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「君がいなくても困らない」と言われたので、本当に何もしないことにしました

作者: 黒色鮎
掲載日:2026/09/17


「君がいなくても困らない」


 婚約者のエドワードは、紅茶を飲みながらそう言った。


 場所は王都の一等地にある高級茶館。

 向かいには、彼の幼馴染であるミレーヌが座っている。


「最近、君は細かいことを言いすぎるんだ。予定だの書類だの、僕には僕の仕事がある。君に手伝ってもらわなくても、どうにでもなる」

「……そうですか」


 私はカップを置いた。


 胸が痛まなかった、と言えば嘘になる。

 けれど、不思議なくらい涙は出なかった。


「では、今日から何もしませんね」

「え?」


 エドワードが目を瞬く。


「何もしないって……何を?」

「あなたのお仕事です」

「僕の?」

「はい」


 私は微笑んだ。


「王都への書類の提出も、領地から届く報告書の整理も、夜会の日程調整も、あなたのご友人への贈り物の手配も。全部、私がしていましたから」

「いや、それは……婚約者なら普通だろう?」


 その言葉を聞いて、私は少しだけ笑った。


「そうですね」

「なら――」

「でも、あなたは今、私がいなくても困らないとおっしゃいました」

「……」

「でしたら、きっと大丈夫なのでしょう」


 ミレーヌが気まずそうに視線を逸らす。

 エドワードは何か言おうとした。


 けれど、結局何も言わなかった。


 私は席を立った。


「それでは、失礼します」

「リディア」

「はい?」

「……本当に、何もしないつもりなのか?」

「はい」


 今度は迷わず答えた。


「今日からは、自分のために時間を使います」





 ◇


 屋敷に戻った私は、まず机の上に積み上げていた書類を片付けた。


 正確には、片付けたのではない。

 エドワード宛てのものを全部、彼の執務室へ運んだ。


 王都からの通知。

 領地の税収報告。

 来月の夜会予定。

 商会との契約書。

 全部だ。


「お嬢様……?」


 侍女が不安そうに尋ねる。


「どうしたのですか?」

「こちらの書類は……?」

「エドワード様へ」

「ですが、いつもお嬢様が――」

「今日からはエドワード様がなさいます」


 侍女は固まった。

 私はそれ以上説明しなかった。


 次に、予定表を破り捨てた。

 エドワードの予定ではない。

 私自身の予定表だ。


 朝は何時に起きる。

 何時にエドワードの執務室へ行く。

 どの書類を確認する。

 どの夜会に同行する。

 誰に挨拶する。

 そんな予定ばかりが並んでいた。


 そこに、私自身の予定は一つもない。


 だから新しい紙を一枚用意した。

 そして、初めて自分の予定を書いた。


『王立図書館へ行く』





 翌日。

 私は久しぶりに一人で街へ出た。


 図書館で昔から興味のあった領地経営の本を読み、帰り道に小さな菓子店へ寄った。

 誰かのためではなく、自分が食べたい菓子を買った。

 それだけなのに、妙に楽しかった。


「……私、こんなに自由だったのね」


 婚約者のために生きることが当たり前になっていた私は、自分の好きなものさえ忘れていた。





 ◇


 三日目。


「リディア様! エドワード様から至急確認してほしいと!」

「お断りしてください」

「えっ」

「私の仕事ではありませんので」

「ですが……」

「エドワード様は、私がいなくても困らないそうです」


 侍女は黙った。


 五日目。


「リディア様、エドワード様が王都への申請書について――」

「エドワード様へお返ししてください」


 七日目。


「リディア様、来週の夜会の席順が決まっていないそうです」

「エドワード様がご自分で決めればよろしいでしょう」


 十日目。


 ついにエドワード本人がやってきた。


「リディア!」


 玄関まで走ってきたのだろう。

 髪が乱れている。


「どうしたのですか?」

「どうしたのですか、じゃない!」

「?」

「王都への申請が差し戻された!」

「そうですか」

「そうですかじゃない!」


 エドワードは頭を抱えた。


「君ならすぐに処理できるだろう?」

「もう婚約者ではありませんので」

「……え?」

「昨日、正式に婚約解消の書類を提出しました」


 エドワードの顔から血の気が引いた。


「聞いてないぞ!」

「お伝えしていませんから」

「なぜ……」

「あなたが、私を必要としないとおっしゃったからです」

「いや、あれは……」


 言葉が止まる。


「それに」


 私は続けた。


「私がいなくても困らないのでしょう?」

「……」

「でしたら、私を呼び戻す必要はないはずです」

「待ってくれ」


 エドワードが一歩近づいた。


「僕は、君がこんなに早く離れるとは思っていなかった」

「そうですか」

「君はいつも僕のそばにいたじゃないか」

「はい」

「だから……」

「だから、何ですか?」


 エドワードは答えられなかった。

 私はそこで、初めて理解した。


 この人は私を失うことが怖いのではない。

 私がいなくなって、困っているだけなのだ。


「エドワード様」

「……なんだ」

「あなたが必要としているのは、私ではありません」

「違う!」

「では、何が違うのですか?」

「僕は……」

「私が毎朝あなたの予定を整え、書類を確認し、王都との交渉をして、あなたが失敗しないようにしていたから、あなたは困らなかった」

「……」

「それを愛情だと思っていたのは、私だけだったのでしょうね」


 エドワードは俯いた。


「違う。僕は君を……」

「好きですか?」

「……ああ」

「では、なぜ大切にしなかったのですか?」


 答えは返ってこなかった。

 それが答えだった。





 ◇


「リディア」


 しばらくして、エドワードは顔を上げた。


「もう一度、やり直せないか?」

「できません」

「なぜだ!」

「もう、あなたのために生きることをやめたからです」

「僕が変わる!」

「そうかもしれません」


 私は静かに答えた。


「でも、それを確かめるために、もう一度あなたの隣に戻る必要はありません」

「……」

「私は、自分が何をしたいのかを知ってしまいましたから」


 私は机の上にある書類を指差した。


「これ、私が作った領地改革案です」

「領地改革?」

「はい。小さな村でも安定して作物を育てられるように、水路を整備する計画です」


 昔から興味があった。

 けれど、婚約者の仕事を優先して諦めていた。


「今度はこれを、自分のためにやります」

「……君は」


 エドワードは苦しそうに笑った。


「僕がいなくても、平気なんだな」

「はい」


 私は微笑んだ。


「あなたが教えてくださったので」





 ◇


 それから半年。

 私の故郷では、新しい水路が完成した。

 農地へ安定して水が届くようになり、収穫量も増えた。

 私は領主館の一室を改装し、領地経営を学べる小さな学校まで作った。


 忙しい。

 けれど、以前とは違う。

 これは誰かのために我慢している忙しさではない。

 私がやりたいと思って選んだ忙しさだ。


「リディア様」


 ある日、執事が一通の手紙を持ってきた。


「王都からです」


 差出人はエドワードだった。

 私は封を切った。


『君がいなくなって初めて、君がどれだけ僕を支えてくれていたのか分かった』


『あのとき、君がいなくても困らないと言った自分を後悔している』


『もし許されるなら、もう一度――』


 私はそこまで読んで、手紙を畳んだ。


「お返事は?」


 執事が尋ねる。


「必要ありません」

「よろしいのですか?」

「はい」


 私は窓の外を見る。

 完成したばかりの水路を、子供たちが走っている。

 その隣には、見慣れない青年がいた。


 王都から派遣された技師だ。

 彼は私に気づくと、笑って手を振った。


「リディアさん! 次の計画について相談したいことがあります!」

「今行きます!」


 私は立ち上がった。


 以前なら、誰かの許可を待っていただろう。

 けれど今は違う。


 自分で決める。

 自分で選ぶ。

 自分の人生なのだから。


「……エドワード様」


 私は誰もいない部屋で、小さく呟いた。


「あなたがいなくても、私は困りません」


 そして、手紙を引き出しの奥へしまった。

 もう、振り返る必要はない。


 だって私はようやく、

 誰かに必要とされるためではなく、


 自分が生きたい人生を選べるようになったのだから。


 窓の外から、春の風が吹き込んだ。

 私は笑って、部屋を出た。

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