フロント 3
スズケイの悩みが解消されたのは、三日後のことである。
この日は十三時三十分からの遅番勤務だったため、出勤がてらランチを食べようと、先日も訪れたお気に入りのカフェに立ち寄っていた。
これまたお気に入りの、クロックムッシュのセットが載ったトレイを、いつも利用する隅のテーブルに置いたとき。
「スズケイさん!」
嬉しそうな声で名前を呼ばれた。
「あ、虎牙林さん! こんにちは!」
見るとすぐ隣のテーブルで、わざわざ立ち上がってくれながら、虎牙林龍子が手を振っている。ツインテールのイメージが強い彼女だが、今日は髪を下ろしており、服装もブラウスにテーパードパンツというオフィスカジュアルスタイルだ。スズケイ自身もパンツルックではあるが、こちらは私服通勤者なのでカットソーにワイドパンツを合わせた、よりラフな格好をチョイスしている。
装いから察するに龍子もまた、自分と同じように午後からの出勤なのかもしれない、とスズケイは思った。たしか住所も近くではなかったか。
「これから、ご出勤ですか?」
長い髪を耳にかけ直して、先に龍子が尋ねてくる。瞳の部分が大きい吊り目に見つめられ、賢い猫みたい、という前々から抱いていた感想がスズケイの胸によみがえった。
「はい、今日は遅番で。虎牙林さんは?」
「私もこれから仕事なんです。昨夜遅かったので、今日は午後からにしてもらいました」
「お忙しいんですね。お疲れ様です」
「いえ、昨日はたまたまです」
笑顔で首を振る姿に、「ちなみに、なんのお仕事を?」と一瞬だけ訊きたくなったスズケイだったが、すぐに自重する。たしか以前もそれで「普通のOLです」と、さらりと返された記憶があるからだ。
直後に二人は同じタイミングで、同じ声をかけ合っていた。
「ご一緒してもいいですか?」「ご一緒してもいいですか?」
またもや同時に笑ってしまいつつ、かたわらのトートバッグとトレイを手にした龍子の方から、すぐさま歩み寄ってきてくれる。
「じゃあ、失礼します」
彼女のトレイに載っているのは、ベーグルサンドのランチセットだった。
「うわあ、なんか虎牙林さんっぽいですね」
「そうですか?」
「ええ。ベーグルサンドにアイスティーなんて、いかにも健康的でお洒落っていうか」
「そんなことないですよ。クロックムッシュは私も好きですし、甘いものだってよく食べますから」
スズケイのトレイに目をやった龍子が、おかしそうに笑う。
「ていうか、健康的でお洒落って、むしろスズケイさんのことじゃないですか。今日だって凄く可愛い格好をされてるし」
凛々しい目をしっかり合わせながら言ってくれるので、お世辞ではなく、本心からの言葉だというのが伝わってくる。
「今はさすがに、ビールとかじゃありませんよね」
もう一度、スズケイのトレイに視線を走らせた龍子は、少しだけからかうような口調になってつけ加えた。そういえば先日、本当は酒好きだと彼女に告白したことを、スズケイも思い出した。
「あはは。もちろんですよ」
笑顔を返すとともに、こっそり残念にも感じる。あのとき龍子は下戸だと語っていた。せっかく仲良くなれたこの美人会員が、アルコールを嗜む人だったら、ぜひ飲みに誘ってみたいところなのに。
年も近いのになあ。
そんな想いが脳裏をよぎったからだろうか。いつの間にかスズケイは、鶴川にも話した、自分が飲んだものと同じ酒ばかり差し入れされる現象について、相談するかのように語り始めていた。
「お酒っていえば、じつはちょっと気になることがあって――」
「なるほど。あのワインは、そういうものだったんですね」
一通り聞き終えた龍子は、真剣な顔で何度も頷いている。飲み友達が鶴川だということも正直に明かしたが、さすがと言うべきか、そこをつっこんでくるような野暮な真似もしない。
「スズケイさんが飲まれたものと同じっていうのは、もちろん知りませんでしたが、たしかに私も、あれを見てちょっと不思議に思ったんです。お酒好きなのは、内緒にしてるって仰ってたし」
三日前のやり取りを思い出す表情とともに、龍子が言葉を重ねる。
「その遠藤さんていう会員さん、別にストーカーってわけじゃないんですよね?」
「ええ、全然。でもなぜか、私が飲んだお酒を立て続けに持ってこられたんです」
「そうですか。なら可能性としては……」
まるで自分のことのように眉根まで寄せ始めたので、スズケイは慌てて両手を振った。
「すいません、変な相談しちゃって。実害はないですし、本当にただの偶然かもしれませんから。そんなことよりほら、ランチ食べちゃいましょうよ!」
明るい声で言いつつ、「あ、そうだ!」とスマートフォンも取り出してみせる。
「虎牙林さん、そのベーグルサンド、フォトグラに上げてもいいですか? お友達とばったり会って一緒にランチ、みたいなコメントもつけて」
まだ何か考えている様子の龍子だったが、「お友達」という言葉に、ぱっと表情を輝かせてくれた。
「はい、もちろん!」
けれども直後に、人差し指を立てて妙なひとことを続けたものである。
「ただし、条件があります」
「え?」
思わずスズケイは、彼女の顔を二度見してしまった。条件?
笑みをたたえたまま、指をほどいた龍子は同じ手でスマートフォンを示してきた。
「スマホのWi-Fiを切るか、このお店を出てからにしてください」
「Wi-Fiを、ですか?」
Wi-Fiとは本来、インターネットに接続するための無線LANネットワーク規格の商標名だが、今では無線LANそのものの代名詞のようになっている。そのWi-Fiを龍子は、ここでは使うなと言う。
「スズケイさんもここのフリーWi-Fi、使われてるんじゃないですか?」
「ああ、はい。アプリを入れて自動で繋がるようになってます。でもどうして――」
スズケイが訊き返そうとしたタイミングで、別の声が割って入った。
「やあ、こんにちは。スズケイさん」
駅ビルに入るこのカフェは、ビル内の通路と端の席が、低い柵で仕切られただけのセミオープンなデザインになっている。その出入り口の部分から、三十代半ばくらいの男性が、にこやかに近づいてくるところだった。
「あ、遠藤さん。こんにちは」
すかさず営業スマイルをつくって、スズケイは頭を下げた。向かい側で龍子も倣ったが、ほんの一瞬だけ彼女の目が光ったように見えたのは、気のせいだろうか。
「ああ、お友達とご一緒だったんですね。失礼しました」
にこやかに龍子へも会釈を返すのは、先ほど話題に出たばかりの会員、遠藤である。ぱりっとしたノータイの半袖シャツと、左腕には金色の腕時計。提げた丈夫そうなアタッシェケースには、おそらくパソコンが入っているのだろう。いかにもITベンチャーの社長といった出で立ちだ。
「遠藤さん、お仕事ですか?」
「ええ。じつはこちらのカフェも、うちのクライアントさんなんですよ」
「へえ」
その手の知識などまるでないスズケイは、曖昧に頷くしかなかった。IT関連ならば、売上とかスタッフの労務状況を管理するシステムとかかしらん、といった程度のイメージしか湧いてこない。
すると突然、龍子が遠藤に話しかけた。
「すみません、じゃあ、このあともこちらの事務所に?」
「はい。店長さんと、ちょっと打ち合わせがあって」
にこやかに答えた遠藤は、遅れて気がついたらしい。
「あれ? 失礼ですが、僕と同じレボリューションの会員さんじゃないですか? いつも髪を結ばれてる――」
「はい、虎牙林龍子と申します」
「こがばやしさん、ですか。めずらしい名字ですね」
「虎の牙に林で、虎牙林です。龍子は、難しい方のドラゴンの龍に子どもの子。それで、こがばやしりゅうこです」
「へえ、素敵なお名前だ。虎牙林龍子さん、ですね。よし、覚えました!」
美人が自分から名前を教えてくれたので、遠藤は嬉しそうだ。上機嫌な笑顔で「またクラブで、お会いできるといいですね。スズケイさんも。それじゃ!」と、もう一度愛想を振り撒き、店の事務所と思しき、《STAFF ONLY》と書かれたドアの方へと去っていった。
「あの、虎牙林さん?」
遠藤を見送ったスズケイは、意外な思いとともに龍子へ視線を戻した。どちらかと言えばクールで、男性に対してもガードの固そうなこの人が、自分から遠藤に話しかけ、しかも名前まですらすら教えるとは。
けれども龍子本人は、いたって落ち着いている。先ほどまでと同じような笑みで、「ちょっと待ってくださいね」と、軽く手のひらを向けられたほどである。
直後に彼女は、トレイとともに移動してきたトートバッグから、自分のスマートフォンを取り出した。
「私もスズケイさんのランチ、フォトグラに載せていいですか?」
「え? ああ、はい、もちろんです。ていうか、虎牙林さんもフォトグラやってたんですね」
困惑が重なりながらも、だったらさっきの時点で教えてくれてもいいのに、とスズケイは考えてしまった。すると、これまた意外な答えが返ってくる。
「いえ。アカウントを作ってアプリも入れましたけど、やってはいません。好きなスポーツ選手とかをフォローしてるだけで。なので、これが初めての投稿になります」
「えっ!? いいんですか?」
「はい。とりあえず今回だけですから。それに落ち着いたら、この投稿も削除させてください。もともと、あまりSNSには興味がないんです」
「は?」
もはや、わけがわからなかった。目を白黒させるスズケイに対し、龍子はそれも踏まえていたかのように、「ごめんなさい」と謝ってくれる。
「ただ」
綺麗に描かれた眉をハの字にした彼女は、そう続けてからずばり言ってのけた。
「これで、妙なお酒の差し入れはなくなるはずです」