『全属性勇者、完全に名を捨てる』
坂上健吾は、自分の名前を書いた紙を見ていた。
役所の登録書類。
坂上 健吾
肩書き:全属性勇者(元)
(元、便利な言葉だな)
彼は、線を引いた。
名前を消した。
「これで、いいです」
役人は困った顔をした。
「名前が無いと、管理できません」
「管理されないためです」
(初めて、ちゃんと通じた)
その日から、健吾は名乗らなかった。
勇者でも、元勇者でもない。
ただの、
通りすがりの男。
辺境の町を出た。
誰も引き止めない。
それが、ありがたかった。
別の町。
井戸は濁っていた。
健吾は立ち止まる。
(……)
通り過ぎた。
胸が、少し痛んだ。
宿屋で、名前を書く欄があった。
「……空欄で」
女将は気にしなかった。
(名前って、なくてもいいんだな)
夜。
健吾は空を見上げる。
魔王はいない。
勇者もいない。
ただ、世界がある。
小さな事件は起きていた。
喧嘩。
盗み。
すれ違い。
でも、誰かが何とかしていた。
(俺じゃなくてもいい)
それでも。
川が氾濫しそうな夜。
健吾は堤防に立っていた。
名はない。
肩書きもない。
ただ、
放っておけなかった。
誰にも見られないように、
最小限だけ、力を使う。
水位を下げ、
土を固め、
風を逃がす。
朝には、何事もなかったようになっていた。
翌朝。
「奇跡だな」
「誰がやったんだ?」
健吾はもう、町を出ていた。
全属性勇者は、
完全に名を捨てた。
残ったのは、
やらずにいられない癖だけだった。




