うちは珈琲しかないですよ。
腕の時計に目をやると3:35を示していた。
目の前の店の扉を開ける。
焙煎されたコーヒー豆の香りが鼻腔をくすぐる。
カウンターの向こうに店主がひとり。
ほかには誰もいない。
おれはカウンターに座ると店主が言う。
「うちは珈琲しかないですよ。」
尋ねるのも野暮というものだ。
俺は一言、「ええ」と告げた。
「かしこまりました」
店主はそう言うと、レコードに針を落とした。
針は浮いて沈み、回転するレコードの溝を擦る。
古き良き時代のジャズとレコードノイズが、店内を満たす。
壁には、マチスの版画が一枚。
店主の趣味だろうか
しばらく音楽に耳を傾けていると、
店主が俺の前にカップ&ソーサーを差し出した。
「お待たせしました。」
酸味と苦味のバランスが絶妙で、上品な味の珈琲だった。
心の奥に広がる静けさに満たされる。
店主がふと口を開いた。
「珈琲、お好きなんですね」
「はい」とだけ返すと、店主は微笑みを浮かべた。
「今日はもうひとつ、特別な豆が届きました。
もし宜しければ、お淹れします。お代はいりませんよ。」
店主はにっこりと言った。
俺は、首を縦に振った。
店主はレコードを裏返し、針を落とした。
さっきと同じ曲だった。
なぜ、同じ曲が?
考えを巡らせていると、
新しいカップ&ソーサーが目の前に差し出される。
俺は不思議に思いながら、一口、二口と飲んでみる。
酸味と苦味のバランスが取れた味だ。
これは、一杯目と同じ味だ。
「これが特別な豆ですか?」
俺は尋ねた。
店主は微笑んだまま、静かに言った。
「ええ、これが特別な豆です。
この珈琲には特別な効果があるんです。」
「特別な効果?」俺は訝しげに尋ねる。
店主は一拍置いてこう言った。
「そうです。時間を戻す効果です。」
「時間を戻す?」
と半信半疑で聞き返す。
店主は穏やかな目をしながら頷いた。
「さっきのレコードを裏返し、
同じ曲をかけたでしょう。あれも時間を戻した証です。
あなたがこの店に入った時の状態に戻すために。」
おれの中で何かがざわついた。
何か言おうとしたが、ただ、カップを見つめるだけだった。
もう一度、カップを手に取る。
店主は言った。
「時間は有限です。どう過ごすかは、あなた次第ですよ。」
俺は静かにカップを飲み干した。
腕の時計に目をやると3:35を示していた。
目の前の店の扉を開けると
焙煎されたコーヒー豆の香りが鼻腔をくすぐる。
カウンターの向こうに店主がひとり。
ほかには誰もいない。
おれはカウンターに座ると
店主が言う。
「うちは珈琲しかないですよ。」