act.8
「っ、……げほっ、げほっ……」
次の瞬間には、ソラは激しく咳き込んでいた。口いっぱいに入り込んだ砂を吐き出す。掌からも伝わるその温度は昼の暑さを感じさせないくらいにひやりとしていた。
どうやら自分は地面に倒れ伏していたらしい。人事のように思いながらソラが体を起こせば、控えめだがよく通るリューの声が背後から飛んできた。
「大丈夫?」
振り返れば、ソラのことを突き飛ばし、自身も地面に伏せて魔物の攻撃を避けたらしいリューの瞳に心配そうな色が浮かんでいる。ソラがよく見るリューの表情だ。そしてそれに、いつも通りなんと言おうかソラが迷ったところで少し離れたところからカイの悪態をつく声が届いた。
「ったく……なんなんだよ……っ」
「む、大丈夫か? カイ」
「あぁ……ジンのおかげでそういうのはないけどさ……」
ソラたちと同じように地面に膝をつきながら顔を上げたカイが、傍らにいたジンへの返事を濁した。立ち込めていた砂煙が晴れた先、眼前の影を見て目を丸くする。つられて、カイの視線の先を追っていったソラも息を呑んだ。
掲げられた鋭い針を持つ尾。鋏のような前足。足だけでも大人の背丈ほどはあるだろう。その全身が幾枚かに分かれた鎧のような甲羅で覆われている。玉虫色のそれは暗みを帯びた複雑な光を放っていた。
そして何より目をひくのが顔の部分の大半を占めている口だ。大きな洞穴のような丸いそれは周囲を長い毛で縁取られ――土に潜っている時はそれで口に蓋をするのだろう――黒ぐろとした穴をぽっかりと開けている。
「砂蠍か……!」
剣の柄に手を添えながらジンが低く呻いた。魔物の気配にあてられてか、カイは顔を青くして震えている。ソラもカイほどではないにしろ背中に嫌な汗が伝うのを感じていた。
こんな巨大な魔物相手にどう戦えばいいというのか。ソラが迷いながら弓を握る手に力を込めた時だ。
怖がらなくていいよ、というチモシーの穏やかな声が降ってくる。
「体は大きいし尻尾の攻撃も厄介だけど、落ち着いて対処すれば怖い相手じゃない。ほら、目がほとんどないだろう? その代わりに口で匂いと音を感じ取っているんだ。あの甲羅だって万全じゃない。甲羅同士の繋ぎ目を狙えば、確実にアイツを仕留められる」
チモシーはゆったりとした動作で双剣を引き抜いた。刃の滑る音を響かせて現れた剣が月の光を弾いて冷たい輝きを放つ。
先ほどまでのおろおろとした態度が想像できないほど落ち着いた様子にソラが軽く驚く中、ソラを見やったチモシーは少し困ったような苦笑いを浮かべてから言葉を続けた。
「とりあえず、俺とルーでアイツの気を引くよ。その間にジンが隙を見て、アイツの甲羅の間から攻撃してくれればいい。ソラたちはジンの援護に回る……これで問題かな?」
「えぇ、それでいきましょ」
ルーサンがきっぱりと応じた。兄と同じく魔物に対して少しも慌てた所がない彼女は懐に手を入れ、両手で掴んだそれを夜闇にさらす。
二丁の拳銃を。
「いつでもいいわ。好きなタイミングで行って、お兄ちゃん」
「助かるよ」
ルーサンをちらりと見やったチモシーは笑みを零すや否や地を蹴り駈け出した。真っ直ぐ魔物に向かって。
びゅるりと彼のゆったりとした服の裾が風をはらんで翻り、音を立ててはためく。その音と匂いを嗅ぎつけた魔物が大きく体を揺り動かした。身を低くして巨大な口を地面に近づけ左右に振る。より正確に、より的確に駆け寄るチモシーの位置を見極めようというのだろう。
だが、そんな魔物を邪魔するかのような鋭い発砲音が鳴り響く。
「こっちよ、ウスノロ!」
夜空に向かって弾丸を放ち、叫んだルーサンがチモシーとは反対方向に駈け出した。魔物の巨体がルーサンの方へ揺れ動く。その光景にソラは舌を巻いた。
目下差し迫る危険を考えるならば、魔物はチモシーの方を対処すべきなのだ。走りながら、時節ルーサンの放つ銃弾はでたらめで魔物に掠りもしていない。よしんば当たったところで魔物の固い甲羅を突き破ることなど出来ないだろう。
それでも魔物がルーサンを追ってしまったのは、上手く風上に立ったルーサンの銃口から微かに香る硝煙の匂いと発砲音のため。
そしてその間に魔物との距離を詰めたチモシーが双剣を眼前で交差させ、魔物の前足に突っ込む。
「っ、は……ッ!」
ギンっと金属の擦れる耳障りな音がした。チモシーの服の裾がはためく。ぶつかりあったのは一瞬だ。しなやかに体を動かしてチモシーが後ろに飛び退く。同時にルーサンが右手に握った自動式拳銃の引き金を引いた。先ほどよりは幾分控えめな発砲音を残し、連弾で打ち出された銃弾がチモシーの斬りつけた甲羅の隙間へ正確に吸い込まれていく。
刹那、魔物の足先から散る鮮血。
「ジン!」
耳障りな悲鳴を上げ、ぐらりと傾いた巨体を前にチモシーが叫んだ。その彼と入れ替わるようにジンが飛び出す。魔物との距離はもう幾ばくもない。高さも十分だ。地面に沈みつつある巨体に、今ならばジンは飛び乗ることが出来る。このまま助走をつけていれば。魔物に、止めを。
……いや、巨体が沈みつつある?
「駄目だ……!」
はっとしてソラが声を上げるのと、地面から砂の柱が幾本も飛び出したのは同時だった。剣の柄に手をかけていたジンが驚いたように立ち止まる。しかしその姿でさえ、新たな砂の柱にまぎれて消えてしまう。
「っ、なんだよこれ……っ!」
カイが目の前に飛び出してきた一柱を地面に転がってよけながら叫んだ。それに慌てて矢をつがえたソラは、引き絞って離す。
空気を裂いて飛んでいった矢は過たず柱に当たった。砂の柱が生き物のようにうねる。見えない敵を探すかのようにゆらゆらと揺れる。それに恐怖を覚えながらソラが三本目の矢をつがえた時、駆け寄ってきたチモシーが柱に向かい双剣を振るった。
「これは……」
砂をまき散らしながら地面に落ちたものを見て、ソラは顔を歪めた。地面から生え、真っ黒で細長くしなやかなそれはどう考えても魔物の口の周りに生えていた毛だ。
これでソラ達を砂の中に引きこむつもりなのだ。地面からは何十本と砂の柱が生えてうごめいている。幸いにして、ちょうどソラ達が倒した毛が最も遠い場所だったらしく、これ以上襲われることはなかったが。
「面倒ね……っ、斬るしか方法がないなんて!」
間を縫ってカイの方へ駆けてきたルーサンが毒づいている。けれど、ジンは……? いつまで経っても姿を現さない彼女に不安になったソラが駆け出そうとすれば、服の裾を掴まれた。
リューだ。
「っ、なんだよ……!」
振り返れば諫めるような視線を送るリューの目と視線があって、ソラは眉根を寄せる。
だが、彼女は引き下がらない。
「駄目……っ! あっちは……!」
「だからってジンを放っておける訳ないだろっ!?」
怒鳴ったソラはリューの手を振り払って駈け出した。ソラの名前を呼ぶ悲痛な声が追ってくる。けれど、ソラはそれに構わなかった。
うごめく砂の柱の間をかいくぐって進む。時節、矢をつがえ離す。仕留める事こそできないが一瞬、動きが止まった間を駆け抜けた。
そうして五本目の矢を放った時、砂の柱ばかりの景色が突然開けてソラは立ち止まった。足元に目をやれば、固いはずの荒野の地面は細かな砂粒に代わり巨大な穴を形作っている。すり鉢状に抉られた中心には魔物が口先を埋め、じっと穴の外を見つめていた。
――いや、正確に言えば砂の穴の途中を転がり落ちているジンを。
「ジン……!」
「来るな!」
ソラが顔を青くして叫べば、穴の底に落ちまいと必死でもがいていたジンが鋭い声を上げた。その拍子にさらに穴の底の方へ引きずり込まれる。足に絡みつく黒い毛が彼女を魔物の方へと引き寄せているのだ。そのことに気付いて、ソラの思考が凍りついていく。
このままではジンが。そう、思った僅かに残る思考さえ、最悪の結末ばかりを想像させて。
「っ……!」
「!? 何をしているんだ!」
ソラは唇を噛み締めて穴へと身を投げ出した。気づいたジンが目を見開いて叫ぶが、無視して砂の上を滑り降りる。
そうして、どうするんだ。仮にジンのところに辿り着いたとして、自分どころか彼女を助けだす術だって見つからないだろう。頭の中に僅かに残った理性が悲鳴を上げている。それでもソラは止まらなかった。
止まれる訳がなかった。
「そうだろ……っ」
目の前で新たに砂の柱が上がる。二本。ちょうどソラを挟むようにして、一度ゆらりと動いたそれらは真っ直ぐに彼の方へ向かってくる。ジンが悲鳴を上げた。避けようがない。止まることだって出来るはずがない。
けれど、そうだ。
彼女は、死ぬべきではないのだから。
「だから守ってみせろよ、ヨル……!」
砂の柱を見据え挑むようにソラが叫んだその瞬間、闇夜を裂くように涼やかな鈴の音が鳴り響いた。




