act.12
***
その部族には、一つの伝承が伝わっていた。
白き乙女の伝説。
かつて長き戦いの果てに困窮し死に絶えかけていた部族の前に現れた乙女の話。
絶望の縁にいた彼らの前に現れた彼女は、彼らに風の加護と祝福を与えた。するとどうだろう。彼らの声はどこまでも響き、聞いたものは人であれ動物であれ彼らに力を貸すようになった。他のものの声はどこであっても彼らに届き、彼らは全てを知ることが出来た。
それ故に白き乙女に先導された部族達は幾つもの戦を重ね勝利していくこととなる。彼らは白き乙女を崇拝した。彼らは白き乙女の言葉に従った。どんなに無慈悲な命令であれ。どんなに他のものの生命を奪う命令であれ。富と繁栄をもたらす彼女の言葉に盲目的なまでに。
そんな、ある時だった。部族長の息子が恐ろしい事実に気付き、部族の人間たちに訴え始めたのは。
白き乙女に従うことの愚かさを。彼女に従うまま、自分たちが行っていたのはただの殺戮であったことを。彼らの部族は確かに誰よりも強く豊かになったが、彼らの周りは血だらけで、もう何も息をしているものがないことを。
白き乙女がもたらしたのは祝福などではない、災厄だったのではないか。
息子の考えは次第に戦に明け暮れていた部族の人間たちの間にも浸透していった。一人、また一人と男達は戦うのをやめ、女達は白き乙女にかしづくのをやめた。そうして、白き乙女は部族長の息子によって幽閉されることとなる。
彼らの窮地を救った英雄などではない。
彼らと彼ら以外の命あるもの全てに災厄をもたらした忌み子として。
そうしていつからか、こう囁かれるようになった。
白き子供は災いの子。その者の言葉に決して従ってはならぬ、と――――。
***
風が、うなった。
耳元で鼓膜を揺らす。動きにあわせ幾枚もの布が舞う。腰を捻る。低く身をかがめる。手首を複雑に揺らす。その度に鮮やかな布が空気をはらんで翻る。風の音。衣擦れの音。そして腹に響く太鼓の音。次第に早くなるそれに合わせて動きを早めていく。
より俊敏に。より激しく。何より力を込めて。
舞いながら足を踏み鳴らし地面を蹴った彼女は、最後の太鼓の音と共に片膝をついて地面に着地した。
「…………」
静寂。その中でも肌で感じる人々の感嘆の視線。あるいは心奪われたようなため息。無心に舞っていた彼女に訪れる現実。いつものことだ。どこか冷めた気持ちで思いながら、ゆっくりと視線を上げる。
ぴんと背筋を伸ばせば吹き抜ける強い風に服の裾が音をたてて揺れた。目の前には見慣れない服を着た何人もの旅人たち。そして彼らを取り囲むようにしながら、張り詰めた面持ちで彼女を見つめる部族の人間。
それに彼女は、半分に割れた面に手を伸ばして躊躇うことなく外す。
「――ようこそ、我が部族へ。我ら|風の民<<アマジーク>>は貴方がたを歓迎いたします」
定められた言葉を紡ぐ。その彼女の顔を目にした旅人たちの顔が決して好ましくない方向に引き攣った。けれど。
それもまた、いつも通り。そう思いながら目を伏せた彼女は、深々と一礼して身を翻した。ゆったりとした服の裾が風をはらんで踊る。それを合図に背後からは部族長の旅人を労う声が響き始め、彼女の元にはしずしずと部族の女達が近寄ってくる。
「衣替えの準備は出来ております。どうぞ、こちらへ」
丁寧な物言いだが有無を言わせない口調で妙齢の女性の一人に告げられる。天幕の中に入れば彼女と同じ年頃の少女達が衣服を脱がせ、お湯で濡れた麻布で彼女の体を拭き始めた。
その間、誰一人として彼女と目を合わせようとしない。彼女に服を着せるため触れてくる少女達にいたっては手が震えていた。怯えているのだ。彼女に。
白き乙女は忌み子だから。とうの昔に慣れていたはずの事実が何故か今日ばかりは引っかかって彼女の胸がちくりと痛む。その時だった。
「おやめください、若様!」
神経質な女の声に彼女は顔を跳ね上げた。天幕の外からだ。何か説得するような声。焦ったような制止の声。そしてばたばたと忙しなく走り回る足音。
どんどん騒がしくなる外に彼女に服を着せていた少女達が驚いたように手を止める。そして年かさの女達は一様に顔を手で覆い、正体に気付いた彼女は小さくため息を吐いて。
声の主は天幕の入り口の布からひょっこりと顔を出した。
「ルー! 今日もお疲れ様!」
そう言って、入ってきた褐色の肌の少年は邪気のない笑顔で微笑みかける。
彼女――ルーサンに。
「――ですから、私と関わるのはおやめください」
連れだされた満点の星空の下、そう静かに諌めたルーサンに彼女の手をとって人目につかない草原へと誘っていた少年はくるりと振り返った。
どうして? 純粋な疑問の声と共に首を傾けられる。さらりと彼の癖のある黒髪が風に揺れた。その様はルーサンよりも年上のはずなのに幼さを感じさせて、彼女は思わず緩みそうになるのを耐えながら力をこめて眉根を寄せる。
「理由などありません。定められたことなのですから守っていただかなければ」
「まるで婆やみたいなことを言うんだね? ルーは」
「笑い事ではありません」
微かに笑いの混じった返答に少しばかりむっとしながらルーサンが諌める。けれど彼は面白そうに眉を釣り上げただけだった。
「そう言うなら反論させてもらうけど、決して掟で定められてなどいないんだよ? ルーと関わることは。皆がルーと関わりたがらないのは彼らの気持ちの問題だ。なら、俺が俺の気持ちに従ったって誰も罰することなんて出来ないはずだろう?」
「ですが若様、」
「チモシー」
言い募ろうとしたルーサンの唇を人差し指でそっと押さえた少年は己の名を幾分強めに口にする。そうして、驚いて口をつぐんだ彼女をじっと見つめた。
「そう呼んでって言ってるよね? 俺達は兄妹なんだから」
その言葉と彼の視線にルーサンは落ち着きなく視線を逸らした。どこまでもまっすぐで、どこか有無を言わせない意思も垣間見せて。けれどほんの少し悲しそうな瞳に彼女はとことん弱い。
「う……お、お兄ちゃん」
「うーん……ちょっと違うけどまぁいっか」
ややあってからおずおずとルーサンが口を開けば、視界の端で少しばかり不満そうな表情を浮かべながらも少年は微笑んだ。唇から離れる微かな体温。それにほんの少し名残惜しく思う自分がいて、慌てて我に返ったルーサンはさっと顔を俯ける。ただ、彼女の兄――チモシーはそれに気づかなかったようだ。
「そんなことより、ルーにおみやげがあるんだ」
「おみやげ?」
嬉しそうにそう言って懐から小さな包を取り出す。くたびれた紙と麻ひもで幾分乱暴に包まれたそれにルーサンが首をかしげると、うん、と無邪気に頷いたチモシーが包を開いた。そして小さく声を上げたルーサンは目を丸くする。
出てきたのは色とりどりの果実だった。彼女の拳より少し小さいくらいの丸く赤い果実や一口大に切られた黄色の果実の欠片。宝石のように丸い紫色の果実もある。上から砂糖でもまぶしてあるのだろう。青白い月明かりの中でもそれはきらきらと輝いて。
「これ……」
「ルーが好きだと思って。さっき来てた商人から買ったんだ」
「そんな」
ルーサンは驚いて顔を上げた。
確かに砂糖漬けの果物は彼女の好物だった。商人がこうして部族に来る度、他の人間の目をかいくぐってこっそり買うほどに。
ただ、そのことは誰も知らないはずだ。知らないからこそ彼女は商人から買えるのだし、何より部族の誰も忌み子である彼女の好みなど知ろうとすら思わないだろう。そう思ったから、彼女は誰にも……実の兄であるチモシーにさえこのことは話していない。
なのに、どうして。そんなルーサンの思いを察したかのようだった。
「見てれば分かるよ。他でもないルーのことだから」
チモシーがなんでもないことのように言う。にこりと笑みを浮かべる。それにルーサンは何も言えず、ただただ目を見開いて。
そして。
「……駄、目よ」
「ルー?」
「駄目だわ……」
緩く首を振りながら呆然と呟いたルーサンは一歩後ずさった。チモシーが訝しむような表情を浮かべる。それにルーサンの胸がつきりと痛くなる。そんな顔をして欲しいんじゃない。そう思った。思ったけれど。
それは、自分の意思だ。決しては持ってはならないもの。言い伝え故に。
そして何より、彼自身のために。
「駄目よ……! これ以上あたしと関わらないで……っ」
悲鳴のような声を上げたルーサンにチモシーは笑みを消して目を丸くした。
「え……? 何をいきなり……」
「いきなりなんかじゃないわ! 前からずっと思ってたことよ! お兄ちゃんはいつかここの部族長になるのよ!? そんな人間があたしなんかと関わっていいはずがない!」
「そんなこと……それを言うならルーだって部族長の娘だろう?」
「それ以前の問題よ!」
顔をしかめて反論するチモシーに、ルーサンはいよいよ声を張り上げる。無意識の内に顔の左側を押さえながら。
左の額から頬にかけてはしる、忌まわしい刺青を隠しながら。
「あたしは忌み子なのよ!」
それは一つの伝承だ。
白き乙女。戦と殺戮をもたらした血塗れの伝説。もう何百年と前の話だ。けれど確かに部族の中で息づいている。時たまに産まれる肌も髪も白い子供という形で。
生まれた子供が何か特別な力を持っているわけでもない。それでも伝説の再来を恐れる部族の者達は子供の額から頬にかけて刺青を彫り忌み子とする。
部族の誰かが間違って、忌み子の言葉に従ってしまわないように。
忌み子がしきたり以外の自分の意思を伴った言葉を話さぬよう監視するために。
それがしきたりだ。なにも、掟で定められているとか定められていないとか、そういう問題ではない。彼女達は流浪の民だ。|風の民<<アマジーク>>だ。閉ざされた部族の生活は掟と同じくらいに人々の感情で左右される。彼女の兄は今の部族長の息子だ。順当に行けば彼が次の長となる。そしてそれだけの資質も魅力もあるということを、チモシー以外の誰もが知るところだった。
けれど、忌み子である彼女と関わっていればそれさえも危うい。どんなに馬鹿らしい理由でも感情はたやすくそれを正当化する。
「だから…!」
「ルーはそれで悔しくないの?」
自分なんかと関わるのはもうやめるべきだ。顔を俯けて絞りだすように繰り返しかけたルーサンの言葉は、やけに淡々としたチモシーの言葉で遮られた。はっとして顔を上げる。そうすればルーサンの方を変わらずじっと見つめるチモシーと目が合う。
夜の草原のように静かな深緑の瞳と。
それでもどこか理不尽な現実に悲しみと怒りを滲ませたような苛烈な光を宿す瞳と。
目が、あって。
「……悔しいに決まってるじゃない……」
拳を握りしめ、唇を噛み締めて顔を俯ける。
頬に伝う熱いそれを感じながら。
労るように回された腕の暖かさを感じながら。
いつかこの現実に自分か兄かのどちらかが押しつぶされてしまうのではないかと、恐れながら。
***
「……喋ったのね」
扉の軋む控えめな音がした。それに夢とも思い出ともつかないまどろみから目を覚ましたルーサンは、ゆっくりと体を起こす。
蝋燭の灯り一つない薄暗い部屋。窓から差し込む青い夜気。あの後追いかけたものの当然襲撃の犯人を見つけられなかったルーサンは、まとまらない思考のまま宿屋のベッドに飛び込んでいた。そのせいかシーツと一緒にルーサンの着ている服も皺だらけになっている。
そうして起こした上半身から滑り降りるくたびれたフード。隠していたのも無駄になってしまった……まだ少しぼんやりとした思考の片隅でルーサンが考えたところで、うん、という申し訳無さそうなチモシーの声が返って来た。
「……ごめん。あんまり話されたくないってルーが思ってるのは知ってるんだけど……」
「いいわよ。この顔見られた以上、説明しなきゃいけないことだし……まぁ説明したところで反応が変わるとも思えないけど」
「ルー、」
「お兄ちゃん」
皮肉交じりのルーサンの言葉。それになにか言いかけたチモシーを遮るように、少しだけ声をはったルーサンは首だけ静かにチモシーの方に向ける。
いいの、と静かに口を動かして。
「――それより、少し外に出ててくれない? 着替えたいから」
「……うん」
そんなルーサンを見つめるチモシーの目に何かがよぎる。あの夜と同じような感情が。けれどそれをあえて気付かなかったふりをしてルーサンが背を向け己の衣服に手をかければ、ややあってから背後で扉の閉まる音がした。
そうして再び静かになる、真っ暗な部屋で。
「……今度は、間違えないわ」
ルーサンは衣擦れの音に紛れそうなほど小さな声で呟いた。
一つの決意を、胸に秘めて。




