act.10
何かが焼けるような音と共に魔物が悲鳴を上げて後ろにのけぞる。確かな手応えを感じながら魔物の下を駆け抜けたジンは、チモシー達を守るように魔物との間に割って入った。
「遅くなってすまない!」
「ジン! 怪我は……っ」
「大丈夫だ。ソラが守ってくれたから」
「ソラが?」
態勢を立て直し、双剣を構えていたチモシーが胡乱げな声を上げて辺りを見回す。そして魔物の向こうにその姿を認めた時、ひゅっと小さく息を呑んだ。
「……彼の、名前は?」
幾分低いチモシーの声にジンは驚いた。それは確かにソラだけれどソラではない存在に気付いている口ぶりだったからだ。ソラとヨルの違いなど、じっとしているだけなら目の色くらいのもので、これだけ離れていては見分けもつかない。
なのになぜ……そんな思いでジンがチモシーの横顔をちらりと見やれば、彼は、そうだね、と歯切れの悪い返事をする。
「似たようなモノを前にも目にしたことがあるから……その時よりはましみたいだけど」
「まし?」
「悪意をそれほど感じない、ということさ。彼は敵ではないんだろう?」
チモシーの質問にジンは一瞬言葉に詰まった。敵、ではないと思う。そう返せば、チモシーの眉が軽く跳ね上がる。
「不思議な言い方をするね?」
「私達に力を貸してくれることはないのだ。ソラを守るという約定があるから、と」
「……そうか」
ジンの言葉にチモシーは何故か考えこむように目を伏せた。けれどそれも一瞬だ。
「……どっちにしろ、このままじゃ決定打に欠けるのも事実だな」
「?」
「いや。ジンは気にしないでくれ」
そう言いながらチモシーは顔を上げて軽く双剣を振るう。さっきの通りにいこう。そう告げる声音は僅かに硬いながらも、いつもの穏やかさを取り戻していた。
「俺が囮になる。ジンは砂蠍が足を止めたら後頭部まで登ってくれ。そこが急所だから」
「それは構わないが……出来るのか?」
砂蠍の足を止めるなど、並大抵のことではない。まして今度はルーサンの援護もないのだ。チモシーにどこまで出来るのか。そんなジンの疑問にしかし、チモシーは肩を竦めただけで応じる。
「何があってもジンが動じないでくれれば、きっと成功するよ」
曖昧な笑みにジンが目を瞬かせる間もなく、チモシーが地面を蹴って砂蠍の方へ飛び出した。
服の裾を風になびかせ、身を低くして駆ける様は一陣の風のようだ。その足捌きもどこまでも軽い。砂蠍の振り下ろす鋏をひらりひらりとかわしていく。砂蠍が苛立ったように耳障りな声を上げた。しかしそれにも動じることはない。時に大胆に。時に繊細に。かといって砂蠍の注意が離れることのないよう、双剣で時節、魔物の体を切りつけ、振り下ろされる鋏をいなして。
さっきのような陽動もない。薄ら青い月影の下、単純な速さと身のこなしの軽さだけで魔物と渡り合う様は荒々しくも美しい舞そのものだ。戦いというにはあまりにも不釣り合いなその光景にジンは思わず目を奪われ。
その行く先をなんとはなし見た瞬間、声を上げた。
「っ! チモシー!? そっちは……!」
「集中しろ!」
ヨルのいる方向だ。ジンが叫ぶよりも早くチモシーが怒鳴った。常に無い気迫に押されジンは思わず黙りこむ。何があっても動じないでくれれば。そんなチモシーの言葉が脳裏をよぎった。
言われたことは守らなければ、とそう思う。だからこそ動き出したい体を必死で抑え、痛いほどに剣の柄を握りしめる。けれど……けれど、だ。
もしもヨルに、ひいてはソラに、危害が及ぶとしたなら? 嫌な想像にジンの背筋に冷たい物が落ちた時だった。
じっと迫り来る魔物を見つめていたヨルが、静かに腕を上げる。
「――どうやらお主の方は、それほど頭が硬い訳でもないらしい」
そんな声が聞こえた。ジンの予想に反してどこか軽やかな声だ。それに彼女が驚く間にも、ヨルは涼やかな鈴の音を響かせて腕を振り下ろす。
向かってくる魔物に向かって。
いっそ優雅とも言える動作で。
「――闇よ、彼の者を捕らえよ」
瞬間、魔物の動きが鈍くなる。いや、鈍くなるどころか完全に立ち止まってしまった。見れば、その長い脚元に砂ではない闇夜が渦巻いている。深く暗い、艶やかなそれは底なし沼のように魔物の動きを封じていて。
絡みつく闇に魔物が不満気な鳴き声を上げて身を起こそうとする。それを軽やかな鈴の音を響かせ、さらに闇夜で押しつぶしたヨルが鼻先で笑った。
「無駄なことだ。夜は我の領域なのだから……!」
「ジン……!」
魔物を振り切り、ヨルの下に辿り着いたチモシーが声を上げた。それを聞くやいなやジンは弾かれたように魔物に向かって走り出す。距離は瞬く間に縮まった。闇夜の中、光の淡い粒が舞う。その軌跡を残しながら地面を蹴ったジンは、闇に押しつぶされて低くなった砂蠍の後頭部へと飛び乗った。
剣を両手で掴む。甲羅と甲羅の隙間。そこに確かに狙いを定めて光る剣を突き立てた。だが、急所にも関わらず砂蠍は僅かに呻いて体を揺り動かそうとするだけだ。刃の長さが足りないのか。ジンはそう思う。思うが、それもまた一瞬。
彼女の気持ちに応じるように、言葉が脳裏を閃いた。
「――光よ、集いて彼の者を貫く剣となれ!」
叫んだ瞬間、剣が一層眩しく輝く。勢いを増した光の粒が渦を巻いて夜空に駆け上がった。白い純粋な光。その中で彼女の握る剣が甲羅の間へと沈んでいく。両手にかかる重みが増す。なにが起こったのかは分からなかったが、今度こそ致命傷になっていることだけは分かった。そしてその通りだった。
魔物がひときわ高く悲鳴を上げる。体を動かしてジンを払いのけようとする。だが、闇のせいで満足に体も動かせない。その間にもジンは剣を推し進め――これ以上刃を進められないと思ったところで唐突に声が途切れ、砂蠍は轟音をたてて地面に倒れこんだ。
「っ……」
もうもうと上がる砂埃。その中で僅かに息を乱しながらジンが両手で剣を引き抜けば、淡い光と共にその刃が明らかになる。
魔物を貫いたにも関わらず微塵も曇りのない刃。特筆すべきはその長さだ。僅かに光を放つそれも、何より自身が握る柄も、常の剣より長い。けれど、前に見た時の剣の形状とは違う……剣を見つめながらそんなことをぼんやりと思っていれば、ジンの目の前で剣が瞬き光を弾けさせる。
そして次の瞬間には、ジンの手の中には見慣れた形状の剣が鞘に収まって握られていた。
「――ただの旅人ではないとは思ってたけど……まさかここまでとはね」
ふと、声が聞える。それに少しばかりはっきりしない頭を軽く振ってジンが声のした方を見やれば、いつの間にかチモシーが倒れた魔物の近くまで来ていた。少しばかり疲れた顔をしているものの、目立った外傷はなさそうだ。それにほっとしたジンは剣をしまって魔物から飛び降りる。
その時だった。
「っ……!」
足をつけた瞬間、ぐらりと視界が傾いたジンは小さく息を飲む。上手く体に力が入らない。愕然とした思いと共にその事に気づいた時にはもう遅い。
眼前に迫る硬い地面は避けようもなく。
来るべき衝撃に思わず目を閉じて。
そして――柔らかな何かに、抱きとめられる感触がした。
「……まったく、なにしてるんだよ」
「……ソ、ラ……」
ぶっきらぼうな声と溜息。そろりと瞼を上げれば、すぐ近くに銀の髪の彼がいる。
瞳の色は見慣れた蒼。それに訳もなく安心してジンが息をつけば、ソラが何故か軽く眉を寄せた。
「ヨルじゃなくて悪かったね」
「……? それはどういう……?」
「……別に」
なんでもない。少しばかり顔を背けて呟いたソラの表情を知ることは出来なかった。何か、彼の気分を害するようなことでもしただろうか。そんな不安に襲われたジンが口を開きかけるものの、ソラが話し始める方が少しばかり早かった。
「というか、らしくないじゃないか。こけそうになるとか……どっか怪我でもしてるわけ?」
「む、う……? 別にそういう訳でもないんだが……」
「本当に?」
「きっと力を使い過ぎたんだよ」
疑うようなソラの言葉に返事をしたのはチモシーだ。力を使い過ぎた。そんな、何か知っているような口ぶりが気になってジンはチモシーの方へ顔を向ける。
「どういうことだ? 力というのは……チモシーは何か知ってるのか?」
「えぇ? 何かって……」
ジンとしては至極純粋な質問だった。だが、逆にチモシーは驚かされたらしい。意外そうな顔のまま困ったように眦を下げる。
君たちは"龍"と契約したんじゃないのか? と……そう言って。




