八話
「そんなに慌てて、どうしたんだ?」
駆け込んできた若い男性に、お爺さんが問いました。
血相を変えてきた男性は、額に浮かんだ冷汗を拭いながら答えます。
「そ、それが、王都から追い出されてきたって者が、大勢押し寄せてきているんだ!」
「なんだって!?」
そこに集まっていた領民たちは皆驚愕し、互いに顔を見合わせます。
急いで案内される広場へと向かうと、その光景に私たちは言葉を失いました。
目の前に広がるのは、まるで難民の集落のように、広場を埋め尽くすほどの人、人、人……。
そこにはあまりにも多くの人々が寄せ集まり、何かに怯えたように縮こまっていたのです。
「……これはまた、大所帯だな……」
眉をひそめてお爺さんが言いました。
その人数は数十を遥かに超え、数百人は居るでしょう。
そしてまた、王都に通じる街道の先からも、点々とこちらに向かってくる人影が見えるのです。
老若男女入り混じる人々は、疲労困憊した様子で絶望に満ちた表情をしています。
彼らの多くは、フードや外套に身を包んで身体を隠していましたが、見える部分の肌が樹皮のように変異していました。
「肌が爛れて……お嬢さんと似たような症状の者ばかりだな……」
ガラス職人の青年が痛ましそうに呟くと、彼女も自分の腕を摩りながら、沈痛な面持ちで静かに言います。
「きっと、彼らも美しくないという理由で追い出されてきたのでしょうね……」
彼女の腕や顔の肌は、だいぶ改善されて良くなってきていましたが、まだ完全には治りきっていません。
「王都では一体、何が起こっているんだ? これから、どうなっていくんだ?」
疑問の声が上がる中、領民の間に懸念や心配の表情が広がっていきます。
私はどうにかしてこの人たちを助けなければと焦るものの、どうするのが最善なのかわからず、不安な気持ちをこぼしてしまいます。
「どうしましょう……こんなに大勢を受け入れては、食料や物資がいつまで持つか……シルバーさまにも補給物資を送らねばならないのに……」
私の言葉を聞いた老夫婦は顔を見合わせ、少し考え込んだ後、決意を固めたように口を開きます。
「まあ、辺境領の民は貧しい暮らしには慣れっこですからな。なんとかなるでしょう――というか、なんとかするしかありませんが」
「ここ最近、クリスタさまのおかげで環境も良くなり、蓄えも幾分できていましたから、このくらいの人数であれば問題ありませんよ。行商人も頻繁に来てくれるようになりましたからね」
老夫婦の前向きな言葉を聞いて、不安で押しつぶされそうになっていた気持ちが一気に軽くなり、思わず笑みがこぼれます。
「本当ですか! ああ、良かった……」
最初は困惑して表情を強張らせていた領民たちも、老夫婦の言葉に賛同するように頷き、表情を明るくして笑ってくれます。
ガラス職人の青年も前に出てきて、自信満々な様子で宣言しました。
「辺境領の水も綺麗になっていますから、お嬢さんと同様にすぐ肌も治るでしょう。宝石や鉱石が生み出せる者がいれば、職人に加工させて行商人に高く売りつければいいんです。交渉は任せてください。貧しい辺境領で長年生き抜いてきた根性をお見せしましょう」
頼もしいその言葉に、私も勇気をもらいました。
自分にできることを精一杯やろうと決意し、皆に向かって明るく笑いかけます。
「みんなで頑張って乗り越えましょう。私もできることを頑張ります!」
皆の表情に決意が宿り、新たな行く当てのない人々を迎える準備を始めました。
この辺境領の他者を思いやる温かな精神と結束力があれば、どんな試練でも乗り越えていける気がします。
これが、シルバーさまの一家が代々、命懸けで守り抜いてきたもの、揺るがない強い思いの力なのだと、私は確信したのです。
◆
そこは王国の要でもある、辺境領と魔境を隔てる防壁を守護する前線。
魔獣暴走により、絶え間なく襲いくる魔獣の膨大な群れ、群れ、群れ……。
いくら屈指の精鋭部隊とはいえ、連日連夜の不眠不休にも近い過酷な環境では、心身共に疲弊していき、判断力も鈍っていく。
加えて、魔獣の群れの中には稀に狡猾な知恵のある魔獣や、返り血を浴びるだけでも焼け爛れる毒を持つ魔獣や、匂いで感覚を麻痺させ精神に作用する特殊な魔獣まで、未知の魔獣も多数いるのだ。
滴る汗を拭う瞬間、霞む目を擦った瞬間、瞬きをした瞬間――そのちょっとした隙が命取りになることがある。
それは、若い騎士が巨大な魔獣の急所を的確に狙い打ち倒した後、剣を引き抜くほんの刹那――巨大な魔獣の身体を突き破り、無数に飛び出してきた小さな魔獣に、若い騎士は食らいつかれた。
全身を小さな魔獣に覆われ、声を上げることもできず、前後不覚になる若い騎士は、ここまでなのかと己の無力さを嘆いた、その時――
ギィギィ、ギィアアアアァァァァ――――ッ!
魔獣のけたたましい断末魔と共に、身体を覆っていた小さな魔獣のすべてが一刀両断され、切り伏せられた。
その卓越した剣技魔法は、王国最強の部隊と謳われるバルドリック騎士団の団長、シルバー・バルドリックのものだった。
若い騎士は息を切らせ、命の恩人であり敬愛する団長を見上げる。
「はぁ、はぁ……団長、すみません。助かりました……」
「傷を負ったのか。肩を貸す、掴まれ。お前はもう下がって休んでいろ」
シルバーが支えようと腕を伸ばすが、若い騎士は苦痛に顔を歪めながら、前線に戻ろうと抵抗する。
「こんなものはただのかすり傷です、私はまだ戦えます! 命が惜しいなら、部隊に志願などしておりません!」
その言葉にシルバーの表情が厳しくなり、強い口調で叱責する。
「馬鹿者!! 団員も俺が守るべき民だ! そう易々と死なれてたまるか!」
「うっ……」
尋常ではないシルバーの剣幕に怯み、敬愛する団長に怒鳴られてはさすがに堪え、若い騎士は項垂れる。
「申し訳ございません……」
「休める時に休んでおけ、いいな」
シルバーはすぐに若い騎士を抱え、後方の医療部隊の元へと連れていった。
「怪我人だ。傷を手当てしてくれ」
「はい!」
衛生兵が素早く応じる。
怪我人を受け取った衛生兵は、少し声に安堵をにじませながらシルバーに報告する。
「あ、そうです、団長。補給物資が届いています。予想以上に内容が充実していまして、適切に処置できるだけの薬品もあるので、毒や感染症によって命を落とす可能性は極めて低いと思われます」
その知らせにシルバーは目を見張る。
「なんと! それは本当か!?」
長引く戦場で命を落とす最大の要因になるのは、戦闘による致命傷ではなく、腐敗死体の転がる劣悪な環境での感染症なのだ。
シルバーの父、誰よりも屈強な最強の騎士であった前騎士団長でさえも、感染症や薬不足による死は免れなかった。
できる限りの備えをしていたとしても、どうにもできない部分はある。
シルバーはその点を懸念し続けていた。
同様に薬品の心配をしていた衛生兵は、喜色を含んだ声で告げる。
「はい、豊富な食料に大量の薬品瓶、清潔な飲料水も潤沢です。この調子なら、まだまだ余裕ですよ」
「そうか……ありがたいな」
辺境領の民たちが前線に立つ団員たちのため、頑張って補給物資を用意してくれているのだ。
シルバーはクリスタを思い浮かべ、領民たちからの想いに胸が暖かくなるのを感じた。
「近くを流れる川の水も透き通るほど綺麗に変わっていまして、飲む以外の生活用水に使う分には問題なさそうです。団員も余裕のある時に水浴びされるとよろしいでしょうね」
「わかった。団員たちにも感染予防に交代で水浴びするよう伝えよう」
それから水が綺麗になった影響なのか、不思議なことに汚染されていた土地も浄化され、魔獣の死体がすぐに腐敗することもなくなり、死体の焼灼処理が間に合うようになった。
環境が良くなったことで懸念していた不安を解消され、シルバー率いる部隊はさらに躍進していったのだ。
そんな折、前線で魔獣の動きを監視している団員たちの間で、小さな会話が交わされていた。
一人の団員が同僚に近づき、小声で話しかける。
「なぁ、訊いてもいいか?」
「なんだよ、あらたまって」
辺りを見回してから、団員はさらに声を落として言う。
「ここしばらく臨戦態勢の緊張感が続いていたせいか、俺の頭がおかしくなっているだけかもしれんが、団長の雰囲気――と言うか、主に顔つき。別人のように変わっている気がするんだが、そう見えているのは俺だけか?」
同僚は肩をすくめて見せ、返答する。
「奇遇だな、オレもだ。お前の頭がいかれたのが原因でそう見えているなら、オレの頭もいかれていることになるな。だがな、これだけは言えるぞ。あの鬼神の如く強く恐ろしい剣技魔法と豪胆さは間違いなく団長だ」
二人は月明かりに照らされたシルバーが魔獣の群れを探している姿を眺め、小さく頷き合う。
「やっぱ、そうか。俺、この防衛戦で死ぬのも覚悟して、遺言書まで書いて来たんだけど、団長を見ているとまるで死ぬ気がしないんだ……これは危機感がなくなって危ないやつかな?」
「いや、お前だけじゃなく、部隊の奴らは皆そう思ってるだろ。見ろあの団長の高笑い、絶好調すぎて怖すぎる」
魔獣の群れを見つけたシルバーは、嬉々として一人で突っ込んでいき、瞬く間に剣技魔法で魔獣を小間切れにし、全身に鮮血を浴びて高笑いしていたのだ。
その血塗られた狂人じみた姿は、正に狂戦士としか言いようがない。
傷ひとつ負うことなく、敵を屠る無敗の最強騎士団長――怪物辺境伯。
これでいて、人に対しては大変な人格者なのだから、団員たちは複雑な気持ちである。
「日を追うごとにキレが増して、強くなってすらいるんだぞ? これほど、敵側に産まれなくて良かったと思うことあるか? ないよな?」
「ないな。俺、心底、団長に守られる側で良かったって思うわ。魔獣に産まれなくて本当に良かったわ。もはや、あの憎らしい魔獣がちょっと可哀想に見えるレベルだからな……」
団員たちはシルバーの怪物みたいな姿に薄ら寒いものを感じつつも、勝利を確信していたのであった。
◆
シルバーさまのお帰りを待つ間、私はドブさらいも毎日続けていました。
石クズの作用なのか、水は徐々に綺麗になり、ひと月ほど過ぎた頃にはドブ沼は見違えるほど美しい湖へと変わっていたのです。
農産物が上手く育たなかった汚染された土壌も、水が綺麗になったことで改善され、よく作物が育ってたくさん収穫できるようにもなりました。
また、街道が砂利で舗装されたことで、行商人も頻繁に訪れるようになり、人も増えて物流も盛んになって辺境領は活気づきいていったのです――。
「クリスタ!」
名を呼ばれて振り向けば、そこには輝くように美しい見知らぬ男性が立っていました。
その男性は嬉々とした様子で私に駆け寄ってきて、急に私の身体を抱き上げます。
「きゃぁっ!?」
「会いたかったぞ!」
目が眩むほどの美形に満面の笑みで言われましたが、こんなに綺麗な男性は王都でも見たことがありません。
まったく記憶にない男性の言動に困惑して、私はパニックになりながら訊きます。
「ど、ど、ど、どちらさまですかぁ?」
男性は一瞬にして真顔になり、私の顔をまじまじと覗き込んで言います。
「肌が治ったから俺がわからないのか? この薄情者め……ふふ、ははははは」
「え……?」
明るく笑う銀の目と白い歯には既視感がありました。
その笑顔は、私が帰りを待ち望んでいた人と同じものです。
「シ、シルバーさま?!」
信じられない変化に、私は何度も目を瞬かせました。
樹皮のようにひび割れていた浅黒い肌は、透き通るような白く滑らかな肌に変わっています。重くうねっていた黒髪は、風になびく銀糸のような美しい髪へと姿を変え、しゃがれていた声までもよく通る美声に変わっていたのです。
まるで別人のような変貌に戸惑ってしまいます。
だけど、その瞳の奥にある優しい輝きは、紛れもなくシルバーさまそのもの。
「……お怪我はありませんか?」
「この通りピンピンしている。たいした怪我はしていないから、心配しなくていい」
約束通りにシルバーさまが帰ってきてくれました。
そのことが、ただただ嬉しくて、思わず抱きついてしまいます。