act.19
真っ暗な穴の正体は地下に設けられた細く長い通路だった。光もない道は人一人がやっと通れるくらいの細さで、先はようとして知れない。天井の高さだけは十分にあり身を屈めなくていいことだけが救いだった、が。
「……ひどい臭い」
湿っぽい空気にカビ臭さが混じっている。重く淀み、こもった空気に中に降りたソラが顔をしかめてつぶやくと、足元からカイのくぐもった声が聞こえた。
「……おいおい、そんなことより俺の心配を、」
「なんで勝手に落ちた奴の心配をしなきゃいけないんだよ」
「う……っ、ち、ちげーよ! 俺はここを見つけるためにわざとだな……!」
「ものはいいようだね」
「ソラ」
カイの言葉にいつものようにソラがそっけなく返していると、リューが穴の外からひょっこりと顔を出した。
「先に進む?」
「……そう、だね」
傍らでカイがゆっくりと起き上がる。そんな中、通路の先を見やったソラは目を細めた。行き先は当然分からない。この先がチモシー達の居場所に続いている保証などどこにもないだろう。おまけに湿っぽい空気のせいか、暗闇のせいか、何故か不安ばかり煽られるような道だ。
行かない方がいいんじゃないか。そう言おうとしたソラの言葉にかぶせてきたのは、行くしかないんじゃねぇ? というカイの正反対の意見だった。
「どうもここが通路の端みたいだしさ。一方通行だから道にも迷わなさそうだし」
「それは行く理由にはならないだろ」
「理由? そんなのそういう予感がするってだけで十分だろ。いかにも、って感じじゃん。隠し通路とか」
「……あのねぇ、本当に助けに行く気あるの?」
要領を得ないカイの回答に思わずソラは渋面を作って尋ねてしまった。いくらカイにこういった切迫した経験がないとはいえ、あまりにも意見が現実的ではなかったからだ。苛立ちと一抹の不安……だがそれも、振り返ったカイの一言により杞憂に終わる。
「? あるに決まってるだろ」
返事と共にカイの顔に浮かぶ表情は至極真面目なものだ。なんでそんなことを聞かれるのかもわからないといった風ですらある。逆にソラが毒気を抜かれて一瞬返事に困ってしまって……その間にも身を翻したカイは待ちきれないと言わんばかりに通路の先へ進み始めてしまった。
「あ……ちょ、ちょっと!」
「今度はなんだよ……っと?」
鬱陶しそうに振り返ったカイに向かって、我に返ったソラはリューから受け取ったそれを投げてよこした。まだかろうじて穴からの光が届く範囲にいたカイが手を差し出して受け取ったのは薄汚れた鞘に収まった短剣だ。不思議そうな顔をするカイに、自身も降りてきたリューから弓矢を受け取ったソラが肩をすくめる。
「用心のためだよ。ここにあった武器をリューに頼んで探してきてもらったんだ……行くことは止めないけど、万が一のことを考えるなら持っておいた方がいい」
ソラの言葉にカイがかすかに顔をしかめた。
「……俺は誰も殺したりしねぇぞ?」
「だから用心のため、って言ってるだろ」
もう一度ソラが繰り返して言えば、不満そうな顔をしながらもカイがそれを腰にさした。それを見届けてソラは一つ頷く。
「入った順番からして、カイが先頭にならざるを得ないんだけど……無理はしないでよ? 何かあったらちゃんと言うこと。あとなるべく音を立てないように」
「分かってるって。お前は俺の母ちゃんか」
ソラの言葉に面倒くさそうにかえしてからカイが歩き始める。本当にわかっているんだろうか。不安になったものの、立ち止まっていても仕方ない。軽くリューの方を振り返れば、目があった彼女は静かに頷き返した。それを確認したソラはもう一度前を向き、一つ深呼吸をしてからカイを追って歩き出す。
細い道は、どこまでも暗かった。
***
大丈夫かい。そんな言葉が鼓膜を揺らして、そうして初めてジンは我に返った。
「あ、れ……」
目を瞬かせて辺りを見回す。見えたのは柔らかな橙色の光が差し込む宿屋と、彼女の目の前でほっとしたように胸を撫で下ろしている女将の姿だ。足元には買い物終わりなのか、果物でいっぱいの籠が置かれている。
「よかった……ずっと一人で突っ立てるもんだから心配したよ」
「え……? 一人だなんて……」
そんなはずがない。女将の言葉にそう否定しかけ、その言葉の意味をよくよく考えた時だった。
堰を切ったように彼女の頭の中に今までの出来事が流れだす。
ノイシュと呼ばれた男が現れたこと。
チモシーとルーサンが連れ去られたこと。
カイが悔しげに顔を歪めて走り去り、ソラがそれを追いかけて行ったこと。
二人を追って行きかけたリューが一瞬だけ寄越した視線。
そうしてそんな全てを見ながら、根が生えたように動けなかった自分。
「あ……」
「! ちょ、ちょっとあんた……!」
一瞬、ひどい目眩がして体が揺れた。音を立てて世界が遠ざかる。慌てたように声を上げた女将に体を支えられ、気遣わしげな顔で何事か言われた後で椅子に座らされた。なんと言ったのだろう。そうジンがぼんやりと考える間にも女将が後ろを振り返る。扉の方へ歩いて行く。向かう先には何故か兵士がいて、ジンの方を指さして何かを喋れば眉を吊り上げて女将が何かをまくしたて始めた。
どれも目の前で起こっている出来事だ。だというのにどんどん現実感を失っていく。それと共に体の力まで抜けていくような気がして、ジンは情けなさでいっぱいになった。
何をやっているんだ、自分は。そう思う。早くソラ達を追いかけなくては。そうも思った。少なくとも、宿を飛び出していった彼らを見た時はそう思ったはずだった。
けれど……そう。その時に思い出したのだ。彼女は。ジンは。
――違えるな。己の望むものと成すべきことは常に同じとは限らない……"騎士"であるなら、決してそのことを忘れてはならぬ。
脳裏をよぎる暗闇の中の光景。月夜にジンと同じ色の瞳を閃かせ、紡がれた冷たい彼の声が蘇って彼女は小さく息を飲んで体を震わせた。
「たがえ、るな……」
そうだ。違えてはならない。無意識の内に怯えたように両腕で体を抱きしめながら、ジンは呟いて繰り返す。
違えてはならない、と。大切なのは、自分が何をしたいのではなく、"騎士"として何をすべきかなのだ。"騎士"は常に正しくあらねばならない。間違えることなど許されない。
ルーサンとチモシーは人殺しだ。理由はどうであれ、それは動かない事実。ならば。
罪を背負った彼らを、助けることなど許されない。
「……っ」
己の中から導き出した結論。それにしかし、ひどく胸が痛くなったジンはぎゅっと目をとじた。瞼の裏に映るのは、ソラであり、ルーサンであり、チモシーだ。"騎士"として許しがたい罪を犯しておきながら、ジン自身は見捨てたくないと思ってしまう人たち。そう思うことは間違いだとわかっているのに。もう自分は間違えないと誓ったはずなのに。
どうすればいいのか。何をすべきなのか。考えても考えても納得のいく答えは出てこない。思考は空回りをするばかりだ。ぐるぐると堂々巡りの考えばかりが渦を巻き、次第に底の知れない深い闇となってジンを足元から飲み込もうとする。それが怖い。
何も出来ず、何も成せず、立ち止まっている、そのことが。ただ、ただ、怖くて。
――だれか助けて、と。ジンが胸の内で悲鳴のような祈りを叫んだ時だった。
「……だから言っているだろう! 騎士様に魔物を退治して頂かなければ、この街は滅びるんだぞ!」
突如聞こえてきた兵士の怒鳴り声。それにジンは瞼を上げ、ぼんやりと呟いた。
「……まもの、たいじ……」
魔物退治。その言葉が意味を成し、ジンの胸の内にすとん、と落ちる。そうだ、それだ。覚束ない思考の中で妙に納得し、彼女はふらりと立ち上がる。
「だからってこんなか弱い女の子に魔物の相手なんかさせられる訳がないだろう! お前たちだって敵わなかったんだろう!? 騎士様だって人間なんだ! こんな状態の子を戦わせるなんて、」
「行きます」
怒ったようにまくし立てる女将の脇をすり抜け、ジンは静かに声を上げた。はっとしたように口をつぐんだ女将がジンの方を振り返る。
「あんた……何を言ってるんだ! まだ調子悪そうなのに……!」
「場所は」
「私が馬で案内致します」
「ちょっと!」
女将の言葉を無視してジンは兵士の後に続いて宿を出、導かれるままに兵士が連れてきた馬に飛び乗った。後ろから女将の声が飛んでくる。だがそれに構うこと無くジンが兵士に頷けば、彼は馬を走らせ始めた。
それからはあっと言う間だ。ジンが連れて行かれたのは街の西門で、そこには慌ただしく動きまわる兵士達の姿があった。皆、どこかしら傷を負っていて、数人は動けないほどの傷を負っているものもいる。急速に陰り始めた陽の光に変わって篝火が灯され始めていた。そのせいだろうか。木の焦げた臭いが漂う中で歩きまわる兵士達の顔色はひどく悪そうに見える。
そして武器の出し入れのために半分だけ開かれた門の向こうから響く大砲の音、爆発と閃光、もうもうと立ち上る白煙。
一拍の静寂と、その中からゆらりと現れる巨大な影。
それはジンがエレミアで見たもの同じ。"龍"によく似た頭。濁った黒の鱗で覆われた獣のような肢体。なにより穢れた赤き瞳を持っていて――
「っ――!」
それで十分だった。考えるよりも先に嫌な予感に駆り立てられたジンは兵士の制止の声も聞かずに馬の腹を蹴る。
門の外では魔物が狂ったような咆哮を上げ、腕を振り上げていた。振り下ろされた爪で薙ぎ払われ、風圧で吹っ飛ばれた兵士たちの悲鳴が響く。門の中でもどよめきが走った。門を閉めろ! 恐怖に駆られた声があちこちで上がり、まだかろうじて指示を仰ぐ余裕のある他の兵士とあちこちで小競り合いが生じる。その間に生き残った兵士たちが門の外から命からがら街に戻ってこようとする。
そんな混乱のさなか、兵士の群れに逆らってジンは門を抜けた。魔物と門との距離は少し離れていたが、馬の足ならば問題はなかった。
「――コールブラント」
大砲を打ち捨て逃げていく兵士の波に逆らって馬で駆ける。静かに名を呼び腰に差していた剣を引き抜けば、彼女の意思に応じたように一際眩しく刃が輝いた。光の粒が日が落ちたばかりの暗闇の世界に溢れる。そこでやっと、魔物がジンの方を振り向く。
禍々しく湾曲した爪を鮮血で濡らし掴んでいた兵士の死体を投げ捨てた魔物は、穢れた赤き瞳を僅かに細めてあざ笑うかのように喉を鳴らした。
そしてそれに、ジンは。
「……いい、度胸だ」
口元が自然と釣り上がる。乾いた笑みを浮かべた彼女は馬を少し離れたところに止めて飛び降りた。
ジンと魔物の間にはもう誰もいない。打ち捨てられた大砲の残骸。息絶えた兵士の亡骸。それらが月明かりに照らされ、そして空を渡る雲によって光が遮られて再び暗く沈む。
ひどく気持ちは高ぶっていた。やってやる。そんな気持ちばかりがジンを突き動かしている。そこに感情はない。目の前に倒れている兵士を見ても、普段のジンからは考えられぬほど気持ちは動かなかった。
エレミアで初めてコールブラントを抜けた時とひどく似ていて、けれどそれとは何かが根本的に異なる今の感覚。自分の中の大切な何かが乾いていくような。それに怯える自分がいて、もっと考えるべきことがあるだろう、と叫ぶ自分がいる。
けれど。
「それが、どうした」
自分自身に呻くように吐き捨てて、ジンは剣を静かに構えた。やってやる。何度も胸の内で繰り返して己を殺す。言い聞かせる。
自分は"騎士"なのだと。
民の声に応じて剣を振るうための存在なのだと。
だから……だから。
これで、いい。
「っ……!」
つきりと痛む己の胸。その理由を考えることが怖くて、ジンは気合の声と共に魔物に向かって駆け出す。それを見た魔物が咆哮を上げる。
それが、戦いの始まりの合図だった。




