act.9
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それは地面の内側から爆発したかのような衝撃だった。轟音と共に岩の破片混じりの砂が巻き上がり、リューの手を握って彼女を引き止めていたルーサンは思わず片手を顔の前にかざす。
「っ……一体なんなのよ……っ!」
ソラが突然魔物の方に駆け出していったと思ったらこれだ。ぼやきはそのまま、ルーサンの疑問そのものだったが、青い顔をしたリューが答えることはない。砂煙が上がる方向をただ目を見開いて肩を震わせて見つめているだけだ。
ルーサンは小さく舌打ちをした。いつだって自分の話を無視されるというのは気分の良いものではない。胸の内にちらとよぎった苦い思い。それに眉を潜めながらもルーサンは小さく首を振る。
とにかくここから離れなくては。さもなければ上手くいくものも失敗してしまう。そう思いながら、リューを引っ張って歩き出そうとした時だった。
吹き抜けた一陣の風に、目を見開く。
「っ……!」
小さく息を吸い込んだルーサンはびくりと体を震わせ立ち止まった。風。それは彼女にとって馴染み深いもの。そのはずなのに、どこか淀んだ風が胸の内に押し込めたはずの記憶を呼び起こしていく。
「ち……がう……」
違う。あれは過去の記憶だ。今目の前で起こっていることなんかじゃない。我知らず弱々しく呟いたルーサンは小さく拳を握りしめるが、一度溢れだしたそれは止まらなかった。
瞬く間にルーサンの目の前の景色が塗り替わる。確かに繋いでいるはずのリューの手の感触さえ失われる。代わりに広がっていくのは黒ぐろとした世界で、それが現実であると言わんばかりに彼女の五感を刺激する。
むせ返るような血の臭い。
目も眩むような禍々しい紅。
狂ったような笑い声。
そして、そう……振り返れば。そこまで考えて、ルーサンは弱々しく頭を振った。これ以上は、駄目。そう思う。分かってもいる。それなのに震える体は動きを止めない。拳を握りしめても、痛いほどに唇を噛み締めても、止まることのない体は背後を確認するように動いて。
「――――っ、いやぁぁぁぁぁっ!?」
記憶の通り、思わず後ろを振り返る。そこにあるはずのない幻影を、それでも確かに目にしたルーサンは悲鳴を上げてその場にうずくまった。
***
ジンはゆっくりと瞼を上げた。。
真っ暗な世界。それに一瞬目を閉じているのかとも思ったが、あちこち痛む体をおして辺りを見回せば頭上から微かに降り注ぐ青銀の光とむき出しの岩肌が目に飛び込んできた。振り仰げば、銀の月が静かに浮かぶ夜空が丸く切り取られて見える。
どうやら自分は深い穴に落ちたらしい。ゆるゆるとした思考はしかし、穴の外から響いてくる低い唸り声ではっきりとしたものになる。
魔物だ……そうだ、自分は魔物に襲われて、それをソラが助けようとして。焦る思考に後押しされてジンが後ろ手をついて立ち上がろうとした時だった。
「どうやらここは穴というより地下通路の一部らしいな。奥に細く道がつながっている」
暗闇の奥から例の穏やかな声。つられて暗がりに目を凝らせば、ゆらりと人影が揺れて月明かりの下に出てくる。
銀の髪も色白の肌も全てジンの知るソラの姿そのままに。
ただ一つ、瞳の色だけを澄み渡った蒼から暗闇でも尚輝く闇色に変えて。
「……ヨル」
戸惑いと警戒心のないまぜになった気持ちでジンがその名を呟けば、ヨルは小さく肩を竦めた。
「感謝ならソラにすることだ。我は主を守ったつもりはないのでな」
「どういうことだ……?」
「我はソラを守ることしか出来ぬ。約定故に」
意味ありげな言葉にジンは首をかしげるが、ヨルはそれ以上言う気もないようだった。ただ、何かに気付いたように、あぁ、と呟き、唇に軽く指先をあてて軽く首を傾ける。
銀の髪がさらりと揺れ動く。黒い瞳が面白げに輝いた。
「今のはソラには言わぬようにな?」
「? お前の言っていることはソラにも聞こえているんじゃないのか?」
「朧げなら感知することはあれど、仔細を知ることは出来ぬ。まして隠したいと思っていることならば。だからソラは我の全てを知りはせず、我もまたソラの全てを知りはしない……流石に主を心配する思い程度の感情なら伝わるがな」
「心配?」
「というより罪悪感か」
ソラは主を巻き込んでしまったと思っているようだ。さらりと付け足されたヨルの言葉は、ジンにとってはますます分からないものだった。どちらかと言えば、自分の方がソラを旅に連れだしたのだ。巻き込んだというならばこっちに非がある。今だって、魔物に襲われる隙を作ってしまったのは自分で。
――ソラは、何も悪くないのに。
「……お前たちは似たもの同士だな」
「え?」
じわりと胸の内に広がる無力感と共にジンが抱いた想い。それをヨルは察したかのようだった。
驚いてジンがまじまじとヨルの方を見れば、淡く微笑んだ彼は踵を返す。だからこそ。そう続けて。
「分かりあうことが出来るのだろう。かの幼き者と同じように。あるいは幼き者が望む以上に。いつか互いにその想いを口にすることが出来たならば……我としてはそれが一番楽しみでならぬ」
「……まるで子を見守る父親のようなことを言うのだな?」
「父親などとは比較にならぬほど、我は老いておるが」
くすりと空気を揺らして笑う声が聞こえた。それと同時に穴の外から降ってくる魔物の低い呻き声にジンがはっとすれば、壁に手をついたヨルが誘うように手を差し伸べる。
「ここを登って行くがいい」
「お前は?」
「守るべき者を危険に晒すわけにもいかぬだろう?」
「なるほど」
先に行って魔物を排せということらしい。身も蓋もない言い方だったが不思議とジンの中ではすんなりと受け入れられた。傍らに落ちていた剣を腰元に差して立ち上がる。それから示された通りに壁を伝って登り始めれば、苦笑交じりの微かなヨルの声が聞こえた。
「……主はもう少し事を疑ってみるということも覚えるべきであろうな」
一体何を疑えというのだろう。反論こそしなかったものの、ジンの中でそんな疑問が渦巻いた。
自分は剣に選ばれて、力を持っているのだ。誰かを守るために振るわねばならない力が。ならば、自分以外の誰かを守ることは当然かつ必然なことで。
――けれど、彼は人殺しだ。暗く思い事実にジンの表情が陰る。未だに彼女の中で折り合いのつかない部分のせいで。
誰かの命を奪うということ。それは彼女が最もしてはならないことで、何よりも厭うこと。だからこそ普通なら人殺しを守ることなどしなくていいはずなのである。
それは、絶対的な悪だ。
なのに、どうしてもソラに対してはそうも思えないのである。
それは彼が一見そうは見えないからなのか。それとも何かもっと別の理由があるからなのか。ヨルの言うところの、自分と彼が似ているからなのか。いくつか理由を並べてみてもどれもジンの中ではピンとこない。ほんの少し旅をしている今でさえも、だ。
彼が細かいところまで気の回ることを知っている。口では何かと言いながら、誰よりも周りのことを気にしていることも知っている。いざという時は己の命さえ投げ出して守ろうとすることも。
それでも、肝心なことは何一つ分からない。
どうして彼が、自分の姉を殺したのかということでさえ。
「ルー!」
そこで穴の外から悲鳴のような鋭い声が響いて、ジンははっと我に返った。穴の外へ体を引き上げる。途端、彼女を迎え入れるのは月明かりに照らされた世界だ。
そしてジンに背を向けるようにして鋏を振るう砂蠍と、それを必死に双剣で受け止めるチモシー。傍らには頭を抱えてうずくまっているルーサンとリューがいた。少し離れたところでは腰を抜かしてへたり込んでいるカイも見える。
その光景にジンの中で何かが燃え上がった。
何をしているんだ。今は考え事をしている場合じゃない。己自身を叱咤する胸の内の声のまま、穴から飛び出したジンは剣に手をかける。
「――コールブラント……!」
守らなくてはという想いのままに駈け出したジンが剣の名を口にすれば、鞘が煌めく。光をまとう。
そしてジンは、抜き払った剣を魔物の後ろ足に斬りつけた。




