイシュさん……ッ!」
必死に名を呼びながら手を伸ばしたカイが、ぐったりした様子のノイシュの体を掴んで魔物の体から引きずり出す。ノイシュの手から青い表紙の本が転げ落ちる。そしてそれが逆巻く碧風に紛れて。
清廉なる碧風が一際強く輝き、竜の断末魔が夜空に響いた。




