act.1
「――ひと」
「リュー?」
ひと。そう言って、道端にうずくまっていたリューが振り返って指をさした。肩に届くか届かないかというところで無造作に切られた薄金色の髪の毛。ふわりとしたそれが風に舞ってかすかに揺れる。少しばかり長い前髪越しに見える髪の毛と同じ色の瞳は返事をじっと待っていた。それにソラは名の示す通りの蒼色の瞳を瞬かせて、ゆっくりとリューの方へ近づく。
通いなれた家へと帰る森の小道。リューの指す場所はそこから三歩ほど森の中に分け入ったところだ。春先。まだ若葉の茂る前の木々から差し込む光は十分で、辺りを見渡すにも不自由しない。それでも若い枝が組み合わさって、少し見にくい場所だ。ソラだけなら気付かなかっただろう。あるいは、リューほどの五感の良さがあるから見つけられたとでも言うべきか。
「……人」
がさり、と枝を持ち上げて、それから呟いたソラは固まってしまった。何か特別驚くものがあった訳ではない。
ただ――空から差し込む陽の光にゆっくりと照らされて、一人の少女が仰向けに横たわって瞼を閉じていた。
赤茶色の髪を頭の上で纏めて結いあげている。まとう服も随分煤けているけれど、元は鮮やかな赤色だったに違いない。そうして傍らには黒塗りの細長い棒……いや、剣だろう。端正な顔立ちの少女が持つには少しばかり不釣り合いな。
しかしそんなことに、ソラは躊躇っているのではなかった。
「…………」
少女を見つめたまま、怯えたように動かないソラ。その服の裾を握り、まるで彼を守るように一歩前へ踏み出してから、リューがソラを振り仰いだ。幼い顔立ち。感情を映さない金の瞳が、どうするのか、と静かに問いかける。
柔らかな風が吹いて、ソラの銀色の髪と服の裾につけられた鈴を揺らしていく。
りんっという澄んだ音に、小鳥が羽音を立てて青空に飛び立った。
***
とんでもない拾い物をした。そう思った。後悔した。
あぁこれだから他人と関わるなんて。
「……最悪だ」
「む!? どうした恩人殿、そんなに深い溜息をついて!」
どうしたもこうしたもない。誰が原因だと思っているんだ。心のなかで毒づきながら、火にかけていた鍋を取り上げて振り返った。
陰り始めた陽の光の差し込む窓際。煤けたガラスから入る光で、薬草や調合用の鉢の散らばった備え付けの小さな作業台が橙色に染まっている。反対側の壁には今にも溢れ出しそうなほど本が詰め込まれた棚。二つの壁に挟まれた奥には小さな扉。その向こうには今朝干したばかりの干し草を敷き詰めたベッドがある。
そして去年の秋に見つけた倒木を利用して作ったテーブル。
そこに見知らぬ少女が、にこにことしながら座っている。
……いや、さっき倒れていた少女本人だから見知らぬも何もないのだが。
「……なんでこんなに回復早いんだよ」
「? なにか言いたいことでもあるのか? ならば遠慮無く言ってもらって構わないぞ、恩人殿」
「……その恩人殿、って言い方やめてくれないかな、って言ったんだ」
一つ、ため息をついてなおざりに答える。さっさと鍋をテーブルの上に置くことにした。そうすれば図ったように部屋の奥の扉が開いて、飛び出してきたリューがお椀を取りに走る。
今日はトマトシチューだ。リューの好物。その香りを嗅ぎつけたに違いない。
「! そうか……! これは失礼。確かに名前を呼ばないとは無礼千万に値するな。この非礼、深くお詫び申し上げ、」
「はいはいはいはい」
妙に堅苦しい物言いは、少女には不釣り合いに男らしいものだ。朱の瞳の映える綺麗な顔立ちをしているというのに。人は見かけによらない。そんな言葉を全身で体現している気がする。
「それで、私の名前だが」
「って、あんたから名乗るのかよ」
「む? 何事もまず名乗るなら己の名から、と言うだろう?」
安心しろ。私はこの手の王道は知り尽くしているのでな。からりと少女が笑う。それで一体何を安心しろというのだろう……白けた目線を送りながらソラは考えるが、少女はまるで気に留める風もなく、話を続けた。
「という訳で私はジンという。行き倒れていたところを助けてくれた礼、もう一度述べさせてもらうぞ」
ありがとう。そう言って、少女、ジンはテーブルに勢い良く頭を打ちつけた。ごんっと響く音はひどく痛々しい。それにソラとリューが目を丸くしていると、何事もなかったかのように体を起こして先ほどと同じようにびしりと背を伸ばす。
……礼、らしい。額はひどく赤いけれど。
「そして、だ。差し支えなければ、是非とも恩人殿のお名前をお聞かせ願いたい。構わないだろうか?」
にこりと笑って、まるでそう言えば答えてくれると思っているみたいに尋ねてくる。いや、実際ここで答えなければ自分は『恩人殿』呼ばわりされる訳で、それが嫌なら答えるしかないのは目に見えているのだけれど。
癪だ、と思った。
同時に、こういう妙な所で自信満々なのが自分が彼女に苛々する理由なのかも、とも。
「……ソラ」
「ソラ。いい名前だな。ありがとう」
「別に……見つけたのは僕じゃなくてリューだし」
「ほう、こちらの少女はリューという名なのだな? では彼女にも改めて礼を」
丁度近づいてきたリューに向かって、ジンは深々と頭をテーブルにぶつける。彼女にとってはただの礼にすぎないのだろう。それでもやはり、傍からみれば奇妙極まりない。三つのお椀を手にしたリューも例外ではなかったようで、妙なものを見るような目でじっとジンを見つめる。
ただ、見つめて。
「…………」
ややあってから、静かに目線だけをソラの方に向けた。どうしろっていうんだ。どうしようもないだろ。返事の代わりにため息をついてリューからお椀を取り上げる。二つのお椀をテーブルに置いて、一つを手にとった。鍋の中のお椀をぐるりとかき混ぜる。ふわり、と鼻先をくすぐるのは甘酸っぱいトマトの香りとハーブの香り。
まだ湯気の立つ赤色のとろりとした液体をお椀に等分に盛っていけば、当然のようにぐぅ、とお腹が鳴る音がして……。
「! すまない。体は正直なようだな」
……腹の虫を鳴らしたのはジンだった。それにソラは深々と肩を落とす。
「……いっそ、そこまで清々しいあんたの体に僕は脱帽するよ」
「なんと! お褒めに預かり光栄だ」
「褒めてない……っていうか」
あんた、これ食べたら出て行ってもらうからな。お玉を突きつけ……は流石にシチューが垂れてもったいなかったからしなかったけれど、それでもお玉を鍋において容赦なく言い放てば、ジンが目を瞬かせた。
驚いているんだろうか。当然か。助けてもらった訳だし、このまま怪我が治るまで世話を、だなんてのが、彼女の言う王道な流れだろう。で、そこで助けた少年と少女は冒険に出たり、なんやかんやして恋に落ちてめでたしめでたし、と。
冗談じゃない。
「元からあんたをここに置く気はない。ていうか、起きたんなら今すぐ出て行って欲しいくらいなんだ。この家は二人で暮らしていくための家だから、休む場所なんてないし。まぁ見たところ金目のものはないみたいだから、お礼の品物とかは特別に今回は要求しな、」
「承知した!」
「!」
そこで響いたはきはきとしたジンの声に、ソラは驚いて言葉を止めてしまった。いきなり何を大声で。間抜けにもそう思ってまじまじと彼女を見つめると、先ほどと変わらない笑顔で、出て行けばいいんだろう? と明るく繰り返される。
「いやいや。私こそ悪かったな。そもそも夕飯時にお邪魔してしまったのも、至極迷惑というものだ……すまなかった」
深々と頭を打ちつける。ピシリと背筋を伸ばす。
そうして、やっぱり笑顔。
「なにぶん、私は気が利かないというか、何事にも鈍いようでな……昔はそれで随分周りに迷惑をかけたものだが……いや、昔の話はソラには関係のないことだな。とにかく、お前ほどはっきりと言ってくれると、察しの悪い私でも十二分に理解できるというものだ」
うんうん、と何故か一人で納得したジンががたり、と音を立てて椅子から立ち上がった。というわけでだ、と言いながら。
「私はお前の言うとおり、即刻ここから立ち去ることにしよう!」
「あ、ちょっ……!」
「?」
思わずジンの服の裾を掴んでしまった。くるりとジンが無駄のない動きで振り返る。ひどく不思議そうな顔だ。なんで引き止めるのかと言わんばかりに。
その顔に、あぁそうだ。自分は何をしているんだ、そう思って我に返る。この場合、正しいのはジンの方だ。曲がりなりにもソラから言い出したことなのだから。おまけに彼女は、ソラの要求通りに出て行こうとしてくれているわけで。
じゃあなんで自分は引きとめようとしてるんだ。
「っ……夕飯は食っていけ、って言っただろ!」
自分に対する苛々を、腹立ちまぎれにジンにぶつける。それにけれどジンは気付くこともなく、ただ、はっとしたような顔をしただけだった。
「! そうだったな……! またもやお前の好意に失礼な態度を……重ねてお詫び申し上げ、」
「もういいから! 食ったらすぐに出て行けって!」
「承知した!」
「っ、……だからそうやっていきなり大声だすのやめろって!? 心臓に悪いから!!」
「ソラ、ジン」
静かに上がったリューの声。それにソラがなんだよ! と叫び、ジンがどうしたリュー! と身を乗り出せば、リューは二人の顔をじっと見据え、一言。
「冷める」
「……はい」
ほんの少し拗ねたような、怒ったような声。それに思わず返事をしたソラとジンの声は寸分違わず重なっていた。
***
夜の帳が降りた森。月明かり一つないそこはあまりにも暗く、ただただ風だけが木の葉をざわめかせ闇色の空気をかきまぜていく。
その中で、一頭の獣が今にも死に向かおうとしていた。血で汚れた毛並みに覆われた四肢を力なく投げ出し、地面に横たわって細い息を吐き出している。
それはかつて、この森の主とまで言われた獣だった。巨大な体躯。それに似合わぬ俊敏さ。そして賢さ。全てを兼ね備え群れを率いてきた彼はしかし、とうとうこの森に出入りしていた狩人に討たれてしまった。
正攻法では……ない。彼の群れの子供を殺し、それを囮に使われた。卑劣な手段だった。
ただそのことだけが、誇り高かった獣にとっては悔しく、口惜しく。
――なら、お主は何を望む?
そこでふと、闇夜に姿なき声が響く。気配もない。人影もない。それだけでも普段の獣ならば十分に警戒をしただろう。
けれど死を目前にした獣には、その声がどこまでも甘美に聞こえて。
――己の生か? 死へ恐れを抱くか?
まさか。そんなはずはない。獣は小さく呻く。
己の生になど興味はない。死なら甘んじて受け入れよう。生ける者はいつか死すべき運命にあるものだ。覆せようはずがない。
だが……だが、この無念だけは。
そんな、獣の声なき想いを聞き届けたかのようだった。
――……よかろう。
姿なき声がくすりと笑う。主が願い、聞き届けた。そう付け足して。
不意に濁った黒が現れる。霧のように。靄のように。獣の流した血液から湧き出たようなその黒は、瞬く間に獣の体中を覆い尽くして。
突然、闇夜を裂いて悲鳴のような獣の声が響く。
獣の体躯が見る間に変わリ始めた。血で汚れた毛並みは濁った黒い鱗へ。均整のとれていた四肢は嫌な音をたてながら伸縮し、鱗で覆われた長い尾が生えていく。
激痛。そして狂ったように響き始める女の笑い声。それに獣は後悔し、穢れた血のごとき赤に染まり始めた目を細めるが、もう遅い。
木々を渡る風の音も聞こえない。
疲れた体を包んでくれた夜闇さえ見えない。
ただ、ただ、濁った黒と女の笑い声だけが獣に届いて……届いて。
――ア、ハハ……っ! さぁ、欲深き己の願いに溺れてしまうがいい!
軽やかな女の声。それを最後に獣の意識はふつりと途切れた。
2013/05/21 初版
2013/06/01 誤字脱字、誤用法のみ改稿
2013/06/16 改稿
2013/08/13 改稿
2013/08/25 誤字脱字修正
2013/09/05 改稿