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フロント 4

「え?」


 スズケイとしては、だがますます意味不明である。龍子がSNSに投稿するだけで、なぜ自分へのストーカーめいた差し入れが止むのだろう。

 ぱちぱちと瞬きを繰り返していると、実際にスマートフォンでこちらのトレイを撮影した龍子が、いくつかの操作後に画面を向けてきた。フォトグラムのアプリが開いており、目の前にあるクロックムッシュの写真が、さっそく綺麗にアップされている。

 ただし。


「えっ!? これって!」


 写真の下に目をやったスズケイは、愕然となった。

 そこには、《#》から始まるハッシュタグと呼ばれるキーワードに加えて、とあるメッセージも記してあった。


《#友人とランチ #カフェ #忠告  フリーWi-Fiの脆弱性をついて、他人のアカウントを覗き見することは立派な犯罪ですよ。彼女が飲んだお酒の情報も、そうやって手に入れたんでしょう? 告発されればIT企業として致命傷ですね》


「……IT企業ってことは、やっぱり遠藤さんが?」


 おそるおそるの確認に、龍子がきっぱりと頷く。


「はい。ここに書いた通り、フリーWi-Fiの脆弱性をついて、スズケイさんのフォトグラを覗き見していたんだと思います」


 説明とともに彼女は、いつも以上に角度のついた厳しい目を、遠藤が入っていったドアへと向けた。


「そして今も、おそらくは私のアカウントを探して同じように――」


 すべてを言い終えないうちに、勢いよくドアが開く。

 その内側から遠藤が、青ざめた顔で自分たちを見つめていた。




 呆然とした足取りでふたたび近づいてきた遠藤は、「も、申し訳ない! 告発は勘弁してくれ!」といきなり頭を下げてきた。声も大きいので、他の客たちが何事かと振り向いたほどだ。


「スズケイさんの感心を引きたくて、ほんの出来心でやってしまったんだ。ビールとワイン、二回だけだ。だから……」

「本人が罪を認めてこう言ってますけど、スズケイさん、どうされます? あ、ちなみに今の台詞はしっかり録音済みです。スマホって便利ですよね」


 頭を下げ続ける遠藤を無視して、龍子が尋ねてくる。言葉の通り、彼女のスマートフォンはいつの間にか別のアプリが起ち上がっていた。


「ええっと、よくわからないんですけど、つまり遠藤さんは、私のフォトグラのアカウントを覗くことができて、だから私が飲んだお酒についても知っていた、と?」

「ええ。立派な犯罪ですし、警察に通報しますか?」


 ようやく遠藤に目を向けながら、龍子が重ねて訊いてくる。その冷たい視線を追ったスズケイは二、三秒の後、ゆっくりと首を振ってみせた。


「……いえ。ああいうことがなくなるのなら、もうそれでいいです」


 言葉に反応した遠藤がのろのろと顔を上げ、か細い声で伝えてくる。


「……本当に申し訳ない。二度とやらないし、このカフェとの取引も辞める。クラブも退会します」

「当然です。万が一、同じような真似をしたら即警察に連絡して、この音声データも聞いてもらいますから。わかったらさっさと行ってください。人の目もあるので」


 厳しい口調で龍子がとどめを刺すと、遠藤はもう一度、土下座するかのような勢いで深く頭を下げてから、逃げるように店を出ていった。事態を見守っていた周囲の客も、すぐにリラックスした空気を取り戻していく。何はともあれ、一件落着したようだ。

 自身も落ち着いたスズケイは、あらためて龍子に質問した。


「あの、遠藤さんが犯人だったってことはわかりましたけど、一体どうやって私のフォトグラを覗いてたんですか?」


 スズケイの声がスイッチであるかのように、龍子は目尻の角度や口調を、先ほどまでと同じ優しいものに戻して教えてくれた。


「彼は、フリーWi-Fiの脆弱性を利用していたんです」

「フリーWi-Fiの、ぜいじゃくせい?」


 そういえば、フォトグラにも龍子は同じことを書いていた。だが、スズケイにはさっぱりわからない。

 すると龍子は、逆に確認してきた。


「スズケイさん、このお店のフリーWi-Fiにスマホを接続してますよね」

「え? ああ、はい」


 それでいつも、フォトグラを更新したりしているのだ。


「設定画面て、表示できますか?」

「ええっと……これですよね」


 言われた通り自分のスマートフォンからWi-Fiの設定画面を立ち上げ、接続中を示すアイコンとともに表示されている、《Free Wi-Fi》という文字をタップする。ただ、最初から専用アプリを通じて自動接続しているので、わざわざ設定ページを開くのは初めてだった。

 画面を向けると龍子は小さく頷いて、「ここを見てください」と綺麗な人差し指で、その一部を指差した。


「このお店のフリーWi-Fiも、()()()()()()()()()()()()

「暗号化?」

「ええ」


 そうして龍子はネットにおける「通信の暗号化」について、わかりやすく教えてくれた。

 Wi-Fiでのインターネット接続は、通信内容を覗き見されないよう、データを暗号化してやり取りすることが推奨されている。市販のWi-Fiルータにもそれぞれ個別の、「暗号化キー」と呼ばれるパスワードが設定されており、どんな端末でも一度はそれを入力しないとネットに接続できない。

 ところが、カフェや公共施設などで提供されるフリーWi-fiの一部は、この限りではないらしい。不特定多数の人がアクセスしやすいようにするためか、はたまた単純に経費の問題か、暗号化されていないことも多々あるのだそうだ。もちろん単にネットのニュースを見る程度なら問題ないが、たとえば暗号化されていないネット環境でクレジットカード決済などを行った場合、簡単に通信を傍受され、個人情報を盗み見られてしまう可能性が高まるのだという。


「ええっ! そうだったんですか!?」


 大きな声を出してしまったスズケイは、慌てて口に手を当てた。その反応に龍子は、すぐさま心配そうな顔をしてくれる。


「まさかここで、ネットショッピングとか銀行の振込みとかをされちゃいました?」

「あ、いえ、それは大丈夫です。フォトグラの更新ぐらいしかしてませんから」


 自分が口にした言葉で、スズケイはようやくすべてを理解した。


「……って、そうか! だから私の飲んだお酒とかも見られてたんだ!」


 ITベンチャー企業の社長。そして、このカフェもクライアント。

 つまり遠藤は、スズケイがここにいるとき自分も事務所に居合わせることがあって、Wi-Fi通信を覗き見していたのだろう。


「スズケイさんのフォトグラって、本名か、もしくはわかりやすいアカウント名じゃありませんか? たとえば、そのまま《Suzukei》とか」


 重ねての質問に、スズケイは「はい」と目を丸くしたまま頷いた。たしかにアカウント名は《Suzukei》である。


「きっとフォトグラには、飲まれたお酒の写真も上げていますよね」

「はい。良樹と飲んだビールとワインの写真も、このお店でアップしました」

「でしょうね」


 狙ったのかたまたまかはわからないが、ちょうど同じ時間にカフェの事務所にいた遠藤は、スズケイの投稿を自分のパソコンから覗き見して、どんなビールやワインを好んで飲んだのかという情報を、易々と手に入れていたのだ。


「そういうことだったのかあ。友達以外は非公開設定にしてるのに、おかしいなって思ったんですよ」

「遠藤はさっき私の名前も知ったので、同じようにアカウントを検索して覗いたんでしょう。もちろんこちらとしては、それを狙ったわけですけど。私も《Ryuko》っていう、すぐにわかるアカウント名で登録してたので」


 龍子の推理通りなのは、間違いなかった。ネットでの覗き見を趣味とする遠藤は、顔を知っている美人会員から名前を聞き出せたことで、嬉々としてフォトグラムのアカウントを検索したはずだ。そしてスズケイのときと同様、通信が暗号化されていない状況を悪用して、まんまとアカウントの覗き見に成功した。けれどもそこには逆に、自分の悪事を知っているという、肝が冷えるような糾弾の言葉が記されていたというわけである。


「なるほど。虎牙林さんのお陰で助かりました。本当にありがとうございます!」


 心からの感謝とともにスズケイが頭を下げると、龍子は「いえいえ」と照れたように首を振った。


「いずれにせよ、フリーWi-Fiを使われるときは一度、暗号化されているかどうかを確認した方がいいと思います。もしくは基本的に接続しないようにするか。今は携帯電話会社との通信でもじゅうぶん速度は出ますし、使った容量が月々の範囲内かどうかにだけ気をつければ、外でもあまり不自由はしませんから。フォトグラとかの更新も、よっぽど大きな動画を上げたりしなければ大丈夫なはずです」

「へえ」


 携帯ショップの営業みたいにすらすらと解説されて、スズケイは感心してしまった。


「あの、ひょっとして虎牙林さんも、IT関係のお仕事なんですか?」


 なんの気なしに訊くと龍子は、「え? そんな、とんでもない!」と頬をやや赤くして、即座に否定した。鋭い目尻も垂れ気味になっていて、なんだか可愛らしい。


「私はただのOLです。コンサルタントというか、いろんな企業の経営アドバイスをするような会社で働いてるんです」

「ああ、コンサル会社さんだったんですね。なんか虎牙林さんぽくて、格好いいなあ」


 すっかり冷めてしまったクロックムッシュに手を伸ばしながら、スズケイは二度、三度と頷いた。企業のコンサル。うん、「バリキャリ」な龍子にぴったりの職種だ。


「そんなことありませんよ」


 苦笑する龍子も、ベーグルサンドを手に取っている。はたから見れば、仲のいい友人か姉妹のように見えることだろう。

 と、そのタイミングでまたしても第三者に声をかけられた。今度は、通路とを隔てる柵の向こう側からだ。


「姉ちゃん! ……と、虎牙林さん?」

「あ、鶴川さん! こんにちは」


 笑顔で会釈する龍子とともに、そちらへ目を向けたスズケイは「あれ?」と口を開いた。


「良樹、どうしたの? 今日は電車?」

「うん。ちょうど車検で」


 通路に立っているのはレボリューション湘南のスイムチーフ、鶴川良樹だった。やはり近所に住む彼も、今日は遅番らしい。


「あれ? 今、()()()()って……?」


 数秒遅れて彼の呼び方に気づいた龍子が、切れ長の目を見開き二人を見比べる。戸惑うその様子に「あ、いけね」とつぶやいた鶴川だったが、すぐに笑顔を浮かべてスズケイに訊いてきた。


「虎牙林さんならいいでしょ? 別に隠してるわけじゃないし」


 スズケイも、なんでもないという顔で頷く。


「うん。ていうか、私もあんたと飲みに行ってること教えちゃったし」

「いたいけな弟を無理矢理、つき合わせてるって?」

「逆でしょうが。いつまで経っても彼女ができないから、可愛いお姉ちゃんがわざわざ相手してあげてんのよ。感謝しなさい」

「姉ちゃんがもれなくついてくるから、彼女ができないんじゃないかなあ」

「失礼な。今度は舌入れてチューするわよ」

「や、やめてってば! しかも人前で変な予告しないでいいから!」


 テンポ良くやり合う二人をぽかんと見つめていた龍子だが、「弟」という単語も聞こえたあたりで、何かを確信した表情になった。


「あの、お二人はひょっとして――」


 嬉しい驚き、といった表情で自分たちを見比べる彼女を、スズケイはにっこりと見つめ返した。


「そうなんです。私たち、じつは姉弟なんです」

「しかも二卵性の双子で、離婚した両親が片方ずつ引き取ったっていう、ややこしい関係ですけどね。あ、今の話でおわかりかもしれませんが、僕の方が弟です」


 こちらはやや照れ臭そうに頭に手をやって、鶴川が軽く頭を下げる。


「そうだったんですね! 言われてみればなんとなく、顔の雰囲気っていうか、全体的な印象が似てるかも」


 目を輝かせる龍子に、スズケイは「とんでもない!」と頬をふくらませてみせた。


「私はここまで太ってないし、顔だってぱんぱんじゃないですよ。そりゃあ、虎牙林さんみたいにシュッとしてはないですけど」

「僕だってこんな、見た目詐欺の童顔アイドルとは違います。ちゃんと年相応の大人ですから」


 呆れ顔でのたまう弟を、スズケイはじろりと睨んでやる。


「あ、そういうこと言うんだ? ふーん、たしかに大人よねえ。イントラの先生に渡す名刺に、さり気なくプライベートのアドレスまで書き込んだりしてるもんねえ」

「!! ななな、なんでそれを!?」

「フロントの情報網を、甘く見るんじゃないわよ。しかも童顔アイドルとか私のこと馬鹿にしといて、翔子(しょうこ)先生のがよっぽどアイドルチックなルックスじゃない。このむっつりスケベスイマーが」

「ちょ……! 名前まで出さないでよ! 虎牙林さんの前で!」

「でも残念でした。翔子先生、彼氏いるっぽいわよ。あんたとは正反対の、細マッチョなイケメンさんと歩いてるのを見たっていう、目撃情報があったから。ま、身のほどを知ることね」

「ええっ!? マジで?」


 姉の方が一枚上手の様子に龍子はクスクスと笑っていたが、鶴川が泣きそうな顔になったところで、「ひょっとして」と声をかけた。


「鶴川さんがアタックしてる〝翔子先生〟って、エアロとか担当されてる天野(あまの)翔子先生ですか? あの、いつも元気でとっても可愛い」


 すかさず答えるのは、やはりスズケイである。


「そうなんですよ。この不肖の弟ってば、だから用もないくせに、イントラの控え室まで顔出したりして。完全な職権乱用ですよね」

「ち、違うよ。あれは翔子先生にアクアのレッスンもやってもらえないかな、って思って相談に……」

「そんなもん、まずは千野先生に相談すべき話でしょうが。どうせ翔子先生のポニーテール愛でにいって、鼻の下伸ばしてたんでしょ。ポニテなんて、あたしがいくらでもただで見せてあげてるのに。ほれ、ほれほれ」


 真っ白なうなじを見せながら、スズケイは手の甲で自分のポニーテールを何度も上下させてみせる。ふわふわと揺れる豊かな髪の束は、文字通り馬の尻尾のようだ。


「姉ちゃんのは、どうでもいいんだってば。当たり前だけどなんとも思わないし」


 それを聞いた瞬間、スズケイの顔が般若のようになった。龍子以上に目が吊り上がる。


「なんですってえ!? あんた今夜、ここの五階のショットバーに集合!」

「い、嫌だよ! 俺、明日は早番なんだってば!」


 カフェの柵越しに繰り広げられる漫才めいた会話に、龍子は笑いを堪えられないでいる。


「あはは、お二人は本当に仲良しの姉弟さんなんですね。羨ましいです」


 スズケイと鶴川は、同時に不満そうな顔をするが、やはりそのタイミングはぴったりだった。ますます笑った龍子が、「そうだ!」と手を叩く。


「じゃあ私が天野先生のレッスンに出て、それとなく確認してみましょうか? かっこいい彼氏さんがいるんですよね? って」

「いやいや、いいですってば!」

「あら、残念。でもどっちにせよ、天野先生のレッスンも早く受けてみたいなって思ってるんです」


 ぶんぶんと首を振る鶴川に、いたずらっぽく返した龍子は、「よろしければ鶴川さんも、ご一緒にランチいかがですか? 私たちもたまたま会ったんです」と続けた。

 だが彼は、これ以上女性陣にいじめられてはかなわないと思ったのか、「け、結構です。俺はヴィアン・ヴニューで食べますんで!」と、素早く断り身を翻してしまう。


「じゃあ、また!」

「あ、逃げた」


 スズケイがつぶやいときには、大きな背中がもう五メートル以上遠ざかっていた。


「しょうがないなあ、あいつ」


 クロックムッシュを持ったままスズケイはぼやいたが、「そういえば」と龍子に視線を戻した。


「虎牙林さん、翔子先生のレッスンは出られたことないんですか?」

「はい。天野先生だけじゃなくて、まだ参加したことないのが沢山あるんです。早く一通りのレッスンを、体験してみたいって思ってるんですけど」

「へえ。なんか、あれを狙ってるみたいですね。うちのクラブの都市伝説」

「都市伝説?」

「知りません? すべてのマシンやレッスン、それにカフェメニューを制覇すると願いが叶う、っていうやつです。レッスンとかメニューは改変が定期的にありますし、さすがに現実的じゃないんですけど。まあ、だからこそ都市伝説なんでしょうね」

「都市伝説、ですか」


 繰り返した龍子は、きょとんとしている。


「あれ? ひょっとして本気で狙ってます?」

「あはは、まさか」


 ベーグルサンドごと片手を振って、美人会員は軽やかに否定した。

 チャーミングな、それこそSNS映えしそうな笑顔とともに。




   ◆◆◆


《こんにちは。来週あたり、また伺ってもよろしいですか? もちろん身体に問題はありませんけど、近況報告もさせていただきたくて。

 そういえば先生も、お酒がお好きでしたよね。この間、フロントの人とそんな話になったんです。詳しいことは、またお会いしたときに話をさせてください。ともあれ、先生も飲みすぎにはお気をつけて! それでは、また》


   ◆◆◆

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