act.15
***
その日、交易の街カペレの宿屋の一人息子、カイ・クレームは多いに悩んでいた。それはもう盛大に。彼の母親もカイの顔を見てぎょっとするくらいなのだから相当なものである。おまけに至極真面目な顔をした彼女にあることをカイに尋ね……それに憤慨した彼が、いつもの配達という名目で家を飛び出したのはつい先程のことだ。
「ったく……! 子供扱いするなよな……!」
いつものように警備隊への配達を終えたカイは、そのまま館の中庭に座り込んで行き場のない不満を一人ぼやいていた。明るい日差しに照らされた中庭には、打ち付けられた木の杭に向かって模擬剣を振るう男たちの姿が幾人か見られる。鍛錬に集中しているのか、はたまた興味が無いのか、カイに話しかけてくるものはいない。カイとしてもそれで構わなかった。
そもそも彼自身が考えていることがそのまま口から出ていることに気づいていないのだ。
「あんまりだろ! 俺だってもう十五歳なのに!」
「なんだなんだ、昼間っから叫んで……腹の虫の居所でも悪いのか?」
「だからお腹は痛くないって言ってるだろっ」
そこで背後から声をかけられたカイはやけくそに叫んで振り返った。そうして視界に飛び込んできた声の主にさっと顔を青くする。
「おうおう、言ってくれんじゃねぇか」
「の、ノイシュさん……」
にやりと笑いながらそう言ったのはノイシュだ。尊敬するその人にとんでもない口のきき方をしてしまった……そんな後悔から声を震わせるカイにノイシュが小さく肩を竦める。
「お前が珍しく気難しい顔してるって他の奴らが言ってたから様子を見に来てやったっていうのによ……その意気なら心配は無用、ってとこか?」
「珍しく、って……まるで俺に全然悩みなんかないみたいな、」
「まぁその前に腹の虫の居所が悪い、ってのは腹が痛いって意味じゃねぇんだけどな」
「う……」
口にしかけた言葉の全てにさらりと返され、カイは小さく呻いて閉口した。そんなカイの様子が面白かったのだろう、耐え切れないと言わんばかりにノイシュは噴き出した。
「っ、ちょ……! そんなに笑うことないでしょう!」
「っぶははっ……悪ぃ悪ぃ……っでもこればっかりはっ……」
「ノイシュさん……!」
カイの隣に座り込んだノイシュはその後しばし笑い続けた。さすがに鍛錬をしていた人たちも気になりだしたようで、ちらちらと視線を向けてくる。その視線をカイが顔を赤くしながら耐えていたところで、ノイシュが僅かに涙の浮かんだ目元をこすって何度か大きく息をした。
なんとか収まったらしい。
「……なんなんっすか、もう」
「いやぁ、つい、な……お前からかいがあるもんだから」
「俺は真剣に悩んでるんっすよ!?」
「だから悪ぃって言ってんじゃねぇか。お詫びに相談にのってやるからよ」
さぁなんでも言ってみろ。今の今まで爆笑していた当の本人にそう言われたところで、どうして安々と相談できるだろう。そう思ったカイは不審な目を向けるものの、ノイシュは至って真面目な表情だ。
「……今度は笑わないでくださいよ?」
小さくため息をついてからそう前置きをして、カイはゆっくりと話し始めた。
話したのは何を隠そう、昨日のことだ。町外れの魔物を退治しに行ったこと。そこでただ見守ることしか出来なかったこと。そんな中で到底太刀打ちできそうになかった砂蠍を、それでも命を失うほどの傷を負うことなく屠ってみせた彼らのこと。そして、直後に不意をついて襲ってきた謎の男のこと。
「なんだ、一晩の間にとんでもない経験をしてんじゃねぇか」
「えぇ、まぁ……」
「? 元気ねぇな。普段のお前なら大喜びしそうなもんなのに」
「……そうなんすけど」
ノイシュの言葉にカイはまた一つため息を吐いた。それでもやっぱり心は晴れない。晴れないからこそ、悩んでいるとも言えるのだけれど。
なんせ、ノイシュの言う通りなのだ。普段の自分ならば間違いなく頭を抱えるどころか小躍りしているだろう。いや、実際心は湧き立っていたのだ。魔物が倒された、その時まで。
夢にまで見た冒険だったから。昨日のアレは間違いなく。子供のお遊びではない、一歩間違えれば命だって落としかねない本物の戦い。本で読むか、旅人からしか聞けないような手に汗握る体験。それが出来ると思った。だから彼らについていった。そして実際にそうなった。
なのに、どうだ。終わってみればジン達の華々しい活躍よりも何よりも、ルーサンとソラの言葉ばかりが頭の中をぐるぐると回る。
何の躊躇いもなく敵は殺すと言った彼女の言葉が。
力なんて欲しくなかったと叫んだ彼の言葉が。
「……なんか俺って何もできねーのかな、って思って」
まとまらない気持ちのままに動かした口から出てきた言葉。だが、存外その言葉はカイの中ですとん、と受け入れられた。
そう、無力感なのだ。ルーサンもソラも間違っていると思う。思うのに、言い返せない自分がいる。
言葉が足りないとか、そういうことではない。もっとそれ以上の決定的なものが違うのだ。あまりにも明確で、残酷なくらいに彼らと自分を隔ててしまうものが。
「――力が、俺にはないから」
だから何も出来ない。どんな言葉も届かない。ひどく苦しそうな顔をしていた二人を助けてやれる言葉だってかけられない。悔しさを滲ませたカイが、そこまで呟いて拳を握りかけた時だった。
「そりゃあ言い訳だな」
「!」
ずっと黙っていたノイシュがぽつりと呟く。低く、鋭い言葉。それにカイは顔を跳ね上げた。ノイシュと目があう。そこには予想以上に厳しい光を宿っていた。
「言い訳、て……」
「言い訳だろう。力がないから何も出来ないなんてのは」
とりつく島もないノイシュの返事にカイは返すべき言葉を失った。無意識の内にでも慰めを期待していたのだと今更ながらにカイは思う。それが情けなく、その一方でしかし、あんまりな言いようじゃないか、と思う自分もいた。
そんな言い方しなくても。そう思うからだろうか。ノイシュの声はひどく冷たい。冷たいそれが、それだけがカイの鼓膜を揺らしていく。
力がないから何も出来ないんじゃない。そんな声が。
「何もする気がないから力がないんだ。所詮、お前は口先だけだったってことじゃねぇか。普段から勇者になりたいだとか言ってたことも含めてな」
「っ、そんなこと……そんな訳ないだろっ! なんてこと言うんだよ!? 何もする気がないなんて! 俺だってあいつらを助けたいって思ってるし、勇者にだって本気でなりたいって、」
「じゃあウジウジ悩んでんじゃねぇよ!」
「っ……!」
ノイシュの言葉に食ってかかっていたカイは、怒気をはらんだその一喝に息を飲んで目を見開いた。
「悩んでる暇があんなら努力しろ! お前の手はいくつある!? 二本だろう! お前の足は!? ちゃんとついてるじゃねぇか! お前は健康で、何も欠けてなんかいねぇ! なら努力さえすれば、きっと力はお前につく! 誰かを守りたいんなら、剣をとって修行すればいい! 誰かの傷を癒やしたいなら、筆をとって勉学に励め! やり方なんていくらでもあるんだ! 諦めんのはそれを全部やってからにしろ!」
「全部……」
「そうだ!」
呆然とカイは繰り返す。それに頷いたノイシュは僅かに上がった呼吸を落ち着けるかのようにしばし黙った後、静かに声を落として続けた。
「……そうすれば力は自ずと手に入る。特別なんかじゃない俺達でも。それがお前に出来るか? 最後まで己を信じてたゆまず努力を重ねることが。どれだけ失敗しようが周りになんと言われようが己の意思のために進み続けることが」
「……そ、れは……」
風が吹いた。乾いたそれは中庭に植えられた木々の葉をそよがせ、木漏れ日を揺らめかせていく。葉の擦れ合う微かな音。ノイシュが口を閉ざした世界の中で、何故かその音ばかりがひどく耳につく。そしてそんな世界で、ノイシュの言葉は黙り込んだままのカイの中でぐるぐるとまわって。
「っ……!」
おもむろにカイは己の頬を両手で叩いた。派手な音。それに一拍遅れてじん、と痺れるような痛み。
「お、おい……」
カイの突然の行動にノイシュも驚いたようだ。心配するような表情を浮かべた彼にしかし、カイは思い切り頭を下げた。
「ありがとうございます……っ! ノイシュさんのおかげで、俺、目が覚めました……ッ」
「カイ……分かってくれるのか」
「はいっ」
威勢のいい返事をしながらカイは顔を跳ね上げた。目の前にある安堵したようなノイシュの顔。それを見てますますカイの胸の内は熱くなる。
最後まで己を信じ抜くこと。己の意思のために進み続けること。そうすればきっと特別でない自分たちでも力が手に入る。カイはノイシュのかけてくれた言葉を何度も胸の内で繰り返した。その度に自分でも何か出来るかもしれないという気になってきて、ぐっと拳を握りしめる。
まるで魔法の呪文だ。唱えるだけで今すぐにでも何かをしたいという気になってくる。諦めずに前を向いていようという気になる。
勇気をくれる。
「俺、ノイシュさんの言うとおり頑張ってみようと思います! あいつらに今度こそ何か言ってやれるように!」
カイの息巻く声にノイシュはにやりと笑った。
「悪くない心構えだな」
「はいっ! とりあえず剣の修行を続けていきたいっす!」
「大歓迎だ。そう言うならお前の仕事の合間にでもしごいてやるように他の奴らに言って、」
「――リーダー」
そこで盛り上がる二人の空気に水を差すような硬い声がした。カイが我に返れば、館から顔を出した男がノイシュに走り寄って何やら耳打ちをしている。
「そろそろ……が来る頃かと」
「場所は」
「西門です」
「……そうか、分かった」
馬の準備をしておいてくれ。ノイシュが厳しい表情を浮かべて男に告げれば、一つ頷いた彼が館の中に引っ込む。
「ノイシュさん……?」
「すまん、カイ。盛り上がってるところ悪ぃが……」
「仕事っすか?」
「まぁな」
とにかく、だ。小さく肩をすくめた後、そう言ったノイシュはカイの頭の上にぽんと手を置いた。
「今のお前の気持ちは何があっても忘れるなよ?」
「はいっ!」
「いい返事だ」
カイの返事に満足気に笑ったノイシュは、別れの挨拶代わりにひらりと片手を振って館の中に消えていった。
その背はどこまでもたくましく、柔らかな日差しの中で輝いている。これが戦う男の姿なのだ。目指すべきところなのだ。中庭に立ち尽くして改めてそのことを実感したカイは胸を震わせて。
「素晴らしい方だな」
「っ……!?」
不意に背後から声が響いてカイの心臓は飛び上がった。慌てて振り返ってみれば、街道に面した中庭の柵の向こうから彼を見つめる二つの影がある。
「じ、ジン! それにリューも……どうしたんだよ?」
「女将殿にカイの様子を見に行くよう言われてな。ここの場所を知っていたリューと一緒に様子を見に来た次第だ」
「様子を見にって一体いつから……」
「お前が昨日のことを話し始めた頃からかな」
それって最初からってことじゃないか! さらりと返されたジンの言葉に顔を真っ赤にしたカイがそう叫びかければ、リューが諫めるようにジンを見上げて口を開く。
「……早く戻らないと。私達も時間とってる」
「そうだな。なら私達はここで待っているから、カイは用事が済んだら出てきてくれ」
ジンに笑顔を向けられる。その表情はどこまでも邪気のないもので、毒気を抜かれたカイは一つ頷いてその場を離れた。
まっすぐに館の方へ向かう。元より用事は配達だけだったのだ。それでも長居していたのはなんとなく気分が晴れなかったからで、相談にのってもらった今は悩みだって跡形も無い。
お袋の雷が落ちる前に帰らねぇと。そう思いながら館の中に入ったカイは、その時になって建物の中に人気がないことに気がついた。よくよく見れば普段は無造作に置かれている武器の類も減っている。ノイシュの他にも皆出払っているらしい。
でも、総出で? 滅多にない出来事にカイが小さく首を傾げた時、外から何やら騒がしい馬の足音がした。さらにそれに混じって耳に届いてくるのは鎧の擦れ合う耳障りな金属音。ただならぬ様子にカイが館の外へ飛び出せば、物々しい空気をまとった十数人の騎馬隊が警備隊の建物の前で立ち止まっている。
いや、正確に言えばジンの前だ。隊長らしき兵士の一人が彼女と言葉を交わし……そしていくらも経たない内に再び馬に飛び乗った。
それを合図に駆け出す騎兵たち。粉塵と通行人達の不満気な声を残して彼らが去っていったのは西門の方だ。
「な、なんなんだよ……」
「魔物が出たらしいぞ?」
「魔物!?」
カイの驚いた声に近づいてきたジンが少しばかり低い声で答えて頷いた。
「つい先程らしい。それほど大型ではないと兵士殿は言っていたが……」
「そう、なのか……あ、でもそうか。じゃあ警備隊が誰も居ないのも魔物の対処にあたってるからか」
「む? 警備隊、というのは……」
僅かに首を傾げたジンに、ここのことだよ、とカイは自分が今しがたいた建物を指さしながら口を動かした。
「商人の護衛をしたり、こうやって街を守るために魔物を退治にしに行ったりしてるんだ」
「なるほど……ふむ……だがしかし……?」
「なんだよ?」
カイの説明にジンが軽く頷く。だが妙に納得しきれていない顔つきだった。口元に手を当て何事か考える風の彼女。それが気にかかってカイが声をかければ、ややあってからジンがゆっくりと口を開いた。
「いや……妙だと思ってな」
「妙?」
「常に門に詰めている兵士達ですら知ったのはつい先程らしいのだ。余計な混乱を街の者に与えぬよう情報統制もしているから、街の者からこの短時間で噂を聞いたとも考えにくい……だが、カイの話で行くと兵士たちが出るよりも早く警備隊は動いていたということになるだろう?」
「それは……で、でもさ! 警備隊だって日に何回か街を巡回してるんだ。その時に偶々魔物が出たのを知ったとかなら、」
「――それだけじゃない」
「え?」
そこで傍らから聞こえた言葉に思わず胡乱げな声を上げてしまったのはカイだけではなかった。ジン共々、声の主であるリューの方を見やる。そうすれば相変わらずの無表情のまま、リューが静かな金の瞳で彼らを見返しながら口を開いた。
「魔物の出方も、変」
「出方って……」
「魔物だって獣。大きな獣が居着くところには他の獣は寄ってこない……たとえ今までいた魔物が昨日死んでしまったとしても」
「……魔物が出てくるのが早過ぎる、ってことか」
やや間を置いてから淡々としたリューの言葉を噛み砕いたカイがそう結論を出せば、彼女は小さく頷いた。
「――何もなければいい、けど」
ぽつりと呟いたリューはそれきり黙りこむ。その言葉の先がなんなのか、問おうとしたカイは言いようのない不安に襲われて開きかけた口を閉じた。代わりに振り返って見つめるのは警備隊と騎馬兵たちが向かっていった西門の方角。
穏やかに降り注いでいたはずの昼の日差しが、僅かに陰ったような気がした。




