前世のトラウマ令嬢に婚約破棄を宣言したはずが、特製はちみつ付きスコーンで餌付けされています
「婚約を、破棄させていただきます」
ディーアルトは、自分でも驚くほど落ち着いた声でそう言った。
人生でもっとも勇気を振り絞った言葉を告げるにしては、及第点と言えるのではないだろうか。
「……はい?」
向かいに座るユーライザは、スコーンを口に運ぼうとしていた手を止め、きょとんとした顔でディーアルトを見た。
窓の外では春の陽光が邸宅の庭を白く照らしており、遠くで鳥がのんきに鳴いている。こんな穏やかな午後に告げる言葉ではないかもしれないが、ディーアルトには今しかなかった。昨夜、前世の夢を見たのだ。
「婚約を、破棄したいと言いました」
「えっと、……もう一度お願いします」
「婚約破棄で——」
「お砂糖、もう一つおつけしましょうか」
「話を聞いてください」
ユーライザはティーポットを持ち上げながら胡乱に見つめ返している。
これは、完全に聞いていない顔だ。
「俺は本気ですよ」
「ええ」
「昨晩、夢を見たのです。前世の記憶の」
「はあ」
「前世で、あなたに酷似した人物に大変苦しめられました」
「それは、大変お気の毒ですが」
「なのでこの婚約は——」
「スコーン、お一つどうぞ」
「食べません」
ユーライザはスコーンをディーアルトの皿に乗せる。
ディーアルトは深呼吸をした。
「ユーライザ様。俺は今、真剣な話をしています」
「前世の記憶がおありで、その中で私に似た方に苦しめられた。それゆえ婚約を解消したいとおっしゃっているんですよね。でも、問題ありません。ご心配なく」
「どこが問題ないのですか」
「私は、ディーアルト様を愛しているので」
咳ばらいをして鷹揚に頷くユーライザに、ディーアルトは頭を抱えた。
「ユーライザ様、今の会話の流れで、どうしてそういう結論になるんですか」
「ディーアルト様を愛しているので、婚約破棄は受け入れられません。シンプルな話じゃないですか」
「シンプルではありません」
「え、複雑でしょうか」
「非常に、複雑です」
「では私がわかりやすく整理しましょうか?」とユーライザは言いながら、指を一本立てる。
「まず、基本的な前提として、私はディーアルト様を愛しています」
指が二本に増える。
「次に、ディーアルト様は婚約を破棄したいとおっしゃっていますが」
指が三本に増えた。
「私はディーアルト様を愛しているので、受け入れません。以上です」
「三本目と一本目は同じ内容ではないですか!?」
「愛している、という事が、重要なのです」
ふんすと鼻で笑い、ユーライザは茶器を優雅な手付きで取り上げた。
言葉を失ったディーアルトの目の前で、スコーンが皿の上で静かに存在を主張している。
これは正直にもう少し、詳細を伝えた方が良いのかもしれない。
このままだと、単純に頭のおかしい人間だと思われる。
否、嫌われてしかるべきなのだから、そう思われてもいいのだろうか。
ディーアルトの思考は、出口のないぐるぐる迷路の中に放り込まれてしまった。
不意に声がかけられる。
「スコーン、美味しいですよ。今日は特製はちみつを持参しました。厨房から盗み出し……借りて来たのです」
言われるがままに、スコーンに手を伸ばしてしまった。
確かに、領地で養蜂業に重きを置いているユーライザの持ち出してきたはちみつは絶品だった。
それが余計に、ディーアルトの思考の行方を狂わせる。
★
婚約破棄は成立しなかった。
ディーアルトはその後も三回程、婚約破棄宣言を試みたが、いずれも見事なくらい適当にあしらわれたので、今度は戦略を変えることにした。
徹底的に逃げるのだ。
貴族男子足るもの、と後ろ指を指されそうだが、あの片平百合と同じ顔をした女と生涯を添い遂げるなど、前世の記憶が蘇ってしまった彼にとっては、非常に難しい。
同じクラスだった片平百合は、前世のディーアルトを徹底的に苛め抜いた張本人だ。
足を引っかけて転ばせるのは日常茶飯事。教科書にはあらゆるページに『ゆりぴ♡すきぴ』なる自作サインを記される。
バレンタインデーにはカカオ75%以上の見た目だけは本気チョコ風の代物を受け取り、あやうく苦さで殺されそうになる。
まだ小学2年生だったディーアルトは、常に俯きながら学校生活を送っていた。目が合うと、片平百合は唇とにぃっと釣り上げて、捕食者の歩みでディーアルトの退路を塞ぐ、地獄のような日々。
「カーライル家の令嬢がいらっしゃいます」と執事が告げるたびに、ディーアルトは不在である旨を言づけていた。
「しかし旦那様、令嬢はすでに応接間に——」
「来週あたりまで、俺は不在です」
「いいえ、物理的にはご在宅かと存じますが——」
「概念的には、不在ですから」
執事のヴィルヘルムは長年の経験から鍛えられた無表情を保ちつつ「かしこまりました」と答え、五秒後に戻って来る。
「令嬢は『ではここでお待ちします』とおっしゃっています」
「……どのくらい待つつもりだと?」
「『一晩でも』と」
ディーアルトは眉間を押さえた。
応接間に入ると、ユーライザは刺繍をしながら待っていた。
「こんにちは」と彼女は言った。顔も上げずに。
「いついらっしゃったんですか」
「三時間ほど前です。刺繍が一つ完成しました」
「何の用ですか」
「特にないですが」
「特にない用で三時間待つんですか」
「好きな人の家は居心地がいいので」
ディーアルトは天井を仰いだ。これはいつものパターンだ。彼女の会話は彼の意図をうまくすり抜けて、どうでもよい内容のキャッチボールが繰り返される。
「ユーライザ様…‥‥あなたは少し、距離感というものを——」
「遠ければよかったですか? どのくらい離れていれば快適ですか。測りますので言っていただければ」
「測るって……」
「愛情は具体的に示したいので」
「もう少し、抽象的で構いません……」
ユーライザはまた刺繍に戻った。
針を動かしながら「ディーアルト様はお茶はいかがですか」と聞いた。
「一応ゲストは貴女ですよね?」
「先ほどヴィルヘルムさんに頼んでおきましたので、もうすぐ来ると思います」
ディーアルトはため息をついて、向かいの椅子に腰を落ち着けた。完全に執事は買収されている。こうなってしまうといつも、追い返す気力がどこかへいってしまう。
「ユーライザ様はなぜ、そこまで俺にこだわるんですか」
「こだわり、というか。酸素みたいなものなのですよ。酸素はほら、当たり前にそこにあるものでしょう」
「なかなかに、重い発言ですね……」
「ディーアルト様には軽く受け取っていただいて構いませんよ」
「受け取り方の問題ではない気がします」
ちょうどそこへ、ヴィルヘルムがお茶を運んできた。
ユーライザの刺繍が一枚テーブルに置いてあるのを見て感心したように「これは……もしかして旦那様ですか」と呟いた。
ディーアルトが見ると、刺繍には確かに、黒髪の男が描かれていた。
「他にもディーアルト様の肖像を刺繍した完成品は三枚あります」
「……それは……知らなくてよかった情報です」
「喜んでいただけると思って」
「とても、複雑な気持ちです」
ユーライザはディーアルトの反応を見て、ふわりと笑った。
「でも、顔が赤いですよ」
「暖炉が暑いだけです」
「あら、春なので、火が入っていないようですけれど」
「……概念的に暖かいんです」
「先ほどたしか、概念的に不在でいらして、今度は概念的に暖かい。つまり、ディーアルト様は概念派なんですね」
「そういう人間です」
「かわいいですね」
「かわいくありません」
「かわいいです」
「かわいくないと言っています」
「かわいいと思っているので、かわいいです」
ディーアルトは頭を抱えた。
「……もういいです。帰りませんよね、どうせ」
「ディーアルト様が帰れと命令するなら帰りますが、明日の朝にはまた来ますよ?」
ユーライザは全く意に介した様子もなく、持参したはちみつを自分の紅茶にたっぷりと入れている。
その堂々たる態度に、ディーアルトはついに腹を括った。
中途半端に逃げるからいけないのだ。ここで前世のトラウマを突きつけ、彼女がいかに自分にとって恐ろしい存在であるかを論理的に説明し、引導を渡してやるしかない。
「いいですか、ユーライザ様。俺は前世で、あなたにそっくりな女……片平百合という人物に、酷い目に遭わされたんです」
「酷い目、ですか」
「そうです! 俺の教科書という教科書に、『ゆりぴ♡すきぴ』などと意味不明な呪いの言葉を書き込み……!」
「……すきぴ、ですか。それは呪いではなく、熱烈な愛情表現なのでは?」
「嫌がらせです! それに、バレンタインにはカカオ75%の苦すぎるチョコを無理やり押し付けてきて……!」
「それはきっと、甘いものが苦手かもしれないという配慮と、少しでも高級なものをプレゼントしたいという、健気な乙女心……」
「毎日、俺の足を引っ掛けて転ばせてきたのは!?」
ディーアルトの悲痛な叫びに、ユーライザはティーカップをことりとソーサーに置いた。
「好きな子をいじめたくなるのは、子供特有の愛情の裏返し……。いや、本当はつまずいたディーアルト様を情熱的に抱き止めるつもりだったのに、運動神経が悪くて間に合わなかっただけかもしれませんよ」
「どうして、そこまで詳細がすらすらと……」
ディーアルトは訝しげに目を細めた。
ユーライザはにっこりと、それこそ聖母のように微笑んだ。
「さあ? 前世のことはわかりませんが、私ならそうすると思っただけです」
「……」
「ただ」
ユーライザは少しだけ視線を逸らし、ほんのりと頬を朱に染めた。
「もし今生でバレンタインという行事があるのなら、今度は絶対に甘いミルクチョコレートにします。カカオ75%は、小学二年生には苦すぎたと、深く反省しておりますので」
応接間に、短い沈黙が落ちた。
「……まさか、お前は!」
ディーアルトは勢いよく立ち上がった。椅子がガタッと音を立てる。
「前世の記憶……!」
「ええ」
ユーライザは隠す素振りも見せず、優雅にお茶を飲んだ。
「ディーアルト様が初めて婚約破棄を切り出されたあの日、あまりのショックで前世の記憶がすべて蘇りましたの。そして気付きました。ああ、私の愛の表現は、少しだけ不器用だったのだと」
「不器用で済まされる問題ではありません! ただの恐怖体験です! 捕食者の目をしていましたよ!」
「ですから、今生では反省を活かして、こうして正々堂々と愛をお伝えしているではありませんか」
「俺の執事を手懐けて居座ることが正々堂々ですか!?」
「ええ。足を引っ掛けて転ばせる代わりに、三時間待って手作りの刺繍をプレゼントする。非常に建設的で大人な対応です」
ふんすと、再びユーライザが胸を張る。
その誇らしげな顔は、小学生の頃、無理やりビターチョコを押し付けてきた時の片平百合の顔と完全に一致していた。
「ユーライザ様。俺は、あなたと結婚する気は——」
「ディーアルト様」
ユーライザが立ち上がり、ゆっくりと距離を詰めてくる。
ディーアルトは思わず後ずさろうとしたが、背中がマントルピースにぶつかり、退路を絶たれた。ユーライザはそのままディーアルトの目の前まで来ると、その両手をきゅっと握りしめた。
「前世では、私の不器用さのせいで怖がらせてしまってごめんなさい。でも、ディーアルト様が好きだという気持ちは、ずっと、ずっと本物だったんです」
「……っ」
「今生ではもう、足を引っ掛けたりしません。嫌がることを押し付けたりもしません。その代わり——」
ユーライザは、極上の笑みを浮かべた。
「逃げ場がなくなるくらい、愛で外堀を埋めさせていただきます。酸素のように、私なしでは生きられないくらいに溺愛しますので、覚悟してくださいね?」
それは、小学生の時よりもはるかに洗練された、有無を言わさぬ捕食者の顔だった。
助けを求めて扉の方を見ると、執事のヴィルヘルムがそっとドアを閉める音が聞こえた。
ディーアルトは観念したように目を閉じ、深く長いため息をついた。
ぐるぐる迷路の出口には、最初からこの女が待ち構えていたのだ。
逃げ道など、前世の時点から存在しなかったのかもしれない。
「……どうにでもなれ」
差し出された特製はちみつ付きのスコーンをヤケクソ気味にばくりと口に放り込むと、ユーライザが心底愛おしそうに「リスみたいでかわいい」と呟いたのが聞こえた。




