「君がいなくても困らない」と言われたので、本当に何もしないことにしました
「君がいなくても困らない」
婚約者のエドワードは、紅茶を飲みながらそう言った。
場所は王都の一等地にある高級茶館。
向かいには、彼の幼馴染であるミレーヌが座っている。
「最近、君は細かいことを言いすぎるんだ。予定だの書類だの、僕には僕の仕事がある。君に手伝ってもらわなくても、どうにでもなる」
「……そうですか」
私はカップを置いた。
胸が痛まなかった、と言えば嘘になる。
けれど、不思議なくらい涙は出なかった。
「では、今日から何もしませんね」
「え?」
エドワードが目を瞬く。
「何もしないって……何を?」
「あなたのお仕事です」
「僕の?」
「はい」
私は微笑んだ。
「王都への書類の提出も、領地から届く報告書の整理も、夜会の日程調整も、あなたのご友人への贈り物の手配も。全部、私がしていましたから」
「いや、それは……婚約者なら普通だろう?」
その言葉を聞いて、私は少しだけ笑った。
「そうですね」
「なら――」
「でも、あなたは今、私がいなくても困らないとおっしゃいました」
「……」
「でしたら、きっと大丈夫なのでしょう」
ミレーヌが気まずそうに視線を逸らす。
エドワードは何か言おうとした。
けれど、結局何も言わなかった。
私は席を立った。
「それでは、失礼します」
「リディア」
「はい?」
「……本当に、何もしないつもりなのか?」
「はい」
今度は迷わず答えた。
「今日からは、自分のために時間を使います」
◇
屋敷に戻った私は、まず机の上に積み上げていた書類を片付けた。
正確には、片付けたのではない。
エドワード宛てのものを全部、彼の執務室へ運んだ。
王都からの通知。
領地の税収報告。
来月の夜会予定。
商会との契約書。
全部だ。
「お嬢様……?」
侍女が不安そうに尋ねる。
「どうしたのですか?」
「こちらの書類は……?」
「エドワード様へ」
「ですが、いつもお嬢様が――」
「今日からはエドワード様がなさいます」
侍女は固まった。
私はそれ以上説明しなかった。
次に、予定表を破り捨てた。
エドワードの予定ではない。
私自身の予定表だ。
朝は何時に起きる。
何時にエドワードの執務室へ行く。
どの書類を確認する。
どの夜会に同行する。
誰に挨拶する。
そんな予定ばかりが並んでいた。
そこに、私自身の予定は一つもない。
だから新しい紙を一枚用意した。
そして、初めて自分の予定を書いた。
『王立図書館へ行く』
翌日。
私は久しぶりに一人で街へ出た。
図書館で昔から興味のあった領地経営の本を読み、帰り道に小さな菓子店へ寄った。
誰かのためではなく、自分が食べたい菓子を買った。
それだけなのに、妙に楽しかった。
「……私、こんなに自由だったのね」
婚約者のために生きることが当たり前になっていた私は、自分の好きなものさえ忘れていた。
◇
三日目。
「リディア様! エドワード様から至急確認してほしいと!」
「お断りしてください」
「えっ」
「私の仕事ではありませんので」
「ですが……」
「エドワード様は、私がいなくても困らないそうです」
侍女は黙った。
五日目。
「リディア様、エドワード様が王都への申請書について――」
「エドワード様へお返ししてください」
七日目。
「リディア様、来週の夜会の席順が決まっていないそうです」
「エドワード様がご自分で決めればよろしいでしょう」
十日目。
ついにエドワード本人がやってきた。
「リディア!」
玄関まで走ってきたのだろう。
髪が乱れている。
「どうしたのですか?」
「どうしたのですか、じゃない!」
「?」
「王都への申請が差し戻された!」
「そうですか」
「そうですかじゃない!」
エドワードは頭を抱えた。
「君ならすぐに処理できるだろう?」
「もう婚約者ではありませんので」
「……え?」
「昨日、正式に婚約解消の書類を提出しました」
エドワードの顔から血の気が引いた。
「聞いてないぞ!」
「お伝えしていませんから」
「なぜ……」
「あなたが、私を必要としないとおっしゃったからです」
「いや、あれは……」
言葉が止まる。
「それに」
私は続けた。
「私がいなくても困らないのでしょう?」
「……」
「でしたら、私を呼び戻す必要はないはずです」
「待ってくれ」
エドワードが一歩近づいた。
「僕は、君がこんなに早く離れるとは思っていなかった」
「そうですか」
「君はいつも僕のそばにいたじゃないか」
「はい」
「だから……」
「だから、何ですか?」
エドワードは答えられなかった。
私はそこで、初めて理解した。
この人は私を失うことが怖いのではない。
私がいなくなって、困っているだけなのだ。
「エドワード様」
「……なんだ」
「あなたが必要としているのは、私ではありません」
「違う!」
「では、何が違うのですか?」
「僕は……」
「私が毎朝あなたの予定を整え、書類を確認し、王都との交渉をして、あなたが失敗しないようにしていたから、あなたは困らなかった」
「……」
「それを愛情だと思っていたのは、私だけだったのでしょうね」
エドワードは俯いた。
「違う。僕は君を……」
「好きですか?」
「……ああ」
「では、なぜ大切にしなかったのですか?」
答えは返ってこなかった。
それが答えだった。
◇
「リディア」
しばらくして、エドワードは顔を上げた。
「もう一度、やり直せないか?」
「できません」
「なぜだ!」
「もう、あなたのために生きることをやめたからです」
「僕が変わる!」
「そうかもしれません」
私は静かに答えた。
「でも、それを確かめるために、もう一度あなたの隣に戻る必要はありません」
「……」
「私は、自分が何をしたいのかを知ってしまいましたから」
私は机の上にある書類を指差した。
「これ、私が作った領地改革案です」
「領地改革?」
「はい。小さな村でも安定して作物を育てられるように、水路を整備する計画です」
昔から興味があった。
けれど、婚約者の仕事を優先して諦めていた。
「今度はこれを、自分のためにやります」
「……君は」
エドワードは苦しそうに笑った。
「僕がいなくても、平気なんだな」
「はい」
私は微笑んだ。
「あなたが教えてくださったので」
◇
それから半年。
私の故郷では、新しい水路が完成した。
農地へ安定して水が届くようになり、収穫量も増えた。
私は領主館の一室を改装し、領地経営を学べる小さな学校まで作った。
忙しい。
けれど、以前とは違う。
これは誰かのために我慢している忙しさではない。
私がやりたいと思って選んだ忙しさだ。
「リディア様」
ある日、執事が一通の手紙を持ってきた。
「王都からです」
差出人はエドワードだった。
私は封を切った。
『君がいなくなって初めて、君がどれだけ僕を支えてくれていたのか分かった』
『あのとき、君がいなくても困らないと言った自分を後悔している』
『もし許されるなら、もう一度――』
私はそこまで読んで、手紙を畳んだ。
「お返事は?」
執事が尋ねる。
「必要ありません」
「よろしいのですか?」
「はい」
私は窓の外を見る。
完成したばかりの水路を、子供たちが走っている。
その隣には、見慣れない青年がいた。
王都から派遣された技師だ。
彼は私に気づくと、笑って手を振った。
「リディアさん! 次の計画について相談したいことがあります!」
「今行きます!」
私は立ち上がった。
以前なら、誰かの許可を待っていただろう。
けれど今は違う。
自分で決める。
自分で選ぶ。
自分の人生なのだから。
「……エドワード様」
私は誰もいない部屋で、小さく呟いた。
「あなたがいなくても、私は困りません」
そして、手紙を引き出しの奥へしまった。
もう、振り返る必要はない。
だって私はようやく、
誰かに必要とされるためではなく、
自分が生きたい人生を選べるようになったのだから。
窓の外から、春の風が吹き込んだ。
私は笑って、部屋を出た。




