act.10
暖かな、光だった。真っ白で眩しい、けれど不思議と見つめていても目には痛くない優しい光。
そんな光が鞘を溶かし、剣から溢れ出す。勢い良く流れ出るそれは、一つの流れを作って渦を巻く。びゅうびゅうと鼓膜を叩く。髪の毛を揺らし駆け抜けていく。
そうしてそんな全ての中でジンはただただ、静かに息をしていた。
剣の変化に驚いてない訳ではなかった。
剣が抜けたことに喜ばないはずもない。
それでも彼女は、奇妙なほど落ち着いていた。驚きも喜びも、一枚薄い布を通して外にある。それは不思議な感覚だ。確かに何かを感じ、何かを思うのに、全てがほんの少しずつ曖昧で。
それでも己が何を成すべきなのか、そのためにはどうすればいいのか。そんな感情を伴わない思考だけは明確だ。
「…………」
静かに剣を構え直す。そうして改めて前を見つめる。夜の森。濁った黒。身を低くして唸る魔物。
あれが、敵だ。そう思った瞬間、応じるように暖かな剣が大きく脈を打ち、一つ息を吸い込んだジンは駆け出した。
「っ……は……っ……!」
恐れもない。驕りもない。迷うこともなく距離を詰め、剣を横薙ぎに振るう。単調な攻撃。それに魔物が当然のように鉤爪の伸びた腕をつきだした。先ほどのように防ごうというのだろう。濁った赤の瞳に宿るのは馬鹿にしたような光だ。
それをジンは目にする。静かに見つめる。あるいは、魔物の様子を観察できるほどの心の余裕を持って。
コールブラントで、容易くその腕ごと切り裂いた。
――……!?ガアアアアァァァァッ!?
魔物の声が空気を震わせた。驚いたような耳障りな声。その中で斬られた腕の先が地面に落ちることなく、溢れる光に紛れて跡形もなく消える。それを横目で確認する。そうして心の片隅で確かに驚きながらもジンは動きを止めない。
さらに一歩踏み込み、勢いを殺すことなく魔物の胴体へ斜め上に切り込む。
じゅう、と何か焦げるような音と共に濁った霧が魔物の体から噴きだした。黒を光が消滅させていく。が、手応えは軽い。
ジンは顔をしかめた。魔物がたまらず後ろへ飛び退ったせいだ。
「……っ、逃がすものか……!」
距離が開く。光の届かぬ方へ魔物の巨体が離れていく。その後を追うようにジンは駈け出し、勢いそのままに地面を蹴って飛び上がった。
どこまでも軽い体を夜空に躍らせる。そうして両手で握った剣を大きく振りかざす。
闇夜に剣を煌めかせて。
「光よ……っ! 集いて彼の者を屠る刃となれ――!」
彼女の求めに応じて剣が一際大きく輝いた。渦を巻く光が刃に集中する。風の唸りにも似た音を立てる。そして眩しい光が凝集し。
いよいよ明瞭な形となって現れたのは、広刃の巨大な十字剣。
「はあああああああっ!」
そしてジンは、その巨大な刃を魔物の頭頂めがけて振り下ろした。
***
「っ……!?」
ジンが輝く剣を魔物へ向かって振り下ろした。どんっという腹に響く音が大地を、空気を震わせ、一気に光が溢れる。溢れる真っ白な光。それが夜の闇ごと視界を塗りつぶし、地面に座り込んでいたソラは堪らず息を飲んで手をかざした。
びゅうびゅうと風にも似た光の流れが全身に吹きつけてくる。それでも目だけは閉じなかった。閉じたくない……そう思ってしまうほどに、ソラの心臓は高鳴っていたからだ。
剣から溢れ出す、その優しい白を灯した光に。
溢れる光飲み込まれ、声にならない悲鳴を上げて魔物が消えていく様に。
そして……辺り一面を舞う優しい白の中で、剣をゆっくりとしまいながらソラの方へ歩いてくる彼女に。
「騎士……」
呆然と、ソラはそう呟いていた。
光をまとった風が緩やかに鎮まっていく。それでも真っ白な優しい灯火は淡い輝きで辺り一面を照らしていて。
夜のはずなのに、ひどく優しい輝きで満たされた世界。そこでゆっくりとかざしていた手を下ろしながら、ソラが口にしたのは一つの名だ。幾度と無く、記憶の中の『彼女』が語ってくれた物語に出てくる人物の名前。
誰よりも気高く、誰よりも強く、誰よりも心優しく。
そうして何より、幼いソラが強く憧れた人物。
――はやくぼくも騎士様みたいになって、あねさまをまもってあげるね!
――まぁ。それは頼もしい。
ふと、思い出した。思わず呟いてしまった言葉につられて。
くすくすと笑いながら自分の頭を撫でてくれた、そんな思い出を。大好きだったその手の温もりを。『彼女』の……姉の、優しい声を。
「…………っ」
今でも鮮明なそれにソラの胸の奥がつきりと痛んだ。
もう戻らない過去だ。過ぎ去ってしまった思い出。思い出しては届かないと思い知らされる、眩しい日々。
それを、思い出して。泣きたくなって。思わず唇を噛む、そんなソラの気持ちを察したかのようだった。
あの日にひどく似た眩しい光の中、一歩と離れていない距離でジンが立ち止まる。ソラ。そう静かに名前を呼んで。けれどどこか労るように優しい朱の瞳を揺らして名前を口にして。
そしていつの間にか元の大きさに戻った剣を右手で握ったジンは、空いた左手を差し出すのだ。
何も知るはずのない彼女が。
それでもまるで何もかも知っているかのように。
知った上で、許しを与えるように。
そしてそれに彼は……ソラは今にも泣き出しそうなほど顔を歪めて。
「……ぼ、くは……」
「――――……化け物め」
そこでジンの後ろから響いた低い声。それに無意識の内に伸ばされていたソラの手がぴたりと止まった。
はっと我に返ったようにジンが振り返る。当然だ。今の声はジンのものではない。そうではなくて。
「……っ、」
ジンの横から垣間見える、ランタンを掲げ森から現れた村人達。その一様に強張った暗い顔に、ソラは頭から冷水を浴びせられたような気分になった。持ち上げていた腕が一気に重くなったように感じる。まるで鉛か何かを持たされたみたいに。
そうして、自然と落ちた手は音もなく地面についた。
ジンの手をとることもなく。
「ソラ……!」
そんなソラを見かねたように村人達の中から飛び出してきたのはリューだ。駆け寄ってきた彼女は迷うこと無くソラの前でしゃがみこみ、金の瞳を揺らめかせた。
よかった。ほんの少し震える、小さな声がソラの耳に届く。けれど、この状況の何がいいというのだろう。気遣わしげな瞳を見つめながら、何故か人事のようにソラは思って。
そうしてそんなソラの頭上を、ジンの戸惑った声が通り抜けていく。
「今……なんと……?」
「……化け物、と。我々はそう言ったのだよ、ジンさん。あぁ、安心してくれ。あなたのことではないのだから」
ランタンのくすんだ灯りを揺らめかせ、低い声で村人の一人がそう応じる。それにビクリとソラが体を震わせ、リューがきっと顔を睨ませて振り返った。
「ソラは化け物なんかじゃない!」
「リューの言う通りだ!」
ジンも続けて苛立ったように声を上げる。
「魔物はたった今倒したんだ! あなた達は見ていないかもしれないが……!」
「……ジンさん、その娘の言葉に騙されてはいけない」
「騙される!? 何を馬鹿な……! あなた達の言うことはおかしい! ソラは襲われていた私とディアドラ殿を助けてくれたんだ! その彼を、恩人と呼びこそすれ、魔物と……化け物と間違えるだなんて、」
「間違えているのはジンさんの方だ!」
腹立たしげにそう叫んだのは酒場の主人のトムだった。
「俺たちはそいつが魔物だなんて一言も言ってない! そうじゃなく、そいつが化け物だと言ってるんだ!」
「は……!? 何を言っ、」
「そうじゃないか! 妙な力を使って、ジンさんの言う魔物とやりあっていたんだろう!? それだけで私達にとっては十分な脅威なんだよ! そいつの力が私達を襲わない保証がどこにある!? もしかするとそいつもまた、魔物なのかもしれない!」
「馬鹿な! ソラがそんなことする訳が、」
「うちの娘がその目で見て、そういう類の力だったと、そう言っている!」
「ディアドラ殿が……?」
トムの言葉に、はっとしたようにジンが言葉を止めた。奇妙な沈黙が落ちる。そんな中で、トムに促されるようにして村人達の間から出てきた少女は何を隠そうディアドラで。
正直に答えなさい。トムの気遣わしげな言葉に、彼女は青い顔をしながらも唇を震わせて頷いた。
「ディアドラ、お前はあいつの力を見て、どう思ったんだね?」
「……そ、れは……」
ディアドラの声に、一斉にその場の視線が集中した。
縋るようなジンの視線。射抜くようなリューの厳しい視線。恐怖を孕んだ村人達の視線。
なら、自分は今一体どんな目をして彼女を見ているというのだろう。そう、思った。そんなことを思った。ぼんやりと、ソラは。
そして彼が思う間にも、ディアドラが怯んだように一度唇を閉ざし……ややあってから、ゆっくりと言葉を続ける。
小さな声で。それでも、少しの迷いも感じられない声音で。
「……同じ、ように見えたわ。あの魔物と、あいつが使ってた力は、同じように真っ黒で……同じように、私は怖かった」
「ディアドラ、殿……!? そんな……どうして……!」
ジンが信じられない、という風に声を上げた。リューが小さく唸り声を上げる。それにディアドラは怯えの色を瞳によぎらせ……それでも小さく頭を振った。
「どうしてもこうしても、ないわ。私は私の感想を言っただけなんだから……!」
「そんな……! だからって……!」
「ジンさんは何も知らないからそう言えるのよ!」
ディアドラが半ば悲鳴じみた声を出しながらソラの方を指さした。あいつは! そんな声に心臓がどきりと脈打ち、ソラは現実に引き戻される。
一斉に、村人たちの視線が集まった。その視線の冷たさに体中が冷えきっていく。
やめてくれ。そう思った。その先に続く言葉があまりにも簡単に想像できて。
耳を塞ぎたい。そう思った。なのに指先は地面の土を強く強く握り締めるばかりで。
そうして、無情にもディアドラの言葉は続く。
「――あいつは、自分の姉を殺したような奴なのよ!?」
響いた言葉にジンが目を見開く。その視線が、ソラはなにより耐えられなかった。
「っ……!」
「……! ソラ……!」
なけなしの力を振り絞って立ち上がる。そうしてくるりと踵を返して足を動かす。一拍置いて制止の声が後ろから飛んできた。けれど、それがなんだというのか。きっとなんの解決にもならない。何も起こりはしない。
なら、一体なんの意味がある? そう投げやりに思って、ソラは足を速めた。最後には駆け出すほどだった。
相変わらず漂っている淡い光でさえ鬱陶しく思えてきて。
その光景が今はただ、情けなくて辛くて惨めな気持ちばかり抱かせるせいで。
ひどく綺麗で優しい光景はさっきと変わらないはずなのに。
馬鹿、みたいだ。
少しでも許されるかもしれない、だとか。
彼女なら大丈夫なのかもしれない、だとか。
そんな夢を見てしまったこと、そのものが。
「っ……ばか、だ……」
そう呟いて。唇を噛み締めて。
何もかもから逃げるように、ソラは夜の森に飛び込んだ。
2013/08/13 誤字脱字訂正